Last Updated 2017/1/22
日刊リウイチ
TUNAGATTEIRUNOYO
「1998-1999年lain日記」

リウイチとは誰だ?
リウイチとは奴だ!

薄い髪に伸びた髭
趣味はアニメと女子サッカー

日刊リウイチとは
そんな胡乱な野郎の日々を
無限に綴ったページなのだ

ワーニングワーニング

(ホントはただの日記です)

◎積み上げた本の数が這々の体で1700冊に達した『積ん読パラダイス』だけど記念事業もなく、これからも地味に静かに増量方針。ライブドアブログの方で『積ん読パラダイスinBlog』なんてのも作ってみたけど誰が見ているのやら。
落ち行く世界で孤独な少女がロボットと出逢い、つかの間の交流を経てそれぞれの道を選ぶ。切なくも哀しく、そして愛おしい狩野典洋の短編アニメーション『ノアのハコ庭』に全人類よ、涙せよ。
こうの史代の漫画を片渕須直が監督した長編アニメーション映画『この世界の片隅に』が2016年11月12日に全国公開。観れば覚える圧倒的な感動を味わいに行けよ劇場へ。この辺りに個人的な感想が。
【1月22日】 テアトル新宿が「この世界の片隅に」を観ようとする人で連日満席となり、立ち見までで長蛇の列だってことも相当に話題になったけれども、決して大きくはない劇場だからすぐに満席になってしまうのもまた仕方が無いところ。単館系で他に都心部で上映されていなかった状況では、そこでしか観ることが出来ないと思いだれもがそこに駆けつけた。だから満杯になった。もう2カ月以上も昔の話だ。ところがご近所にある松竹の総本山ともいえる新宿ピカデリーで、「この世界の片隅に」の上映が始まってそいsて日曜日というかき入れ時のシアター1というもっとも大きなスクリーンが、午後の2回とも満席になるという快挙を成し遂げた。

 いったい何が起こっているかって、そりゃあ凄いことが起こっているんだけれどその凄さを過去に当てはめようとしてもおそらく例はないだろう。普通だったら単館系で2週間から1カ月公開されて、あとは全国の名画座でって言う流れになるものが、だんだんと上映館数を広げ都内にも丸の内にある東映の総本山での上映が決まってそれが1カ月以上も続いている。おまけに上映回数まで増えている。そして同じ新宿にあって客席数も多い新宿ピカデリーが公開に手を上げ、間近い封切り作品を差し置いて公開から2カ月経った作品をかける。それが満席になる。どちらも映画興行において異常な事態としか言いようがない。あるいは奇跡とも。

 それは最近になってテレビがこぞって「この世界の片隅に」について取り上げるようになったことが大きくて、あとはキネマ旬報のベストテンで1位になって片渕須直監督も受賞したこと、毎日映画コンクールでも日本映画優秀作品賞をとったことなんかが理由として挙がりそう。だから仮に公開直後に新宿ピカデリーのスクリーンで上映されていたとしても、あるいはバルト9でもTOHOシネマズ新宿でも良いけれど、大きなシネコンで上映されても口コミによるブーストが広がらず、テアトル新宿が連日満席だとか、泣く人が世代を超えて続出しているといった話しも広まらないままさっさと上映終了になっていた可能性がある。

 これが他の映画だったら、公開前にテレビなんかで取り上げられて、国民的と言われた女優が声優をつとめているって話で盛り上がってあるいはスタートダッシュをかけられて、並にのれていたかもしれないけれどそれがまったくなかったスタートで、公開規模だけ大きくても情報は行き渡らなかっただろう。小さいけれどもそこがしっかりと作品を上映し続け、作品の口コミが広がる時間を与えたからこそのムーブオーバー。その意味では上映当初を頑張ったテアトル新宿は素晴らしいし、他の封切りや初期の上映に手を上げた映画館も素晴らしい。クラウドファンディングの参加者は映画が世に出るまでを少しは支えたけれど、出た後は興行主の力もそこにあった。そういう繋がりが支えた映画って意味で、やっぱり歴史に残りそう。どこまで行くか。それが今は楽しみ。

 押井守監督の展覧会とか、加藤久仁生さんの展覧会を観に行った記憶があるから初めてではない八王子だけれど、そこにある映画館が間もなく閉館になってしまって、そんな映画館で見知った人が出ている上に現在的に重要な映画らしい「SHARING」が上映されていて、監督による舞台挨拶もあるってんではるばる遠征。途中、見かけた八王子ラーメンの店に入って食べたらこれがなかなかで、醤油系のスープに細麺が入ってタマネギもどっさりで、口にしっかりと染みつつそれでいてくどくない味わいだった。横浜家系とかとは違った感じ。というか八王子ラーメンっていうカテゴリーってそもそもあるんだろうか。また来たら他と食べ比べしてみよう。
 そして1月31日で閉館になってしまうニュー八王子シネマで篠崎誠監督の「SHARING」を観る。2011年3月11日のあの震災を語ることに資格はあるのか。そして語らずとも語れる方法はあるのか。いくつかの応えとして『シン・ゴジラ』があり『君の名は。』もあり、遠く離れた別の災厄としての太平洋戦争を語った『この世界の片隅に』もあった2016年だけれど、そんな話題作に混じってひっそりと、けれどもしっかりと上映されて今なお大勢の関心を引きつけているところに、もしかしたらこの映画が打ち出しているメッセージに響くところがあるのかもしれない。

 自分は2011年3月11日は東京にいて揺れる建物にいて机の上がぐちゃぐちゃになり、帰ったら家の中がぐちゃぐちゃになっていたけれど、それだけ。片付けて積み直してちょっとだけ電車が動かない不便は感じたけれど、数日後には普通に会社に行き、食べ寝て起きての繰り返しに戻った。テレビの向こう、雑誌の向こうで津波によって大勢が被災し命も失われ、東京電力福島第一原子力発電所が爆発して近隣の住民が避難を余儀なくされた。そうやって地元を離れた人、被災地から非難した人の少なくない人たちが直接ではない震災の影響で命を失い、あるいは命を断っている。そんなことをテレビや雑誌や新聞を通して知ってはいても、それで何か感情を揺さぶられはしても、それが誰かにとっての何かになるなんてことはない。極めてパーソナルな感情に過ぎない。

