Last Updated 2019/3/19
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1800冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
杉井ギサブロー監督の『グスコーブドリの伝記』でキャラクターデザインやアニメーション演出を手がけた江口摩吏介が劇場初監督を目指す『文学少年と書を喰う少女』のパイロットフィルムを作るクラウドファンディングが開催中。残り日数が迫る中で未達状態は悲しいのでどうにかしたい。どうにかするぞ。
【3月19日】 疑惑があって国外に出れば逮捕されるかもしれないトップをいつまでも、担ぎ上げていては行動にも支障が出ることにやっと気づいたってところだろーか。JOC日本オリンピック委員会の竹田恒和会長が辞任の意向を表明。即座ではなく6月というあたりに悠長さも見えるけれども改選時期とか理事会の開催とかがその辺りってことなのかも。公認は柔道の山下泰宏さんが有力だそうで、嘉納治五郎が「いだてん」で話題となっているこの時期に、嘉納以来の柔道出身のJOC会長というのも何かの運命なのかもしれない。まあ偶然だろうけれど。嘉納くらいのアグレッシブさを出せるのか否か。迫る東京オリンピック/パラリンピックに向けた言動に注目。

 TOHOシネマズが映画の料金を1800円から1900円に100円値上げだそうで、諸物価上昇の折りになかなか手厳しいとは思いつつ、人件費の高騰も理由に入っているならそれはそれで働いている人たちのアメニティにつながると思えば納得するしかなさそう。本当に給与が上がっているかは確認のしようがないんだけれど。とはいえTOHOシネマズはドルビーアトモスの料金を別に上乗せしたりしていて、映画を観るのに結構なお金が必要になる。シネマイレージデイは300円安いからその日に合わせつつ6回観たら1回無料のシネマイレージもしっかり含んで鑑賞プログラムを立てるのが良さそう。まあイオンシネマに行けばULTIRAだってドルビーアトモスだって通常料金で見られるんだけれど。幕張新都心をやっぱり贔屓にするべきかなあ。

 14歳で身長が160センチあってスレンダーではあってもやせっぽちではない少女がパツパツのジーンズ姿で登場しては立ったり歩いたりする姿を大きなスクリーンで目の当たりにできるだけでも眼福なのに、そんな少女が謎めいていて自称するところの宇宙人で死んでしまった少女とシンクロしてそこにいるだけでいつか戻ってしまうといって小学生の少年を戸惑わせるストーリーから、思春期における成長であり性徴の戸惑いを感じ取れる映画が公開されているなら見るしかない。西加奈子さんの原作を鶴岡慧子さんが監督して映画化した「まく子」だ。

 温泉宿が並ぶ集落に暮らす南雲慧ことサトシは浮気性の父親が苦手でそれでいて自分の体がだんだんと大人になっていくことにジリジリとしている。そんなサトシの両親がきりもりする宿に中居のとして働く母親とその娘が越してきた。その娘がコズエ。おなじ学年ながらも長身でそして美少女のコズエはサトシのクラスに転入してきて、そして学校ではサトシに近づいてくるもののサトシは恥ずかしいのか逃げ出そうとする。それでも追いかけ回されたりしながら交流を深めていくサトシは、コズエからいろいろと秘密を聞き、そして関心も抱くようになるけれどもコズエは誰とも仲良くするようなタイプで、特定の付き合いを深めてそれで誰かが嫉妬に燃えて虐めが起こるようなこともないまま日々が過ぎていく。

 やがて春になって祭りのために学校でクラスごとに神輿をつくって温泉宿を練り歩く。そして河原まで運んでそこで壊して燃やすのが恒例だったのに、サトシは壊さないでと急に言い出し大人を戸惑わせていたら、そこに家事の知らせが入ってサトシの宿が小火になる。消し止められたけれど誰がいったいやったのか。深まる謎はサトシの父親の浮気相手に向かうけれどもそうした原因ともなった浮気性の父親を受け入れられないでいたサトシが、朝ご飯に降りてきて父親がその場で握った大きなおにぎりを食べる場面でちょっとわだかまりもとけたのか。身持ちは崩していても父親らしさを見せようとするその場面、草薙剛がなかなか良い演技を見せている。

 やがてコズエとその母親から不思議な指令がとんで皆が集まるなかを2人はどこかへ。ってそれはSFなのか白日夢か何かなのか。続いて越してきた中居の母親と娘との関係が始まって終わる映画からは、思春期の自分自身への葛藤、女子への関心、親へのわだかまりなどが描かれ小学生だったことがある大人も小学生も引きつけそう。何よりやっぱりコズエを演じた新音さんが可愛らしすぎる。ジーンズ姿の脚のパツンパツンとしていてお尻は丸々としていてずっとだって眺めていたい。胸は薄くてふくらみもほとんど感じられず中性的なのにどこかエロい。ほかの小学生女子たちもそれぞれに生命感あふれた肢体を見せてくれる。今度は最前列に陣取って見上げるように見たいかなあ。つみきみほさん久々に見たなあ。

 何かと話題の脚本家が何かと興味を誘うシナリオの世界について書いたますもとたくやさん「きゃくほんかのセリフ!」(ガガガ文庫)が圧倒的にマジでそしてガチだった。書いた脚本がクソ化されてしまう恐怖とか、手柄が横取りされてしまう不安なんかを指摘しつつ、いろいろと自分を曲げつつ要望を叶えつつ、それでも媚びないでベストを送り出す脚本家の仕事ぶりが読める。鳴かず飛ばない脚本家の竹田雲太が脚本を書いたアニメをテレビで見たら書いた覚えのないシーンが登場した。いや、書いたり話したりしたかもしれないけれど状況が変えられ大げさになり辻褄も合わず脚本家に非難集中。それって自分の責任? 脚本家あるあるがまずは登場する。

 でも雲太は我慢する。なぜって人気声優も出ていたアニメは円盤になり二次利用があれば脚本家は潤うから。ところが出演声優に不祥事があって円盤は出ないことになり、再放送もなさそうで期待していた二次収入はパーに。それでも仕事はしなくてはいけないと、雲太の美人マネジャーの葛葉から持ちこまれた人気ラノベ原作アニメの劇場版の仕事に取り組もうとする。もっともその作品の制作プロデューサーは、かつて横暴な振る舞いを見せて雲太が訴えて引っ込んでもらい、いろいろと恨みを勝手そう。また当該の魔法少女アニメのテレビ版では、監督を蔑ろにして公衆の面前で殴られもした。主演声優はそれで降りてしまったものの、人気はあって劇場版が作られることになった。

 そして打ち合わせに行くと陰険Pや代理店のお調子者P、寡黙な監督に原作者絶対信奉の編集者が雁首を並べてアニメ映画化に向けてあれやこれや口を出す。変えるな、変えたい、変えるなら、スポンサーに配慮しろ、等々。それらを雲太はどう処理する? 悩む雲太の前に盟友だったものの死んだアニメ監督の妹が現れ叱咤に罵倒。それに煽られ頑張りあらゆる難題を、それでも自然に入れていく雲太。人気芸人を出す。被害者を変える。犯人を救う。無茶も承知と挑んでいく。そんなストーリーには脚本家あるあるあ満載。誰もがぶち当たった壁を蚊にてのたうちまわりそう。ますもとさん自信の葛藤も? それは今やっている作品にも? 想像はしたくなるけれど、どれと決めず一般化された状況から、諦めない脚本家の頑張りを感じるのが1番の読み方かも。

 マンガ大賞2019が発表になって篠原健太さん「彼方のアストラ」が受賞。9人の少年少女がいきなり宇宙空間へと放り出されて試練にさらされるという展開に、萩尾望都さんの「11人いる!」を思い出したけれども作者の篠原さんは確かに意識はしながらも、そのまま使わずもっと苛烈で過酷な運命を少年少女に与えた。より源流にあるのは藤子・F・不二雄さんのSF短編「宇宙船製造法」だそうで調べるとなるほど宇宙船を限りある資源から作って動かそうとする部分に重なりがある。ただ「彼方のアストラ」はもっと壮大でとてつもないフェイクもあって、その上で人類が行おうとした非道に少年少女が翻弄される展開がなかなかにもの悲しい。

 そんなにも人間は自分自身が可愛いのか。でも助け合って行きようとする少年少女もいる訳で、決してそうではないとも思える。授賞式では篠原さん、このマンガを週刊少年ジャンプの企画会議に挙げたら1発ボツの爆死を遂げたそうで、何でと驚いたけれども今にして思えば主人公が暗かったとか。それを直して媒体もウエブマガジンの週刊少年ジャンプ+に映して連載。「SKET DANCE」のようなメガヒットを持ちながらも描きたい作品のためには媒体だって変えるところに漫画家のクリエイティブへの飽くなき意欲が見える。今は次の作品を構想中だけれどどんな話しになるかなあ。一度考えながらもボツにした格闘物になるんだろうか。その前にアニメ化もあるから合わせて外伝執筆とか。「東の地平、西の永遠」に匹敵する。


【3月18日】 すでに2回、同じ劇場で見ているけれど、とてつもない化け物級の音響を作った岩浪美和音響監督の舞台挨拶があるってんで、幕張新都心にあるイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンにて「劇場版 幼女戦記 幼女の皮を被ったULTIRA(化け物)9.1ch」の上映を見る。やっぱり大迫力。いつもよりちょっと後ろ目で見たんだけれども渦巻く音が自分を戦場に立たせているように感じさせる。それでいて爆音で頭が痛くならないのはそのあたり、きっちりと整えているからなんだろう。確かそんな話もしていたっけ。

 舞台挨拶にはこの日が初登壇という角川だかの宣伝の人が司会に立ちつつ紹介くらいで、あとはもっぱら岩浪さんの引っ張りによって監督の上村泰さん、音響効果の小山恭正さん、そしてプロデューサーが喋ったといった感じ。総評ではやっぱりスクリーンサイズの大きさが好評だったみたいで、ビスタサイズのをしっかり横まで映しきるあたりは立川シネマシティよりも上々らしい。9.1chの音響環境で「劇場版 幼女戦記」を見るのは最高のシアターとも。そもそもスクリーンサイズが立川より大きいし。とはいえ爆音に関してはあちらもあちらで整えてきているから、そこは趣味で分かれるといったところか。

 舞台挨拶では、そんな爆発の音にこだわりがあって湿地帯だと水気のある爆発音を作って響かせるようにしたとか。あと冒頭に出てくる「マッドマックス」にインスパイアされたらしい砂漠のトカゲの足音は、どこか焦げているようにしたらしい。熱いからトカゲの脚だって焦げるよね、といった認識。本当に焦げるかは知らない。クライマックスでターニャとスーがど突き合ってる場面で音楽を入れなかったのは、2人の痛みを伝える必要があるからと岩浪音響監督。そしてテストでは血の飛ぶ音もつけたけと本番は減らしたとか。まるで血まみれだと映画館から出る時、全身がべったりしている感じになるからなあ。それくらいのリアルさを感じさせる音響。

 でも、本物をそのまま使うことはしていない。爆音だって銃声だって足音だって乗り物の音だって、すべてが加工して架空の音にしてあるんだと小山さん。だってアニメだもん、架空の世界を描いた作品でリアルを追求して、結果として合わなかったら意味が無い。そう聞こえる。それっぽく聞こえる。アニメの場合はそれが重要になってくる。あるいはアニメに限らず、映像作品において音響の意味は重要なのかもしれない。監督の上村さんは作画と音響が並び立ってのアニメーションだと話してた。突っ込んで岩浪さんが制作出身の監督だね、作画出身ではそうは言わないと。そりゃまあそうだ。作画こそが至上というクリエイター魂の持ち主たちだから。でも総合芸術たる映画は音響も音声もなくしては成り立たない。そこを分かって起用し、答えて調整してこういうイベントを仕立てて大勢の観客を集める。映画ってまだまだ工夫のしがいがあるし、すれば答えも出るってことを、教えてくれるイベントでした。

 「ハシビロ家族」のシュールな温かさとはまた違った雰囲気を持っている水島ライカさんの「シオンの庭」(駒草出版)は、植物が絡んで人に不思議を起こす病気を診る医師シオンにかかる患者たちの物語。林檎に触ると枝が飛び出す症状を持った少女が出てくるイントロダクションを経て、最初のエピソード「春〜共生〜」では植物人間なのか再生が効く妹と兄がいて、兄が土壌汚染を憎む宗教だかセミナーの会員になっていて、水耕栽培の植物しか食べないようになっていたり、妹が大事にしている植木鉢の植物を爆破したりして妹を戸惑わせる。

 そしてテロまで。起こる惨劇の中、 兄の兄であることの負担を妹が知り、そして妹の思いを兄が知って自分たちの道へと戻っていく。抜いた歯からIPS細胞よろしくいろいろな器官が発生し、一方で歯もまた生えてくるという不死身に近い兄妹の体ってやっぱり人工物なんだろうか。気になった。そして第2話は、体内に植物の影響があって熱が出る少年が海辺の診療所に療養に来て入院をして過ごしているうち、美人なんだけれど夜は顔を出さなくなる女性と出会う「夏〜真夏の夜の海〜」というエピソード。美人と出会ってお近づきになりたいけれど、病気の身では叶わないし美人がどうして顔を隠すのかを暴くのもはばかれる。それでも迫りたい思春期の少年の危うさが感じられる話。少年はどんな症状だった? それもお楽しみ。

 ほか、記憶をリセットされ続けながらずっと若い頃の姿で生き続けている少女の病の原因と、そんな少女に負い目を感じ続けてる青年の葛藤が描かれたエピソード、死んだ少女から心臓を移植された、裕福だけれどどこか我が儘な青年が見る幻影に驚きつつ勝手に心臓を移植されたと無茶な怒りを発しつつ、それでもだんだんと打ち解けていくエピソードが綴られる。植物が絡んだ病気を担当するシオオンってあまり名医という感じじゃなく、手術で凄い腕を見せる訳でもないけれど、患者の症状とその心理をちゃんと感じてサポートするって役回りとしては完璧。そうしたサポートを受けつつ、身に不思議な病を持った人たちが育む人間関係を楽しみたい。

 どれだけ諭されても、どれだけ説得をされてもアウシュビッツでユダヤ人の大量虐殺はなかったと世界に向けて公言してしまえるその神経は、もはや尋常ではない何かに絡め取られているとしか思えないだけに、良識と判断力を持つ周囲がしっかりと支えなければ暴走の果て、周囲を巻き込んで大爆発を起こしてしまうような気がする。世界規模で。今はスポンサーという大きな“武器”を持ってメディアの中に存在感を今は保てていたとしても、そうしたマネーに色があると見て例えば同じ番組なり、同じ局なりに広告を出している企業が一緒にされたくないと逃げ始めた時、テレビ局がどちらに傾くかとなればやっぱり真っ当な側だろう。いずれご遠慮を願われるようになるのではなかろーか。

 沖縄における無茶苦茶なルポを報じた番組をそのまま切ったのと同じ。そうなってなおメディアだったらネットで発信し続ける意味があるけれど、スポンサーとしてそこに提供したって見返りはない。むしろイメージは下がる一方。それでも構わないというのが主義ならそれまでってことかなあ。どちらに傾くか。それにしても報じるメディアも真っ向、その言動を否定するのではなくそういう意見もあるくらいの捉え方で報じては、世間にそうか理があるのかと思う人も出て来かねない。そうした人たちが改めて理不尽な言動をまき散らし始める前に、はっきりと否定をして潰しておくのがメディアの役割なのに。どちらのもいい顔をしようとしてメディア本来の“事実”を掘り起こす役割に及び腰になっている。旧来メディアこそそうなら、やっぱり変わるべき時なのかもしれない。

 内田裕也さんには会ったことはないけれど、ジョー山中さんには会って久々のフラワー・トラベリン・バンドに向けた意気込みを聞いたことがあったっけ。そのフラワー・トラベリン・バンドが日本を飛び出しカナダの地で大活躍をして日本のロックが世界に通用することを証明した立役者が内田裕也さん。ほかにも沢田研二さんを表舞台に引っ張り出したり、ロックは英語か日本語かで論争したりと音楽の方面でもちゃんと実績を残してきたけれど、世間の印象はシェケナベイベのおじいさんで樹木希林の分かれていない旦那さんで本木雅弘の舅といった立ち位置。訃報をきかっけに音楽の世界での実績がもっと知られると、先に逝ったジョー山中さんも嬉しがるんじゃないかなあ。合掌。


【3月17日】 ニュージーランドのクライストチャーチといえば2011年2月22日に大きな地震が発生して、185人もの方が亡くなった。日本からの留学生も多く居たようで28人が死亡。これはとてつもなく大変なことだったけれど、翌月の3月11日に起こった東日本大震災のあまりの衝撃が、ほんの少し前だったクライストチャーチでのカンタベリー地震の記憶をもしかしたら薄れさせているのかもしれない。そのクライストチャーチで今度はヘイトクライムによるテロが発生。モスクが狙われ銃撃されて49人が亡くなった。ニュージーランドでは最悪の銃乱射事件だという。

 想像の範囲でいうなら理由はやっぱり人種の問題であり宗教の問題なんだろう。クライストチャーチには地震で崩壊した後に日本の建築家、坂茂さんが得意の紙パイプなんかたを多用した紙の大聖堂を立てて宗教により所を求めたい人たちの心が向かう場所を作った。そうした施設ではなくパレスチナなどから移ってきたイスラムの人たちが、心のより所として作ったモスクが狙われそして、諸々の差別的言動が伝わってきているという状況は、ここに限らず世界各地で起こっている対立の一方からの攻撃と見るのが正しそう。その逆もあって世界は疑心暗鬼の中にある。

 ことイスラムに関して言うなら日本はまだそれほど激しい敵意が向かうことはないけれど、隣国に関して理由なき敵意を燃やして攻撃的な意識を向ける人たちがいたりするのも確か。あるいは身心に障がいを追った人たちに対する敵意もまたあったりして、それらが暴力となって噴出することもあったりする。単なるテロというよりもそうした理由を持ったヘイトクライムを起こさないようにするなら、やはり意識の中にある敵意を緩和し払拭していく必要があるんだけれど、果たして政治はそうした融和や対話へと持っていくのか。むしろ敵を集めてきれいさっぱり排除する方向へ向かいはしないか。この国にジワジワと広がる異文化なり異国民への反意が、クライストチャーチのような暴走を招かないと良いのだけれど。

