縮刷版2000年2月中旬号


【2月20日】 「ウィーツィ・バット ブックス」の完結にあたる「ベイビー・ビバップ」(フランチェスカ・リア・ブロック、金原瑞人・小川美紀訳、東京創元社、980円)とか「メイの天使」(石田善彦訳、東京創元社、1400円)のメルヴィン・バージェスが書いたパンクとドラッグに揉まれる少年少女の物語り「ダンデライオン」(池田真紀子訳、東京創元社、1900円)を買う。趣味が代わって来たのた最近ファンタジックな青春小説を読む機会が多くって何故かそこでよく東京創元社の本に行き当たる。早川書房が決して良い本を出してないって訳じゃないけど、気分的にいまいちマッチングする本があんまり出ない、文庫も今月はラインアップいまいちだし。本誌「SFマガジン」に連載された森下一仁さん北原尚彦さんのコラムが別の会社から出てしまう状況ってのもなあ、フクザツな事情でもあるんだろーか。

 ああ本当だ出ている朝日新聞の2月20日付「天声人語」は岡崎京子さんを枕に作中に用いられた引用の多さを指摘して、それらの出典を探すファンのサイトがいっぱいあることに「それらを微細に読解するファンの情熱と知識も驚異的」と驚いている。そんなファンサイトの存在のベースになっているのが「情報の公開と共有、そして自由な改良」とも書いていて、エリック・S・レイモンドの「伽藍とバザール」で示された交換より贈与、利益より評判をこそ大切にする文化があることを紹介していて、今をトキメク山形浩生さんの名前も訳者としてかの「天声人語」の刻まれている。今年いったいどれだけのメジャーなメディアへの名前登場なんだろー。

 とは言いながら、何を隠そう(隠してないけど)新聞業界の贈与ではなく交換でもなく抱え込んだ情報の一方向でのご託宣、そして評判と同じくらいの利益を尊んでいるような印象が、例えば新聞の引用とかホームページのリンクなんかを「規定」している朝日新聞社のページから伺えるから錯綜気味。岡崎京子さんの著作で別に縦横な引用の全てが「『』」でくくられて、出典が明記してあるとも思えないんだけどそーゆー「引用」を認めてるんですか? 朝日新聞では。

  再び「天声人語」から引けば「市場主義とは異なる原理が、あちこちで作動を始めている」という結語が結論でもなく論評でもないあたりがくせ者で、状況が例えばマイナスに転べば「それが結果として混乱を招いた」とつなげプラスに転べば「だから正しい」とつけ加えて、ちゃんと前から言及して来たんだど主張する「アリバイ」に使えそうな文章になっている、などと相変わらずのルサンチマンたっぷりな人間による揚げ足取りは果たして「正当な引用」にあたるか只のいちゃもんか、いちゃもんだな。

 さて山形さん、ロッキング・オンから刊行の「CUT」3月号の書評コラムで取りあげているのが遠藤徹さんの「プラスチックの文化史」(水声社)で、本文中にいきなり見知った名前が何の前振りも説明もなく登場していて驚きつつもいーんかいなと我が身のことのように(我が身のことだが)心配するけど、そーしたサラリとあれやこれやを引っ張って来る不親切ぶりのカッコ良さってのもあるからいーんだろー、熱狂的なファンがネットでFAQを作って補って行く、書物とネットの幸せな補完関係が今は成立しやすい時代だし。

 そのコラムで「プラスチックの文化史」への厳密な意味での書評は書評として、面白いのはその後のこーいった文化とか文明に関連した本に1つのパターンを見出し分析している項目、ってゆーかその分析が全体のだいたい7割を占めているからそっちがメインと言って良い。山形さん曰くこういった文明論はだいたいが「××はいまやいたるところに見られる。おかげでぼくたちは××の存在を意識しないくらいになっている」に始まって「これも××、あれも××、さらに××をもうちょっと広い意味で考えれば、コレコレいう分野も××に支配されている」というパターンで、最後は「××がなくなる日」となるかあるいは××への批判論と翼賛論を並べて「共存」を訴えるどっちつかずの文章で締めて「××の文化史」1丁上がり、ってことになるらしい。

 その相変わらず強引で反論も可能だけど反論するより尻馬に乗った方が「楽しい」論証ぶりは流石だけど、気になったとゆーか気に入ったのはその論の是非じゃなくそーいってすべてが括られてしまった後に浮かび上がる「だからなんなんだ」という気持ちの方。「最近妙に焦っている」との言葉の一体何に焦らなければいけないのか、低いところから日和見を決め込んでいる当方にはなかなかに伺いしれない感情だけに(とは言えNNNの「ザ・ドキュメント」で四万十川の死滅ぶりを見せつけられるとやっぱり僕も何かに焦る)今年の年初からメディアへの露出ぶりも含めて今後の活動に興味が及ぶ。

 ってなウォッチャー的視線は抜きにして再びさっきの強引な文化論総まくりに話を戻して××に何を入れれば「面白い」かを考えたけど、例えば××が「山形浩生」だったらどうだろうと思ってやってみる。「山形浩生はいまやいたるところに見られる。おかげもはやぼくたちは山形浩生の存在を意識しないくらいになっている。山形浩生というのはそもそもこういうもので、こうやってこしらえるんだ。エジプト時代からその萌芽はあったけど、本格的な発展は20世紀からだ」。うーん面白い? 「あれも山形、これも山形、さらに山形をもうちょっと広い意味で考えればコレコレいう分野も山形に支配されている。ときどき山形に対する反対論もあったけれど、いずれも挫折している。世の中いたるところ山形だらけだ」。ホントに何かそーなりそーだな今年は。


【2月19日】 遅ればせながら「無限のリヴァイアス」今週放映分をビデオで観賞、暴力はいけませーんと言いながらぶん殴る支離滅裂ぶりを見せ、先週からの壊れっぷりがますます板についてはがれなくなってしまったイクミの悲惨な状態に吹き出しつつも、じゃあいったいどうすれば良いのかと問われた時に、復帰はいたものの相変わらずの優柔不断ぶりを見せるユイリィの姿にはちょっと馴染めず、「エアーズ・ブルーが仕切ってた時は安定していた」とのイクミの指摘が、人間って秩序を維持するためには時には暴力も必要なのかとゆー、危険だけれども甘い囁きを頭に響かせ悩む。

 宗教を拠り所に勇気と秩序をもたらそうとするファイナの誘いをコウジはとりあえずしのいだみたいで、暴力と並んでややもすれば諸刃の剣となりかねない宗教による安易な救いへとは話は進まないと安心したところだっただけに、さても残りの1カ月半にどーゆー方向へと進むのかが楽しみとゆーか期待がふくらむ。大人がやって来てみんな泣き出したらそれは「蝿の王」、結局子供はってな結末でそれもつまらないから頑張って「退かず」「媚びない」ラオウ以上のエンディングを見せて欲しい、期待し過ぎ?