 そんな自分に、あるいはそんなような大勢の人たちにあの2011年3月11日の震災を語る資格はるのだろうか。語る意味を見出せるのだろうか。そんなの関係ない、感情が動かされたら、そして想像によって同情が出来たら、さらにはいずれ自分に降りかかるかも知れない未来だといった予想が自分を脅かすなら語って伝え、そして未来の災厄を回避することへと繋げれば良いといった考え方もできる。戦争を語るに戦争を経験していなくてはならないということはない。

 そもそも学んだ歴史学は遠い過去に起こった出来事を文献から、遺跡から考古して考え理解し教訓を得て今に伝え未来につなげる学問だ。ただ、誰の手も届かないそいうした過去ではなく、数年前、大勢が直接経験もして哀しみも得た震災を語ることはまた別なのではないか。それを勝たれる人がいるうちは自分の同情など何の意味も持たないのではないかといった葛藤も一方にはある。そんな迷う気持ちをまさしく物語にして映像にして見せてくれたのが、篠崎誠監督の「SHARING」だった。

 主人公と言えそうなのはふたり。ひとりは大学で社会心理学を教えている瑛子で、授業のかたわら2011年3月11日の震災発生以前に、災害なり事故を予見していた経験を持つ人たちにインタビューをしている。一方では冷静に、後になって得たさまざまな情報を自分の記憶と思い混んでしまって、そして自分自身が何も出来なかった歯がゆさとも合わさって予知をしていた、それを止められなかったといった意識になっているのだと考えている。ただ一方に、そういった罪悪感を自身も持っている節があるのだと後に見えてくる。

 瑛子は震災で恋人を失っていた。出張で宮城に行っていたらしい。そんな過去を引き摺りながら生きている瑛子にとって、もしかしたら予知した人たちのその言葉を、どこかで信じて伝えていれば彼を救えたのだといった後悔があるのかもしれない。それとも自分自身が予知をしていた? それはちょっと分からない。そんな雰囲気も醸し出されているけれど、どこまでが現実でどこまでが夢で、醒めてそしてまどろんでいるかが繰り返されて、まるで白昼夢の中で予知夢を見せられているような気にさせられるから。

 もうひとりのヒロインは大学生で演劇をしている薫で、卒業公演を控えて練習をしているけれどもそれが2011年3月11日の震災を演劇として演じること、その是非について薫を交えた3人が討論するような内容で、そしてそこでの男優の批判めいた見解が、やがて真実になって座は崩れて薫ひとりが取り残される。そんな薫は震災での被災者になって津波に流され波間を漂う身になる演技を繰り返し重ね考えているうちに、自分自身がそんな経験をした、あるいはそんな経験をした誰かが本当にいるかのような感覚にとらわれ夢に見る。

 真実に迫った夢に薫は瑛子にそれは真実か。それとも妄想か。学者の立場で妄想かもととらえる瑛子に真実だと反発する薫。とはいえ一方で真実かも知れない、過去につながる奇跡があって欲しいともその境遇から願う瑛子の分裂した心が彼女に涙を流させる。薫は演技をやりきって喝采を浴び、どこか憑き物が落ちたような表情。けれども電車に乗って彼女は観る。少女を。手に蝶の痣のある…。

 もしかしたらそれは願望が見せた妄想かもしれない。リアルな社会でシリアスを探求するなら、後悔と希望が見せた願望にも似たビジョンなのかもしれないけれど、そういった気持ちになってしまえるくらいに人は、2011年3月11日のことについて考え込むことができる。そういった態度をこうやって映画にすることによって、想像によって震災をイメージし、語り伝えることも可能なのではないか。そう思えてくるし、やっぱり違う、今はまだ直接の経験、直接の言葉にこそ重みがあると思うべきかといった問いかけも浮かぶ。どちらかではなく、どちらでも。いずれにしても記憶され、語られ受け継がれていくことにこそ、今は意味があるのだと思いたい。すべてが語られなくなり、ただ記録の中にだけ記されたものになってしまってから語りつつ、それをどう位置づけるかの困難さもまた歴史が証明しているのだから。

 そんな映画の公開後に篠崎誠監督と、薫を演じた樋井明日香さんが登壇してトークを繰り広げ、最後に地下場面で電車の中で薫が手に蝶の痣がある少女と出会うシーンはシートの色が同じ電車を待って何時間もホームで過ごしたって話をしてくれた。大変だったそうだけれど少女を演じた新津ちせちゃんはずっと集中力を保っていたと褒めていた。偉いなあ。そのシーンで役柄では少女の叔母さんにあたる女性が驚いていたのは薫が震災で娘を置いて流され亡くなった姪に生き写しだったから? なんて解釈をしたけど本当はどうだろう。そんな解釈を確認するためにもまた観たいなあ。閉館前にもう1度くらいニュー八王子シネマで観てこようかなあ。


【1月21日】 着座で畏まっている客席を前にいきなり前置きもなくフリージャズをぶっ放して、かちんこちんとした雰囲気をなかなか崩せずどこか舞台と客席との間に温度差も見えた「機動戦士ガンダム サンダーボルト」のサウンドを演奏する菊地成孔さんのライブだったけれど、どんな相手でも腕でねじ伏せるジャズプレーヤーたちの熱が次第に解かし始めたか、あるいはトークを挟んで客席との間にあった壁も解けたか終幕に向けてだんだんと盛り上がっていった感もあった。ただやっぱりビルボードとかブルーノートといった場所で、雰囲気も含めて聴きたかったなあという気分。前にあったそうだけれど第2シーズンも始まるそうで、それの楽曲もまとめて演奏するライブが開かれたら、今度こそチェックして観に行こう。

 何でも第2シーズンではピアニストに桑原あいさんという、ポスト上原ひろみさんとも言われる目下大注目の若手ジャズピアニストが弾いているそうで第1シーズンの大西順子さんに続く話題性抜群の起用にこれはもう1枚のジャズアルバムとして聴くべきサウンドトラックになっているのかもしれないと思ったり。というかまだ第1シーズンのを買ってなかったんで改めて聞き直すか、ブルーレイディスクは持っているんだけれど。ちなみにライブでピアノを弾いていたスガダイローさんもバークリーを出て上原ひろみさんと同期で渋さ知らズとかでも弾いていた凄い人。「戦闘中(激戦状態)用」での演奏とかもう右に左に指を動かし奏で叩くような演奏が、菊地さんのサックスと真っ向ぶつかり迫力のサウンドを作りだしていた。いずれMTVで放送されるみたいなんで見逃すな。これはカットされないよねえ。