 外を出歩くとお腹が空くので、イオンシネマ市川妙典で「君は月夜に光り輝く」を見終わったらそのまま船橋へと戻ってフレッシュネスバーガーで電源をとりつつ映画の感想などを執筆。そして近所のイトーヨーカ堂へと寄って夕飯でも買おうかと思い入ったら前は薬局とかが並んでいた一角がフードコートになっていた。前は地下の食料品売り場の隅っこに、焼きそばとか日本蕎麦とか売る店があった程度だったけれども今はリンガーハットが入りいきなりステーキも入ってと本格的。それだけに数百円で蕎麦をすすって夕飯替わりとは行かず、見送って地下で割引の総菜なんかを買い込み1日の糧とする。こんな暮らしがしばらく続くんだろうなあ。

 帰り際にヤマト運輸の営業所で注文してあったノートPCを受け取る。LenovoのX280で一応は米沢生産モデルだけれどもなぜか到着は船便だった。組み立ては米沢で行ってそしていったん外に出してからカスタム類の装着やら挿入を行っているんだろうか。単純にサイトが船便として輸送するように表示されるだけなんだろうか。ともあれWindows10は初めての使用になるのでこれまで使っていたメーラーだとかFFTPだとかが使えるかどうかが不明。日記を書いてアップしてメールを受け取って返信する環境をしばらくは頑張りながら作ろう。それまでは今のX201を併用かなあ。ブロードバンドが使える環境に持ちこんでデータのやりとりだけはしときたい。

 相変わらず寝られたり寝られなかったりと揺れ動く心理状態。だからそれなりの年収で5年は遊んで食えるんだと慰撫しても、その後どうするんだといった思いが募るという小心さはやっぱりちょっとやそっとじゃ崩れないものらしい。それでも気持を楽しくと「えんどろ〜!」。ゆきやまちほーで遭難をした4人組が夢の中でなりたいものとかやりたいこととか思案している状態で、ユーシャは勇者になって魔王を倒そうとしていてファイは釣りをして7色のシーラカンスをつり上げて食べまくり、メイはカルタードと結婚してカルタードの指輪をもらって幸せそうな中、セイラはひとり胸が大きくなりたいとか、部屋をきれいにしたいといった身近な悩みで悶々としている。そりゃあ大事だけれども他にないのかというと、お金が欲しい部屋をきれいにしたいという辺りは僕と共通なだけに心に響く。頑張れセイラ。僕も頑張って部屋をきれいに……なんてできないよ、もはや。参ったなあ。

 「聖戦士ダンバイン」のオーラバトラーは確かバイストンウェルに生息している強獣の外骨格だとか筋肉だとかろ利用しつつ、オーラ力(おーら・ちから)でもって操縦できるような装置がとりつけられ、コックピットも作られていたって記憶があるけど、安彦薫さんによる「骸龍興亡記 人食い龍と聖女の降臨」(電撃文庫、630円)はかつて大量発生してそして死んでいった龍の骸を再利用する形で人間がいろいろと装置を組み込み、操縦席を付けて操れるようにしたもの。似ていると言えば似てるし違うと言えば言えるけれどもともあれ、生体形のモビルスーツといったところだろーか。そんな龍骸甲なる兵器が生産されては各国に戦力として配備されているファンタジー世界が舞台。

 とある領国でドレッドという名の領主に使えていたリセルという少年だったけれど、領主とともにアレクサンドルという王に呼び出されて都へと向かう途中、そのアレクサンドルがなぜか出張ってきていてそして、天幕の中で巨大な龍に食われてしまう姿を目の当たりにする。その龍はアレクサンドルが使ってきた龍骸甲のひとつ。いったい何が起こったのか。その裏にはリセルの周辺でも起こっていた、龍骸甲の搭乗者が突然に狂乱する事態と関わりがあった。死んでいるようで骸になっているようで龍たちは死んではいなかった? そして人類を取り込んで反旗を翻そうとしている? 不明な部分はまだあるもののアレクサンドルという君主を失った世界は、4人いる姫たちの3人が後継を狙って動き出し、ドレッドをアレクサンドル殺害の謀反人と言いつのって攻撃を始める。

 そこに立ちふさがったのがリセル。その素性は……といった興味から、ずっと龍外甲に載ることを拒否していたリセルが迫る危機に逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだとばかりに立ち上がって立ち向かう展開がまずは第1巻のストーリー。姫たちが画策する後継争いに4女の巫女姫を引き連れ、それ以上に自分自身の出生の秘密から大きく絡んでいく中で、どういった戦いが繰り広げられるのか。モビルスーツなりオーラバトラーが大活躍して、それが諸刃の剣でもある世界が舞台の戦記ファンタジー。すべての龍骸甲が破壊された世界を滑るだけの力はあるのかそれとも。そんな世界は平穏無事でいられるのかどうか。結末を待ちたい。


【3月16日】 宝島社より拝領の丘野境界さん「異性禁止のパーティーを作ってみたけど、ウチのメンバーどこかおかしい ミルク多めのブラックコーヒー」をやっぱり不安から寝られずに起きた朝方に読了。元はサブタイトルの方でネットにアップされていた小説で、今も小説家になろうの方で書かれ直したものがずっと掲載されている。内容はといえば異世界転生ではなく俺TUEEEEでもない。そこ驚かない。ファンタジー調の世界が舞台で、勇者のパーティーめいたものが活動をしていてそのひとつに加わっていたシルバという男は、戦闘では前に立つことなく後衛として指揮をしたり回復の支援をしたりしてパーティを助けている。あと片付けとか情報収集とかも。

 ところが、サークラ的な女性メンバーから働いていないと避難され、仲間もそれに同調するそぶりを見せたことからやってられないとパーティーを抜けたシルバが、いっそそれならと女人禁制を歌い新パーティーを作る。集まって来たのは美形の用心棒に性別曖昧な小鬼に自称するところの動く鎧にやっぱり美形の吸血鬼と、本当に女人禁制なのか怪しいけど気にしない。気にしてはいけない。心棒も小鬼も強いし鎧は防御に長けているけど圧倒的ではなくシルバも魔法に長けてはいても最強じゃない。それでも情報を仕入れ作戦を立て臨機応変に指揮して向かい突破していく理知が読んでいてより強い悦びをくれる。面白い。続きはなろうで読めるけど、これは本で追っていこう。

 有楽町 にある映画館で、いつもハイブロウなプログラムを見せくれていた有楽町スバル座が2019年の10月で閉館とのこと。そもそもそこになんで映画館って今だと思われかねないロケーションで、どう見たってただのビルの中にあってスクリーン数は1つだけで、同じ場内にいくつもスクリーンがあるシネマコンプレックスが当たり前になった現在の状況では、施設の状態なんかも含めてそこで映画を見ようだなんて思ったりできないかもしれない。でも、スクリーンがあって座席があって映写機が備わっていればそこが映画館なんだと思えば立派以上に映画館。300席近い観客席もそこそこの規模感があって、都心にありながらも落ち着いた気分で映画にのめり込めた。

 大林宣彦監督の映画を上映することでも知られていて、最近だと「花筐 HANAGATAMI」って結構な長さを持った映画を見に行って、大林宣彦監督の今も元気な姿を目に焼き付けた。梶尾真治サンの小説が原作の「つばき、時翔び」なんかを撮るって話も出ている大林監督が、果たしてロードショーのメイン館として有楽町スバル座を使えるのかが目下の気になる点だけれど、そこは映画館が閉まってしまうからと、撮りあげて編集して映画に仕立て上げて最後の興行を飾るかもしれない。そうでなくても大林映画特集をやって欲しいなあ。最近の映画で見てないものも結構あるから。評判になった「この空の花 長岡花火物語」とか野のなななのか」とか。もちろん「時をかける少女」とか「ハウス」とかも期待しちゃうけど、有楽町スバル座って雰囲気じゃないからそれは無くても良いかな。

 もっとも、個人的な有楽町スバル座の思い出はといえばなかむらたかし監督の「パルムの樹」を観たことで、アニメーション映画なんか上映されるんだと今にして思えば謎だけれど、当時は今ほどシネコンも蔓延っていなかったんでどこで何が行われても不思議はなかった。「ガンドレス」の完成披露上映会が上野スタームービーで開かれたくらいだから。そんな「パルムの樹」を封切り初日、セル画がもらえるからと見に行って並んでセル画ももらったんだけれど、映画の方は圧倒的な画力に対して主人公の性格がなかなかに難ありで、見ていて結構キツかった記憶がある。

 とはいえそれ1度の鑑賞だったので、後になって観れば納得の性格だったのかもしれないし、やっぱり違うかもしれない。なかむらたかし監督は後に「寫眞館」という短編を撮り「ブブとブブリーナ」という楽しい短編も撮って作家性を見せてくれた。「ハーモニー」もマイケル・アリアス監督と共同とはいえ伊藤計劃映画3本の中では1番好きな部類に入る。だからもう1度、見返して今とのつながりを確認した方がいいかもしれない。DVDどこに行ったっけ。それよりセル画はどこに閉まったっけ。大家捜しをした方がいいかなあ。暇ならたっぷりある訳だし。

 ライトノベル読みなんでライトノベルが原作の映画はとりあえず観ておこうかとイオンシネマ市川妙典へと出かけて「君は月夜に光り輝く」。佐野徹夜さんの小説が原作だけれど、観て思ったのは絶叫したり、号泣したり、激走したり、葛藤したりする展開が、朗々と鳴り響く音楽の中で繰り広げられては男女の永遠の離別のような展開を描き、落涙せざるを得ない雰囲気に観客を陥れ、そして繰り返されるように劇場で、テレビで流された人気アーティストによる耳にこびりつくような楽曲をエンディングに流して感動ストーリーの一丁上がりといった具合に、映画を作って送り出す勢力が一方にあるとして、そうした勢力とは正反対の映画だったということ。

 叫ばず、騒がず、怒鳴らず、焦らせず、音楽も抑えて淡々と、静謐の中で少年が少女と出会い、じんわりと感じて関係を作り、深めていく中で人が人を失うこと、そして失われても続く人生のことを思わされる。見終わればそこに滲む涙。けれも決して強要されたものではない、不思議を感じる。舞台はとある高校で、クラスメートのはずなに登校してこない渡良瀬まみずという少女に寄せ書きを贈ることになって、クラスにあってもどこか淡々と、あるいは超然としてるように見える岡田卓也が届け役を務める。ノリで動くタイプではないのか、寄せ書きに最後まで書かなかったことで任された格好。そんな寄せ書きに早く病気が良くなってと書くところも実に淡泊で、そして残酷だ。

 なぜなら渡良瀬まみずは発光病という、その時代に存在していて未だ治療法が見つかっておらず、全員が10代のうちに亡くなってしまうことになっている病気に罹って入院してるからだ。不可逆ともいえる症状だと知っているはずなのに、良くなってと書く心に果たして心と呼べるものがあるのか。読んでまみずも卓也のことを薄情だと思ったかもしれない。卓也だってまみずに嫌われたからといって、何も感じなかったかもしれない。会って、寄せ書きを渡して、分かれてそれっきり。そんな関係だってあり得ただろう。小説も映画もそこで終わってしまうけれど。

 けれども、そうはならにように卓也の心情を誘い、まみずとの関係を続けさせようとする部分があったから物語は続いた。そこが巧い。死んでしまった姉の存在。自殺なのか事故なのか。いずれにしても突然に失われてしまった姉族の存在、そんな姉にこだわり続ける母親の存在が卓也の中にあって、遠からず失われるだろうまみずへのある種の同情、それとももっと薄い興味を卓也に抱かせたのかもしれない。結果、まみずがノートに書いた死ぬまでにやってみたいことを卓也が代わりにやり続けてはまみずに報告するようになる。自分でやらなくては意味が無いと、卓也が最初にまみずに行ったことは確かに常識的ではあるけれど、そうやって自分がいろいろとやってのけると面白がってくれるまみずを、もっと喜ばせてみたいといった思いに変わっていった感じ。姉の死からしばらく、置いて行かれ放り出されて漂っていたような卓也の人生に、必要とされる核が出来てそこにしがみつきたいと思ったのかもしれない。

 そうやって深まっていった関係が、双方にとって重荷となる可能性もないでもなかった。父親がどうして母親と離婚したのかを知りたいという思いを聞き入れた先、卓也が訳あって離れて暮らしている父親にまみずに会ってと説得に向かうのはともすれば出しゃばりに映る。まみずへの過度な同情が、自分よりもはるかに辛いだろう思いを日々、抱えて生きている父親を蔑ろにしてはいないかといった思いも浮かぶ。鬱陶しいと感じたくなる。そこで、北村匠海という役者が持つ淡々として静謐な雰囲気がものを言う。言っていることは強要に近くても、その静かな演技と口調が居丈高ではなく、媚びてもいないで必要なことを端的に必要なんだからと伝えることに成功している。

 受けて及川光博が演じている父親も、淡々と受け止め考えている様子。そこで口論となり激論が交わされ反目を倦むようなダイナミックな展開を、これまでの映画だったら想定しまうだろうにも関わらず、繰り広げられる理知の勝った会話の模様が見ている観客にストレスを与えない。喜びも悲しみもすべてが発光病には負担になるから、もう会ってくれるなと告げるまみずの母親に対して、憤らず食ってかからずに淡々と応じつつ、けれどもしっかりとやるべきことをやろうとする卓也の態度も、北村の演技があって成り立つものだと言える。元よりあった静謐で淡々とした展開にこれほどマッチした役者を揃えたことが、映画「君は月夜に光り輝く」を世に数多ある難病物の典型に陥らせず、評価のテンプレートに落とし込ませないで最後まで、フレッシュな気分で展開を追っていけるようにしたんじゃなかろーか。

 終わり近く、卓也の母親は卓也の姉を失った哀しみから立ち直って車を運転し、卓也を海へと連れて行く。エンディングではまみずの両親が共にある法要の場で、卓也は医大生として忙しい中を生きていこうとしている姿をのぞかせる。悲しみの淵に足を取られたままではいない姿は、最初に見せた無関心からの薄情とはまるで違う、しっかりと関心を残しつつ依存のような情を薄れさせた前向きなものだ。そこに浮かぶ涙には、離別への哀しみも皆無ではないけれど、生きていて、覚えていられる喜びも混じっているような気がする。だから見終わっても落ち込まないでいられる。スッキリとした気でいられる。「君は月夜に光り輝く」はそんな映画だ。見れば思うだろう。生きていこうと。生かされているこの世界を、自分の意思で生きていくのだと。


【3月15日】 おやおやおやおや。NHKはコカイン使用の容疑で逮捕されたピエール瀧氏が出演している大河ドラマの「いだてん」を中止にしないで放送するって話が流れたばかりなのに、同じピエール瀧氏出演の「あまちゃん」総集編の続きは放送しないと決定。そして「いだてん」についても再放送分は削ったりして調整して、以後は出演がしばらくないからそのまま放送、そして途中から代役を立てると言ったらしい。つまりは排除。他の放送局なり映画会社と対応は同じで人は人、役は役だなんて美しい対応はしてくれないみたい。残念。とはいえいかにもNHKらしい。だからこそ踏ん張って新しい基準を作って欲しかった。代役は誰になるんだろうなあ。やっぱり高木渉さんかなあ、顔出しOKな大河俳優でもあった訳だし。

 Kalafinaの解散についてプロデュースを行い全楽曲を手がけていた梶浦由記さんが、すでに同じ事務所でもなく離脱の際にいろいろとあったにも関わらず、コメントを出して宙ぶらりんだった状態が解消されてホッとしたと思いつつ、色々とやっぱり寂しそうな心情をのぞかせている。思惑としてはKeikoとHikaruが抜けてWakanaだけとなったKalafinaはひとまず封印とし、休止という形でとどめ置くんじゃないかと考えていたのかもしれないけれど、事務所から出された「解散」という強い言葉にやや驚きを感じた様子。とはいえ実質的に再起の見通しは立たないまま、何もアナウンスがないと抜けたKeikoやHikaruにだって未練が残る。ならばいった「解散」として、そこから再出発をまずは期するのが最良だと、梶浦さんも考えているんじゃなかろーか。

 ユニットとしてのKalafinaの欠片を引きずったままでは、KeikoだってHikaruだって新しい場所に参加しづらい。それこそ梶浦由記さんのFiction JunctionにKeikoが入ってHikaruも入るような状況が、事務所を離れた状態の梶浦さんではやりづらかったか独立してからのライブにKeikoは参加していない感じだったけれど、これでKalafinaに遠慮することなく混じって歌えるってことになるのかな、どうなんだろう。Fiction Junctionもまたライブをやるみたいなんで、行って確認したい。その前にWakanaの中野サンプラザでどれだけKalafinaの歌が歌われるかが気になるなあ。赤坂BRITZではそれなりに歌われていたけれど。ちょっとドキドキ。

 フジテレビにアニメラインナップ発表会で明らかにされた「PSYCHO−PASS サイコパス 3」の設定で新しく出てくる梶裕貴さんと中村悠一さんが声をあてるキャラクターが共に厚生省公安局刑事課一係の監視官だということが分かって、いよいよもって常守朱監視官と霜月美佳監視官の命運も尽きたかと不安になる。執行官は殉死が普通だしシビュラシステムに始末されてしまう執行官もいたりするし、監視官だって青柳璃彩のように色相を濁らせドミネーターに始末されてしまう者もいる。いくら濁りにくい体質だからってエリートだからって常守も霜月も人間ならどこかで踏み外してしまうかも。そしてチュドーン。あるいは執行官落ち? そんな刑事課一係に入ってきた若造監視官にどんなドラマが作れるんだろう。そこにひとつ不安がある。

 第1期では新米の常守朱監視官に狡噛慎也執行官とか征陸智己執行官といったベテランたちがついて物語の芯を作っていった。刑事ドラマとしての深みとか人情味というやつをそこから汲みつつ、若い常守監視官の空気を読まずに突っ走る姿を見せて時代の変革といったものを描いていたけど、今度のは若い2人が暴れ回るだけだったら、「あぶない刑事」以上に傍若無人なアクションだけで終わりそう。それとも常守朱が局長となって座って2人を操るか? そこに帰国した狡噛慎也が外務省のエージェントとして絡むのか。決して単独の作品ではない、シリーズの第3作目として作られる「PSYCHO−PASS サイコパス 3」がBLチックに2人の青年のアクションだけを見せて終わるはずがない。その意味で10月が待ち遠しい。どうなるのかなあ。