 「電撃ゲーム大賞」のマンガ部門だかを授賞した小だまたけしさんって人の「平成イリュージョン」(メディアワークス、850円)を読む。6本の短編で関連のありそーなのは冒頭の2本で残りはそれぞれに独立したっぽい展開で、なのにいずれもが「平成イリュージョン」とはこれ如何に? とゆー突っ込みはまあこの際抜きにして、とりあえず冒頭の連作っぽい2本について説明するなら、満州国建国後の日本が米英と戦わずに耐乏生活を覚悟の上で「鎖国状態」に入ったとゆー別の歴史をたどった果てに、やはり「昭和」が終わって「平成」とゆー時代が到来した「大日本帝国」が舞台になっている。軍港のあった広島が遷都によって首都として発展していて、近代的なビルはそれなりに立ち並んでゲームセンターもあって現実の日本とそれほど違いはないものの、未だに軍隊も残っていれば憲兵も存命で、国体護持とゆー思想がちょっぴり損なわれながらも残っている。

 損なわれているとゆーのは1つには鎖国状態が「平成」になって開放へと向かい、諸外国との「冷戦」状態が崩壊したため緊張がほぐれ規律が低下し、結果人心が今の帝国から離れてしまいそうになっていていることがある点と、そんな規律の低下した社会で権力ばかりを振りかざす輩の存在なども目につくようになり、どこか別のもう少しましな世界が本当は存在しているのではないかとゆー「平成幻想症候群」なる一種の病が人々の間に流行していることがあるから。そんな社会に暮らす憲兵の少女と、満州から帰ってきた若くして英雄と讃えられるくらいの戦果をあげた青年の活躍を通して、もしもの世界と今の世界を比べてどちらが「まし」だったのかを問い掛ける。

 2話目の方は、冷戦状態の終結で当然ながら低迷への道を歩むだろー国内の軍需産業を細らせないために、世界へと転戦して金を得ようとする輩の陰謀を前作の憲兵少尉が暴くサスペンス仕立ての展開になっている。それはそれで面白いけど、前作が架空の日本を舞台にしつつも、現代のぬるま湯につかったままゆで上がるカエルのような死に様を、無脳なカエルとは違って意識しつつもどうにも出来ない歯痒さを改めて感じさせてくれる話だったのと比べると、つきつけられるテーマにちょっぴりテツガクが足りないよーな気がした。とゆーかこーゆー話って他にも幾らでもあるからね。もっとも、陰謀の謎がとけてもそれでどーにかなる訳じゃない点はやるせないけどそれなりにリアルで、身に人間の無力さを覚えさせてくれるから良しとしよー。

 新人らしからぬ絵柄と深みのある話ぶりにあるいは新人ではないのかもと思ったけど、他に描いている作品ってあるのかな、同人業界辺りではすでにメジャーな人だったとか。収録の短編では金星を舞台にした少女の勇気ある振る舞いにちょっと心ジーン、加えてはじめはどうにも情けない奴に見えたおっさんが毅然としたふるまいを見せるドンデンな展開に、作者のお話し作りの点での相当な力量を感じる。巻末の「再び」とサブタイトルが付けられた短編で、冒頭2話の憲兵少女の話に戻して「イリュージョンでした」と落としているのかどーなのか、それのちょっぴり無理筋なまとめっぷりの是非はともかくとして、それぞれにしっかりと物語りの骨があり血肉の通った絵やキャラがあって楽しめる。次にどんな作品を描いてくれるのかが今から楽しみ。シリーズになっても嬉しいかも、戸原翔子ちゃんジト目もするけど眼鏡もかけるけどそれはそれで可愛いし。

 「新宿ジョイシネマ3」でギャガ・コミュニケーションズとクリーク・アンド・リバー社が共同で企画を募集して作品に仕上げるプロジェクトの第2作に見事輝いた「A・LI・CE」を大勢で見る。大勢いたけどそれだけじゃないくって他にちゃんと見に来ている人がいたのにも驚きで、マイナーなフル3DCGアニメにしてはここまでお客が入ったのも、DLPとゆープロジェクターを使ってスクリーンに映写する新しい技術への関心もあったのかな? なんて想像したけど同じ日同じ時間には同じDLPを使ったレイトショーが別に大森キネカでも開かれていたはずだから、作品への関心ってのもやっぱりあったんだろー、あっちはかの実写モビルスーツ格闘映画だからファンの層が違ってやっぱり当然でしょー。

 そのDLPが開演のブザーがなってさあスタートとゆー瞬間にイカれて映写技師さんか誰かが慌てて別の1台に切り替えよーとした辺りに、新しいシステムが未だ安定していないことへの不安がちょっと沸く、これで本当にメジャーな映画を常打ちできるのかな。それでも切り替えて何とかスタートした映画は、東京ファンタで眠ってしまって忘れていた部分を埋め合わせてストーリーも何とかつながりそーだったのかと納得、いや納得できないタイムパラドックス的無茶にご都合主義的目茶がたくさんあることも分かったけど、やっぱり前に見た「VISITOR」の比べてCGの表現力にキャラクターの表情仕草の演技力が格段に進歩していたことだけは再度理解、これならば大量の人員を投入して大枚をはたいて制作している某ゲーム会社の超絶大作に、相当どころか圧倒的な期待を抱いて当然だよね。てぐすね引いてまってますからちゃんと公開(後悔じゃないよ)、するんだよ。


【2月18日】 復活したと思ったらまた落ちてる「サイゾー」3月号は成宮観音さん岡田芳枝さんの「とり押さえ」はやっぱり手に職な岡田さん卒業間際ドタバタ成宮さんの「せーかくのふいっち」って奴でしょーか破局も近い? 某大学院に進学も決まったとかで某国立ってことは某なオッカケも入ってるのか謎だけど、効くと新緑の季節に舞台でヤプーらしいんで稽古があって忙しくってやっぱりコーナーは自然消滅の可能性大? にしても「読者的」のコーナーに北九州市の「ヒイロセブン」ってアヤしい名前の人が「『とり押さ』の岡田、成宮嬢をグラビアで取りあげて欲しいっす。やっぱ時代は素人っす」って言ってまっせ成宮さんシロウト呼ばわりされまっせー。

 タイミングばっちりで売り出せば読者もガッポリって計算も当然あっただろー「サイゾー」の「プレイステーション2」大特集&ゲーム業界大批判記事のオン・パレードに職業的業界新聞屋として参加することに異議申し立てられる可能性を感じて見返して名前の出ていないことを確認して胸をムウムウとなで下ろす。いやクリエーターについてのアンケートは応えてもマズくはなかったんだけど正直ゲーマーとして温いんで権利がないとパスさせて戴きました。ゲーム業界&ゲーム関連新聞業界の内幕を書いてるのももちろん私じゃあーりません、日本工業新聞って名前はあちらこちたに出ているけれど誰が書いたか「言え」ません、ふう。

 ただやっぱり校了から発売までのラグがあるのは否めず、例のDVDの性能についての記事で当然だけど1カ月前なら誰もがそー思っていた「さんきゅっぱレベル」との想像が現段階では画質に関して一応覆されているにも関わらず、佐藤良平さんのコメントでは「ラジオで音楽を聴く程度のクオリティ」となっている。もっとも佐藤さんの偉いところはチップの性能から「既存のDVDを超える性能があっても不思議はない」と言ってるところで、後はソニー・コンピューターエンタテインメントの中に「画質や温室の良し悪しを見極め」て下を叱咤した鬼瓦のよーなおっさんがいたことが、最大の誤算だったってことになる。偉いよ久ちゃん。

 珍しく原稿がオチずに乗ってる赤尾センセもDVDへの指摘で若干のラグが感じられるけど、流通面についてはおそらくは入稿日から想定しても予想がつかなかっただろー事態が相次いでなおいっそうの混乱が起こっているから洞察ぶりには頭が下がる、まあこれまでのやり口が定性進化すればこうなるというのも予想がついたって事なんだろー。ゲーム機としてのビジネスモデルから外れてしまうことが例えば「ン100万台市場」での限界を招く可能性はなるほどありそー。ネットでガンガン売ろうとしていて、一応は気配りは見せても究極には「中抜き」の構図は見えていて、その割には満を持して始めたネット通販がいきなりサーバーダウンなんて事態を招くくらいにインフラ貧弱だったし。

 ただ、ソニー・コンピュータエンタテインメント腰が5年間の「PS2」商売を超えた所までをも見据えてどっしりと座っていた場合、つまりは常々久多良木社長が口にする「コンピュータ・エンタテインメント」なる物が実現した世界を想定した場合、いわゆる「ゲーム」というカテゴリー、「ゲーム市場」というマーケットとは別のカテゴリー&マーケットが出来てそこでン1000万台(台という数詞すら付けられないかもしれない、インストールとかあるいは個とか別の呼び名が相応しい形になているかもしれない)の市場をガッシリ固めて屹立している可能性も、半ば不安、半ば期待を持って抱いている。開発費の高騰で死ぬメーカーが出てもそれはそれ、残った所がライトな人たちすなわち圧倒的なマスに向かってミリオンなタイトルを出して行けば「ゲーム機」としての用途は果たせる。残った時間はDVDでも見るか音楽でも聴くかテレビでネットで遊ぶとかすれば十分、ってことなのかも。