 そんなライブを観に行った一方で、新宿ピカデリーのスクリーン1という、600席近くある箱で「マイマイ新子と千年の魔法」が上映されるという快挙には、音楽を担当した村井秀清さんとスキャットワークで魅了したMinako“Mooki”Obataさんも登壇したとか。思えば7年とか昔に公開された時は上の方の箱でそんなに大きくはなく、そして「機動戦士ガンダム サンダーボルト」のフリージャズにも増して不思議きわまりないスキャットという音楽で映画の素朴な日本の風景に明るさをリズムを与えてくれた人たちも、それほど注目はされていなかった。サントラCDも出るには出たけど、あれはクレセントスタジオという音楽を作った会社のほとんど自主制作盤に近いもの。サイン入り色紙がもらえるってんでオンラインショップで注文したら、翌日には届いたという速さから大量の注文をさばくような雰囲気にはなっていないことが窺えた。

 つまりは映画の方と同様に、売れてなかったか、売れそうにもなかった音楽だけれど、それがこうして7年を経て「この世界の片隅に」という映画の大ヒットもあって「マイマイ新子と千年の魔法」という映画とともに省みられて、音楽への関心も高まり始めている。そんな状況で今、ふたたびこうやって映画館で音楽を聴いてもらえる村井さん、Mookiさんの喜びやいかに。映画公開当時に渋谷のタワーレコードとか、東京ミッドタウンのデジタル関連グッズ販売店とかでイベントが開かれMacBookを駆使してスキャットを重ねていくMookiさんの作業とかを観たり、音楽を聴いたりして過ごしたっけ。でも取材に来ていたようなメディアはほとんど皆無。もしも今、ライブを開けばきっと大勢が観に行くだろう。やってくれないかなあ。「この世界の片隅に」のコトリンゴさんも一緒にだったらなお良いかも。そしてトリはNELLさんの「Red fraction」。活動を休止しているけれど、片渕須直音楽祭を機会に復帰とか、あったら嬉しいなあ。Mookiさんの双子のスキャットも一緒に。

 そんな間にドナルド・トランプがアメリカ合衆国の第45代大統領に就任したとかで、演説なんかも流れて来たけど、内向きに景気の良いことは言ってはいても具体的にどするか、ってあたりでやっぱり蹴躓きそう。国内で製造業を振興しても人件費が高く技術だって伴わず、コストだけ高くて品質も揃わない製品が出てきては高値で販売され、高い人件費の恩恵がまだ届かない大半の国民の誰もそれを買えないまま在庫ばかりが積み上がるという悪循環に陥りそう。かといって人件費を抑えれば今度は消費に回らない。そうしたバランスは一朝一夕では整わない。にも関わらず仕事はある、給料は上がるといった耳に聞こえの良い部分だけ訴え世間から支持を集めて大統領選に当選できたトランプは、実行の段階でさてどうしたものかと思いそう。

 でも言ったことはやってしまって消費はガタガタに。税収は下がり教育も福祉も公共事業も全部がパーになるという悪夢を、見ないためにどう経済顧問が舵取りをするかってところが今後の注目点になるんだろうなあ。TPP離脱は結構だけれど国内だけですべてをまかなえる国にはもう、なれなんいだよアメリカも。とか言って日本だって、口ばかり達者な総理大臣がいて、あれもやるこれもやると言いながら「それは嘘だ」がおまけにつくのが普通なくらいに有言不実行な状況が続いている。やってガタガタになる以前にガタガタを直そうとそもないんだからこちらも問題。でも世間受けする部分でだけ、威勢の良いことを言って支持を集めているから厄介きわまりない。トランプ大統領の威勢の良さにも感化され、同じような煽り上等のスタンスで政権運営をしていった挙げ句に共倒れとなって、そして厳しいけれどもやることはやるロシアと中国が世界を席巻、なんて未来も見えていろいろ大変そう。どうなるかなあ、世界。

 御殿山にあった時代に何度か言ってからどれくらいの年月が経ったんだろう。ソニーネットワークコミュニケーションズすなわちSo−netが今は品川シーサイドにあってそこで八谷和彦さんが所属するペットワークスが目下制作中の「PostPet VR」を体験する機会が持たれたんで金曜日にのぞきにいったらこれがなかなか良い物だった。すでに記者発表でどんな内容かは聞いていたけれども聞くとやるとでは大違い。VRヘッドマウントディスプレーを装着して見ると目の前にモモがいる。大きさはだいたい60センチくらいでこっちがしゃがむと目の高さくらいになってじっと見てくる。

 右手に追随する形になっているようで、コントローラーを持った右手を動かすとそっちを向いたりするし、離れて振ると近寄ってくる。現実の犬や猫でも可愛いのにそれがモモ。可愛くないはずがない。仮想の空間でそうしたキャラクターを愛でるって意味なら「サマーレッスン」も同様だけれど、モモっていう決してリアルではないひとつのアイコンとして存在したキャラクターがいること、それがかつて「PostPet」という電子メールソフトの上で自分の分身のように、あるいは友だちそてい存在していた思い出が、親近感を超えた愛着ってものをそこに生まれさせる。たぶんドラえもんでも同じような気分を味わうのかなあ。

 ただしモモの場合は「PostPet」というコミュニケーションの媒介になるキャラクターで、VRでもネットワークを使って自分が移動するような仕組みをこれから入れていくらしい。スマートフォンにインストールされた「PostPet」に自分がVR空間から飛んでいくとか、そこで相手がスマホを取り出し撫でると自分が撫でられている感覚を味わうとか。電子の妖精さんにもなれるし、電子の盗人にもなれる。そこにダイレクトな言葉のやりとり、あるいはLINEのような短文のぶつけ合いとも違うコミュニケーションが生まれる。キャラクターや世界を介したコミュニケーションの面白さの、次のフェーズを見せる作品。早く登場しないかなあ。

