カニスの血を嗣ぐ
Sanguis Canis


 情報はよく人を惑わせる。多ければその分確実性を増すことも勿論あるが、逆に多彩多様な憶測をも招き、本意とは異なる姿を描き出すことも少なからずある。例えば「カニスの血を嗣ぐ」(講談社、980円)という本。著者の浅暮三文について書かれた一文にあるのは「広告代理店勤務を経て」という言葉だが、本書中に登場する主人公の阿川もまた、大手の広告代理店で活躍した経歴を持つ男だった時、読者はそこに何らかの関係を想像してしまう。

 「カニスの血を嗣ぐ」の阿川は、工業高校を出て小さなプロダクションを振り出しに中堅、大手へと移り、最後は大手代理店の神戸支社に入って、アートディレクターとしてやがて大手酒造メーカーの広告を任される地位にまで上り詰めた。だが頂点を極めつつあった矢先に事故で片方の目を失い、会社を辞めて今は小さな店の雇われマスターをしている。

 痩身の二枚目で、その日も行きつけのバーで1人酒をあおっていた所に、美貌(びぼう)の女が話をかけてそのままベッドへとなだれ込む。話のきっかけがカントリーの話題だった部分にもまた、本に記載されたプロフィルにこそないものの巷間伝え聞く当人の趣味と一致する。

 やがて一夜を同衾した女が殺害され、犯人と間違えられるような状況に陥った阿川は、その独特の能力を発揮して事件の深層を強い意志と行動力によって探り出そうと奔走する。そこで読者は想像するだろう、あるいは浅暮三文、優秀な広告クリエーターとしての才能がありながらも挫折して作家となった、どこか哀愁を漂わせながらも知性と行動力に溢れたニヒルな男、だと。

 それが事実かどうかは明言はしない。機会があれば作家当人にまみえるのが瞭然だとだけコメントし、加えて情報はよく人を惑わせると改めて言っておこう。自身の最初の著作「ダブエストン街道」を売るために個人で書店を回るという意味での「行動力」は、確かに備えてはいるが。

 確かに情報は人を惑わせるが、それは匂いについても当てはまる。実は阿川は広告業界で出世する能力を失った代わりに、というよりむしろ病の果てとも言ってよいのだが、尋常ならざる嗅覚を手に入れていた。それは犬にも匹敵する嗅覚で、電信柱に犬たちが遺した尿の後より、阿川は犬たちが匂いにこめたメッセージを、ほとんど言語として嗅ぎ取ることができた。

 塗り重ねられる文字、饒舌な言葉と違って匂いは極めてシンプルに情報を伝える。それ単独ならば虚偽の入り込む予知の一切ないほどに、正確にメッセージを犬たちと阿川に伝える。阿川もだから、一夜をともにしたマイコとおぼしき女が死んだ時、遺された様々な匂いを伝ってマイコを殺した犯人を追い、彼女がかつて婚約していたという主人公自身にとっても仕事上のパートナーだった原の死の謎を追って、神戸から東京へ、そして神戸へと転戦する。

 人智を超えた一種の超能力が犯人を追いつめていくスリルは、情報を咀嚼し勘を働かせて挑む従来の探偵小説とは一風異なる、新しくまたシャープな物語を読者に見せてくれている。「カニス」とは犬、その血を受け継いでしまった男の、哀しみに溢れながらも意志を貫こうとする行動が心に刺さる。

 まさしく「猟犬」と化した阿川と小説では裏表の関係になるだろう、食に妙に拘る兵庫県警の刑事もまた一種の「猟犬」だが、彼には主人公のような嗅覚はなく、あふれる情報を嗅ぎ取って必要な情報を取捨選択し、真相に迫って行く比喩としての「猟犬」だ。いわば2匹のタイプの異なる猟犬が、匂いと勘という2つの情報処理方法を挟んで対峙する。

 けれどもやはり匂いは人を惑わす。間違わないと信じていた匂いが放つ情報への、潜んでいた誤謬に主人公は躓く。正確でもまた過剰でも、情報はやはり情報に過ぎない。それを選び判断し実効へと結びつけるのは、やはり人間の思考が不可欠だということなのだ。

 誤謬を招いた理由への、いささか神秘が過ぎる解釈に疑いも抱くが、それとて匂いの絶対性、カニスの血を信じ切っていた男に挫折と快復を与える物語の上に欠かすべからざる要素として、認めるにやぶさかではない。絶対性を盲信せざるを得ない犬=カニスに心情を寄せて人間世界からドロップアウトしていた阿川の、けれども犬にすらなれず人間社会に戻って行く運命、それを人として死のその瞬間までを情報にまみれて生きて行かざるを得ない身として受け入れよう。


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