 ってな辺りを押井守さんまでが「サイゾー」連載の「アニメいはもう飽きた!」で書いてて「関心はあったのか」と驚くと同時に「ゲーム機」よさようなら「エンタテインメント家電」よこんにちわ、ってな感じになるとの予想もしていてふむふむと思う。「お互いにハッピーな効果をもたらす可能性」がそのままアニメ市場の隆昌につながるかどーかまでは明言してないけれど、押井さんに一旗二旗あげてもらえる機会がプラットフォームの普及とともに広がれば、それはそれで面白いことが起こると思う、相手が世界なら30億が100億だって会社は出すだろーし。ゲーム機の市場を救う方法は指摘しててもゲームソフト市場を救う方法は指摘してないのはゲーマーじゃないってことのもしかして現れ? あと、エンタテインメント市場でPS2が新たな需要を喚起する時の「最終兵器は次世代メモリーカード『メモリースティック』だ」ってのは勘違いかそれとも「メモリーカード」にこだわるSCEIへの牽制か。鉄犬にはお尻に「メモリースティック」が刺さってるから、やっぱ「メモリースティック」にシンパシーを感じてるのかな。

 そんなこんなで「プレイステーション・フェスティバル2000」の会場を散策、幕張メッセの9番ホールに入るといきなり中が薄暗く、思わず「ゲームは部屋を明るくしてやってね!」なんて某テレ東なポケモンチェックコメントもどきが頭に浮かんだけど来ている人はみんな大人だから夢中になって画面に見入ってパカパカに脳天カーン! となる人もいないだろーと思ったけど、よくよく見るとみーんなマジに画面に見入ってコントローラー握りしめてるから、ここで一斉に赤青繰り返し100発なんてやったら五月蝿いこと言うジャーナリストをまとめて葬れただろーに、なんて思ってみたりする。スイッチ握って裏で歯がみしてたゲーム会社のプレスの人たち、いませんでした?

 見た印象は。まあ綺麗になりました素晴らしいです凄いです、とだけは確実に言える。言えるしそれで十分以上のお返しはもらえるけれど、あの無駄に異常に凄い性能のはたして全てを映像とかに使ってしまうことが最適なのか、それとももっと別の楽しみ方があるんじゃないかと考え込む。「エモーションシンセシス」とはつまり情感を計算の上に生成し表現して見せることができるとゆーもの、それは決して表情の豊かさでも動きのスムースさでもない、だってそれって実写がすでにやってるから、動きはなめらかで表情は豊かな人間の俳優たちを見てるから。じゃあ何? って言われて応えられないあたりがゲームクリエーターになれない自分の欠点だし、かといってそうじゃないと言い切れるほどにはゲームにのめり込めていない半端野郎でもあるから悩ましい、ああ悩むなあ。

 デモとかで見て面白い、と思ったソフトに例えば可能性を探すとしたら1つにはよくデモなんかに出てくるSCEJの花火爆発パズルの「ファンタビジョン」で花火や夜景のグラフィックの美麗さ精密さに加えて花火をイジって遊ぶ楽しさがありそー。これはPS2だからこそ出来たゲームじゃないのかな、あと同じSCEJから出て来る「ダーククラウド」ってRPGでダンジョン内を#Dのポリゴン兄ちゃんがデコテコ走って敵を倒してアイティムを手に入れる場面こそグラフィックの美しさに感動した一方で正しい進化でなって思ったくらいだったけど、ジオラマ場面になって小さい家とか川とか橋とか森のパーツをつまんでマップにちょん、と落として画面を切り替えると、そこにリアルな3DCGの家と森と橋と川と池が出来上がって迫ってくる、この身近さにはちょっと感動した。

 「Be On Age」ってゲームは音楽ゲームだけど画面の中に描かれたきっとポリゴンか何かで生成した3次元のグラフィックに、何故かちゃんと輪郭があって遠くから見ると2Dのセル風アニメに見える。前に「ゲームショウ」で見た「ポポロクロイス物語」でも見たよーな記憶があるあの手法。当方の単純な勘違いかもしれないから今後の登場する雑誌とかの紹介記事で確かめよう。ビリヤードはビリヤードというゲームが本来持っている面白さをほとんど損なわず楽しめるって点で評価、これはPS2ならではとゆー意味とはちょっと違うけど、やってると結構興奮して来るんで許します。しかし入らないんだよなー「9番」ボール、すぐにスクラッチになってしまうのは単に腕が下手なだけです。

 「鬼武者」は「天誅」っぽかったけどグラフィック面はグッド、でも踏み出した足がムーンウォークしてるのは何故。元カプコンで今はSCEJのサテライト会社な人が作ったゲームは極寒の秘密基地に潜入して得たいの知れない何かと戦うってテーマが「メタルギア」で「バイオ」で「D2」な感じ、タイトルもいっそ「メタルギアハザードの食卓3」とかしたらそれぞれのファンの人が注目はするかも、買いはしないだろーけれど。確かに絵は綺麗だけどどこかバリエーションの世界に入ってるよーな気がして、自分が確立に一役買った「バイオ」の名前の重さに果たして勝てるかが現時点ではちょっと分からない。「デッド・オア・アライブ2」がPS2向けに出るってのは周知の事実じゃなかったのか? 絵は谷間が立派だったけど早すぎて揺れが目で追いきれないぃぃぃ、動体視力鍛えねば。

 長くなって来たんで後はスクウェアがディズニー・インタラクティブと共同制作することを発表したってニュースをラストに。いつの間にか世界的に有名なキャラクターデザイナーになったらしい野村哲也さんがデザインとそれにディレクターも務めるディズニーキャラクターも出てくるゲームを作るらしいけど、あのキャラクターの世界観を維持し守ることに超厳しいディズニーの縛りをどこまで超えてゲームを作ることができるのか。「スマッシュブラザーズ」は任天堂だから出来るんであってディズニーが簡単に誰でも彼でもぶち込み崩すなんてことを許すとは思えないんだよね。3Dで動くグーフィーはあのグーフィーの動きがちゃんと表現されていたことにもアニメーターの技術力は当然としてもそこまでするとゆーこだわりと感じたし。ともあれスクウェアにとっては朗報だけど、1つのタイトルを一緒に作ってあげますよ、ってなディズニーの1つのオプションに過ぎず、世界に通用するキャラを持つディズニーの、それを武器にした進駐軍戦略っぽい印象も受けたんで、過剰な期待は抱かない方が今は良さそう。何が出るか何も出ないか。2001年末ってのも遅いよなあ。


【2月17日】 ミナミトシミツさんと勢村譲太さんとゆー2人が制作した「機動戦士ガンダム」をモチーフにしたアート作品を集めた「現代美術ガンダム」(リトル・モア、1800円)をケラケラと笑いながら読む。何が笑ったってコギャルをガンダムに見立ててアニメの名場面の中にはめ込んで描いた絵が、「コギャルの原点はジオン軍のモビルスーツ、だって足太いしスカートつきだし」とゆー指摘とはちょっと違っていたけれど、ロボット的に鈍重な足の雰囲気だけはガンダムもまあ共通なんで、それなりにハマっていたのが面白いと思ったから。「ガンダム、大地に立つ」のトレーラからガンダムが足を1本地面に落としてさあ立ち上がるぞ、とった場面を女子高生におきかえた「女子高生、大地に立つ」はアオリも効いてて女子高生の巨大感がよっく出ています