 埼玉県の戸田から始まるきゃりーぱみゅぱみゅのホールツアー初日を観る。これからの人のために詳細は明かさないけど割と聞き慣れた曲も在り最近の曲もあってそして「原宿いやほい」もあってとバリエーションに富んで楽しめる。繋ぐMCは適度であとは楽曲がみっしり。ダンサーはキャップにハットにぬいぐるみにハイヒールを全身に着けたり、カクテルのタワーを前に置いて踊るという無茶をあっさりやってのける巧みさで、スピーディーに迫力たっぷりのダンスを見せてくれた。やっぱり本物は足の筋肉がちゃんと張っててステップにキレがある。これがCGのダンスになるとやっぱり浮いてすべっている感じがしてカツッとしたキレが減じてしまうんだよなあ、ダンスを売りにしていたアニメーション映画とかもそうだった。足音をSEで入れるだけで印象も変わると思うんだけれど……。それはともあれきゃりーぱみゅぱみゅの今ツアーは面白い。今度はNHKホール、最終だからきっと熟成されたステージを見せてくれるだろう。期待して待とう。


【1月20日】 ぼつぼつと見始めている2017年1月スタートのテレビアニメーションでも多くはオープニングとか気にせず飛ばしてしまう中で、妙に気に行ってこれはCDを買おうと思ったのが幾つか。ひとつは「ACCA13区監察課」のオープニング「Shadow and Truth」で、ヒップでクールにアーバンなサウンドと澄んだ女声の歌が耳を突き刺して聞き惚れてしまい、ネットに転がっているOPなんかを何度も繰り返し聴いては耳に焼き付けている。サビに当たる部分のメロディラインも良いんだよなあ。そんなオープニングを歌っているらしい ONE III NOTESは正体不明の謎のユニット。実力は揃いっていうし聴けば分かる人もいそうだけれど僕には不明。いつか明らかにされたのに驚こう。

 もうひとつは「けものフレンズ」のオープニング「ようこそジャパリパーク」で、本編のどこか脳天気に見えてちょっとばかり奥深そうな設定を持ったストーリーへと誘いつつも、あんまり不穏なことは考えさせずにいろいろなフレンズたちが暮らしている雰囲気を楽しげに歌っている。手がけたのは大石昌良さんで、別名オーイシマサヨシとして「月刊少女野アくん」の「君じゃなきゃダメみたい」なんかを歌っていたシンガーソングライターでもある。アニサマでそういえば観たなあ、圧巻のステージを。自分で歌っても凄いのに曲を作ってもすごくて、それが全然違う感じにアニソン的でキュートなところがやっぱり凄い。「けものはいてものけものはいない」って、実にあの世界の和気藹々としたフレンズたちの雰囲気を表しているし、今のこの時代にもぐさっと突き刺さる。メインの歌詞に被る合いの手みたいのが可愛いんだけれど、この辺も編曲しながら入れているんだろうか。すごい才能。こっち系もいろいろやって欲しい。

 キングコングの西野亮廣さんが去年出した絵本「えんとつ町のプペル」をネットで公開するって言ってそれに着けた煽り上等の文言がいろいろと物議を醸しているけれど、自分で描いてないじゃんといった批判も混じっていてそれはちょっと違うかなあととりあえず思ったり。というのも前々からデザインフェスタなんかに出展していた西野さんは、自分でブースを構えてそこで前々から描いては絵本にしてきた原画を展示していて、そのとてつもなく細かい上に上手な絵でもって意外な才能の持ち主で在り、そして本気で絵本を描いているってことを世に知らしめてきた。けれどもなかなか売れないこともあって、次はクラウドファンディングを使いつつ、大勢の才能も集めて分業で作ると言って完成したのが「えんとつ町のペプル」。そこで元となる絵コンテをしっかり描いては、イメージに合った背景を描いてもらいキャラクターをブラッシュアップしてもらい彩色もらって世に出した。

 それを西野亮廣さんの名前で出している事に搾取だどうしたって声も出ていたりするけれど、レンブラントの絵画だって弟子が描いたものに師匠が手を入れレンブラントの名前で出したりしているし、漫画家だってアシスタントが背景からキャラクターから仕上げたもの顔を描き目を描きといった部分だけ手を入れて、それを自分の名前で公表している人もいたりする。浮世絵なんか絵師は元となる絵を描くだけであとは版木を掘る彫り師がいて摺る摺師がいてといった具合に分業制。そうやって出版されたものでも歌麿だ写楽だといった絵師の名前で買われているし、後生に伝わっている。クリエイティブの分業制そのものに目新しさはないと言えばなく、ことさらにそれを新しいものと喧伝する口を嫌がる人もいそうだけれど、結果としてフィニッシュした自分の名を冠した著作にすることに異論はない。参加者だってそれを招致で参加している訳だろうし。

 そうした著作者が版元と話し合った上で行った無料によるネットでの公開も、参加してくれたクリエイターの了解がいるかいらないかといった手続き面は別にして、フリー化によってアクセスを増やして商売へと結びつける流れの中で至極普通に行われていること。それをことさらに新しいことのように言い、金を払うことを厄介なことのように言うのは違う気はするものの、今時の流れを汲んだものと言えてそれ自体を非難することはできない。Amazonプライムとか映画が無料で公開されいて、それで著作者以外のスタッフへの支払いがあるかっていうとそうでもない。絵本だって同様で著作者が対価を受け取り、スタッフにそれはなくても問題ではなさそうだけれど、そうした不満が起こらないような配慮だってしているだろう。でないと背景を描いた絵師さんが喜びのツイートをする筈もない。

 デザインフェスタでひとりブース前に立ってお客さんと対話しながら買ってもらった絵本にサインをし続ける西野亮廣さんを観ているし、実際に描いた絵も見ていると才能のあるクリエイターが自分の作品を世に広めるためにさまざまな努力を行ってきて、そうやってたどりついた一つの成果をさらに多くの人に観てもらおうと炎上混じりの声を発したといった具合。知名度に頼って金に飽かせて才能を買いたたいて、それを剽窃するように自分の名前で出した挙げ句に自分だけが目立っている訳じゃないと知っているかどうかで、この一件も受け取り方が変わりそう。でもそういう説明を自らするタイプでもないから、誤解を広げたままで炎上が類焼していくんだろうなあ。まあそれも面白いかも。どこまで広がるか。見守りたい。