 漫画としてどうかと問われれば、いろいろと既視感もあってそれほど好きにはならなかった「空挺ドラゴンズ」だけれど、空を行く竜を狩っては喰らうというダイナミックな展開はアニメーションという場所に移って広大な空、巨大なドラゴン、それを狩るアクションといったものを映像によって見せることで、とてつもない魅力を発揮しそう。ジュウジュウと焼かれる竜の肉とかいったいどれほど美味そうに見えるんだろう。滑空して竜に迫るアクションはどれだけの爽快感を覚えさせてくれるんだろう。想像するほどにワクワクしてくる。監督が吉平“Tady”直弘さんという、「BLAME!」なんかで副監督もやっていた人が手がけてシリーズ構成と脚本を上江洲誠さんという、原作をアレンジさせてはナンバーワンの脚本家が担当するなら、きっと面白くって美しい空戦のドラマを見せてくれるんじゃなかろーか。2020年1月だっけ、放送を待ちたい。原作続きを読もうかな。マンガ大賞にもまた入ってくるかもしれないし。

 新聞社の看板はある意味で無敵だったりするので発表会とかイベントとか出入りも容易なんだけれど、それがなくなっていったいどこまで出没が可能かを想像した時に、自分から積極的に脚を運ぶしかないんだといった考えに至ったので今日も今日とて吉祥寺まで佐藤美代さんというアニメーション作家の個展「MIYOATURE」を見物に行く。にじ画廊という東急百貨店の真横にある雑貨屋さんの2階のギャラリーに並んでいるのは佐藤さんがガラスに砂とか絵の具で描いたペインティング作品が幾つか。アニメーションだと砂をはらって違う絵を描いて動かすし、オイルペインティングもだんだんと動かしていってそれを撮影して連続させるものをその瞬間、1枚の絵にだけ切り取った作品として世に問うというのは使う筋肉も違うんだろうか。ちょっと気になった。

 佐藤さんと言えば東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了作品「きつね憑き」が毎日映画コンクールにノミネートされたり、他にいろいろな映画祭で活躍したりと期待されているアニメーション作家。なおかつ商業作品でも「モブサイコ100」のエンディングとか、「ポプテピピック」の「ポプテピピック昔話」なんかを担当してアニメ好きの中にもその存在は知られている、と思う。そうした人が個展を開いてアニメ好きとしてどうして行かないでいられよう。まあアニメが飾ってある訳じゃないから楽しめないと思われるのも仕方がないけれど、大学とか大学院でアニメーションを学びながらも個人のアニメーション作家として立つ道の乏しさに迷っている人も多い中、独立してアニメーションを作りつつ個展のための作品も作る活動のアグレッシブさは見習うところも多そう。独立というより放り出される身としても、その活動に倣い何かを初めてみるのも悪くないかもしれない。何があるかなあ。昔経済界の偉い人の似顔絵を描いて新聞に載せたけど、そっち方面で頑張って見るかなあ(無理だって)。


【3月14日】 承前から言及が続く、所属している某新聞が行う大構造改革に伴い近く無職となる身に怯えて夜もろくすっぽ寝られず、昼間に薄ボンヤリとする日々が続いているここしばらく。するかどうか、という以前にできるかどうかまったく見えない再就職活動用として、もうずいぶんと作っていなかったスーツを越谷レイクタウンにあるイオンモールレイクタウンのアウトレットに入っているダーバンで1着、あつらえたけれどもそれだけだと一張羅になるんでもう1着作っておこうと、同じアウトレットにある銀座山形屋とかサルトリアプロメッサとかミスターナ・ブレフといったブランドが並んでいるらしいJSファクトリーアウトレットで調達する。

 50歳を過ぎた中高年なので大人のブランド・銀座山形屋の並びからAB6のサイズのを探し、吊るしグレーのピンストライプのシングルスーツを見つけて購入する。パンツが2本ついて2万円(税抜)はやっぱり安いよなあ、ウール100%だし。2万円ならいわゆるスーツ専門店とかと同じくらいの値段だけれど、新品でそれだけの上に素材はポリエステルが50%くらいで縫製も海外。それで品質が落ちるとは限らないし、ポリエステル混は扱いが簡単で皺にもなりにくく、着倒すにはベストなチョイスなんだけれどそんな風に着て毎日歩き回るようなシチュエーションが現時点では想定できないのと、あとはやっぱり気分でウール100%を選んでおきたかった。バブル世代の見栄として。

 まあ、それを着たところで太ってしまって寸胴な上に禿げてしまってみすぼらしい感じしか出ないし、靴も適当なのしかないんでエグゼクティブには雰囲気的にほど遠い。今さら起業してひとりエグゼクティブを気取るだけの才覚もないから、そこはせめてもの誠意としてスーツをまとい、似合わないフォルムを晒して助けを乞おう。ITからエンタメまでオタク的視点も経済的分析も含めて書く記事とか、映画祭やら部隊挨拶やら2.5次元のゲネプロといったエンタメ系イベントのリポートとか、ライトノベルにミSFにミステリに文芸の書評とか書けそうな記者&ライター、いりませんか?

 引きの凄さは相変わらずな上に、不安の色もぐっと濃さを増して1週間が待ち遠しくもあり、そこで描かれる物語が恐ろしくもあってリストラの不安も吹き飛ばしてくれるテレビアニメーション「ケムリクサ」。10島へと入って新宿バスタあたりで増えてきた赤虫を相手にりつ姉がみどりちゃんを伸ばして一挙粉砕し、りなたちも跳ね回っては戦いどうにかこうにか前進し続けてはいられるものの、電話ボックスに汲んであった水も尽きてあとは7島まで戻れなければ乾いて消えるだけといった分岐点に立って、りつとりなたちがひとつの決断をして見る僕たちを動揺させる。すぐにどうってことではなくても、いずれそうって状況だけに前進を続けるりんとわかばがしくじれば、全滅エンドに至ってしまう。何という悲劇!

 それをやってはさすがに寂しさも募るから、圧巻の逆転劇ってのを仕込んでくれてはいると思うけれどもそれはたぶん、りんの中に入り込んでいるようなりくやりょうやりょくといったところが現れ、最後の力を振り絞って戦い消えていくという展開で、それもやっぱり寂しさと悲しさを味わわせてくれそう。そしてもうひとつ、りんの中にあった記憶の葉をわかばが開いたところに現れた、わかばのような服を着てシロを2台、かたわらに置いてダイダイ色のケムリクサに何か書いている少女の存在。あれは誰だ? そしてそこはどこなんだ。りんの目に見えた風景は白くて平和そう。そんな世界が戻って来るのか。そこにりんやりつやりなたちの居場所はあるのか。見えないわかばの正体、そして世界の成り立ちも含めて残る2話で圧縮された状態から弾けだしてくるエピソードにノックアウトされることになりそう。それを味わうまでは生き続ける。絶対に。

 コカインの使用で逮捕された電気グルーヴのピエール瀧氏が出演していたセガのゲームの販売と配信が中止になって、どうしてと言われながらもそこはアウトローを描いたゲームであっても、プレイする人たちに配慮して子供は痛めずドラッグも出さないといった作り手側のポリシーがあって、それをリアルで侵す人物を起用しているのはダメだといった判断があったと想像。一方で、NHKは大河ドラマ「いだてん」に出演している関係で、速攻の判断が求められていたけれど、収録分はどうやらそのまま放送するそうで、今さら差替は難しいという物理的な判断と、逮捕はされても容疑者であり量刑は確定しておらず、よしんば有罪にはなっても、人は人で役は役といいった判断もあっての“続投”だったのかもしれない。出来れば後者を前例として、封印された作品を復活させて欲しいけれど「いだてん」も配信はストップしているみたいで、放送という一過性のメディアに限定しての配慮といった実例として定着してしまうかもしれない。どう転ぶか。目が離せない。

 1年間を探ったけれどもやっぱり再生は不可能だったということで、Kalafinaの解散が所属している事務所から発表された。コンポーザーとしてすべての楽曲の作詞作曲を手がけてきた梶浦由記さんが先に事務所を抜け、そして3人いるメンバーからKeikoが抜けHikaruも抜けてWakanaひとりとなっていたKalafinaだったけれど、Wakanaがひとりで歌ってもKalafinaならではのハーモニーは生まれないし、KeikoのパワフルなボーカルとHikaruの情感にあふれたボーカルが、Wakanaの透明で天にも届くボーカルと組み合わさって混在してこそのKalafinaの楽曲だった以上、他の誰が加わってもKalafinaたり得なかったとも言えそう。似せられてもそれは違うKalafinaになってしまう。それはもうKalafinaとは言えない。ならば……。そんな判断だったんだろう。

 「劇場晩 空の境界」の第一章「俯瞰風景」のエンディングとして流れた「oblivious」を聴いて打ちのめされて以来、繰り出されるさまざまな楽曲を耳にしてそして第七章まで終えても活動を続けてライブなどをやり始める中、たぶん2010年のO−EASTあたりから実際の歌声も聴くようになっていったKalafinaを、僕はそれ自体がひとつのジャンルであり、“Kalafinaという音楽”だと思い訴えてきた。唯一無二の存在であって何かが足されても、あるいは引かれても崩れてしまうコーラスワークだと感じていた。いや、もしかしたら草創期から3人へと至ったようなプロセスが繰り返されて、途中の段階で梶浦由記さんも含めた話し合いの中で加わったり減ったりしていたら、また違った印象を持ったかもしれないけれど、固まった3人のメンバーが固めていった音楽の形は、もう動かせるものではなくなっていた。

 だから、コンポーザーが抜け、KeikoとHikaruが抜けてKalafinaは封印された。解散となってしまった。残念だけれど仕方が無い。ただ、ひとりWakanaはWakanaとして歌を歌い続けてくれていて、4月には中野サンプラザでのライブも控えているからそこで、WakanaならではのKalafina時代の楽曲の昇華があり、またソロシンガーとしてその澄んだ歌声を響かせる楽曲を聴かせてくれる場面がありそう。前に赤坂BRITZでも見たソロでの活躍を、解散という決定を受けて本格的に始めるWakanaにまずは幸あれ。そしていつかまた、解散したバンドが再結成される事態を幾つも目の当たりにして来た気持をここでも抱き、梶浦由記さんも含めてKeikoとHikaruも参加して、Kalafinaという音楽が甦る日も夢見続けたい。待ってます。


【3月13日】 大リストラに伴う無職化が近づいて不安と楽観に苛まれながら寝たり起きたりする日々。浅い眠りが続くと時々、スッと意識が途絶えてそして数時間後に目が覚めて、そこから気持がダウナー方向へと沈んでいくのを止めようと、枕元に置いたiPadで検索をしたり遊んだりしていたら、電気グルーヴのピエール瀧氏がコカインの所持ではなくって使用で逮捕されたといったニュースが飛び込んで来た。新井浩文氏の暴行による逮捕があって映画やドラマに出まくっていた役者の逮捕が上映や放送の中止や再放送・配信等の停止へと広がって、いろいろと話題になっていただけに今回もやっぱり出演作の多い役者であり、ライブも控えたミュージシャンでもある人間の逮捕はそれらに大きく影響しそう。

 もちろん個人の犯罪は犯罪であり、出演はしていても作品は作品であってそこの関係は別に考えるべきだという意見はあって、個人的にはそちらに賛成だけれど世間はそうはなかなか思ってくれないし、子供への影響なんてことも考えるならディズニーの「アナと雪の女王」で日本語の役を演じたオラフなんかは、かつてのアラジンを演じた羽賀健二氏のように声も差替になってしまうのかもしれない。そう考えると誰がピッタリなのかをちょっと考える。アラジンの場合は三木眞一郎さんが新しくアラジンを演じているけれど、オラフは二枚目じゃなく剽軽で楽しげ、ってことはううん、高木渉さん? だとちょっとジョーカーめくかなあ、いや「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of System」の第3部で演じた武装勢力の男とか、軽薄だけれど良いヤツだったんでマッチするかな。さてもさても。

 しばらくは(もしかしたら永久に)入るお金もグッと減るので、せめて自炊くらいは出来る部屋に戻そうとしてあちらこちらを掘ったり捨てたりしていたら、今敏監督の「千年女優」のセル画が発見されてハテ、これはいつどこで手に入れたものだおろうかとしばらく思案。新宿眼科画廊でまだ今監督が存命だった時代に展覧会が開かれて、そこで5000円以上を買った人には箱にいっぱい入れられた「PERFECT BLUE」のセル画をカット袋ごと持っていっていいよってイベントがあってそれならとDVDとかBlu−rayとか持ってないのを買い足して、4袋ほどもらって帰ってカウンターにいた今監督から苦笑いされた記憶があったっけ。選んでも良いよと言われたけれどもそこは公平に順繰りに。今にして思えば本田雄師匠のカットとかもらっておけば良かったかも。

 でもこのときは「PERFECT BLUE」のセル画であって「千年女優」は混じってなかった。ではどこでと日記を掘り返して2002年の9月14日に「千年女優」が公開された時、上野スタームービーで先着50人にセル画を配ったことがあって、そこに並んで手に入れたものだと判明した。主人公の千代子さんが子供ではなく、お祖母さんでもない小山茉美さんが声を担当していた大人の千代子さんのアップ。その頃はやっぱり折笠富美子さんが声を担当していた少女の千代子の方が良いなあと思ったけれど、今敏監督が亡くなられて作品が世界的に評価される中で、「千年女優」への関心も高まっているだおるから誰がどれでも貴重な資料となりそう。背景原画がないのは配られなかったからで、動画からのセルかどうかもちょっと不明。でも良い表情をしているからこれはこれで嬉しい。保存。あと「VIRUS」のセル画も出てきた。これはアニメワールドスターで買ったものかなあ。これも資産。

 考えることは多いけれども籠もってばかりいると沈むだけなので、3月17日はイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンで爆音で上映される「劇場版 幼女戦記」を見て、そして岩浪美和音響監督らのトークイベントを聞きに行こうと申し込む。実は同じ環境ですでに1度は見ていて、スクリーンの下に置かれた6連奏のJBLのウーファーから飛び出して来る爆音に、まるで戦場にいるようだといった感想を持った。とはいえずっと前目で見ていたので、音圧ばかりが身に響いたけれど、今回は出遅れてやや後ろになったこともあって、もうちょっとグルグルと回転するような音響として聞こえてくるかもしれない。着弾点に立つというよりは、より戦場にいる感じが高まるかな。そうした音響をどうやって調整しているか、ターニャ・デグレチャフというキャラクターにどういった演技をつけているかが聴ければ嬉しいかも。

 そのターニャ・デグレチャフを演じている悠木碧さんは、こちらも岩浪美和さんが音響監督を務めている「スパイダーマン:スパイダーバース」の日本語吹替版でスパイダー・グウェンを演じている。まだティーンだけれど主人公のマイルスよりはちょっと上のお姉さん。だからターニャとはまったく違う演技が繰り出されては女スパイダーマンというか、スパイダーウーマンの活躍ぶりをスクリーン上で見せてくれている。その「スパイダーマン:スパイダーバース」をイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンではドルビーアトモスの音響で上映中。こちらも見たけど「劇場版幼女戦記」の戦場にいるかのごとき爆音とは違う、縦横無尽に空間を飛び回るスパイダーマンたちと一緒に飛ぶようにしてニューヨークの街の中を動き回る感じがする、って言えば良いのかな。

 難しいのは、自分がどこかに行って何かを耳にしているのと同様に、雑踏に立ってニューヨークの喧噪を聞いている体験が、とても当たり前のように感じられてしまうから、映画館という屋外でもニューヨークでもない場所でそれがどれだけ特別なことが気づかないのだ。立体に見えるとか爆音が響くといったものとは違った特徴を、感じてもらえるようにする言葉が足りない。だから日本でドルビーアトモスで映画を作ろうとする人が続かず、ドルビーアトモスで上映しようとする映画館も増えずに最高の音響体験が伸びず、最強の音響を作る職人も育たない。そして世界から取り残されていく。勿体ない話。なので世間はもっと岩浪美和音響監督という人をフィーチャーして、この5年の間に映画館にお客さんの脚を運ばせるようになった音の魔術師だと持ち上げて、後に続く音響職人を増やすようにして欲しい。それがメディアンの役割なのに……。僕にはもうどうしようもないのだった。寂しいなあ。仕方が無いのでここで書く。ここだって23年続いているメディアなんだから。零細な。零細過ぎる。零細の……だめだ落ち込む気をつけよう。

 3月28日に発売となるユリイカの2019年4月号「特集=上遠野浩平」に論考を寄せているらしい新八画(あたらし・やすみ)さんの新刊「ヒトの時代は終わったけれど、それでもお腹は減りますか?」(電撃文庫、630円)が、ポストアポカリプスな世界における人類と生命の未来を描いたSFであると同時にグルメ小説であり、お料理小説でもあったと。多能性無核細胞(PAC)なるバイオテクノロジーの成果によって人は死なずに済むようになって、打てばたちどころに傷だって治ってしまう効果でもって繁栄を謳歌すると思いきや、PACは人類以外の生物にも広がって、死なない蚊とかが生まれたりしてもう大変。植物も茂って世界は混乱に陥って、そしてどうにか近郊がとれるようになった世界は合成食料や電子ドラックが溢れかえり、荒くれ者たちが鎬を削るワイルドな状態になっていた。

 そんな日本の東京あたり、アラカワあたりで伽藍堂なる料理店を営んでいるリコとウカ。ウカが料理人であらゆる材料を仕入れてはとてつもなく美味な料理を繰り出しお客さんを喜ばせている。リコは武闘派で狩人として食材を狩り用心棒めいたこともしている。そんな2人が繰り出す料理は当世界情勢から行って当たり前ではなく、たとえば多脚砲塔めいた戦車もバイオテクノロジーの産物なら、仕入れて殻を割って中の神経とかを取りだし刺身にしたり焼いたりして食べるというからとっても近未来。毒キノコもゆでたりして毒を抜いてはペーストにして美味しく頂けるようにして食堂の客を楽しませている。