 同じく絵画シリーズでは最終43話の「脱出」からパクったタイトルも同じ「脱出」。ア・バオア・クーの中を自動で歩いた首のとれたガンダムがビームライフルを上に向けてシャアが乗っているジオングの首を撃ち抜く場面が、まんま短いスカートにルーソーな女子高生(当然首なし片手もなし)になってて笑える。目茶巧い絵って訳じゃないけれど、ここいら辺りでの抑えぶりが逆にアニメの泥臭い雰囲気を醸し出していて、ガンダムとゆーモチーフと女子高生とゆーモチーフの組み合わせに合っているのかもしれない。ビーチだかイベント会場だかの写真の背後にガンダムとザクが絵で立ってるってのもチープでローテクだけど日常に交じり込む非日常って感じの違和感が浮かんでグッとくる。ふと見上げると空に巨大なバルンガが。

 ガンプラのパーツを袋からあけて部品がランナーに付いたまんま平べったい布か板の上に並べて迷彩色を施した2点は、ともすればプラモへの冒涜とも見られないけど某中原浩大さんとは違って「迷彩色」を施した点で、兵器としての「モビルスーツ」をそこに見い出し彩色によって表現した、とも取ってとれないこともないから良しとしよー、後で組み立てれば御覧ほら、迷彩色のガンダムだよー。鏡に彩色せずにまんま並べた作品は色プラならではのカラーリングの多様さとプラモデルのパーツの複雑怪奇な、それでいてよく見るとたいていが線対象になった形状の左右の部品が並んでフレーム内に取り付けられていて、それが方形のフレーム内に整然と収められている凄みが改めて突きつけられて面白い。バンダイってとんでもないもの、作ってるんだねー。

 臆面もない、とゆーのはこの事かもしれないと思いつつ、かの大川功CSK会長が社長と会長を兼務するネットワークの会社、その名も「イサオ(ISAO)」の事業戦略説明会をのぞく。一応はインタラクティブ・サービス・オブ・アミューズメント・オンライン(だったかな? ちょっとウロ覚え)なんて言葉の頭文字を取ったってことになっているけど、会見で取締役の人が「皆さんは功から取ったと思っておいででしょう? 実はそうです」と笑いと取ろうとて果たせず若干スベった事を言っていたから、意識は当然してると思って良いんだろー。

 まああの歳にしてあのバイタリティだから許されることであって、これがソフトバンクの孫正義社長だったら会社に「孫」なんて付けた日にゃー、何を考えているんだと全国の大泉逸郎ファンから糾弾のメールを送られることだろー、それともすでに大ヒットCDの権利を買ってて社歌か何かにして社内で全員が唄っているとか。ミリオンに迫るヒットの背後に買い占め疑惑浮上! とかって1行情報でも流れたら面白いんだけど、そこまでは流石に「何でも欲しがる孫ちゃん」でもやらないだろーなー。あと「ISAO」いくら倣っても、「SON」とはやっぱり付けられないだろーねーー、「損」につながる言葉だし。

 おそらくは18日のプレイステーションイベントが重なったことも関連して17日に設定されただろー会見は、そんな想像が間違っていたかもしれないと思うほどセガの入交昭一郎社長をのぞく(フランスの「ミリア」訪問中)セガとCSKとアスキーの重鎮がそろい踏み。4月に分社化なるアスキー「ファミ通」グループの浜村弘一編集長の名前まであったから(いたかどーかは未確認)、よほどの気合いが入ってたんだろーと認識する。アスキー・イーシーの常務の人まで来てたけど、無精髭は生やしてても流石にザクTは着てなかったなー。

 さてはてイサオの取締役の人はジョークが大好きなよーで、「ドリームパスポート3」で実現する「Ch@b Talk」だかってな新サービスの「チャブ」の部分が何を意味するのかをISAOの例に倣ってインターネットがどうとかチャットがどうとか言葉を並べていたけれど、誰だって見れば分かるし聞けばそう思う答えを「実は」なんて言ったものだから場内笑いが漏れるどころか一瞬シーンと静まり返って大滑り。結婚式で「切れる」「破れる」を大声でスピーチに盛り込んだ挙げ句に「別れても好きな人」とか唄い始めたオヤジを見る参列者のよーな気分にちょっとだけなる、とイジめてあげよー取締役の人。

 で、答えは当然「ちゃぶ台」の「ちゃぶ」。皆が集まりわいわいやるイメージが「チャット」にピッタリってことらしー。「そーかちゃぶ台かー」なんて驚いた人は退場。楕円の下から4本の足が生えているマークが画面をチョコチョコと走ってる姿は可愛かったんで、サービスのトレードマークとしていろいろ使えるかも。会見終了後、元タカラ社長な人がいたんで挨拶すると、特命プロジェクトとかキャラクター統括とかいろいろな肩書きの名刺をもらって忙しくもそれなりに有意義なサラリーマン生活を送っているよーだと安心、なんか3月の「玩具ショー」は期待らしい。

 同僚に聞いておいてくれと頼まれたんで大川会長に「孫さんどー思う?」ってなことを、人前で喋るのが恥ずかしいのを我慢して珍しく挙手して質問、「見かけ倒しとかってな悪口でもいいですよ」と聞くと「いや尊敬してますよ若いのに」と敬意は見せたものの、例えば「うちはすべてを実業としてやっていて、17000人からの社員がいて、1から作ることができる」と言ったあたりとか、「あちらは投資してから事業にするかどかを決める。うちは全部の会社を公開する考えでいるから確率はこちらの方が高い」と彼我の違いを分析して見せる。

 裏返せば投資家と事業家とゆー明確にスタンスの違いがとりあえずはあるってことなんだろー。セガを本当に当時ネット事業、エンターテインメント事業が台頭した暁に重要なカギになるからと思って買収したかは怪しいけれど、現時点においてフォーカスはちゃんと本業グループ事業を含めてうまく噛み合って来ているのは事実だし。「今はヤフーが今後どうなっていくのかをじっと見てます」とゆー言葉は、ナローバンドの検索エンジンとしてはそれなりな位置をしめてるヤフーも、ブロードバンドの時代、ハイレイテンシーの時代が到来して、CSやCATVから情報がガンガンと来る時代、リアルタイムに情報がやりとりされるよーになった時に、どこまでその優位性を確保できるのかって辺りが気に掛かっている現れか。70歳も半ばにしての読み筋の確かさはなるほどタダモノじゃやっぱりなかった大川功、投資する価値あるけれど、やっぱりあの歳はリスクだなー。


【2月16日】 16日の本当に正午にオープンしたよ『TINAMIX』。ウェブマガジンの例に倣えば何時でも”印刷”出来ることからダラダラに締め切りが伸びた挙げ句、原稿が集まらずアップを数日延期するってのが半ば公然化していただけに、準備してちゃんと仕上げて来るあたりよほど制作者たちの気合いが入ってるってことなのか、あちらこちらに出没してはちゃんと対談とか仕上げたりしている東&砂の責任編集陣と、まわりのスタッフの意気込みには恐れ入る、って恐れ言ってちゃいかんのだけど、ああ困ったぞどーしよー。にしても冒頭の「これこた」のあの分量はいったい何だ、16ページもあるぞ。

 半ば徹夜でふらふらになりつつ、風邪も悪化してぐらぐらしつつ会社に行って適当に仕事。セガ・エンタープライゼスがインターネットで使うデジタルカメラとかを発表するゆーから、まさか今時「しーゆーしーみ」はないだろーな、かつて向谷実さんが体をストップモーションでズラしながら「こんな映像しか出ないインターネットでクリエーティブなことは出来ませんよ」と言ってたよーな事は今時の”ブロードバンド”の時代にやらないだろーなと「期待」して言ったら何とまあ、CMOSイメージセンサーを使った30万画素とゆー昔のカシオのデジカメみたいなスペックのカメラを取り出して、「ドリームキャスト」に繋げて始めたデモが「テレビ電話」で、おまけに映像はコマ落としの紙芝居映像。インターネットの黎明期に「テレビ会議」だって可能だい、ってな触れ込みであちらこちらに売り込もうとした「しーゆーしーみ」の子孫みたいなデモを見せられて呆然とする。