 「機動戦士ガンダム」どころかアニメーションは「ど根性ガエル」を子供の頃に観て以来、ずっと観ていなかったという菊地成孔さんだけれど「Lupin the Third−峰不二子という女−」でどこかシュールな雰囲気の画面やストーリーにマッチした先鋭的なジャズサウンドによるサウンドトラックを作り上げ、そして「機動戦士ガンダム サンダーボルト」ではフリージャズとオールディーズという対極的なサウンドを作曲して劇盤という形ではなくそれこそ独立しても聴ける楽曲を映像に合わせるという力技を成し遂げ、独特の世界を作り上げてしまうんだから面白い。お台場でそんな菊地さんによるライブがあったんで見物、フリージャズばりばりの楽曲なんだけれど、それが使われたシーンが思い出せるくらいにアニメーションにマッチしていたのは、そうした越境者を受け入れマッチさせる映像を作れる演出家がいたからでもあるんだろう。誰でも何でも起用してオッケーって訳じゃない。小池健さんによる「Lupin the 3RD」シリーズにおけるジェイムズ下地さんも含め、演出家と作曲家の丁々発止が楽しめる時代。次は誰が意外なアニメ音楽を作ってくるか。

 これは参った。というか腰が抜けた。とある全国紙を標榜とする新聞の題字が踊るネットに載っていた記事だけれども、そこでは「畑だけでなく釣り桟橋まで…千葉・花見川の河川敷不法占有「増えた中国人」県が放置で歯止めなく」という見出しが踊っている。そして冒頭では「『中国人の占有が増えているという実態を見た」と書いている。そこまで読めばああ、中国から来ている人たちが河川敷を勝手に使って何かやっているのかも、って思うだろう。もちろん、そうした調査を現地に行って当事者たちにただすなり、県とかが行っている調査結果を基にしているかと考えて当然だ。ところが、記事を読むと根拠になっているのは「『作っているのは中国の人が多いみたいだよ』。散歩に来ていた近所の男性(77)が教えてくれた」というコメントだけ。どこの誰とも知らない人間が、そうらしいと言ったことをもって、中国人へのネガティブな感情を惹起させる記事を書いている。

 これがヘイトでへはないと? 少なくともジャーナリズムではなく社会の木鐸だの公器だのを標榜する新聞に載せて良い類のものではない。でも乗ってしまう。その方がアクセスが稼げるから。やれやれといった呆れを通り越して、憤りすら浮かんで来る。地方の記者がこれを書いたら受けると思ってエビデンスもない記事を上げたのか、それとも河川敷の占拠という問題を書いたら、誰かがそれを中国人のせいにしたら受けると思って書き加えるなり書き加え冴えるなりしたのか。いずれにしてもこういう仕事をしていたら、将来においてとんでもない間違いをしでかしかねない。デスクとかが是正しないといけないんだけれど、率先してやらせているから直るはずもない。かくしてサイトはヘイトにまみれてアクセスは一部に突出しつつ全体では沈んでいく。その果てに。想像するのも恐ろしい。やれやれ。


【1月19日】 やっぱり不穏な雰囲気がジワジワと漂ってくる「けものフレンズ」。見た目は3DCGによって造形された可愛らしい動物少女がかばんちゃんという多分人間な子供と出会っていっしょに図書館を目指して旅に出る、っていった冒険ストーリーで道中に出会う動物の擬人化少女たちが誰も可愛くて誰も親切で優しくて頼もしい。道を教えてくれたり心配してくれたり川の中をボートみたいなのに乗せて引っ張ってくれたり。動物の世界にありがちな弱肉強食なんて存在しない。だから見ていて冒険時代は安心できる。ただ。

 世界が半ば廃墟めいているところがあってどうにも不穏。ジャパリパークっていう舞台はサバンナがありジャングルがあって砂漠もあるようだけれど、そうした自然が再現された公園は橋が流されバスは壊れてうごかない。現れたボスってキャラクターは以前からいたみたいだけれどフレンズたちとは会話しようとしなかったのが、カバンちゃんの質問には答えてしっかり案内役を務めている。それはキャストとしてのフレンズではなくゲストとしての人間を分類し、相手をするようにプログラミングされているからだって想像できる。

 けれども人間をフレンズは知らず、人間を相手にするボスをフレンズを見たことがなかったというのはつまり、人間なんてもうずいぶんと長い間、ジャパリパークに来ていなかったってことになる。滅亡したのか。そして廃墟となったのか。だったらカバンちゃんは。そんな世界のビジョンが浮かんで来るし、フレンズたちをどこか差別しているようなボスの意図にフレンズが気づいて自分たちへの疑問を抱かないのかといった不安も浮かぶ。友だちのような関係なのにそこに格差があるっていうのは、傍目に見ていてもちょっと辛い。それを自覚したらいったい。なんて不穏な予想が当たるか外れるかは今後の展開次第か。オープニングは楽しいしキャラクターは可愛いんでしばらくは気にしつつそうはならないでと願いながら見ていこう。

 日本映画大賞が最上位の賞だとするなら日本映画優秀賞は次席に当たると言えるけれども、他に「怒り」「淵に立つ」「64 ロクヨン」といった日本アカデミー賞級の実写の映画が候補に挙がっていた中で、唯一のアニメーション映画としてノミネートされていた「この世界の片隅に」が日本映画優秀賞を受賞下のはやはり快挙と言えるんじゃなかろーか。もちろんん「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」で日本映画大賞を獲得している宮崎駿監督がいるにはいるけど、この10数年はアニメーションから大賞も、そして優秀賞も出ていなかったことを考えると片渕須直監督は、ある意味で細田守監督を巻き返してポスト宮崎のトップランナーに躍り出た、ってことになる。まあずっとトップランナーではあったけど。

 そして栄えある日本映画大賞を「シン・ゴジラ」が獲得したこともちょっと凄い。特撮怪獣映画なんてカテゴリーとしては賑やかしであって本流はやっぱり重厚な映画だって意識もあっただけに、「シン・ゴジラ」が持つ映像の魅力でありテーマの強さが評価されたってことは、映画を論ずる人たちの間にも特撮だからといった見方が引っ込んで真っ当に評価する軸が定まってきたことを示していると言って良いのかどうなのか。「シン・ゴジラ」が凄すぎたってだけかもなあ。「シン・ゴジラ」からは女優助演賞を市川実日子さな受賞していた。石原さとみさんでなく早口で喋る無口なテクノクラート演技で市川さんが住所ってのが面白いというか。あれも演技と認められた判断力の広さに喝采。

 アニメーション部門では新海誠監督の「君の名は。」がアニメーション映画賞を受賞し、芸術性から判断される大藤信郎賞は「この世界の片隅に」が獲得と、それぞれの内容にマッチした賞を受けた感じ。短編アニメーションの優れた作品が脇に追いやられてしまったけれど、この2作だと何も言えないなあ、さすがに。「この世界の片隅に」は音楽賞でコトリンゴさんも獲得。日本アカデミー賞にもノミネートされていたっけ。どうなるかなあ。次はブルーリボン賞あたりで「この世界の片隅に」が何を取るかに注目。呉産のすずさんラベルのお酒はそっちまで取っておくかなあ。