 そういう意味では漫画の「トリコ」にも似たゲテモノグルメ小説だけれど近未来だけあってネットに接続してあらゆる情報を取り込んでは、未来予測をしている少女が突然に気を失ってしまった一件では、ある種のスパイスが関わっていることを突き止めて対処し、ウカが何かを口にして眠り続けてしまった一件では、彼女の“正体”が明らかになって近未来ならではのシチュエーションといったものを感じさせる。そういう意味ではテクノロジーの進化なり、暴走なりがもたらすビジョンを見せてくれるSF。勢力争いを続ける集団もあってバトルがあるのか、それとも協力の中で進んでいくのか。そうしたのほほんとした雰囲気もなかなかに楽しい。最後はアラカワでヤマタノオロチ猟で大バトル。その正体は? そして味は? 食べてみたいなあ。今ですら食べづらくなっている食材だし。


【3月12日】 8年前のこの日は帰るに帰れず朝まで過ごした会社を出て、動いていそうな路線を乗り継ぎ船橋へと戻って部屋を開けたら、積んであった本やらDVDやらBlu−rayやらが崩れ落ちていたのを積み直し、そして店も閉まるかもしれないと近所でパスタとか買い込んで備えたのだった。幸いにして計画停電の範囲には入らず電気が消えることはなかったけれど、それでも続く余震はだんだんと明らかになって来た地震のとてつもない規模を改めて感じさせた。東京都内でも九段会館で天井が落ちて人が亡くなっていたことが分かって、決して遠い場所の話ではないことを現していた。

 それでも、1カ月も経てば灯りも点き始めてコンビニには食料が並んで、普通の暮らしに戻っていた。その頃の東北なり北関東は依然として混乱が続き、始まっていた避難は8年が経っても未だに終わってはいない。何より福島第一原子力発電所の爆発に伴う被害は、その地域に人が立ち入ることを今もって禁じている。タイプが違うからなのか、今とは感覚が違うからなのか、広島や長崎で原子力爆弾が落ちてもそれから半年も過ぎれば人は戻って街作りは始まっていた。きっと福島もそうなると考えながら8年が過ぎ、そして10年に達してなお変わらない状態が続いてしまうことに、どうして政治は向き合おうとしないのだろう。

 これもまたどうしようもないことなのだろうか、科学的に、あるいは財政的に。世界に冠たる偉大な日本だと外面を良くしたところで、内に山積した問題はこれから国土を、人心を内部から食い荒らしていく。そんな状況の中を8年越しの大構造改革という津波に呑まれて流されてしまって、これからどうやって生きていこうと思うと相当に不安も募るけれど、現状がたいして良好でもないのなだから、落ちてもたいしたことはないと思ってまずはしがみつく棒きれを探しながら泥水の中を漂うことにしよう。すべてがデフレになって物価が下がれば嬉しいんだけれど、貨幣価値は下がって物価は上がるという事態も想像できるからなあ。節約するしかないのかなあ。

 とはいえ道具は必要不可欠だからととりあえず、サポートが終わるWindows7のパソコンをどうにかしようとLenovoのサイトからThinkPadのX280を1台購入する。米沢モデル。東北産だ。中国の会社になっても大和の設計部門は残しているし生産拠点としての米沢も稼動させているのは品質とアイデアの部分にまだまだ日本には見るべきところがある、って判断が働いているからなのか、それがブランドになっているとも言えるけれど。SONYからおん出たVAIOも信州は安曇野での生産を謳って品質の良さをアピールしている。そういうブランディングが出来るものと出来ないものがあって新聞は、コモディティ化していくなかで人にコストをかけて情報を集められるところが生き残り、そうでないところはネットに淘汰されていくんだろう。どこで間違えたんだろうなあ、右旋回はブランディングにならなかったものなあ。

 PCはここしばらく中古のX201を何台も買い続けてはハードディスクを差し替えて使ってきたけれど、大きなバッテリーを付けても電池が保って2時間なので外を彷徨ってコンセントのない場所で長く仕事をすることが出来ない。かといって家では何かを書いたり考えたりするスペースが片付けないと出てこないので、パソコンの慎重が必要だった。10時間とは言わないまでも8時間くらいは保ってくれれば数時間、近所のスターバ……はマックじゃないんで似合わないから、ドトールかベローチェへと入ってペチペチと文字を書いて完成させてそして帰って寝られるだろう。それで書くものが後はお金になれば万々歳なんだけれど、それはしばらく動いてからかなあ。まずは実績作りだ。そのための糸を投げてくれるところ、ありませんか? イベント取材なら得意です。あとインタビューも。

 イエイヌなんて種類の動物なんていないんだけれど、それを言うならツチノコだっていないから居ていいのかどうかとなると、ツチノコはあれで独立した“種”であってただ未確認なだけだから居てもいいけれど、イエイヌとなると種類も何もない訳でやっぱりちょっと動物ファーストじゃないような気もしないでもなかった「けものフレンズ2」。オオアルマジロとオオセンザンコウのペアがキュルルを追いかけていたのはイエイヌが欲していたからで、連れて行ってまずは終わりとなったペアはきっともうこれでお役御免となって物語を通して生き残る感じでもないんだろうなあ。そこがキャラ立ちしたアライさんとフェネックとは違うというか、だったらどうしてアライさんとフェネックを出さないんだというと、記憶がすっ飛んでいるサーバルと違って「けものフレンズ」の世界を引きずらざるを得ないから、なのかもしれない。でもPPPもマーゲイも気づいたふりしてすっ飛ばしていたから、それで行く手もあるのか。難しい。

 気になったのはそのイエイヌが、ビースト相手に激しく戦って大きく傷ついたところを加勢したサーバルとカラカルに助けられはしたものの、全身が激しく痛んでいるイエイヌに対してキュルルがねぎらうようなところをみせず、家に帰ってヒトが帰ってくるのを待つというイエイヌをあっさり見逃してしまった点。いっしょに行こうよとか誘わずきっとこれからも永遠に待ち続けるだろうイエイヌへの共感の乏しさに、見ていてちょと苛立った。逆にイエイヌに同情してしまった。もしかしてそうした同情をより尊ぼうとしたのかもしれないけれど、ネガティブな行動の対比としての同情は見ていてやっぱい心地良いものではない。何かを下げて何かを持ち上げるんじゃなく、すべてをリフトアップさせて優しい世界を作り上げ、共感と感嘆を運だ第1期とのそこが差なんだろうなあ。評判も含めて。でもまだ何話かある残りをどうまとめるかで、評価も変わってくるのでそこは期待をして見ていこう。

 ヤマカンこと山本寛監督の件は双方に言い分もあってなかなかに真相を紐解けないけれども、とりあえず「薄暮」の方に影響がなければクラウドファンディングに応じたものとして有り難いというか、あれはやっぱり「Wake Up, Girls!」からヤマカンが続けて来た東日本大震災と東北への向き合い方のひとつの答えなので、それを出す前から取りあげてはちょっと切ない気がするのだった。個人的には最初の劇場とそしてテレビシリーズ第1期、そして続く1時間ほどの映画2本で描かれた少女たちのアイドルという場所に向き合う考え方、そして東北という場所から頂点を目指す心意気といったものが映像のクオリティはともかく物語としてしっかり芯を持って描かれていたと思う。それだけ体を張って作り上げた背景に、厳しい事態があったのならやっぱり残念だし、その意思を途中で断たれたのだとしたらやっぱり寂しい。自ら断つような感じだったかも分からないので、そこも含めて暗中模索だけれど、とりあえず今は目の前の作品が完成から上映、そして評価へと繋がることを願いたい。


【3月11日】 花城フレデリカに目が向きすぎて、テンジン・ワンチュクの観察がおろそかになってしまったので、確認の意味もこめて2度目の「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」を劇場で。うつむき加減で体を洗う花城フレデリカの垂れ下がったそれに目を奪われ続けることなく、湯船に浸かったテンジンに目を向けるとそれなりにあって横向きになるとお椀型でちゃんと整ってはいたけれど、やっぱり成長途上であって花城フレデリカのサイズに至るまでにいったいどれだけの補給が必要なのかを考えると、狡噛慎也をそちらに奪われかねない懸念はいっそう強くなる。というか2人は一緒に帰国する訳だし。

 でもいったいどういう身分で日本に連れ帰るんだろう。外務省が匿うんだろうか。超法規的措置でシビュラシステムの監視下から外すんだろうか。あれだけ戦闘経験の豊富な花城フレデリカが、色相を見られもしないで厚生省公安局刑事課一係に普通に出向できるんだから、抜け道はあるんだろうなあ。物語について改めて考えると、アジアはチベット・ヒマラヤ同盟王国に限らず周辺の国々が争いを続けていて落ち着かず、東南アジアはSEAUnで武装勢力との戦いが続いてやっぱり安心して暮らせる雰囲気にない。「PSYCHO−PASS サイコパス」という物語の世界でまっとうに文明が営まれているのは日本だけ、といった感じになっている。

 それはシビュラシステムがしっかりと管理し不穏分子を排除し潜在犯ですら隔離しながら厳しい監視を行っているからで、その背後にプロフィルから心理状態まで読み取り分析して割り当てる完璧なシステムがあるとはいえ、枠組みから外れたらとたんに末端まで落ちていく可能性は見えていてそれで一種、スラム街のようなところも生まれているし、「」Case.1 罪と罰」で描かれた収容所のようなところも作られている。遠く離れれば人間が住めない場所もあったりする日本から外に出て、世界は果たしてどうなってしまっているのか。そんな物語が続く第3期のテレビシリーズに出てくるのか、やっぱりミニマルに日本での監視と自由をめぐる物語になるのか。気にしないではいられない。

 人の良さそうなおじさんに見えて高畑勲監督の狷介さというのはつとに知られていて、思うところ無しに喋ったことに疑問を差し挟んで中身を追求しては相手をしどろもどろにさせるような感じもあったと伝え聞く。実際に千葉市美術館で高畑勲監督と村上隆さんが対談した時も、スリリングな会話があったような記憶があって、そんな高畑さんを動かして8年もかけて「かぐや姫の物語」を完成へと持っていった西村義明プロデューサーはやっぱり凄い人だった、ってことは言えるんだろう。氏家齊一郎さんの死去には間に合わなかったけれど、それでも高畑勲監督のフィルモグラフィーに最高に近い傑作を加えさせることが出来たんだから。

 そんな高畑さんがもしも存命で、お近づきになれるんだったらと今さら行っても仕方が無いころではあるけれど、相手が何かいろいろ知識を持って話しを振ってくるんだったら、それを学ぶというよりいっしょになって楽しんでいくような態度が必要だったって、東京アニメアワードフェスティバル2019での高畑勲監督追悼企画で3月10日に西村プロデューサーが話してた。映画だったら見てくしレコードだったら高畑さんが持っているから借りて聞くなりする。そうやって一緒になって学んでいくことが出来たとしても、友だちでしかなかったら仕事は進まない。プロデューサーとして可能なことをやる必要があって、「かぐや姫の物語」では原画の現場に人を増やして少数精鋭主義を壊したそうだけど、自分に与えられられた役割を訴えれば相手はちゃんと納得してくれる信頼が出来ていた。だから完成させられたんだろう。濃密な経験を経た西村プロデューサーにはそんな現場の雰囲気を、後進に伝えて高畑勲さんばりのアニメーション映画を送り出していって欲しいなあ。次はやっぱり長編かなあ。

 そんな東京アニメアワードフェスティバル2019もたちまち最終日となって授賞式が開催。日本橋から会場が池袋に移ってから、なぜかAMD Awardと重なることが多くて行けなかったので豊島区役所での贈賞式は初めて。劇場ほどのゴージャスさはないし、東京ビッグサイト時代の広々とした感じも減じてはいたけれど、距離が近くて取材にはそれほど悪い環境ではなかった。そんな授賞式で今日発表された長編コンペティション部門グランプリは、見てないけどこれかなと思っていたラウル・デ・ラ・フエンテ監督とダミアン・ネノウ監督「アナザー デイ オブ ライフ」が受賞。アンゴラ内戦のルポをアニメーション化したってあたりに、アリ・フォルマン監督「戦場でワルツを」をふと思い出したけれど、「アナザー デイ オブ ライフ」の方にアニメーションなればこその表現というのがどこまであるかは見てないので分からない。

 現実が幻想に取り込まれるような表現があればアニメーションで描く意味もあるってことになるとするなら、「アナザー デイ オブ ライフ」ではダイジェスト映像の中に車両の内部で銃弾が浮かぶところとかいろいろと見えたので、それはそれでアニメーションっぽいビジュアルなり動きなりがあるのだろう。いつかどこかでちゃんと上映して欲しいけれどそういう機会は来るかなあ。去年のグランプリの「幸福路上」は秋に公開で良かった良かった。優秀賞はファン・アンティン監督の「パチャママ」でこれも昔の東映動画っぽさが感じられて見たかったけれど取材があったのでお預け。来年はたぶんお客でこれるだろうからいろいろ見よう。どうしてお客になるかといえば記者を辞めざるを得ないからで、授賞式にANIMAXの偉い人がおられたので今月でクビになりますすいませんよろしくですと挨拶。すぐにどうなるものでもないけどいろいろ手を伸ばしていればどこかに何か引っかかるかもしれないと期待するより他にない。さてもどうなる。

 アニメ オブ ザ イヤー部門で気になったのは個人賞のアニメーター部門が刈谷仁美さんだったことで、個人として優秀だしNHKの連続テレビ小説「なつぞら」のビジュアルなんかも手がけているから業界が挙げてプッシュしたい人材なんだろうけれど、世にわんさかスーパーアニメーターがいる中でちょっぴり恐縮もしていしまったんじゃなかろーか。挨拶でも指導してくれている諸先輩への気遣いを見せていた。位負けするような人ではないからここで受賞を糧にして大きく伸びていって欲しいもの。キャラクターデザインとかビジュアルコンセプトとかいろいろ出来そうな方なので、その活躍を見守りたい。個人賞ではあと、原作・脚本部門で花田一輝さんが受賞をしていて、「宇宙よりも遠い場所」のようなオリジナル企画が評価されたのだとしたら、それは一緒になて作ったクリエイターたちも含めての受賞だと話してた。アニメは1人で作れない、ってこと誰もが加味しているのだなあ。そういう業界だけに皆で潤って欲しい。原画も動画も制作も。


【3月10日】 東京国際映画祭でも上映がなかった新劇場版3部作「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System」の最終章にあたる「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」が公開されたので早速見に行ってとりあえず花城フレデリカさんの大きさに感嘆。それは人間としての大きさというか、外務省の人間なのに紛争地へと乗り込んでいっては4WDを荒々しく運転し、遠隔操作でドローンを操縦し、分厚い装甲だってぶち抜けそうなライフルを撃ちまくって敵をばったばったとなぎ倒す女戦士としての大きさでもあるんだけれど、一方でやっぱり肉体的な部位の大きさでもあって、同じ画面に成長期の少女のそれが映ることもあって比較してやっぱりその大きさに頭が下がる。

 それはそれとして物語としての「Case.3 恩讐の彼方に__」は復讐を巡る物語と同時にぐるぐると同じ場所に止まって回っていた狡噛慎也がいよいよその輪を抜け出して新しい場所、あるいは古く見知った場所へと歩き出し戻っていく物語でもあった。公開と同時に『PSYCHO−PASS サイコパス』のテレビシリーズ第3期の製作が発表Sあれたこともあって、2人のどうやらまだ若い男性の監視官たちが登場する物語への関わりなんかをいろいろと想像したくなる。「PSYCHO−PASS サイコパス」といえば長く常守朱が主役を張って、その超然として正義を貫き曲がらず折れない態度でもってシビュラシステムに挑み変化をもたらしてきた。それもいよいよ終わって次のフェーズに入っていくのだとしたら、朱とは縁遠いメンバーが仕切る公安局刑事課一係と狡噛との対決、そして厚生省と外務省との対決めいた図式を想像してみたくなる。

 とはいえ、過去のシリーズから劇場版、そして今回の「SS」も見ておく必要があるストーリーを今、持ち出しても新しいファンは得られないのだとしたら、第3期は諸々の関係をリセットした上で新しいメンバーによる公安局刑事課一係の物語として半ば独立した形として進んでいくのかもしれない。いっそ局長が霜月美佳あたりになっていたら面白いんだけれど、それだと時間で5年は経っていないと間に合わないから流石にないか。「Case.3 恩讐の彼方に__」では日本の公安局刑事課一係がまったく出てこなかったから、先に花城フレデリカに誘われていた須郷徹平とかどうしているか分からないのだ。

 「Case.3 恩讐の彼方に__」で少し不思議だったのは、ずっと逃げていた狡噛慎也が大きくて新しい1歩を踏み出すことを決断したのか、といった部分で、マッチポンプでも平和をもたらそうとした「停戦監視団」を率いていたギレルモ・ガルシアと戦った際に、何も生み出さない傭兵の稼業をいつまでも続けていることの苦悩を聞かされ、居場所を得たかったと告げられたことが、狡噛の漂い続ける心境に変化をもたらしたのかもしれない。すでに幾度もの復讐を遂げ続けて来た自信の汚れた手なら、花城フレデリカたちが目論んでいるおそらくはシビュラシステムへの挑戦に使えると思ったのかもしれない。父親をゲリラに殺害されて仇を討ちたいと願うテンジンのような少女を出したくないという意識も働いたのかもしれない。世を捨てて彷徨っていた男が帰還を決断した、それが理由なり背景なのかもしれない。どうだろう。いずれ語られるだろう。

 気になるのは、そこに至るまでに何か作為がなかったのか、といったこと。あの場所、チベット・ヒマラヤ同盟王国に狡噛がたどり着き、難民避難バスを助けて英雄視され、「停戦監視団」への住民たちのシンパシー向上にも寄与し、そして「停戦監視団」への戦いを挑むことになった裏に、シビュラシステムほどではなくても緻密で奥深い謀略がなかったと言えるのか。尖兵として活動をした花城フレデリカの思惑が結果として果たされたその過程で、いろいろな戦いが起こってさまざまな死も余儀なくされた。それらも含めた謀略に狡噛は絡め取られたのではないか。想像を巡らせたくなる。その真相も含めて、きっとこれからの展開で語れると期待したくなる。どうだろう。あとやっぱり、花城フレデリカという女性の豊満すぎる肉体が露わにされる場面がまた来ることも。現有の刑事課一係に所属する常守朱に霜月美佳に六合恂生では足したところでかなわないからなあ。凄かった。もしまた炸裂するなら、「PSYCHO−PASS サイコパス」第3期の成功間違いなし。絶対に。

 これもまた新しい異世界転生の処理の仕方か。南野雪花さん「異世界再建計画1 転生勇者の後始末」(レジェンドノベルス)は前に転生した勇者が美味しいご飯をもたらしたために栄養不足が起こり大変になったので、日本から公務員が召還されてビタミンB1がが豊富な食事を提供しようと走り回るといったストーリー。良いことをしてもそれだけではどこかにひずみが生まれるといった皮肉が効いているし、だったらどうしたら良いんだという対処からいろいろ学ぶこともできる。まずはやっぱりエダマメか。それから豚肉。あとはどう調理するか。知っていれば簡単だけれど、知らないとどうしてと思うだろうなあ。

 現実の歴史でもそうしたことは過去に起こっていたけれど、何百年もかけて思索した果てに明らかになった対処法を、異世界から来た人間が一気に出して大きく時間を進めてしまった。それが正しいかは歴史改変だったら問題だけれど、舞台が異世界になったことで急進だって許される。というより元がおいしいご飯というあり得ない1石が打たれたからだから仕方が無い。物語は公務員が妙に日本に詳しいドラゴンを相方にして問題に解決の糸口を付けたところで壁が立ちふさがってまずは1幕の終わり。異世界の急速な改変が招く混乱を指摘しつつそれを認めず改めない元勇者の子孫の愚劣さも見えてこれからが大変そう。退場したけど戻って挑む公務員はドラゴンの正体を知ってそれでいろいろヤらかすのかにも興味津々。どこからリスタートなんだろ?