 なるほどドリームキャストをメインマシンにしてメールをやってる人は、プラスアルファの機能としてテレビ電話や画像メールを楽しむってことはあるかもしれないけれど、これがやりたいがために本体19900円にプラス価格は未定なカメラのセットを購入するって人がさて、どれだけいるのかちょっと分からない。パソコンを使ってるならデジカメを連動させれば良いし、「USB」やらPCカードスロットがついている「プレイステーション2」の方が単体では難しいけどアプリケーションなり周辺機器をかませれば、一般的なデジタルカメラも使うことができる。わざわざ買うならそっちの方がまだ信憑性があるし。

 まあ「声」を使えるようにしたことで「シーマン」なんて新しい発想のソフトが登場した事実を踏まえて、デジタルカメラを画像情報入力装置にして画像認識技術と組み合わせることで、新しいゲームが生まれる可能性もあるからそっちにはちょっと期待したいけど、一方では携帯電話にデジカメつけて画像を簡単にやりとり出来るようになる時代はすぐそこで、モバイルとの親和性が高い「ゲームボーイアドバンス」でもきっと「ポケットカメラ」に類似した製品を組み合わせてモバイルで画像や映像をやりとり出来るようなシステムを作るだろうから、絵コミュニケーションはそっちにどさっと喰われそうな気がしないでもない。まあ料金の問題もあってネット電話への期待もあるし、CATVなんかのブロードバンドを使えば画像ももっとリアルな物がやりとり出来るようになるから、そうなった暁にはもうちょっと違った展開もあるかも、そうなるまでに保つかってあたりが1番の心配事でもあるんだけど。

 発表会の時に出入口付近にたってはスラリと背が高いロングヘアーでタイトスカートから足にょっきりなヒールのお姉さんに見とれつつ会見を聞き流してから帰宅。海岸方面から愛を探す男とか来ていたけど近況聞くのを忘れた。仕事がらみで1つ2つ読書、「ウィーン内部への旅」(ゲルハルト・ロート、須永恒雄訳、彩流社)は音楽の都よザッハトルテの故郷よと尊ばれ讃えられ観光客も憧れるオーストリアのウィーンが、その地理関係から相当にキナ臭い歴史を辿って来ていることを現地のウラ観光スポットらしい箇所を回ってルポした本。ヒトラーが住んでいた男子寮が今はホームレスの収容所になってるってあたりは老朽化した建物なんだから当然として、奇形な標本をズラリと並べた「愚者の塔」って施設があることにはちょっと吃驚、水頭症にシャム双生児に巨人に小人に1つ目ほかあらゆる様々な”フリーク”をナマで見られる施設ってことで、オペラ座の後にでも皆様是非ともお寄り下さい。ザッハトルテはその後でも食べられるかな?


【2月15日】 風邪でダルいんで仕事も原稿もやったり書いたりする気力が起きず、取り出したノートパソコンでひたすら「フリーセル」をやって時間を無為に過ごす。あれこれ脱衣麻雀とかでエンターテインメントを強化していないあたりがまだまだ大人しいというか単にそこまで金が回らないというか。始める前は48%だった勝率を、何とか165勝163敗で勝ち越しへと持って行くまでに費やした時間は約2時間。だったらさっさと書けとっとと書け仕事しろとうー声が本業裏業多数から聞こえて来そうだけど、かかるプレッシャーに常に逃避で応えて来た我が人生において、「戦わずして敗北なし」こそが座右の銘であることはあんまり内緒じゃないかも。あと「そのうち何とかなるだろう」とか。どーです何とか(「締め切りがゴム紐のように伸びる」「雑誌が潰れて原稿が不要になる」「小人さんが書く」etc……)なった?

 ならない? 仕方ないとベシャベシャと原稿を書きつつ合間を見て読書など。中原昌也さんは前の「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」に続いて「子猫が読む乱暴者日記」(河出書房新社、1200円)も課題図書で回って来て、どーやら「J系」&「ビジネス書」あたりが当方の守備範囲ってことになってるらしーと推測する、ほかが美術に歴史だったんであんまり傾向もないけどね。さて表題作。「老人は一人、また一人と次々にやってきて並べられた椅子に座る。(中略)それらに腰掛けている全員の顔に深く刻まれた皺が、長い人生で喜怒哀楽を読みとらせた」とゆー冒頭から「誰に読みとらせたの?」ってな感じの懐疑が背中をゾワリと撫でる文章で、居住まいを糺されたところに畳み掛けるよーに続く破天荒な描写、脈絡の読めない展開で頭がとろけそうになる。

 2作目の「十代のプレボーイ・カメラマン かっこいい奴、うらやましいあいつ」も冒頭から「吉村が電圧アダプターを鏡台の下のコンセントにセットし、小型の電気ノコギリが激しく唸り始める」といった具合に詩のような短歌のようなつながりの前段と後段の文章が出てきて、やっぱグラワンと脳天を直撃される。自由に滑る筆の進む先、浮かんだまんまを文字に移し変えていくよーな作業の果てに生まれているよーにも見える短編は、物語のスタイルに慣れ親しんだ目にはなかなかに受け入れがたいけれど、全体として見ればそこに浮かび上がる不思議で奇妙な光景があって、なかなかに忌避することを許さない。と書くのが政治的に正しい言い方なのか文化的に純粋な賞賛なのかは書いてる本人も分からなかったりするから判断は御随意に。1200円でドカンと炸裂する脳内の花火を堪能できると思えば価値は十分。しかし「前作よりおもしろい」という清水アリカさんの推薦も、「それは、いっさいの書くことをやめてしまうよりももっと深い絶望にもとづくもの」という椹木野衣さんの言葉も、どうにも誉めてるよーに観じないのは目が悪いの耳が悪いのどっち?

 逃避モードも極まった中で山下達郎さんのアカペラあるばむ「ON THE STREET CORMNER」の1と2を聞きまくる。1は大昔に出た限定版時代のアナログ版を持っていて何度も聞き込んだ記憶があって、CDを突っ込んでスピーカーから流れて出てきた、あの多重録音による山下達郎声津波な状況に、浸りきって昔を思い出す、あああの頃は山下達郎さんより髪の毛多かった。CD版になった2も確か買った記憶があるけれど、上京のどさくさん時に実家に置いて来たままでしばらく訊けずにいかたら、今回のボーナストラック付き再発は嬉しい限り、「アマポーラ」のイントロだかを聞くと、やっぱりNHKのFM放送で夜にやってた「サウンドストリート」だかを思い浮かべて、あの頃は夢とか希望がいっぱいいっぱいあったなー、などと逃避に耽る。音楽は世に連れ人に連れ、思い出は歌とともに甦り、歌とともに消えて行くぅぅぅぅ、ってやっぱり逃げてるなあ。


【2月14日】 追いつめられても原稿にとりかかれずネットをウロついて無為に時間を潰した挙げ句にゴムが伸びきるまで締め切りを越えて逃げ回る癖はなるほどそっくりだけど実の双子じゃないから安心? して下さいと私信。原稿債権者は安心している場合ではないかも。とりあえず出来るところからやるべしと、「電撃」な仕事のメインの方を片づけつつサッカーの「セリエA」ペルージャVSローマとか、アジアカップ予選の日本VSシンガポールとかをザップしながら観戦、すでにネットで日本代表が勝っていたのは知っていたから興味はどんなテンポの試合をしているのかってあたりにかかる。