 伊藤計劃のデビュー作にして近未来の地球を舞台に各所で起こる紛争の裏側を描いたSF小説「虐殺器官」が長編アニメーション映画になった。本来だったら1年以上も前の2015年秋に、伊藤計劃のオリジナル長編第2作にあたる「ハーモニー」なり、死後に円城塔が共作として関わった「屍者の帝国」なりを原作にした長編アニメーション映画と同時期に連続して公開されているはずだったけれど、制作していたマングローブが会社を畳んで制作が頓挫。これをノイタミナの編集長だった山本幸治が引き取り新たに会社を立ちあげ制作を続行。村瀬修功監督を始め当初のスタッフがそのまま引き継ぐような形で作られて続けた。

 そして公開を前に行われた試写で観た「虐殺器官」はなるほど、虐殺の文法によって世界を内戦の混沌へと叩き込んだジョン・ポールなる男を追って世界を転戦するアメリカの軍人、クラヴィス・シェバードを主人公にしたサスペンス&ミリタリー作品として原作にも負けない優れた映画になっていた。「Witch Hunter ROBIN」のキャラクターや雰囲気が好きだった身には懐かしくも嬉しい絵柄があって、そして2020年代の世界を生きる特殊部隊の軍人たちが、最高の武装で作戦を遂行していく描写を楽しむことができる。

 高高度からステルス機でポッドに乗った身を射出され、そして地表で散会したコマンドたちがそれぞれの役割を着実に果たしていく。戦争というか軍事作戦をテーマにした実写映画を見ているようなリアルでシリアスなビジョンがある上に、使われる例えば目に直接ゲージを映すような拡張現実技術なり、バイタルサインを常にモニタリングしているウェアラブル技術といった、今も想像は可能で少し先には実現しているだろうテクノロジーがそこに繰り広げられていて、きっとそうなっていくか、すでに一部はそうなっているんだろうと思わせる。

 精神をもカウンセリングによってフラットに保ち、理性も感情も抑えて相手がたとえ子供でも、銃を向けてくるなら容赦なく射殺することができる“機械”のような兵士たちもあるいは、すでに世界のそこかしこに登場しているのかもしれない。PTSDによって壊れる前に、あらかじめ壊しておけば良い。そんな非人道的とも言えそうな所業が兵士に対する人道的配慮の如くに行われる。世界はそれを許している。突きつけられる状況に理性を持ち、感情に揺れもする人間として呆然とする。

 なおかつそんなコマンドたちの繰り広げる作戦の、非道で陰惨ともいえそうな作戦行動を見ているうちに、自身の正気といったものがだんだんと揺らいでくる。というよりもはや正気とはどういう状態なのかに迷うようになる。敵なら子供でも射殺して退ける。女でも命令ならば抵抗するそぶりすら見せていないのに排除する。躊躇し憤りも生むはずのそうした行動が、けれども映画の中で繰り返されるうちに正義であり、正常なものなのかもしれないといった思いへと至らされる。

 フィクションはフィクションであって、ちゃんとした教養があれば染められることはない、それが理性ある人間だとよく言われるけれど、圧倒的なリアルさを持った映像で、作戦上の必然として繰り広げられる戦闘の描写に、それが自然でありそれが正義なのかもしれないと思わされてしまう。それ自体が虐殺の文法、あるいは虐殺の映像。メディアというものを通じて流布される情報が持つ影響力の大きさを改めて突きつけられた気分だ。

 映画を観終わって思う。ジョン・ポールの言うように人間にはどこかに虐殺のための文法を受けて行動へと向かわせる器官があるのだろうか。そんな器官を駆動させる文法のようなものもあるのだろうか。ありそうといった立場から書かれた『虐殺器官」という作品は、ある意味で器官に左右されてしまう人間の仕方なさを示唆しつつ、本来の人間には尊厳もあって理性もあるといったニュアンスを漂わせている。

 けれども現実の世界は、巧妙に混ぜられ流布される、直接的にそれと分かる形では耳に届かず聞こえもしない虐殺の文法なんて必要としなくても、ちょっとした悪感情をダイレクトに外に吐き出したような言葉があっちへと届き、こっちへと届くうちにだんだんと諍いが生まれ、亀裂が広がってそして戦いへと向かっていく。そうではない、虐殺の文法めいたものが存在して、それに操られているだけなのだという安心を、もしかしたら人は映画「虐殺器官」から得るのかもしれない。それでも混沌へと向かう世界にとって、何の慰めにもならないけれど。

 原作を読み終えて10年近くを経た人間にとって、終幕に何が起こったのか分かりづらいところがあったように思う。あのあと世界はどうなるのか。原作小説を再読して思い出して、それへと至る道が映画では示唆されていただろうかと感じたけれど、それはあまりに残酷で、陰惨な未来像を避けて回避する道を自分で考えろと問うていたのかもしれない。もうひとつ、やはり描写は過激にならざるをえず、ゲームでもCEROレーティングでZとなりそうな、あるいはそれすらおとなしいくらいの過激で残酷な場面が相次ぐ。

 もしかしたら映画館で上映できないかもしれない? それはないと思いたいけど中学生以下は観られないてのはあるかなあ。ともあれそのシリアスにリアルな描写から、ある程度のレーティングは避けられないかもしれない。とはいえ、諦観を持った大人ですら影響されるその映画としての虐殺の文法に、若い青少年はより感化されやすいかもしれない。映画館を出てヤクザの如くに肩で風を切る代わりに、手に銃をとって自分の信じる正義以外を不正義と感じて撃ち始めるとか。それだけ強烈なビジョンをもたらし、マインドを揺さぶる映画だ。

 恩田陸さんだ恩田陸さんが。作家の恩田陸さんがようやくにして直木賞を受賞。過去に5度も候補に挙がりながらもどこか、代表作を外してのノミネートがたたってか受賞に至らなかったけれどもさすがにデビューから25年、山本周五郎賞もとっくに受賞してベテランの域に入った作家がほとんど最後かもしれないノミネートとなってさすがに取らせない訳にはいかないとなったかどうなのか。受賞作の「蜜蜂と遠雷」は恩田さんならではのどこかファンタスティックな要素はあんまりなさそうで、ピアノのコンクールをテーマにしていろいろな人が出てくる青春音楽小説になっているみたい。逆に分かりやすさで弾かれるかもとか思ったものの、そこはベテランとしてきっちり描いたってことなんだろう。面白そうだから読んでみるか。芥川賞や山下澄人さん「しんせかい」で4度目のノミネートで受賞。年齢も1つ下だしまあ、良い感じか。宮内悠介さんは次こそは。