 東京アニメアワードフェスティバル2019で開催されている高畑勲監督の追悼企画第4弾となる「かぐや姫の物語」の上映とトークイベントを見物に行く。映画を観るのはもしかしたら2013年11月の公開時以来5年とちょっとぶりになるかもしれない。TOHO日劇の大きなスクリーンで1回だけ見てもう十分と思った記憶があるけれど、改めて見るとやっぱりとてつもなく凄いことをやっていると分かる。絵本のようなクリエイターの線をそのまま残して動かすという力業。なおかつそうした線が歪まずちゃんとキャラクターとして動き回る。

 インディペンデント系のアニメーションならそうした個性を残して動かすことは可能で、セバスチャン・ローデンバック監督による「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」がまさしくそれをやり切っているんだけれど、商業作品でデジタルも多用して大勢のクリエイターでやり切ったのはやっぱり凄い。その凄さがどこまで評価されているかというと、東京藝大特任准教授のイラン・グェンさんがあまり凄さが理解されていないようなことを話していた。「おもひでぽろぽろ」とか「ホーホケキョ となりの山田くん」なんかで使ったリアリズムだったりマンガ的だったりする表現なんかは今でこそ普通で、大ヒット中の「スパイダーマン:スパイダーバース」にも流用されている気もするけれど、その源流にある高畑勲監督のリアリズム的演出以外の技法への評価ってそういえばあまり気にされてない。だからこそこうやって振り返られるのが重要なんだけれど、来年はどうなるか、再来年はとなるとちょっと気になる。宮崎駿監督のようにテレビで放送される訳ではないからなあ。だからこそ語り継がねば。高畑勲ボックス買っちゃおうかなあ、掴みがねがたんまり入るだけに。


【3月9日】 新約ではない「とある魔術の禁書目録」でおよそ映像化なんて無理無理、だってやろうとしたら1クールじゃとても足りないと思っていたフィアンマ戦をじっくりしっかり描くために2クールにして来た「とある魔術の禁書目録3」がいよいよ佳境に。空中にういた都市でもって繰り広げられるバトルがあり、英国にフランスが合同で挑む展開があってなかなか派手。御坂美琴も追いついてきてクローンの妹がいたりラストオーダーがいたりミサカワーストも加わったりしてどれこもこれも御坂な状況にもなっているけど、上条当麻はしっかりオリジナルを選んで学園都市へと帰還していくんだろう。ラストーダーには一方通行がいるし妹たちは興味なさそうな中、浮いてしまうミサカワーストはいったいどこに収まるんだっけ。新約に出てたようだけれど最近の新約はアレイスターが可愛くなり過ぎていて他に目が向かないんだよなあ。そっちのアニメ化は流石にないかな。ともあれ残る数話を堪能堪能。

 「とある全国紙の超大型構造改革」に乗るというか落とされる形で、4月からの会社員として無職化することは決定済み。今はその時に向けて気持が上がったり下がったりる状況がずっと続いている。10年は年収計算でまあそこそこを維持できる手元資金はあるからと安心しては上がり、その歳に続く20年をどうやって生きれば良いんだと下がり、だったら10年の間に手に職を付け頭に知識を入れ込んで備えれば良いじゃないか、語学だって創作だって調理だって何だって10年あればひとかどの者にはなれるんじゃないかと盛り上がり、それで何とかなるなら世界中の人たちが何とかなっていると自己否定に走って落ち込む繰り返し。長く組織に属しているとそこから“解放”されることが喜びよりも苦しみに思えてしまうものなのだろう。

 とにかく自信が湧いてこない。アニメーションについて書いたけれど、深くクリエイターに踏み込んでその考えをまとめた感じではないし、玩具も展示会に行って新商品を紹介はしたけれど、開発のプロセスなりマーケティングの要諦なりについて詳しく調べて解説できるだけの知見を得た訳ではない。ゲームもかつての創業者たちが続々と引退していき知らない人ばかりになって伝手がない。音楽だって出版だって触れてはいるけどのめり込んだ感じではな。すべてが中途半端で身についた知見も頼れる人脈もない……といったマイナスの自信だけが浮かんで雁字搦めに身を縛る。ここで自分は凄いのを書いて来たから、雇ってと言えればどんなに気楽か。ネットでこうした記事を欲しがっているところはあるんだろうけど、僕ならマッチしたのを書けますと言える自信が湧いてこない。拙いなあ。

 何か特定のテーマを持って仕事してきたというよりは、目に見える面白いもの、というかこれから面白くなりそうなものをとらえて媒体を通して紹介して、世の中にも面白がってもらおうとやって来たけど、それはその瞬間には世間ではあまり知られず、周囲にも気づかれないまま過ぎていく。媒体力ってのもあったのかもしれない。それでも数年が経って盛り上がってきた時にヤったという気にはなれたけれど、個人のポイントにはまるでなっていなかったところに寂しさも募る。でも今さら言っても仕方が無いし、どうやらそうした若者向けのエンターテインメント系情報からは遠ざかる気配も見せているんで、居残って揉まれた挙げ句に現場に戻ってもやっぱり居場所はなさそう。そこで張りついて生きるだけの道か、10年をかけて何かを掴むか、そんな岐路にあってやっぱり安定と安心が良かったなあと悩むただの小心者であった。誰か俺に自信を、というのもやっぱり他力本願の小心者だなあ。

 たった1日のそれも異世界でも未来でもないむしろ過去の世界の街での少年少女の1日を描いただけのアニメーションが、これほどまでに濃密でビンビンにいろいろと感じさせられるとは、さすがは高畑勲演出というべきか宮崎駿のアニメーション力というべきか、やっぱり小田部羊一の作画監督力なりキャラクターデザイン力というべきか。それらに加えた他のクリエイターの総合力ってことなんだろうなあ。東京アニメアワードフェスティバル2019で行われる高畑勲監督の追悼企画の第1弾で、「アルプスの少女ハイジ」と「母をたずねて三千里」と「赤毛のアン」からそれぞれ1話づつを選んで上映するイベントが開かれて取材がてら見物に。「ハイジ」はおんじが暮らすアルルへとハイジが上がっていく第2話が上映されて、あの火で炙ったらとろけるチーズのエピソードが登場した。

 似たものはあってもあれほどとけるチーズはやっぱりないそうで、それなのにそこにあって不思議はないと思わせ、なおかつ美味しそうだと思わせるところにそれらしさを選び描いて見せるアニメーションの力と、そう誘う高畑勲演出の力があるんだろうなあ。なみきたかしさんはハイライトの変化が美味しそうに見えたと話してた。宮崎駿さんや小田部羊一さんの作画力ってのも大きく関わってきそう。ないけどあるってのはその2話ではいじが干し草を集めてベッドを作った際に、のって跳ねる場面があってあんな風に跳ねるはずはないのにそう描いてみせた高畑演出を指摘していた。それでハイジの浮き立つ気分とか伝わるなら間違いかどうかは気にしない。現実に即したリアルじゃなく心情に重なるリアルさを求めたアニメーションが、かえって見た人のリアルを喚起して本物と思わせるんだろー。

 それにしても40年とか昔に今も通じる貧困と高齢化の問題をこれほどまでにくっきりと切実に描いていたとはと思わされた「母をたずねて三千里」と「赤毛のアン」。前者ではマルコの母親が遠くアルゼンチンへと出稼ぎに行ったもののたいした額は遅れていない切実さが描かれ、さらに同じアパートに暮らしている夫婦の夫がせっかく工場に働きに出ても16時間動労とかさせられ休憩が少ないからと3日で辞めてしまってのんだくれている姿が描かれ、労働の大変さって奴がビンビンと響いてきて無職化が決まっている我が身に突き刺さる。「赤毛のアン」の方はカスバート兄妹が60歳近くになってどちらも独身で子がいない中で歳をとった場合を考え面倒をみてくれる子を養子でもらおうとしている話が出てきて、こちらも同様の境遇をどう乗りこえるかを強く考えさせられる。甥っ子に頼る訳にもいかんしなあ。それを40数年前に描いても、後の経済拡大からバブルで脇に追いやられていたものが、今になって改めて突き刺さってくる。テレビで放送すれば阿鼻叫喚を招きそう。そういう意味でのリアルさを今のアニメにも追求して欲しいけど、作って受け入れられる時代でもないのがまた。現実から目を背けては現実に殺されると知れ。


【3月8日】 「政治論だ」と甘利明氏が言って、違法にアップロードされたものを、そうと知りつつダウンロードする行為が違法とされる法案を、自民党の総務会から差し戻しされても修正せず、国会へと提出しようとしたところで総理大臣が出てきて、それはいけないと削除を求めたとのこと。官房長官にはそんなことはないと表向き、否定はされているけれどもそうした展開も含めた流れ事態がまさしく「政治論」であって、ボクたちにとってイヤなことを我らが総理が認めてくれたと喜んで、さすがは総理と喝采を贈ればもう万々歳、漫画の味方のような顔をしてボクたちから喝采を浴びた麻生太郎元総理と似たような図式を得られれば、政治としてそれは良いって判断だとしんだととしら甘いと言いたいところだけれど、結果として削除されたのにどうして文句を言うのと反論を封じられるだけだだろうから難しい。

 結果が良ければプロセスなんでどうでも良いというのなら、独裁でもって評判のいいことばかりを繰り出し支持率だけを高めておいて、そして見えないところで苦労している人たちが大勢居てもその声は浮かび上がってこない状態だって起こり得る。今回の場合は総務会が差し戻した段階ですでに削る判断をすべきだったのに、なぜか突っ張ってみせたことで総理にポイントがついた。まさからそれが狙いだったなんてことはないと思いたいけれど、その権威を高めよう、その人気を上げようとして様々な立場の人たちが、仰ぎ見て忖度を行っている状況だけに、いろいろと勘ぐってみたくなる。いったいどうして甘利氏は蹴飛ばしたのか。それがすぐさまひっくり返るのか。政治以外に何もなさそうなその裏側が気になります。鶴の一声はいつもボクたちに嬉しい方向に転がるとは限らないしね。

 カンヌ映画祭だったっけ、ネット配信のNetflixが作って流した作品については映画祭から閉め出すって判断をしたのは、フランスにおける映画館の興行を行っているところが、仕事に差し支えるからと反対したって話しがあるし、やっぱり映画は映画として撮られて映画館で上映されてそれで見られてこそのものだっていった観念が、ずっとあったりするからって言われれば何となく分からないでもない。とはいえもはや映画館で映画を観る行為だけが映像に親しむルートではなく、大勢に一度に見せる術として発達したスクリーンサイズでの観客を多数入れての上映形態は、あくまで形態であって誰に何かが届きさえすればそれは映像であり映画でもあるといった味方も出来る。もはや壁なんてないと言ってしまえばそれまで。あとは見る側の感覚だ。

 とはいえ、やっぱり映画を映画として作り映画館で上映して収益をとってもらいそれで大勢が潤うようなシステム全体を大きく「映画」と言い、それに携わる者たちを「映画人」と規定するなら、スティーブン・スピルバーグはまさしく映画人の中心にいる人であって、その人が映画は映画館で観るものだと行った時、やっぱり逆らいがたい雰囲気が漂う。第91回アカデミー賞の外国映画賞を受賞した「ROMA/ローマ」はNetflixが配給権を買って自分たちで流したということで、テレビ映画めいて見られているけれども元はしっかり映画として企画され作られたものらしい。それがファーストウィンドウの違いだけでこれは映画ではないと言われ排除されることは果たして映画的に正しいか。クリエイティブな意味での映画人の心が作品に傾いても、ビジネスとしての映画人の気持は違うと反発する、そんな狭間にまだスピルバーグがいるのなら、面白ければそれは映画といった単純さに向かって欲しいけれど。どちらに傾くかなあ。

 ハローキティは仕事を選ばないというけれど、今回新たに「仮面ライダー電王」とのコラボが発表されてちょっぴり可愛らしい雰囲気の仮面ライダーたちがこれから登場してくることになりそう。すでに去年に「仮面ライダー555」がハローキティとのコラボを発表していて、電王に出演していた中村優一さんは羨ましいと思っていたとか。キティさんと呼ぶくらいに讃えていたから今回のコラボはきっと嬉しいだろうなあ。7月7日にサンリオピューロランドでイベントがあるみたいで、中村さんの仮面ライダーゼロノスとかそのイマジンのデネブとか、モモタロスとか電王とかいろいろと出てきて賑やかなイベントになりそう。というか平成ライダーってそういうイベントが成り立つくらいに古典となりつつあるんだなあ。放送終了からもう11年。10歳で見ていたら大学生だし20歳なら30過ぎだもんなあ。「仮面ライダー」なんて古典どころか古代だな。

 ハローキティーはほかにもSTU48ともコラボレーションして船に乗ってコスチュームをまとったハローキティとか登場してくるみたい。ちょっと可愛い。一方でシナモロールも人気YouTuberらしいスカイピースの☆イニ☆(じん)とコラボレーション。トレードマークになってる眼鏡をかけてピースサインをしているシナモロールのぬいぐるみとかが出てくるみたい。ってまるでスカイピースなんて知らないんだけれど225万ものチャンネル登録者を抱えて子供たちの間では大人気というからそれこそテレビで活動している芸人なんてとうてい及ばない知名度をそうした層から得ているってことだろう。一方でテレビには出てこないから大人は知らないというこの断絶が、10年後20年後にテレビをどこへと向かわせるかが目下の興味といったところか。これが3年前でもネットで人気の誰かさんとサンリオキャラが組むなんて考えられなかっただけに、代わる時代をしっかりつかんでキャラクターを浸透させようとする意識はやっぱり長年、人気を探ってヒットを得てきたサンリオならではの凄みって奴かもしれない。

 東京アニメアワードフェスティバル2019が今年も池袋で始まって、そして毎年恒例のようにひっそりとWACCAで行われている功労賞の人たちに関する展示。朝にいけばデータ原口さんとかが一つ一つ並べている様子も見られたかもしれないけれど、朝にバンブルビーカフェをのぞいてそれからサンリオに回ったんで、すぐには見られず夕方になって寄ったらやっぱり誰もいなかった、見物客も含めて。ある意味でアニメの歴史が語られている場所だから行けば勉強になるし、二宮常雄さんだなんて78歳にもなるのに未だ現役で「ロクでなし魔術講師と禁忌経典」だなんて最新のアニメの原画なんかを描いていたりして、腕に衰えはなく完成に摩耗はないんだって諭される。若いアニメーターも年を経てなお美少女を描く将来に向けて精進を。


【3月7日】 Netflixで4月から配信が始まる予定だった田村由美子さん原作の「7SEEDS」が制作の遅れからなのか6月スタートに変更になったと発表。作りながら走ることができないNetflixは一括納品できなければ次となるみたいだけれど、それでも半年延びることはないってあたりにまだ、救いがあったって言えるかも。「ちはやふる3」の方は確か半年延期になっていた感じ。手がけるマッドハウスは決して小さなスタジオではないんだけれど、それでもこの情勢ではクリエイターの確保が難しいのかそれとも別の理由からの延期か。

 声優さんだとしたら宮内先生役の藤田淑子さんに原田先生役の石塚運昇さん、そして綿谷始役の有本欽隆さんと重鎮が相次ぎ亡くなって代わりを探すのも大変そう。メインキャストは真島太一役の宮野真守さんを筆頭に綿谷新の細谷佳正さんとこちらも人気者ばかりになってしまったし。こういうケースは今後まだまだ増えるんだろう。それがアニメーション業界の崩壊に繋がらなければ良いけれど。だからといって本数を絞れば絞ったでこの業界に入ってきてくれた人たちに大勢、職からあぶれてしまう人たちも出てくる訳で、そこもしっかりサポートしつつうまく回っていく方法はないものか。制作会社の集団である日本動画協会とかクリエイターが所属する日本アニメーター・演出協会あたりががっつり組んで、良い方向に持っていって欲しいなあ。

 あれがたとえば真っ白いつなぎに「白血球」と書かれた帽子だったらもう世界は大騒ぎだったかもしれないけれど、どこかの塗装工か電設工の人みたいな格好で、それも使い古されてはいない新品のつなぎでもってぞろぞろと同じ軽ワゴンに乗り込めば、これは絶対に怪しいて誰もが思うだろうし、いったいどうしてそんな格好をしてしまうんだと訝るだろう。ってか格好良くなカルロス・ーン氏。ここは絶対に愛車の日産GT−Rを拘置所前に横付けしてもらって、それにレーシングスーツでもって颯爽と乗り込みアクセル全開……ではスピード違反で捕まってしまうから交通法規は遵守しルールを守って走ってくれると思ってた。あるいはフェアレディZとか。でも日産ではなくスズキの軽ワゴンだったところに日産自動車への複雑な感情が渦巻いているのもしれない。電設工事の仕様のワゴンがスズキしかなかっただけなんだろうけれど。