 「セリエA」のポンポンと面白いよーに球がつながり前へ前へと突き進んでいく試合を見た後だと、後ろを向いてパスをもらってそれから前を向いて動き出すテンポがどーにもまどろっこしく見えてしまっていけない。最近の国際Aマッチで大敗喫してるって訳じゃないから別に果てしなく弱いってことでもないんだろーから、どれだけ魅せる試合をできるかってな気分に差でもあるのかな。中田のループはやっぱ最高、あー蹴ってあそこにポトンとよくも落とせるもんだ、あたしなんぞ蹴ったらどこに飛んでいくかはボールまかせだったからなー(一緒にするなよ)。

 仕上げて酒くらって睡眠、最近ふたたびいけない拙いと分かりつつも寒さに負けてバーボンなんぞを引っかけるよーになってるんだけど、慣れてしまったのか胃袋に穴でも空いているのかショットグラスにストレートで3杯(ロックだとシングル3杯分ってとこかな)飲んでもまったくもって頭が揺れず意識も飛ばない。まあちょっとばかり気が大きくなって普段書かないよーな軽口のメールを書いて後になってドーンと落ち込むこともあるけれど、それでもその時のことをちゃんと覚えているから偉いもの、いやそれは当然だとしてもやっぱり飲む以上は飛びたいににそれが適わず、だったら更に飲んだら良いんだろうかとイケナイ方向に頭が向かう。アル中手前か単に鍛えられただけなのか、今晩は飲まずに寝て手足が震えないかを調べてみるか、ワイン1杯だけしか飲まずに(やれやれ)。

 自問自答が多いのも歪みかかっている所以なのか。ともかくもムリムリと起き出して会社い向かって、どう見たって外見はコナミが作り出したスナイパーゲームの確か「サイレントスコープ」に似ているのに、中身も思想も違うらしーナムコの業務用シューティングゲーム「ゴルゴ13」のリリースとか、同じナムコがやっぱりコナミの「メモリーカード」に対応した音ゲーに対抗するかのよーに出して来た、こっちは偉いぞソニーの「メモリーカード」に加えて「ドリームキャスト」の「ビジュアルメモリ」もさし込める新しい業務用ゲーム機向けボディのリリースとかを仕上げる。「ゴルゴ13」は業務用初の「デジタルコミック」と言えば真似にはなってないのかな、ゲームは画面で繰り広げられるマンガの中でゴルゴ13が受けたミッションを、シューティングのモードに移ってクリアするのが目的になっている。

 そこからはスコープをのぞいて狙撃するって点でどっかで聞いたことのある動作が始まる訳だけど、狙う物が人間ではなさそーで例えばダイヤモンドだったりハイヒールのカカトだったりするあたりが、人間に優しいナムコのシューティングっぽい、「ブービーぼー」だってコルクの弾をバンバン撃って障害物を除けていく内容だったし。プレイの前には備え付けのマジックで眉毛を書き足すのが礼儀かも、って誰がマジックなんか備え付けるんだ? カードさし込み口付きのは目的は家庭用と業務用をリンクさせることでお互いに客を呼び込んだりユーザーを増やすってのが目的だけど、使えるゲーム機がとりあえずはナムコの「ファミスタ」新作&業務用新作野球ゲームだったり、タカラだかのDC版プロレスゲームとこれまた新型の業務用プロレスゲームだから、ゲーセンで相手に勝てるだけのマイデータを手に入れるには、家でのやりこみが結構必要なのかも。しかしネットって時代にゲーセンでの対戦をこれで活性化させられるのか、疑問な部分もあるから動向をちょっと見守りたい。

 当然だか義理のチョコを1つ2つ貪り喰ったあと徳間ホールで開かれたデビッド・クローネンバーグの新作「eXistenZ」の試写を見る、2回目の方。脊椎にジャックを差し込んで感覚に直接作用してバーチャルな世界へとプレーヤーを引きずり込むゲームが可能になっているらしい時代、「ゲームポッドの女神」とか讃えられている女性ゲームデザイナーが新開発したソフトをお披露目する発表会があって、会場でその女神様がプレーを始めた直後、侵入者が飛び出してゲームに反対するかのよーな事を叫んで、骨だか何かで出来た奇妙な形の銃から「歯」(レトリックじゃなくまんま歯)を打ち出して彼女を傷つけ、止めに入った開発者を殺害する。

 かけつけた新米宣伝部員の主人公君は彼女を助けて車に乗せて人里離れた田舎へと向かうが、寄ったガソリンスタンドで主人公もゲームポッドが使えるように背中にジャックを作ろうとしたところ、それは不良品で誰かが彼女たちをしくじらせようと企んでいることが分かった。いったい何で狙われているのか分からないまま、彼女と主人公の彼は彼女が作ったゲーム「イグジステンズ」が本当に動いているのかを確かめるためにプレイする。言ってしまえばゲームのあまりにもリアルな仮想と現実とが入り交じって分からなくなる中で、奇形生物を切り開いたり背中に開けた穴にジャックやむにょむにょした物体を押し込むグロい光景が繰り広げられる。

 撃たれた肩に弾を入れたまんま腕を振り回したりする奇妙さや、そもそもが現実離れした形の銃の存在なんかが気にかかっていたけれど、とりあえずはそういう時代もあるんだと思って見過ごす。が、現実離れしたゲーム世界の描写はグロいくらいで別段に人間を幻惑するほどの妖しさをはなっている訳でもなく、繰り広げられるエピソードも悪夢を見ているのを知っていながら出られない、あの感覚を味わわせてくれるほど奇妙でもないのが見ている分には安心だったけどちょっぴり物足りなさを覚えた。決まり文句を喋らないと次の動作に入らないキャラクターを人間に演じさせてしまう辺りの描写はゲーマー心に結構来る、やがて実写並のCGでゲームが作られるよーになった時、やっぱり出逢うんだろーねー、同じ事を何度も言う”人間”に。

 リアルな世界にバーチャルを持ち込んでグチャグチャにしてしまったゲーマーを殺害するために、探知機に引っかからない骨で作った銃を使った描写があって、何故あの結末に行くんかいな? とも思ったけどやっぱり現実は甘いってことなのかな。通してとりあえずはリアルとバーチャルの境目が分かった気になったけど、もしそーだとしたらビジュアルはともかく物語的にはちょっぴり単純すぎるよーな気がしないでもない、がどこかに別の仕掛けがあるのかもしれないから、機会があれば見返してさらに惑わす仕掛けがないかを探してみよー、美人ゲーム開発者を演じるジェニファー・ジェイソン・リーのピチピチなパンツスタイルも良かったし。背中のプラグを主演のジュード・ロウが確かめる場面は安永さんの「ただいま寄生虫」でヒロインのコーモンを覗き込む先輩の姿に似てました、いや羨ましい限りです。


【2月13日】 助教授東京オフの呼びかけに応えつつ、明け方までかかって「電撃アニメーションマガジン」の短い方の4本を仕上げてメールして、寝て起きたら午後でやんの。誘われていたけど根が出不精な人間にはやっぱり不向きだったかもしれない日曜昼間のミニオフをパスして、買ったばかりの中古カメラを首から下げて近隣を散策がてら船橋の市場の横ある「ブックオフ」へと久々に出かける。海老川って船橋の中心部を流れる川にかかる橋の欄干に取り付けられた色々なブロンズの像が面白くって、いつか何かのネタに使ってやろーと思って写真に撮る。今は懐かしいかつての世界最高齢者、泉重千代さんだかの手形とかもあるし、集めると世界を手中に収められる呪器とかってな具合に使えないかな、小説で。誰か書いてみませんか。

 「ブックオフ」では「天夢航海」(朝日ソノラマ、490円)の谷山由紀さんの確かデビュー作にあたる「コンビネーション」(朝日ソノラマ)をたったの100円で買えたんで超ラッキー。冬のコミケで御本尊を拝めて「古本屋で探して下さい」との託宣も受けたのがやっぱり効いているのかな、って別に喜ぶことじゃないか。もっともっと人気になって増刷かかって新刊を本屋さんで買えるのが1番良いことなんだから。すでにミゾグチられた(古本屋を蹂躙するの意、通り過ぎた後にはSFのエの字も残らない)らしー船橋の「ブックオフ」でも供給が多いからSFファンタジースリップストリーム他で見るべき物が結構残っているみたい、寝不足で体調バッドでじっくり見られなかったけど、時間があったら来週にでも再び蹂躙しに行こう。