【1月18日】 朝から日本将棋連盟の谷川浩司会長が辞任するとの方。理由はもちろん三浦弘行九段を結果としてまったくの濡れ衣で批判して、竜王戦への挑戦権を取り上げ出場辞退へと追い込んだ上に出場停止といった処置も科し、金銭的にも名誉の面でも多大な損害を与えてしまったことへの責任をとったものだけれど、前の会見ではまだ会長職を続けることが責任の取り方だといった言葉も発していただけに、その後に受けたダメージから来る体調面への不安が、相当だったってことなんだろう。まあそれも仕方が無い、1人の棋士のそれこそ運命を大きく変える決断を、先走ってやってしまったんだから。

 問題はだからといって何の解決もしておらず、そもそもどうしてそんな不信が起こったのか、その発端となった告発をどうして慎重さの上に慎重さを極めないで信じ込んで処分まで科してしまったのかといったところで、何か外部も含めた力関係なりがあったのだとしたら、そういったもので公正な判断が鈍る体質をこそ改めないと、同じようなことがまた起こらないとも限らない。というか実際に王将戦では決めたはずの金属探知機での検査がさっそく除外されていた。そうやってふらふらとする体質を確固たるものしてから辞めて欲しかったけれど、それが出来なかったからこその王将戦でのふらつきで、そして今回の辞任となったんだろう。寄せは光速でも運営は拘束。そんな立場を離れ一棋士に戻って復活をして欲しいもの。最高の地位に立てばまた、正しい言動も影響力を持って発せられるようになるから。

 オープニングのスタイリッシュなサウンドと、背景に流れるオノナツメならではのシンプルな線でありながら、性格も属性もしっかりとにじみ出るキャラクターに引かれて見始めて、これは面白い上に奥深そうだと思ったのが運の尽き。1週間に1話では先が長いと原作漫画を手にとって、読み始めたらもう面白くって完結の第6巻まで一気に読んでしまった「ACCA13区観察課」(スクウェア・エニックス)。そして漫画でありアニメーションの冒頭2話で、ふっと感じたこの世界における平和のようで実は生じ始めているきしみのようなものと、それをどうにかしようとする動き、そして主人公のジーン・オータスにありそうな何かが、そのまま濃さを増して物語を転がしていって作者の構想力の確かさと、この愛すべき世界を作った想像力の豊かさに脱帽する。

 13の自治区に分かれたドーワー王国という舞台設定の、それぞれの自治区に悩みもあって夢もあってそこに生きる人たちの毎日をしっかりと過ごしながら、明日を夢見ている姿がどうにも嬉しい。食べ物が豊かな自治区もあれば、資源に乏しい自治区もあるけれど、それに不満を抱かない訳ではないものの、だからといって嫉まず拗ねずに自分たちに誇りを持って生きている。現実の世界の現実の人たちはなかなかそんな風にはいかない。なぜならそうした格差を埋めて誰もが生きられるようにする仕組みがなかなか生まれないから。

 「ACCA13区観察課」の世界は違う。資源がなくてもちゃんと配分はあって生きるだけの糧は得られ、その上で自分たちで出来ることをやろうと毎日を過ごしている。押しつけの中での平穏ではなく、自立した心が望む平和。そんなマインドに誰もが浸っている世界がどうして成り立っているかのか? いったところで浮かぶACCAという民間でありながらも権限があって尊敬もされている組織の存在。真っ当に統治をすれば真っ当な世界が作られる可能性を示唆してくれている。とはいえそんなACCAに迫る解体の危機。どうしよう。そして世界はどうなる。といったところで巡らされる謀略は、一重ではなく幾重にも重なって主人公のジーン・オータスを巻き込んでいく。

 でも流されない。揺れ動かない。淡淡として日々の仕事をこなしながら、その実直さで多くを納得させる。下にあって仰ぎ見て良いとすら思わせる。権力への執着との対比のような存在。それを崇めることで何か誰かが得をしようとも考えない潔癖さ。理想としたくなる世界がそこにある。現実にしたい世界と言っても良い。そんな世界を自らの手で差配できる立場に迫りながらも、大きな変革がもたらす不安や恐れを回避して、スムースな移行を成し遂げつつ、異端を排除してのける謀略の冴えにも触れられる。そんな謀略をしっかりと認識しつつ、そこで自分を主張しないで淡淡と、今の世界の安寧を守ろうと立ち回るジーン・オータスが格好いい。

 世界の縮図であり政治の縮図でもある物語。そして様々な人々が様々な場所でそれぞれの日々を生きていることを感じさせてくれる物語が、スタイリッシュなオノナツメの絵に寄って紡がれる。時にコミカルな表情もあって楽しめる上に、シリアスな場面、スリリングな展開もあって引きつけられる。男の格好良さも良いけれど、女の可愛らしさも読んで目に嬉しい。ACCA本部長のモーヴはどこまでも格好いいけれど。だから惹かれたのだろう、年下だとか部下だとか関係無しに。全6巻でしっかりと完結して、世界は平穏なままかというと火種は残って不穏の芽は摘まれていない。ただそれも含めての平和が保たれているのなら、ひとまずは正解だったということだろう。そんな世界を今も走り回っているジーン・オータスが、各区の優しくて前向きな人々の姿に安心していられる日々が続くことを願い、ページを閉じてシリーズを読み終えよう。

 夢川ゆいの「ごはんたけたよ」ってセリフとともに画面に炊飯器とご飯が盛られたお茶碗が映し出されてこれはきっと面白いと思った「アイドルタイムプリパラ」。前のシリーズ「プリティーリズム」から始まって「プリパラ」へと移って4シリーズ目となる作品が、4月からいよいよ放送開始だそうでそのプロジェクト発表会をのぞいたら新しいヒロインがなかなかよさげな性格をしていた。ご飯大好き。そしてアイドルになりたい女の子が、真中らぁらと知り合ってどうなっていく? 新しい面々はどんな関わり方をしていく? そんな想像から新しいシリーズに入って行けそう。ガラリと変えずフックとなるヒロインを残しつつ新しい要素を入れていく。代替わりだけれど継続でもある作品はどれだけの新しいファンを引き寄せるか。その結果が2020年にもプリパラが存在する世界を呼ぶ。見守りたい。まずは来週のミュージカルの成功だ。去年みたいに傑作だと良いな。