 保釈となってとりあえずは箱根かどこかでゆっくり保養し、体力を回復しつつ来る裁判を待つんだろうけれど、日本から出られないことだけじゃなく、出入りは監視カメラで見張られるとか移動も通信も制限されるとか、刑務所が外へと広がったような感じでとてもじゃないけど人権国家と言えなさそう。ネットはもはやインフラであってそれを制限されると息をするな飯を食うなな風呂に入るな歯も磨くなと言うに等しい蹂躙であって、それを提案して保釈にこぎ着けた弁護士さんは有能かもしれないけれど、そこまでさせる日本の司法がやっぱりどこかズレている。今までの証拠で裁判に持ちこんで有罪にさせられるから起訴したんじゃないのかなあ。だったら何をどうされようと平気なんじゃ。そういうところにやっぱりこの一件の不思議さが漂う。さてもどんな結末を迎えるか。ゴーン氏は積極的に出歩いてイメージアップに努めると面白いよ。ニコニコ超会議で生配信だ。

 りょうにりょくも登場してこれで6姉妹が本編にも勢ぞろいした「ケムリクサ」。前に梅田地下ダンジョンでわかばが体面したりくが仄めかしていたように、その体にはかつてのヌシとの戦いで死んだらしいりくとりょうとりょくが重なって存在してたようで、たぶん富士山めいた島までたどり着いたもののタガメのようなヌシが中をうごめく壁に阻まれ、立ち往生して作戦を練り直していた一行から、夜にちょっとだけ抜けたわかばの前に最初はりょうが現れ、戦い好きなところを見せてくれた。手にしたパイプはあればやっぱり肉体ととセットになっているんだろうなあ。残されていたものは前に地震で路面電車が傾いた時に落ちていった感じだし。目は見えないけど嗅覚で察して戦うその戦い方が、続く旅程で披露されてはりんたちを懐かしがらせるのか。それとも現場に出てくるのはりくの方か。めっさ気になる。

 りょうの方は眼鏡っ娘で知識欲がおう盛なところがオタク受けしそう。橙色の四角いケムリクサに書いていたのはやっぱりりょうで、ある意味で日記めいたものをわかばに読まれてうげえっとなっていたところもナードっぽかった。あれでBLな日記でも書いていたら悶死するか、読んだわかばを即座に抹殺していただろう。あれでやっぱり戦うだけの力は持っていそうだったし。戦闘に関する作戦の立案は、あるいはりょうの役割だったのかもしれず、壁の中のヌシを倒す方法を提案してわかば経由でりつに伝えた。といってもわあばはりくもりょうもりょくもまだ、その姿を保って現れることができるとは言ってないみたい。それとも言って現れても他には見えない? りんだけはりょくの目をもらっているから見えるかな。そんな関係性がまだ謎なまま、富士山の向こうに広がるあれはきっと東京へと向かい進んでいくんだろう。終着点はどこだろう。中野かな。へんたつが出迎えるのかな。

 それほど長くはない物語だけれど、とてつもなくセンシティブなメッセージを持った物語を、事態から数カ月のうちにしっかりと漫画として描いてみせた萩尾望都が凄いことは分かっていた。だからそんな物語「なのはな」を劇団スタジオライフがどうやって舞台の上に作り上げるのかに、とてもとても興味を惹かれて見に行った劇団スタジオライフ公演「なのはな」。2011年3月11日に東北で起こった大きな地震と、そして福島で起こった原発事故によって住んでいた場所から引き離され、そして一緒に暮らしていた人を失った家族やいろいろな人たちが今も帰還を願いながら果たせないでいる。そんな人たちが抱えているさまざまな思いを、憤りも哀しみも苦しみも含めて取り込んでは今を、そして明日を生きていこうとひとりの少女が決意するまでの物語が、しっかりと舞台の上に描かれていた。

 ナホという少女が学校でチェルノブイリで怒った原発事故について教師から教わり同級生たちと会話する中でじんわりと、置かれた境遇の大変さがにじみ出てくる。校庭で遊べない日がある。外を歩くときはマスクをした方が良いと言われる。8年が経った2019年もまだ、そういう状況だとは言えないけれどもそれでもなお入ってはいけない場所が残っていることに、事態の深刻さは伺えそうした場所から離れて暮らす人たちを縛るさまざまな感情が見えて来る。

 地震のあとの津波でナホはおばあちゃんを失っている。海に近い場所にいたらしくそのまま帰って来なかった。もう帰っては来ないだろうと分かっているけれど、おじいちゃんはそれを認めたくないのか今も快活そうにして立ち入り禁止区域に入れる時には何かおばあちゃんの縁の品を持ってこようと言って周囲を惑わせる。知らない訳でも認めていない訳でもないけれど、断じるにはまだ足りていない気持の整理があるのだろう。それはナホの母親たちも同様。そうした引きずって漂うような心情を目の当たりにしてナホは認めない彼らに憤り、認めたくない自分に苛立つ。

 そこに現れたのが石田音寿という東京でCMソングを作っているミュージシャン。ナホと同じ集落の出身でお兄ちゃんと慕っていた彼が金髪になって戻ってきては祭りで歌うと教えてくれた。そして歌うさまざまな歌。奪われて抑えられた気持ちを爆発させるような歌があり、生きよう、止まらないで進もうといった前向きさのカタマリのような歌があってナホと家族を涙させる。もうひとつ、ナホの幻想の中に現れるお下げ髪の少女がいて、おばあちゃんの陰とともにナホに何かを伝えようとする。

 チェルノブイリで起こったこと。今も起こっていること。それでも種をまいて菜の花を育てて土を綺麗にしようとしていう話しを聞き、幻想の少女が祖母の使っていたのと同じ種まき機を持って回してなのはなの種をまいている姿を感じ取って自分もここから種をまこう、未来へとうなげようとする意思を持つ。止められたままではいたくない。止まったままではいられない。苦しいけれど、厳しいけれど歩みだそうとするまでが1時間と少しの舞台の中に描かれる。

 枠だけの扉があって箱のような椅子が4つほどあってそれだけの舞台が背景へのプロジェクションによってチェルノブイリに変わり、菜の花畑にも代わって舞台の世界を変化させる。その上で男性ばかりのキャストが小学生の少女ナホを演じ、そんなナホが出会う少女を演じているのを見て少女じゃないとはまったく思わない。むしろ登場した瞬間に小学生の女の子たちだと覆ってしまうくらいに佇まいもしぐさも女子になっている。かといって声音はそのまま。作らない声だけれど、服装であり仕草でありセリフに込める心情がそこに男子で割と歳をいってていも小学生の女の子たちを現出させる。いつものスタジオライフだ。

 加えて今回は石田音寿というミュージシャンが加わった。演じるのは漫画「なのはな」で音寿のモデルとなったミュージシャンでCMソングクリエイターでもある明石隼汰。聞けば誰だって知っているCMソングを幾つも幾つも作り作ってきた人だけれど、今回はシンガーとしてステージに立って「アララ」の歌などを披露する。金髪でロッカーといった出で立ちになって底の分厚い靴を履いては歌い踊りも見せるその姿は、スリムじゃないし若くもないのに声の良さと音楽の良さが相まって、現役のロックシンガーに互角の存在感を見せてくれる。

 フォークソングだったはずの「アララ」の歌がビートの利いたロックになって2人のダンサーをバックに繰り広げられるステージが、嘆美で名高い劇団スタジオライフのものとは瞬間、思えなくなるけれども誰が何を演じようともその役に心でなり切ろうとしてなり切ってみせるスタジオライフならではの空気が、ちょっと太めの中年すら越えかけているミュージシャンを人気があって実力もあって、何より真摯で自分たちの故郷のこと、そこで生きる人たちのことを思った正義のシンガーに見せてしまう。もちろん稽古を経て舞台にも何度か立って調整し、フィットさせてきた明石隼汰の実力にも喝采。

 ラスト、出演者が並びたって「なのはな」とだけ言うようなシーンがあって、それぞれが万感の思いを超えて言う「なのはな」を聴ける。役者の心情もきっと乗ったその言葉の響きから、それぞれが今を苦しみながら明日を開こうとする時に、導き手となってくれる黄色い花、見守ってくれる黄色い花を思い浮かべている様を感じ取ろう。この日は終演後にまた驚きが。明石隼汰がワンマンショーを見せてくれては32年の時を経て出せたアルバムから何曲か披露してくれた。そして数々のCMソングのメドレーも。そこに知ってる曲ばかりか今なお口ずさまれる曲も多々あることにこの金髪、何者だといった思いを改めて抱いた次第。CDには何と萩尾望都のジャケットが。描き下ろしか何かの利用かは分からないけれど、萩尾望都のワークスにあって異色かもしれないアイテム。忘れ去られないためにファンは購入必須。そしてCDを聞けばその楽曲の素晴らしさも噛みしめよう。


【3月6日】 ネットに新しい記事が出て、採用が2人とか退職が180人とかいろいろと話題になっているのに、こっちに大丈夫なのと尋ねて来る人がいないのはそれだけ関わりを持ってる人間って知られていない現れかなのかもしれない。フリーの書評家でライターだと思われている? それはそれで1枚の看板だけれど、使って稼げるほどになってないのが悲しいところ。なので希望というなの退職街道を選んだ人に、会社が当てがってくれる丸の内の再就職支援サービスの会社を見学。就職だけなら50代でも出来そうだとは分かったけれど、やれることかやりたいことかやらされることかやってもらいたいことかといったモヤモヤはまだしばらく晴れなさそう。それはライター仕事をやったとしても同じなんだろうけれど。あと5年くらいはどこかで働くかなあ。向こう半年くらいかけていろいろと求人を見せてもらいながら考えよう。コワーキングスペースっぽい場所も使えそうだし。使える伝手は何だって使わないと。

 「シン・エヴァンゲリオン」の完成に向けて動き始めたってこの前出ていた庵野秀明監督がなぜか突然に「シン・ウルトラマン」を撮るんじゃないかと言われているって報。それも2019年のうちのクランクインってことで、そのためには「シン・エヴァンゲリオン」をそれまでに完成させなきゃいけないって話になっているらしい。でもアニメーション映画って実写みたいに撮るだけ撮ってあとはポスプロって訳にはいかず、ギリギリまで絵を描いてスキャンして彩色して効果を入れて撮影して編集してダビングなんかも行ってアフレコも別に行って音を被せて調整してって作業がそれこそ公開ギリギリまで続くもの。間に合わず延期ってことだってありかねないアニメを公開よりはるか前に完成させるなんてちょっと考えられない。

 そう思うとあり得ない話しにも思えるし、「シン・ゴジラ」にはまるでまったく出ていなかったジャニーズ事務所の岡田准一さんを主演に起用するって話もそれはちょっとないんじゃないかって気にさせる。いろいろと展開する上で手間がかかる話を呑むとはあまり思えないから。そもそもすでに「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」をDAICON FILMで作っていてそこで自らウルトラマンに変身している庵野秀明が、今さらどうして「ウルトラマン」を映画に撮るのかってところが見えない。オフィシャルにやってみたい気も想像できるけど、目の前のアニメを放り出して行くものでもないからなあ。とはいえ火のないところに煙は立たないなら、何か根っこがあるのかもしれない。様子見。

 でかいでかいでか過ぎる。シアタス調布のULTIRAスクリーンで上映されている宮崎駿監督の長編アニメーション映画「風の谷のナウシカ」を最前列のセンターに陣取って見ると、もう目の前に広がるのは腐海であり風の谷であり空中でありそして「風の谷のナウシカ」という映画の世界。包み込まれて入り込んではそこで繰り広げられているナウシカをはじめとした登場人物たちのやりとりを、いっしょになって体験しているような気持になれる。いったい「風の谷のナウシカ」を映画館で見たのは何時以来になるのか覚えてないけれど、もしかしたら1984年に劇場で公開された時に見に行って以来かもしれない。その時は劇場に安田成美のあの歌が流れていたけれど、シアタス調布ではそれはなかったのがひとつ心残りか。

 まずは鳥のような大きな生き物に乗って動く老人が現れ、巨大な黴とも菌類とも見える植物たちに埋もれた街を見せ、世界が滅びに向かっているような様を示す。それから、無尾翼機を操る少女が現れ森というには木々が不思議な形をしている場所に入って巨大な蟲の抜け殻を見つける。ナウシカ。そして王蟲。「風の谷のナウシカ」で両極に位置するキャラクターが示され、とりわけ王蟲のその巨大さとその偉大さを強く感じさせられた後、ユパという名だった老人が蟲たちに襲われ王蟲に追われているのをナウシカが助けて彼女がちょっと普通ではないことを観客たちい分からせる。合流してタイトルにもある風の谷へと戻り、父親と再会したナウシカの団らんがその夜、大きく変化する。

 谷の上に船が現れ崖に当たって墜落炎上。ひとりの少女が死んでそして何かを残しそれを狙って別の船が続々と押し寄せ風の谷を蹂躙する。急テンポだけれどそれらを一気に見せることでもうナウシカが世界の激動から逃れられないことを強く感じさせる。トルメキア。クシャナ。巨神兵。世界を変える力を持とうとした王女の思惑は、けれども都へと戻る旅程で変化し、そしてナウシカの運命を風の谷を、というより世界を救う方向へと導いていく。腐海の価値。蟲たちの意味。それを知らずすべてを人間の手に収めようとして人間を拒絶し世界を浄化しようとする動きが加速する。

 もっとも、腐海の浄化された底でアスベルが感じたように、汚れた世界のすべてを浄化しようとして広がる腐海はそこに人類との共存は見ていない。同じ汚れた存在として飲み込み消し去ろうとしているようにも見える。そんな運命に抗うべく立ち上がったクシャナたちを誰が責められよう。それに対抗したペジテの反撃も卑怯で愚劣だけれど誹れない。人間は抗うべきなのか。それともどこかに共存の道はあるのか。そんな思いをひとつ満たす可能性が押し寄せる王蟲の大群と対峙して世界を救ったナウシカの行動と、それを受け入れた王蟲の行動にあるようにも見える。その場限りの局面に過ぎないのか、共存しながら命脈を保つ道は果たしてあるのか。助かったという感動のその向こう側を改めて強く思わされるだろう。

 そんな強いメッセージ性を極上のエンターテインメントに込めて描いた「風の谷のナウシカ」を、ULTIRAスクリーンの最前列で見ると本当に世界がそこにあるよう。ナウシカの顔も大きくその胸はとてつもなく大きくその谷間は果てしなく深く見える、気がする。1984年の劇場ではまだ最前列で映画を観る癖はなく、中央付近で見守っていたからその巨大さは体感していないし、家でテレビで放送を見ればなおのこと、浴びるような体験には絶対に至らない。映画館で上映されたからこそのこの体験。そしてそんな拡張された世界を薄いと感じさせない濃密な絵、圧巻の動きを眼前で味わえる。映画はやはり映画館でこそ輝くものなのだ。

 日本の住宅200選に選ばれて評判になった住宅を設計した一級建築士がいて、それを看板にいろいろと仕事も求められるようになったけれど、その住宅を見て見たいからと訪ねた希望者が見ると誰も住んでいるようには見えない。家族で移り住むはずだったのにおかしいと思った一級建築士は、やはり見ておくかと行ったら確かに誰も住んでいなく、そもそも住んだ気配すらなく中にブルーノ・タウトの作ったものらしい椅子が残されていた。横山秀夫さんの新刊「ノースライト」(新潮社)のそんなサマリーを聞いてこれは世田谷みたいな一家惨殺の上に行方不明にされたのか? なんて話を思い浮かべたけれど、そうではなくって別の思惑があったことが示され、意外なところに決着する。

 そうしたある意味のミステリ的展開は実は脇役で、本筋は設計士として世に出て求められたもののバブル深いで仕事を失い苦労を重ね者たちがたくさんいて、今も苦労をしていたり別の仕事をしながらやがて設計士に復活して小さな事務所で仕事をしていたりといった、人生の流転の諸相が描かれていて目下そうした事態に直面していたりする自分にずっしりと響く。腕はあるし自信もあっても世間はそれを評価しないという絶望。そこで腐らず諦めないで腕を買ってくれる人が訪れるのを待つのも手だけれど、間にこなした平凡な仕事で牙を抜かれては復帰がかなってもどこか気の抜けたものになってしまうというのも注意。そこでひとつの事態が動いて復帰への背中を押してくれた青瀬稔という主人公は幸運かも。でも事務所は崩壊しかかっていて未来がない中、それでも友人の意思をかなえようとしてコンペに臨む姿は格好いい。挫折するもの、迷うもの、今が我が世と思う者など様々な人生の岐路を生きている人が読み、迷いつつ考える基点を得られる物語、って言えるかも。


【3月5日】 そしてたどり着いた「けものフレンズ」第8話「ぺぱぷらいぶ」以来のライブステージで繰り広げられた「けものフレンズ2」でのPPPのライブは、きっと手付けのダンスだった第1期から進歩して、PPPの中の人たちによる動きをモーションキャプチャによって取り込みペンギンたちのスキンを被せてアニメーションにしただけあって、すでになり切っているメンバーのなり切りぶり+それぞれの個性も染みたものになっていたって言えるのかな。ペタペタとした感じは薄れていたけど手はちゃんと伸ばしてペンギンの羽根を再現しようとはしていたし、目線もちゃんと動いていたからそこは手がけた「ラブライブ!」なんかを手がけている会社にセガのモーションキャプチャ技術がしっかり機能したって言えそう。