 別の古本屋では劇作家でダシール・ハメットのパートナーとしても知られるリリアン・ヘルマンの自伝「眠れない時代」(サンリオ、1200円)を買う。共産主義を徹底的に弾圧したマッカーシズムの吹き荒れた1950年代に、ひるむことなく自分の信念を貫き通す勇気を気概に触れることで、よからぬ方向へと引っ張られているような気がしてならな不気味な時代に対抗する術を得られないかと思ったのが大きな動機。議会で証言するに当たって送った書簡にしたためた「わたしは、良心を今年の流行に合わせて祭壇するようなことはできません」という言葉の、当たり前過ぎるにも関わらず、当時の誰もが言い出せなかった言葉を放ったヘルマンの強さに感嘆する。

 マッカーシズムという運動、すなわち共産主義への徹底的な弾圧が、後に判明したソビエトでの「収容所列島」的弾圧や、80年代末期から90年代初頭にかけての社会主義国の相次ぐ崩壊を見るにつけ正当化されることも否定はしないけれど、友人を売り自分を護る恥ずかしさ、それより「自由」を唄い文句にした国での自由を認めないおかしさを、風潮に流されることなく指摘する立ち位置の確かさに心から引かれる。中心が見えないまま、雰囲気だけが流されていく今の巧妙で狡猾な思想統制の時代には、ヘルマン以上の勇気と信念が必要かも。自戒を認知を与えてくれた本として記録に止め記憶に刻む。サンリオってSFだけじゃなかったんだなー。


【2月12日】 録画したまんまで放ってあった「無限のリヴァイアス」の先週分と今週分をまとめて観賞、SF的な設定は脇においてロボットの格闘戦的楽しみも棚上げして、どんどんと深まる閉塞環境でのキャラクターたちのゲシュタルト崩壊っぽい壊れ方がなかなかで、いたいけな子供たちは誰かに感情を移入して「誰も自分を分かってくれない」的な嘆息をテレビに向かってホッ、ホーッとついていることだろー。中でも最近になって株価急降下なイクミくん、特権階級にある彼を事有るごとに自慢して頼って我が事のように振る舞う彼女が、当然の如くにシバかれたのを怒って何度も止めてた彼女の友達に八つ当たりするわ、彼女を自分の姉を思ってすがりつくわともー見事な壊れっぷり、それが人間だって言えばなるほど言えるんだけど、これほどまでにのめり込ませるこづえちゃんって一体、何がそんなに良いんだろー。可愛いだけでオッケー? まーそーなんだろーけど。友達面して話しかけたあおいに偽善ぶりを衝かれて悩むあおいの、可哀想だけれどこれは当然だからなー。体面してワルクチ言い合うセミナーっぽさ漂う展開がちょっと心配。

 艦長に祭り上げられたユイリィの壊れ方はまー理解の範囲とも言えるけど、死人が出たことを謝っているのに責められたからといって、突然上着をヌギッと脱いで形の良い胸を(シャツは着てたけど)見せてくれたのには有り難かったけど驚いた。それだけじゃなく1人部屋に戻ってブルーとの思い出があったんだったけか? な背中の大きく開いたドレスを着てぼーっとして、そこをルクスンに見つかるとキレてそれから胸元の微妙なラインを見せながらうずくまって泣き出すという壊れっぷりは、ビジュアル的な良さもあるけど強くって頭が良くってもやっぱり人間で女性なんだってことが分かってこっちはなんだかホッとする。しかし艦長代行の席はおろか「ツヴァイ」からも放り出されて便所掃除に精を出すルクスンが、実は依然として高いプライドを保持して全く壊れていない様が対比として面白い。人間やっぱり莫迦でも真っ直ぐな方が生きやすいのかなー。

 井上夢人さんの「オルファトグラム」(毎日新聞社、1900円)を一気読み。分厚いのにアッとゆー間に読めてしまう、この読み安さリーダビリティの高さって一体何だろー? と考える、岡嶋二人の頃から鍛え上げた、「おかしな二人」なんかでも示されていた、どーやったら読ませる小説を欠けるのかってな計算テクニック情熱のいずれもが、存分に発揮されているからなんだろーか、いやもーとにかく巧いです。既にあちらこちらで指摘されている「カニスの血を嗣ぐ」(浅暮三文、講談社、980円)との共通性は、相互に関連がなく「軌道エレベーター」をめぐるクラークとシェフィールドでも起こった一種のシンクロニシティーみたいなものだと理解した上で、同じ「嗅覚」を根底に据えた物語りでも「カニス」の徹底的に「臭い」そのものにこだわって、「臭い」が鼻をツンと衝くよーな展開に比べると、「臭い」をビジュアルでとらえよーとした井上さんの「オルファトグラム」の方は、退廃の甘さこそないものの結晶の煌めきがあって目になかなかに優しい。

 あれほどまでに残酷なことを周到にやってのける殺人者の動機が今ひとつ良く分からず、これで良いのかなとか思ったけれど、それが中心じゃなくむしろ「臭い」の構造を解き解しつつ、臭いが描く世界の「ビジョン」をどうやって見せようかを追究したっぽい話だと「オルファトグラム」をとらえると、結晶が飛び交いクラゲが泳ぎ回る「臭い」の世界の描写は、後に臭いが先んずるあまりに視覚へも影響が生じる指摘も含めて、なかかなか説得力を持つ。犬に世界がどー見えているのか? なんて考えたこともなかったけれど、「カニス」のよーに「臭い」が重層的になって構築された強烈な世界があるんだろーと考える一方で、重なる結晶として視覚的に認識される世界もあるいはあるのか、って考えてみたくなる。彼女とのチョメチョメ(死語)な場面で立ち上る臭いの色の甘やかなことよ、見たこともなければ嗅いだことすらない身にとって、僕にコーフンしている女性(そんなんいないってオプションは却下)を探す武器として、是非とも頂きたいと深く思う、頭開いてイジってみるか。

 新京極夏彦南極夏彦N極改め月極夏彦京塚昌彦京極夏場所京極夏彦両国四股踏な人たち(あるいは人)が書いた「どすこい(仮)」(集英社、1900円)を購入、グヒグヒと笑いながら読了する。単純なベストセラーのパロディかと思っていたら、確かにパロディだったけど収められた7編のすべてに通じる「相撲」「48手」「頭捻り」とゆーキーワードが、それぞれの作者を入れ子細工のよーに内包していくメタな展開とともにピタリを決まって1冊にまとまっていて、「地響きがする−と思って戴きたい」の冒頭を変奏させつつも貫き通している展開も含めて、全部を読み通して初めて見えてくる壮大な「でぶ」世界観が明かとなって震撼する、やっぱり天才ですな、京極夏彦さんは。全話に通じるキャラと言えば弓塚椎塚C嬢だけど、実在かどーかは知らないけれど、乱雑な机の上から崩れ落ちた書類がマグカップを倒してコーヒーをバラ巻き膝を叩いて「おう」を声を上げる辺りの描写に、とてつもない親近感を覚えて実在するならば一目その姿を見てみたいと願望を抱く、って見たことあるんだけどね、ケリも裏拳も見せてはくれなかったけど。


【2月11日】 考えないといけない事とか、書かないといけない原稿とか、結構あったりしつつも自信の乏しさに間際までジタバタするのが日常なんで胃が痛い。だったら逃げてないでサッサと片づければ良いとの意見もあるけれど、妙に過剰な自意識が突き当たる壁を畏れて前へと歩を進める気分を妨げる。人間いつまで経っても成長しないものだねえ、って「自己を意識して書かれる心情の表現」でも込めておけば、「現代のエスプリ」391号で指摘されるよーな「日記」と当欄も位置付けられるんだろーか、とか思ってやってみる、似合わねー。

