子猫が読む乱暴者日記

 「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」に続く第2短編集。なかなかに難渋を要した前作よりも薄くなって、読みやすくなっているのかを思いきや、「子猫が読む乱暴者日記」(河出書房新社、1200円)に収録された7つの短編のどれもが爆裂的な展開で目をクラクラとさせてくれるものばかり。読み進むうちに血管が破れ、ページをめくるたびに心臓が胸打つ「読む脳内麻薬」のような1冊に、「まじめなやつはよんだらしぬで」と帯に書いておいて頂きたいと正直思う。

 例えば表題作の「子猫が読む乱暴者日記」。「老人は一人、また一人と次々にやってきて並べられた椅子に座る。(中略)それらに腰掛けている全員の顔に深く刻まれた皺が、長い人生で喜怒哀楽を読みとらせた」という冒頭から、「誰に読みとらせたの?」といった感じの懐疑が背中をゾワリと撫でる文章が飛び出し、背筋をピシっと糺されたところに畳み掛けるように続く破天荒な描写、脈絡の読めない展開が頭がとろかす。80人の老人が集まって子猫のビデオを見ている導入部が、どうやったら隣の部屋の醜男へと助走をつけてケリをいれつ結末へと至るのか。その筋立てを「物語」の法則で説明するのは不可能だ。

 2話目の「十代のプレボーイ・カメラマン かっこいい奴、うらやましいあいつ」も冒頭から「吉村が電圧アダプターを鏡台の下のコンセントにセットし、小型の電気ノコギリが激しく唸り始める」といった具合に、詩のような短歌のようなつながりの前段と後段の文章が出てきて、やはり同じように目玉がググッと引きつけられる。ヌードばかりを撮るカメラマンが、小屋を出て鹿の姿に気持ちを和らげられるものの、その姿をカメラに納めるうちにヌード撮影の場面を思い出し、暴力的な感情を喚起させられる展開にはまだ「物語」を見いだしやすいが、それでも伏線も余韻もないストレートな展開が、「物語」の醍醐味でもある感情移入を果たす隙を与えてくれない。

 「闘う意志なし、しかし、殺したい」の冒頭はそれでも「物語」を予感させる始まりを見せて古い物語り読みを安心させる。宣伝担当の社員が自分の能力の自信を持っていながら上司に突然転勤を命じられる。圧迫された人間の鬱屈した気持ちがそこから展開されて、我が事として投影するにしろ敗残者と見て唾棄するにしろ男に感情を移して先を見たいという気持ちが浮かび上がる。しかしそこから突然暴力が始まる。喫茶店でジャージの男が暴れ、乗ろうとしたバスは雨で遅れ、バス会社の社員とバスを待っていた客が殴り合い、ジャージの男が再び暴れ黒こげの衣服を来た人形が現れる。気分は棚上げどころか登場人物の誰かのように燃やされ埋められてしまう。

 思いつくままに滑る筆で、浮かんだままを文字へと移し変えていく作業の果てに生まれている、ように見えるいずれもの短編は、起承転結があって伏線があってキャラが立っていてカタルシスが得られる「物語」のスタイルに慣れ親しんだ目には、なかなかに受け入れがたい。しかし、1編の小説を通読した後、それを「全体」として見ると浮かび上がる不思議で奇妙な光景がそこにある。たとえは適切ではないが、子供が手にとった絵筆を奔放に走らせた後に出来上がるる1枚の絵、といったところか。本人の中ではしっかと確立している1枚の絵でも、絵筆を介して表されたカンバスの面を見る大人には、ただの「ラクガキ」にしか見えないように、脈絡も展開もすべてがおそらくは作者の「気分」をストレートに表現している。「物語性」に耽溺するリニアな人間にはそれが見えないのだ。

 「前作よりおもしろい」という清水アリカの推薦も、「それは、いっさいの書くことをやめてしまうよりももっと深い絶望にもとづくもの」という椹木野衣のコメントも、ともに既存の物語の枠組みでは誉められない、しかしながら感じる何かをくみ取り言葉に移し替えようとしてあがいた挙げ句の、毀誉褒貶入り交じった複雑なニュアンスが感じられる。どうであれ、そのニュアンスを抱くためにはとにかく読み、感じるしかない。

 「闘う意志なし、しかし、殺したい」の結末に、男が言う。「苦痛を乗り越えて、新しい意識を作り出せ」。「物語」に慣れた目にはひたすらに苦痛かもしれない、自由奔放に滑る筆が描き出す抽象画のような「小説」を、乗り越えて読めば必ずやそこに新しい世界が見える、はずだ、きっと、たぶん。


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