 マーゲイに会えば何か進捗するっぽい前振りがどうなったか、1回観ただけではちょっとお呼びがつかなかったけれど、マーゲイに会いPPPに会うことでキュルルとサーバルちゃんとカラカルちゃんの一行に次へと向かう指針が得られたかとうと、キュルルだけがセンザンコウにアルマジロの2人組に拉致されえっちらおっちら運ばれてしまった。待ち受けているあのフレンズはいったい誰? ってところが目下の関心事。エンディングでも××××で不明だったけど見る人が見れば何のフレンズか分かるのかもしれない。まあ来週には分かるだろうからそれまでのお楽しみ。新フレンズではタヌキが出てきて狸寝入りをやってくれた。声も舞台と同じ加藤さん。お腹を叩いて欲しかったかもしれないなあ。ポン! って。

 「どろろ」はどろろの過去が明らかになって娘のころからどろろと呼ばれていたことが判明。どうしてそんな名前を付けたんだろう。両親は野盗の集団のリーダー核で村は襲わず侍だけを襲っていたけどそれが禍したのか反撃も喰らって転戦の連続。それでも体勢を立て直したところをそうやって逃げるだけの日々に倦んだ手下のいたちが裏切って、同意する仲間も引きつけお頭たちをハメて侍に殺される。かろうじて逃げ出した一家だったけれど、たとえ相手が侍であっても家族や仲間はいるもので、襲撃されて殺された過去を持っていた侍に着られて父親は死に、母親と2人で旅するどろろだったけれどやがてやっぱり行き詰まる。母親は死にどろろはひとりに。それから百鬼丸と出会うまで、どういう生活をしていたんだろうなあ。その観に秘密を隠して。

 って別に隠すほどのものでもないというか、その体つきではさすがに誰も食指を伸ばさないだろうけれど、中には趣味が共和国の書記長同士みたいな人もいるから分からない。百鬼丸にとってはどっちでも良いことかもしれないけれど、どろろ自身にはいろいろと恥ずかしい気持もあったんだろうなあ。そうした意識がどんどんと肉体を取り戻していく百鬼丸の前で濃くなっていった果て、どんな態度を見せるようになるのか。同時に成長なんかもあってどろろに次のフェーズが訪れるのか。原作漫画がどこかバサッと終わってしまっている節があるだけに、苦労したどろろにはハッピーエンドを迎えて欲しいもの。そのためには胸と背丈をもうちょっと。あの上着では隠せなくなってもそこはやっぱり。

 レジェンドノベルスから刊行の原雷太さん「世界を救うまで俺は種族を変えても甦る 1 トライ・リ・トライ」がちょっと凄い。異世界転生スライムから始めて俺TUEEEEかと思ったらエッジオブトゥモロウ、世界を救うポイント探して繰り返す戦いの終着を想像させる物語だった。興味を削ぐから詳細は避けるとして、異世界へと転移だかした人物がいて最初はスライムみたいな状態から、ナビという世話人の言葉に従ってさいころを振って出た目の数をステイタスに割り当てる。力に振ってオークとなってダンジョンを探索してモンスターを倒してレベルをどんどんと上げていった先、とある町まで出向いてそこで邪険にされているエルフを見て助けようと近づいたら相手はオークが大嫌いなエルフだったため激しく攻撃してきた。そして……。

 ってところからエッジオブトゥモロウなんだけれどそうやって次は上手くやってドワーフの鍛治師で美人の女性と知り合い良い仲になって彼女が求める種火をとるべく冒険の旅に出てそして巨大な敵が現れそこで……となって次だ次だとなりながらもどうしても世界に平穏は訪れないだったらとまさしく「種族を変えて」挑む新たな冒険が、今はどこに帰結するかが分からない。ただ、オークとドワーフだけでは絶対に避けられない滅びをエルフも混ぜることで救えるのか、それともまた別のやり方があってそこにたどり着くまでの何度も種族を変えるのか。そんなパズルのようなゲームでベストのルートを探るような物語を楽しめそう。1度の成功体験を次に帰るのは難しいけれど、それで行き詰まるなら新たな道に進むしかない、って意識を感じさせてくれる。まさに今の自分の心境。でも失敗しても甦られないのが人生だからなあ。難しい悩ましい。

 これはやっぱり警察に法律の判断を委ねるのは恐ろしいなあと思わざるを得なかった、ブラクラへのリンクを張っただけの少年が補導されてしまったとう件。確かに迷惑だけれどブラクラを開いたPCがハッキングされる訳でもなければデータが破壊される訳ではない。そっとタブを閉じれば消えるといった話しもあるイタズラを、サイバー事件の代表格のように取り扱っては被害がどれほどあるとも言えない一件で少年を補導するという、司法コスト的にどうなんだ的対応に至らしめたのはいったい誰の判断なんだろう。そうすることによって日本に俺らサイバーコップだ最高だって言えると思ったのなら逆効果。判断させた側にやっぱりちょっと至らないところがあったと思えてくる。とはいえ世間ではネットからのコンテンツ入手において新たな犯罪要件を作り出そうとしている。司法コストや世間体からそれで逮捕はない、って言いたかったけれども今回の一件が可能性を可視化させてしまった。ややこしいことになりそうだなあ。


【3月4日】 そして東京藝術大学大学院映像学科アニメーション専攻会い十期生修了制作展のユーロスペースでの上映に登壇した「少女革命ウテナ」や「廻るピングドラム」の幾原邦彦監督によるトークイベント。いずれも大学院生の女性2人の聞き手と女性1人の司会による進行で始まった中身は、4月からフジテレビ系のノイタミナ枠で放送となろ「さらざんまい」のPVが流れて浅草方面がいっぱい写し出されて、そういうアニメなんだろうと想像させつつどういう内容なんだろうと興味を誘う。ってかそもそもどうして浅草? ってのはトークの中でも出た話、でいずれ「ローカルを舞台にしようとして煮詰める中で、浅草になった」とのこと。浅草の地を見てこれだと感じたらしい。「隅田川の流れを見ていてスカイツリーも見えて雷門もある」ような光景に何か惹かれたらしい。

 キャラクターデザインに起用されたミギーさんは桜庭一樹さん「荒野の恋」のイラストなんかを手がけている人で、僕が文庫版の解説をした張間ミカさん「楽園まで」とそれから「星をさがして」でもイラストなんかを手がけてた。その意味ではもうベテランの域に入る人だけれども、学生さんがそういった具合に感じた懐かしさが、大人の感覚ではそうではないと幾原監督が話していたのが印象的だった。10年なんて自分の中ではあっという間。それ故にずっと引きずりがちになるんだけれど、そこでこだわっていては失敗するし、受け入れられないというのがトークイベントでの白眉とも言える発言だった。

 「10年経つと代替わりがあって、自分の話が通じなくなる。共感性を得るには自分が意識しないといけない」。幾原監督のこの言葉は、「少女革命ウテナ」から「廻るピングドラム」まで大きく開いてしまった背景に、自分の立てた企画が世代とのギャップを読んで受け入れられず、通らない経験を何度もしたことがあった敬意から、抱くようになったものあらしい。とはいえ、世代に合わせて譲ってもコアな部分は自分がそうだと思ったら卓袱台だってひっくり返す。「廻るピングドラム」も最初はSFでロボットアニメだったものが日本を舞台に、動物園ものにしようと思ったけれど日毬のペンギン帽子のインパクトをとって、他の動物は出さないことになったらしい。

 そうしたちゃぶ台返しも始終あるから企画が企画として決定し、制作が動き出すまでがとても大変。だから幾原監督は「粘り強くやる。企画は三歩進んで二歩下がる 。積み上げたものの大部分は捨てる。その徒労感に耐えられないといけない」と諭してた。途中まで一緒にやって来たスタッフもそれで怒って辞めてしまうか、次の仕事が入っていて抜けていく。それは仕方が無い琴だけれど、監督だけは諦めない。「トラブルを恐れていたら作れない」。そんな意識が「ユリ熊嵐」や「さらざんまい」のような独特な世界観、独特なビジュアル、独特なストーリーのアニメーションを生むのだろう。

 「若い時は時間が無限にあった。けれども結婚して子供が出来れば家にお金を入れるのが重要になる。それに昔は違っただろうといえば壊れる」。自分の意識に周囲が付いてきてくれると思ってはいけない。「タスクは絶えず変化する。前にやれたことがやれなくなる」。だから新しい人たちをやれることをやるようになる。そして「ジェネレーションが離れると通用しない。俺がズレていると覚する」大切さも話していた幾原邦彦監督。時代を読んで状況に合わせる柔軟さは持ってきたようだ。とはいえ、その時のトレンディなクリエイターなり状況に乗っかる是非について、有名漫画家の求められての起用など「してくれとは言われるが避ける」ということだった。

 それは「 物を作る主体が外になる」から。「有名漫画家がバリューとなって通った企画はは揺さぶられる」。誰にってやっぱり権利を持っている人たちなんだろうなあ。そうした声に左右されて企画が曲がるなら、最初から自分がこれと思ったクリエイターと組んで作る。さいとうちほさんも星野リリィさんも丸丸さんもそしてミギーさんも。そうした組み合わせが尖った空気を生むのだろう。「10年後を見たいと思えるものがいい 」。それには「見ている人とテーマを共有できるか」が大事。「バズってる事だけでやれば消費されてしまう。今を共有できることを中心にして作れば10年後に見てもそうだと思える」。だからどの作品もなるほど、古びてないなんだろう。そんな幾原邦彦監督の言葉をもっぱら引き出していた質問者は東京藝大院アニメーション専攻1年次生の石館波子さん。なんと「ペンギン・ハイウェイ」とか「台風のノルダ」とかで原画やられてたプロだった。1年次作品の「Pupa」は部屋から動けないOLっぽい女性の日々が生活感も含めて描かれた必見の1作。機会があれば是非。

 白鳥アンジュの引退からのデザイナー生きを支援しつつ新しいプリチャンアイドルを見つけ出そうと画策するデザイナーズ7の中にあってマジカル・レーンこと一色カレンだけはどうも反対の立場らしく、アンジュさんの気持を尊重したいけど黙ってもいられずモヤモヤしていた桃山みらいのところに出向いて説得し、すでに本戦行きを決めていたMeltic Starに続いてMiracle Kiratsの方も本戦行き。そこでどんな戦いが繰り広げられて、それを見て白鳥アンジュがどんな決断をするかがこれからの話数、シーズン1のクライマックスってことになるんだろう。次からプリチャンという概念もなくあんるみたいで、どういう段取りでアニメを進めるかが気になる所。ってことはプリチャンアイドル決めても意味なくない? そこも含めて3月4月の「キラッとプリ☆チャン」に注目だ。

 新宿での第1回から見ているAMDアワードも取材で行くのは今年が最後になるのかなあ。24回も続いているんだからその間に偉くなってメディアの責任者になって審査員席に座っていたって不思議はなかったかもしれないけれど、新聞っていうガタイの大きな場所でマルチメディアとかデジタルコンテンツとかいったものを専門に扱う部署とかなく、それを専門にしていても人事的に浮かばれることもないので偉くならずに平記者のまま取材をし続けていたらそのままサヨウナラといった状況になった次第。まさに瞬であり金のなる木であり時代の中心でもあるITだとかデジタルだとかを専門に見ないんじゃあ、どうなるかは想像もつきそうだけれど案の定というか。まあ仕方が無い、それも運命なら受け入れて来年は遠巻きに受賞が何かを眺めよう。

 今回は第22回文化庁メディア芸術祭にのエンターテインメント部門大賞に続いて「チコちゃんに叱られる!」が大賞/総務大臣賞を獲得。単純に面白いテレビ番組ってことだけでなく、着ぐるみのチコちゃんにCGで表情を重ねてあたかもCGキャラクターが俳優やタレントたちと共存しているように見せるNHKアーツの技術が冴えわたって受賞となった模様。顔とか別に重なっている感じがなしに自然に変化するからなあ。そこが凄い。もちろん番組のフォーマットの面白さも評価の対象で、日常の疑問を皆で考え、叱咤を受けて改めて深く知るってことができる。教育にも良く心にも楽しいんじゃあ、そりゃあ人気も出るよなあ。AMD理事長賞はDA PUNPの「U.S.A.」が受賞。目の前でダンス見られた。「カメラを止めるな!」が受賞するかとも思ったけど今回は優秀賞止まり。でも2館から始まった映画がここでも受賞ってことはやっぱり凄い。次の映画がますます楽しみになって来た。


【3月3日】  割り切れなくても決着を付けての離別だったら受け入れて、受け止めてそして飲み込んで次へと歩み出せるものなのかもしれないけれど、遠くから眺めて自分自身の決着にはできなかった離別はしばらく引きずって、次の決着まで気持を漂わせるものなのかもしれないと、佐野徹夜さんの「君は月夜に光り輝く+Fragments」(メディアワークス文庫)を読んで思う。不治の病の発光病で余命ゼロの渡良瀬まみずがノートに綴ったやってみたいことを代行し、やりまくってやりきって離別を迎えた岡田卓也とまみずとの存命名頃の交流を描きつつ、卓也の友人でまみずのことが初恋だったという香山彰のことが浮かび上がってそして「ユーリと声」という短編というか中編で、卓也のようにまみずを見送れなかった香山の漂う日々が綴られる。

 女性にモテる香山は一浪して入った大学でも女性と関係を持ちまくるもののどこか虚ろで退学してしまおうかとも思っていた、そんなある日に大学でピアノを弾いていた年上の女性と出会う。市山有李という名の女性はピアノ教室で教えながら家でアナログレコードのレンタル業もしているという不思議な人。その侑李に惹かれたか気になったか香山は彼女と交流し、家にも入り込んで関係を持ったら何と結婚していた過去があって声という名の娘がいた。醒めた娘で香山に寝たのかとお聞くくらい。とはいえ嫌われている節はなく夜中に徘徊する癖がある声と会い、やがて侑李が無茶苦茶な行動に出た時には家出した声といっしょに日本中を旅して歩く。

 発光病で死んだという侑李の夫で声の父。聞いて香山に浮かぶまみずの思い出。だからあるいはと侑李に告白したら彼女は彼女でいろいろと関係が広がっていて自分は選んでもらえない。それもまた虚ろな話しになりそうだけれど、そういった離別を経ることでもしかしたら香山はまみずへのもやもやとした思いを振り切って、改めて自分という存在を確認して生きていこうと決意する。すでにまみずの死を経て自分は生きようと決意し、医大を出て研修医になった卓也の独白が綴られた短編「海を抱きしめて」で終わる『君は月夜に光り輝く+Fragments」。読めば離別との決着、死への覚悟、曖昧で虚ろな自分から戻る意思なんかを得られるんじゃなかろーか。

 やっぱり明け方に目が冴えて、ネット上で求人とか見たりしても50歳を過ぎたような人間を普通に雇ってくれそうなところはあまりなく、流行りのウエブ系メディアも居並ぶ人たちのキャリアの華々しさに自分などの守備範囲ではとても及ばないなあと沈み込む。20年くらい前に刊行の発表会を取材に行った日本版「ワイヤード」を立ち上げたコバヘンこと小林弘人さんとか、今は「ビジネスインサイダージャパン」って経済系のニュースメディアを立ち上げ運営している感じで、産業で経済なはずなのに韓国で中国に傾いてしまった新聞よりもよほど経済ジャーナリズムしている感じでちょっと惹かれる。

 もっとも、ITにしろライフスタイルにしろエコノミーにしろ大手メディアで活躍した人たちとか、外国に留学経験がある人とかが集まり作っている場所に、自分程度が入り込んで何か仕事をするような余地なんてまるでなさそう。それなりに取材はしていても、本業では経済でも文化でもない場所から余技のようにVRでありアニメでありマンガでありeスポーツであり玩具について書いていた程度で、深い取材なんてしていない。これは個人的だから誰よりも得意ではあるけれど、ライトノベルではちょっと反意が狭すぎる。まさに及び出ないといったところで、やっぱりこれは地味にライター仕事をおらいながら、せめて家賃分くらいは埋めつつ掴み金と貯金を食いつぶして還暦まで生きるしか今は選択肢がなさそう。やれやれだ。

 そういえばそんな産業で経済の新聞が、台湾の眼鏡っ娘総統こと蔡英文にインタビューをしていて、台湾側の主張を紹介していてそれはそれでひとつのジャーナリズムではあるけれど、それを伝えることに対するリアクションをどこまで考えているのがひとつ気になるところで、より独立を訴え中華人民共和国の脅威を訴え日本も含めて対抗していこうと訴えた蔡英文総統の主張、それは極めて台湾の立場に立ったものであるけれど、ここで対抗相手にされている中華自民共和国にとっては過激な意見でそのまま看過できるものではないだろう。

 だから、いずれ中国本土でいろいろとリアクションが出てくるだろうし、掲載した新聞に対しても排除とかやっぱりいろいろと対応がありそう。もちろん、排除される可能性があっても、誰かの主張があるなら載せるのはジャーナリズムとしては正しい。正しいけれど政治であり外交としてそうした主張が是か否かは別の話。今の安倍政権にとって是なら歓待されるけれど、そうでない場合には中国のみならず日本からもリアクションが向かう可能性があると、元外交官の天木直人さんも指摘している。本意を示す鉄砲玉として動いたのか、政治や外交とか無関係に媒体としての“価値”を優先したのか。今の実情を考えるなら、ここで目立ちたいと後先考えないで「台湾の蔡英文総統に因タブーしてみた!」と突っ込んでいった可能性もあるからなあ。さてもどうなる。中国外交部の会見にドキドキ。華春瑩報道官も眼鏡をかければ良いのに。

 3月末で希望という名の退職街道に乗って新聞記者業を放り出されて、4月から無職になる関係で、再就職の活動なんかで必要になるか分からないこともあって、とりあえつあつらえておくかと越谷レイクタウンのアウトレットまで出向いてスーツを物色。パーフェクトなんとかみたいなスーツ専門店もあって安かったけれども素材がウールとポリエステルの半々だったりして、それも現代的ではあるんだけれどやっぱり昔ながらの素材が良いとダーバンに入っていろいろ見て回ってAB−6サイズのチャコールグレーのプレーンなスーツを購入する。3万5000円は切ってたかな。