 スタートから丸4年がおおよそ経過して、アクセス数も半年遅れて設置したカウンターがミリオンに近づこうとしている割には「どーしてこんな事を毎日飽きもせずやっているのか?」、なんて事をあまり深く考えたことがなかったけど、「Web日記」なるジャンルが学術な雑誌でも話題になるくらいに感心を持たれている状況に、改めて「何やってんだろ?」と考えてみようかと、思ったけどそーゆームズかしい事を考えないのが長続きの秘訣だったりするからやらない。それに考え込むと「自己顕示欲」と「自意識過剰」の、気付かないフリをしている要素が浮かび上がって、「自己嫌悪」に駆られるからこれからもあんまり考えず突き詰めず、のんびりダラダラと日常を綴って行くことにする。いよいよ5年目に突入を皆様よろしゅうに。

 大森さん赤尾さんも指摘のよーに、「現代のエスプリ」の黒岩雅彦論文では「ばうわう」の絡んだ「歴史」がズッポリと抜け落ちているから、傍観者を決め込んだもののリアルタイムで「6・30」の騒動から日記猿人の設立と分裂のプロセスを見てきた人間として、ちょっとばかり眉を顰めたものの、現前として存在するかくも膨大で壮大な「Web日記」世界を見るにつけ、過程の「歴史」の真偽はこの際脇に置いても、原初の動機っぽい部分だけはしっかり踏まえてくれることを条件にして、現在起こっている事を分析する方に重点が置かれるのは構わないし、仕方のないことだと思う。誰かが仕切ってたパソコン通信の「フォーラム」では困難で、もちろんメジャーなメディアでは不可能だった市井の民がこれほどまでに日常を発信している現実が、メディア的、文化的、民族的、心理的な様々な断面から検討されるのは、身ぐるみはがされる気分はあるけれど興味ある。って訳で学者な人もジャーナリストな人も頑張って研究して下さい、今ならオーソリティー、取るのは楽だし。

 新宿へ。「ラッキーカメラ」に寄って現在修理中の「CONTAX TVS」の代替になるカメラを安く買う。前に買って2週間で落として泣いたPENTAXの「MZ−3」は縁起が悪いし今もまだ高いからパスして、シャッタースピードこそ2000分の1まで(「MZ−3」は4000分の1が使える、使わないけど滅多に)だけど軽さ小ささでは負けてなさそーな「MZ−5」をレンズ込み39000円で購入、レンズの窓の部分にヒビが入ってヤバげな雰囲気もあるけれど、この値段だったら文句は言えない。とりあえず目先に撮る必要があるものと言えば、やっぱり考えなくっちゃいけない題材で、書かなくっちゃいけない原稿のカット写真なんだけど、トイショー前で端境期なのかアイディアが枯渇して「コレだっ!」って品物が浮かばないのがちょっと難。この際だからスキルの無さを理由に手出しをしてなかった「ガレージキット」にいよいよ手を出してみよーかとも思っているけど、やっぱ気後れがあるなー。ガシャポンかトレカでごまかすか。いっそ縫いぐるみへと逃げるか。うーむ困った。

 新宿では「風花(かざばな)」って多分それなりに有名らしーカウンターバーで繰り広げられた「月蝕歌劇団」の実験っぽさ漂う講演「白夜月蝕の少女航海紀」のゲネを、元制作な人のご厚意で見せてもらう。会場に着くと入り口に止められていたバンのダッシュボードの上に、白い帽子が逆さにおかれて中にカツラとほかにネクタイとか楽譜とかが転がっていて、座席には白いジャケットだかパンツだかが置かれていて、何だろーとその時は思ったけど公演の途中でそれらがちゃんと場面に登場して来て、楽屋のない場所でやる劇の大変さを深く感じる。いったいどこでどー着替えたんだろー、車の中でガサゴソと? うーん中で劇見てるよりそっちの方が面白かったかも、って見られやしないだろーけれど。

 10人も座れば満席になる入り口から縦に奥へと伸びたカウンターがある小さなバーで、一体どーゆー劇を見せてくれるんだろーとゆー興味を最初に抱いたけれど、いざ始まってみたらなるほどと得心、バーを舞台にした流れ者とか逃亡者とかアウトローとか落伍者とかが、交錯し交感し交戦するストーリーと空間との調和が見事に取れていて、事前にトイレにいけなかったことも忘れて耽溺できた。背中側やカウンターを挟んだ目の前で繰り広げられる演技は、マイクを通した声とは違った、前後左右を問わず聞こえて来る役者の肉声によって、同じ場所に存在しながらも、透明人間のように状況を観察する不思議な気分を覚えさせる。同時代の傍観者、とでも言えば良いのかな。オーケストラの真ん中に椅子を置いて、演奏を聞いたらこんあ気分が味わえるのかもしれない。或いはセカンドベースの上に椅子を置いて野球を観察する気分かも。とにかく貴重な体験でした。

 さて出し物の方はと言えば、たぶん60年代末か70年代初頭のグループサウンズが全盛で学生運動もあったりする時代を背景に、過去に何やら傷のありそーなマスターが経営する喫茶店があって、そこに集まる謎めいた客とか、アイドルに憧れる余り頭のピンが3本ばかり抜けてしまった少女(元少女?)とか、先公とか生徒とか刑事とか出前持ちとかによって繰り広げられるドラマが骨子のストーリー。ともすれば全共闘世代の怨念とゆーか思い出を振り返る話になりがちなところを、女性陣を中心にしたキャストと、日活的無国籍映画風の気取ったセリフ回し、それに現実とは乖離する「回転木馬共和国」とかいった架空の設定でもって、シリアスだけれどもファンタジックな世界をそこに現出して見せてくれる。

 逃亡の果てに目覚め立ち上がる男がいれば、放校の果てに夢を捨てて闇に生きる男がいたりと、それぞれに紆余曲折する人生が繰り広げられ、人間の決して平坦じゃない人生の大変さを見せられる。中心となる一ノ瀬めぐみ演じる「じゅん」の、たとえ精神に失調を来たそうとも、思い込んでいる姿の方が幸せに見えてひどく迷う。萩尾望都さんの「スターレッド」に出てきた、超能力を押さえ込むための角を植え込まれた異星人が、最後に発狂してでも思いを貫き通したいと叫び角を抜いた姿を思い出し、幻想の世界に耽溺しっ放しでいたいと強く願う。が、現実が甘くないのは周知の事実で、「風花」を1歩出ればそこは現実の、ご飯を食べなくては生きていけない厳しい世界が広がっていて、人間やっぱり紆余曲折でも一歩づつ進んでいかなくっちゃいけないんだと実感する。原稿、書こ。

 ネジの抜けまくった役は、「聖ミカエラ学園漂流記」の主人公役で正体を表す前の韜晦ぶり(歌を下手に歌うあたりも含めて)がなかなかだった一ノ瀬さんにピッタリ。まるで「ジオブリーダーズ」の梅崎真紀でも見ているよーな日活言語を話す「ジョー」のほな美りんさんは、喋る位置が背中だったから顔はよく見えなかったけど、声質立ち居振る舞いがピッタリだったよーな気がする。先生の松井裕二が好演、刑事の横田達也はトレンチコートの下にジャケットを羽織らない主義なのかな? 「まち子」な新月シホ、髪型といー喋りといー儚げな雰囲気が出ていてナイスでした、歳は聞かない方がいーけど、多分。迫力なら「お銀」の杉浦有花に星3つ。「ますみ」も寒いのにセーラー服とスカートの継ぎ目から腹を見せつつ頑張ってたね。しかしゲネで結構歩きづらい部分もあった超狭い場所での公演が、客を30人も60人も入れた本番でどー演じられたか興味津々、「月蝕」ページから辿った感想に期待しよー。


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