 驚いたのは88センチのウエストのパンツがほぼほぼ直し無しで収まったことで、尻とか腿とかデカくはなっていても、そこまでウエストが肥大しているとは思ってなかっただけにちょっとショック。昔はA−5のウエスト76センチが入ったのに。痩せよう。今の食の進まなさ具合だと1カ月で10キログラムは落ちそうだけれど。裾直しもアウトレット内で行えて1時間半くらいですんで1000円だから安いし早い。これならもう1着くらいあつらえておいても良いかもしれないんで、柄は選べないけれども素材は良さそうな銀座山形屋のアウトレットを今度のぞこうか。ってそもそもスーツが必要な局面が来るのか。この歳で再就職の声なんてかかりそうもないからなあ。派遣でも契約でもそんなにお金はいらないから楽しいジャンルの仕事が来れば乗るけど、そんな声がけもまるでないし。割増退職金と貯金で12年食いつないで目指せ年金生活か。それもまた人生。

 前に馬車道でも見た東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了制作展が東京のユーロスペースに回ってきたので幾原邦彦監督のトークイベント付きで見る。トークの詳細は後日としてとりあえず企画がなかなか通らなかった時期があってやっぱり独りよがりではだめで、共感性を獲得していかなくてはダメだと考える様になったって離してた。それで作られたのが「廻るピングドラム」であり「ユリ熊嵐」というところが凄いけど。修了作品ではしばたたかひろさん「何度でも忘れよう」の問題性とキヤマミズキさん「くじらの湯」の映像性が際立っていたかなあ。「何度でも忘れよう」の童話風なビジュアルで繰り広げられる残酷描写にある種の暴力性を見た。「くじらの湯」は後で原画の残らない老いペインティングの一過性に芸術の花火を見た。他にも多々ある希有な作品。「何度でも忘れよう」のボツ原画が売っていたけどやっぱり買っておいた方が良いかなあ。


【3月2日】 「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章 新星篇」についてはやっぱり悲壮感が足りないとか感動後の蛇足とかいろいろと言われているけれども、あそこまで悲惨で感涙にむせた「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」が既にあるならリメイクで同じものをカバーしたって得られる感動に変わりはなく、驚きだて得られない。あるいはテレビシリーズの方をカバーしたらそれはそれで違うだろうって話しになる中で、福井晴敏さんは浮かぶメッセージというものを考え間を取ったようなというか、そこからさらに突き抜けてくるエンディングを提示してくれたって思っている。映画の感動が得たかったら映画を観れば良いし、テレビ版の驚きを得たかったらそっちを観よう。これはこれでもうひとつの解釈。大事なのはそれが好きか、嫌いかだ。

 僕は好きな方。徳川機関長は残念だったし土方艦長は巻き添え感も強くてあっさり風味だったけれどもその逝き際が逆に自然でそうやって人はいなくなるんだなあと感じた。それは斉藤始も同様で、クラウス・キーマンとともに突っ込んでいく中で散々っぱら撃ちまくっていたのが突然途絶えてキーマンが見ると息絶えていた。戦場での死とはかくも劇的とはほど遠い当然の流れの中で訪れる。それを思えば加藤三郎の流れ弾からの退場も桂木透子の所在を見定められての排除もまだ、意味性を帯びて劇的だったかもしれない。いずれにしてもそのシーンにおいて不可欠の退場。だから半ば『超時空要塞マクロス』の柿崎みたいに爆圧の中で圧壊した山本玲の退場があっさり過ぎると思っていたら……。そういうバランスが取られていたのかと後になって考えた。もちろんアンダーアーマー力(あんだーあーまー・ちから)というものの存在にも思い至ったけれど。テレサすら認める力とは。今度着よう。

 そうやって多々、退場していった中でどうしてメインの2人だけは、って話しになるともちろんプロデュース側からの要望もあったんだろうけれど、そこを退場させてしまってまったく同じ流れを描いては新しく作る意味がないっていうのは先に挙げた理由のひとつ。そのためにどういった理屈を整えるのかといったところで、2人がというかもっぱら古代進という人間がどういう理屈で動き、何を成してきたかを紹介することによって約束を守る大切さ、何かを決断する大変さといったものを感じさせ、それらを一身に負った存在に自分は、世界はどう対峙すべきかを考えさせるきっかけを与えてくれた。ならば生かすとなった時、その生かし方を完全なる彼岸からの帰還ではなく曖昧な中からの再生として、他の面々との違いを持たせた。そりゃあ誰も彼も甦って欲しかったけれど、それをやってしまってはおっすおら悟空になてしまう。リアルな世界観の中、要求に応えそれに意味を持たせメッセージももらえる解を描いたスタッフに喝采。次はやっぱり生き残ったデスラーとの決戦になるのかな、ってやっぱり考えちゃうよねこの続き。藪が艦長になってたりして。

 「この世界の片隅に」が他の映画祭で受賞しまくっている中で、新海誠監督の「君の名は。」に最優秀アニメーション映画賞を授与しただけあって日本アカデミー賞は興行も含めての王道を行く感じ。今回はいろいろ言われながらも30億円近くを稼ぎ、アメリカの本家アカデミー賞にもノミネートされた細田守監督の「未来のミライ」を選定。やっぱりだとか東宝だからとか言われそうだけれど、インディペンデントな所から始めて本命中の本命と見なされる立場に10年くらいで来てしまったことが不思議であって、今も変わらない作品作りを大きな映画会社で行っているだけと考えるなら、その作品性から授賞に至ったことをむしろ讃えるべきだろー。まあでも5本中4本ってのは確率高すぎで、その時の他の可能性にも審査員は目を配って欲しい気が。そこはだから毎日映画コンクールとかがカバーしてくれているから良いのかな。今年は長編アニメーション映画が目白押しだけに激戦が予想されよそう。新海誠監督に原恵一監督に湯浅政明監督だもの。凄まじく素晴らしい“戦い”が繰り広げられることを期待。

 やれるだろうことは想像が付くけれど、実際にやるとなるととてつもなく大変なことを、必要だからとやってしまって、それで大成功してしまうんだからアメリカという国、ハリウッドという世界はやっぱりエンターテインメントを未来へと繋げている。アカデミー賞の長編アニメーション映画賞を受賞したばかりの「スパイダーマン:スパイダーバース」が日本でもいよいよ3月8日から公開されて、それより早くIMAXでの3D上映がスタートしたんでTOHOシネマズ日比谷へ。最前に陣取って見たそれは予告編なんかから伺える展開とか関係性とはまるで違っていろいろなスパイダーマンが現れてはひとつの目的に向かって突き進むという、ある種戦隊ヒーロー的な楽しみ方が出来た。

 基本線となるのはマイルズという警察官の父親がいて何か格好良さげなことをしているおじさんがいて、自分としてはおじさんみたいなアウトローへのシンパシーがありつつもエリート校へと転校をして腐ってた。そこでおじさんと一緒にグラフィティを描きに行った場所で放射線を帯びた蜘蛛に噛まれてスパイダーマンへ。つまりは定番の筋書きなんだけれどもその世界にはすでにピーター・パーカーことスパイダーマンがいて活躍してた。けれどもキングピンという時空をつなげて最愛の妻と子供を甦らせようと画策する男の謀略を止めようとして死亡。そんなマイルズの前に死んだはずのピーター・パーカーが現れた。老けた顔で。腹を出して。

 キングピンが作り出した装置によって時空に歪みが生じて別の世界のスパイダーマンが呼び寄せられてしまったみたい。それも何人も。元いた世界に返すには死んだピーター・パーカーから渡されたデバイスを使って装置を止めなくてはならない。そのために動き出すスパイダーマン軍団だけれど参加して間もないマイルズは力が足りず、除外されようとして落ち込む。そして考え頑張って復帰していく成長の物語が、2時間ほどの映画の中でしっかりと描かれる。出会いもあればいくつかの離別もあってそして自分を奮い立たせるというストーリーに、惹かれない子ども達はいないだろうし大人たちだって改めて、自分がすべきことってものを思い出す。そんな物語だ。

 それだけなら実写で作っても変わらないけどこの「スパイダーマン:スパイダーバース」がアニメーションとして作られたのには意味がある。マイルズをはじめピーター・B・パーカーやグウェン・ステイシーといったスパイダーマンにスパイダーウーマンたちの描写がそれぞれの“世界観”にマッチしたテイストの絵柄になっている。マイルズはそれこそコミックの「スパイダーマン」から出てきた感じでピーター・B・パーカーもそれに近いけどグウェンはの方ちょっとピクサー的ディズニー的3DCGに近い造形。ほかにアニメとしか言い様がないテイスト、古いモノクロ時代のリキテンシュタイン的コミックから出てきた様なテイスト、完全にカートゥーンの中の動物が擬人化したようなテイストでもって描かれている.

 それらが同じマイルズの世界に混在して動き喋り戦うといった映像を、作っている人たちはいったいどうやってモデリングして配置して撮影したんだろう。骨組みだけ並べて動かせばあとはそれぞれのキャラクターに必要なスキンがレンダリングされ被せられるなんてことはないだろうから、場面において登場しているキャラクターごとにモデリングされたものを置いて動かしていったってことなんだろう。実写ではこれは不可能な絵面。漫画だったら手塚治虫調とさいとうたかお調と大友克洋調を混在させて描けないこともないだろうけど、画力がいるし見てやっぱり違和感を覚えそう。「スパイダーマン:スパイダーバース」はそうした混在がけれども画面の中で違和感なく見えるところに凄みを感じる。試行錯誤があったんだろうなあ。物語は一応の完結は見せたけれども行き来するような展開も可能だろうから続編でマイルズがグウェンの世界に行くとか見て見たいかも。どうだろう。

 どことは言わない新聞社でいろいろと動きが。ひとつは解禁された春の新卒採用合戦で2020年3月入社の学生を確保するのを止めるという話しで、もうひとつが北関東から甲信越へと届ける新聞を自前では刷らなくして別の新聞社に刷ってもらうという話し。後の方に関しては、ピーク時からグッと減ってしまった部数に対して設備が過剰になってしまった上に、ピーク時に建ててから随分とたって設備の更新が必要になっていて、建て替えても設備が余剰なら閉めて委託すれば良いってことになったって読める。メーカーだったらあり得る話し。ってか今時のメーカーは生産をアウトソーシングして受注に合わせてやりくりするようになっている。

 それで経費的な帳尻は合うけど、売っているものが極力鮮度の高い内に送らなければ無意味になってしまう新聞とう商品で、他の新聞社が自分たちの新聞を刷る前に刷ってもらうことによって遅い時間帯の情報が入らなくなってしまわないかって想像は浮かぶ。確実に商品性が落ちる訳だから。なおかつ巷間、情報が出回っているように関東や近畿から離れた場所の拠点を減らすことによって得られる情報は減って、それで商品力も下がってやっぱり読者に繋がるんじゃないかって想像も。結果、部数が減ってもう読売ですら刷るに値しないとなったら、刷れず届けられず売るに売れない状況が来てしまう。そんな可能性も伺える。

 もはや紙の新聞を刷って届けるなんて面倒は止めて、電子版を売るのだってことも視野には入っているんだろうし、それはネット時代において半ば当然の流れではあるんだけれど、地方からの情報がぐっと減りそうな状況の中、独特なオピニオンだけが突出して一般的なニュースが足りない媒体を、果たして電子版といはいえ購読してくれるのだろうか。だったらもはやオピニオンだけの雑誌になれば良いんじゃないか、って話しにもなりそう。そこも過当競争な上に同じ筆者がひしめき合っているからなあ。定期採用を見送り現場で情報をかき集めて全体の厚みを増す要員を削り、契約によってキャッチーな記事を作成できる要員と、それを束ねられるキュレーターを雇ってそれで紙面というか画面を作ろうとしているようにも見えるし、いよいよ激動が始まるのかも。どうなることか。知らんけど。


【3月1日】 キャストが発表になって、そして始まるNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」アニメーション編のモデル探し。女性ながらアニメーターとして日本の商業アニメーション草創期から活躍した奥山玲子さんがモデルらしいと確定はしたものの、北海道編ではアニメーション関係者が出ないため、誰が誰をモデルにした役なのかが分からなかった。今回はそこが具体化。例えば「抜群の画力で入社したなつの後輩アニメーター。好きなことについて話すと止まらない情熱的な性格」というのは、誰がどう考えても宮崎駿監督だろう。演じるのは染谷将太さんで役名は神地航也。アナグラム? なってないか。

 貫地谷しほりあん演じる「まこ」はそういうニックネームが付けられていることから「わこ」さんこと中村和子さんだと想像できる。こちらも美人アニメーターで後に虫プロの偉い人と結婚をして、そして乗ってた車を大塚康生さんが借りだしてはクラッシュして壊してしまった関係で、「W3」のオープニングをやってもらったって伝説があったりする。映像化されるかなあ。そして井浦新さん演じる「東洋動画アニメーターのリーダー、日本初の長編アニメーションの作画監督として活躍」した仲努は、やっぱり森康二さんだろう。キャラクターを描かせても抜群。東映アニメーションの礎を築いた。

 「東洋動画所属の監督見習い。絵は描けないが、アニメの知識は人一倍多」いという中川大志あん演じる坂場一久はもちろん高畑勲監督だろう。あそこまで狷介なキャラクターになるかは不明だけど。麒麟の川島明さんが演じる下山克己は「元警察官という異色の経歴を持つアニメーター」だから、アニメーターになる前は麻薬取締事務所にいた大塚康生さんかな。他にも東映を仕切った大川博を角野泰造さんが演じたり、森康二と並んで東映アニメーション初期を支えた大工原章を木下ほうかさんが演じるみたい。他に何人かいる女性キャストの元ネタは、番組を見ながら探っていくことにするか。

 ブームなんだなあ、「チコちゃんに叱られる!」。メディアアートやデジタルエンターテインメント、アニメーション、マンガといったメディア芸術を表彰する第22回文化庁メディア芸術祭の受賞作が3月1日に発表されたんだけれど、去年は「人喰いの大鷲トリコ」が受賞したエンターテインメント部門を、今年はNHKのテレビ番組「チコちゃんに叱られる!」が受賞。ただのテレビ番組じゃん、って言われそうだけれども番組を見ている人なら分かるように、着グルに重ね合わせたCGでもってチコちゃんの表情をガンガン変えるあの演出が、技術をむだ遣いして面白いものを作ろうとするエンターテインメントの心意気に合致していたってことらしい。

 マンガ部門大賞はは韓国のBoichiさんがヤングマガジンに連載した「ORIGIN」が受賞。気にはとめていなかったけれど、紹介された画像は木城ゆきとさんの「銃夢」をさらに細かくしたような感じで緻密で、日本の漫画ファンをうならせていただけに今回の受賞も納得のいくものかもしれない。興味深かったのは、Boichiさんが、モーニングを創刊した伝説的なマンガ編集者の栗原良幸さんから伝わるわる、壮大なストーリーに込められた気持ちの大切さを担当編集者経由で受け継ぎ、実践したことが受賞につながったと紹介したこと。そうやって受け継がれていく思いは国境を越えて世界の漫画を買えていく、のかもしれない。

 エンターテインメント部門の優秀賞にはパフォーマンス「Perfume×Technology presents ”Reframe”」、アプリケーション『TikTok』が受賞していて、このうち「Perfume×Technology」に 真鍋大度さんや石橋素さん、MIKIKさんのチームはアート部門でもダンスインスタレーション「discrete figures」で優秀賞を獲得してた。同じ回に同じチームが2つの部門に入ったのはこれが初。エンターテインメントかアートかを考えずどちらもで楽しませるものを作っていたかったらしいチームにとっては、両部門での評価がひとつの答えってことになるのかな。

 アニメーション部門はフランスとスペインで活動するアーティストのボリス・ラベ監督による短編アニメーション「La chute」が大賞。ループしていく映像がなかなかにアニメーション的。優秀賞は優れた作品が名連綴手、フランスから応募のセバスチャン・ローデンバック監督による「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」があり樋口真嗣総監督によるテレビアニメ「ひそねとまそたん」があり石田祐康監督の劇場アニメーション映画「ペンギン・ハイウェイ」、高坂希太郎監督の「若おかみは小学生!」があってと2018年の話題作が並んだ。「宇宙よりも遠い場所」とか「リズと青い鳥」は審査委員会推薦作品に。見里朝希さん「マイリトルゴート」もそっちに入ってて賞総なめな実力を発揮してた。展示会は日本科学未来館に映るけど、場所ならではの演出はあるのかな。上映とかはユナイテッドシネマお台場を使うのかな。今年はお客で観に行こう。お客でしかあり得なさそうだし。

 観終わって思ったことは「アンダーアーマー力(あんだーあーまー・ちから)」は最強だってことか。身にまとえば爆発だって何のその。そういう意図があったかどうかは知らないし、キャラクターとしてそういう役回りを最初から帯びていたのかもしれないけれど、加藤三郎らの散華を目の当たりにしてしまうとやっぱり気になってしまうのだった。でも他の散り際の引っ張った感じからすればあっさりだったから、そこは何か意図してのその場での退場だったのかもしれない。あるいは光に飲み込まれただけで加藤三郎は無事かもって思っていたけどそれはなかったか。徳川機関長は「さらば」といっしょだったなあ。何もかも皆懐かしい。そんな「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章 新星篇」。桂木透子さん頑張った。でもあっさり。そこは悲しかったなあ。

 もしもあそこでミルが無事だったら宇宙はどうなっていただろう。ズォーダーはガトランティスを皆殺しにして自分も宇宙もろとも散ろうなんて思わなかったかもしれない。共に共存できる宇宙生命体であり得ただろうか。とはいえ生殖ではなくクローンで続いていくだけの種族と相容れるのか。そこはでも生命ならば大丈夫な気もするだけに、早まったデスラーの部下たちにはせいぜい懲罰が下ると良いかもしれない。ガミラスだって最後の戦いで相当にダメージ負った訳だし。それでも共に生きのびメルダ・ディッツの久々の登場もあったしハッピーな雰囲気で終わったもののガミラスの移住は必須で、その行く先をどうするかをテレサは教えてくれてない。アクエリアス文明の残党も漂う宇宙のどこかでまた、争い事が起こったらヤマトは、古代進はどうするのか。デスラーが生きのびてしまったあたりに何か予見もありそう。「宇宙戦艦ヤマト2203」とか。「3」が大きくなっているという。これで終わらせるほど甘くはないよなあ、業界も。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


縮刷版一覧へ行く
リウイチのホームページへ戻る
riuichi@can.bekkoame.ne.jpが不安定でメールがリジェクトされる様ならwf9r-tngc@asahi-net.or.jpまたはkha02604@nifty.comまで。