 例のホテルの南京大虐殺はなかったぜコラム英訳収録本設置問題は、ホテルの方で自分たちのボスが言ってることに間違いなんてないんだから撤去なんてするものかって表明まで出て全面戦争の様相。でも繰り出してきた主張がやっぱり30万人なんて言ってるけどそんなに殺害出来る訳ないだろう的話から、南京事件めいたものをなかったことにしたい意識を滲ませつつ、日中戦争そのものがコミンテルンとやらの謀略で日本が巻き込まれたんだぜ史観にまみれていて、もう手の施しようがなく後は言いたいなら言わせておけ、ただしお前の中国相手の商売はもう無理だからなといった地点に落ち着くしかなさそう。

 もちろん言論は自由だし民間人が何を言おうと勝手だけれど、顧客がいるサービス業でその顧客が嫌がる主張をするのが商道徳として真っ当かっていえば絶対に変。朝もテレビでコメンテーターの中央公論社の人が言っていたけど、アメリカンのホテルに原爆は戦争を早く終わらせるために必要だったって書かれた本が置いてあったら日本人として嫌だろう。それでも引っ込めないなら泊まらない。そうするしかない。そんな切り分けが出来ない会社も会社なら、さっそくはせ参じて素晴らしいと称賛を送る干され中のアナウンサー氏も凄いというか。中国が言う30万人が多過ぎるだろ、って話はまあ良い。でもだから「南京市で何人かを殺す事件」と置き換えられる話じゃない。10数万人か、数万人かは殺害された可能性があるし、数千人だって結構な数。でもそうした可能性には触れず、何人かレベルに押し込んで南京事件的なものはなかった事にする。もうポン酢かと。商売としてどうかといった合理的な判断も出来てないし。やっぱり根っからの厄介なライト系の人だったってことなんだろうなあ。これでさらに復活は先になりそうだなあ。


【1月17日】 アパホテルは前に京都へ任天堂の取材に行ったときに前泊して京都駅前にあって出歩くのに良くって料金も楽天トラベル経由だったからか安くてそれがワンルームで狭く手も止まって雨露がしのげてテレビまで観られるんなら十分と思ったんだけれど、その時に引きだしとか開けてないからどんな本が入っていたかは知らないし、もう10年以上は昔の話だからその頃は一応は、別名の評論家としていろいろと日本の歴史についてあれやこれや言っていても、大っぴらに本まで出してそれを英語に訳して世界に喧伝しようとはしていなかった。

 でもいつだっけ、論文の賞を立ちあげ第1回目でコミンテルンの陰謀を堂々書いた航空幕僚長殿に賞を与えた当たりから、本性を隠さなくなって仕事の立場も評論家の立場もごっちゃにしながら経営に当たるようになっていった感じ。一方で時代はインバウンドがもてはやされて中国や台湾、韓国といった国々から日本へと観光客が増えて国内のホテル需用は急速に高まり、それを受けてアパホテルも業容を広げて各地に結構な数のホテルを建設した。今では1泊が2万円とかいった高級ホテル並の設定をしているところもあるとか。近くて便利で安いアパホテルは何処へ? それも時代なんだろう。

 とはいえ、そんな高額の需用を支えているのは日本のサラリーマンではない。というか日本のサラリーマンは回復しない景気に喘いでそんな高級ホテルに泊まるなんてことは不可能になっている。泊まっているのはアジアからの観光客。そんな最良にして最大のお客さんを相手に、真っ向から喧嘩をふっかけるような本を堂々、客室に置いていたことが露見して世界中が大騒ぎになっている。その思想自体は前からあったものの、さすがに中国韓国台湾香港等々から観光客を招いて顧客としているホテルが、彼ら彼女たちの神経を魚でする本を置くとは。それが事実かどうか、って問題になるといろいろ意見もあるけれど、少なくとも犠牲者はゼロではなかった事件をなかったことにするような論調の本を、置いて良いはずもない。

 一方でビジネスという頭を持って冷静に感がえることができるなら、そういった内容の本は少なくとも客室からは排除して、せいぜいがチラシを置いて欲しい人に売るくらいのものにしておくべきだっただろう。でも置いてしまった。商売人が商売を越えて思想を押しつけてしまった。これはやっぱり拙いだろう。そのリアクションも覚悟しておいた方が良いだろう。すでに中国あたりで大炎上が起こって、宿泊を斡旋しないと言い出した旅行関係の会社もあったりする。相当数を稼いでいたそうした観光客の代わりにいったい、誰か泊まってくれるのか。無関係の白人? でも彼らは中途半端なホテルには泊まらない。安いバックパッカーとして動くか高級なホテルに泊まるか。便利で安く大勢が使えるアパホテルの最大の顧客がいなくなって清清したとかいった主張をする人たちが、だったらと泊まって空き室を埋めてれるはずもなし。どういう対応を取るか。経営者は筋金入りだから曲げないだろうなあ。それとも部下が勝手にやったことだと言ってここは経営者の顔に戻るか。要注目。

 奈坂秋吾さんの「東京ダンジョンスフィア」(電撃文庫)に涙ぐむ。「mig」っていう名のVR装置が暴走して、使っていた人の周りにリアルを浸食するダンジョンが発生。下手をすると大勢が危険な目に遭うことも起こるため、そこに入り込んでダンジョンを生んだ創造主を探す“冒険者”という仕事が生まれていた。ただし誰でもなれるのではなく、ある程度の年齢がいった人は妄想への耐性がなくなってダンジョンに入れない。“冒険者”はだから比較的若い少年少女がなっていて、それなりにお金も儲けられるため若い者の憧れの職業になっていた。

 もちろん危険もあって下手をすれば死ぬことも。そんな恐怖を乗り越えつつ、家計を助けるために冒険者になった赤峰という少年が主人公。新たに冒険者となった若者たちとチームを組んで、ダンジョンに入って活動しようとするが、それぞれに抱えた思いがあってチームワークがうまく整わず、突出を止められない状況もあって巧くいかなかった。いったいどうすれば良い。力はそれほどないものの、リーダーシップを認められたか赤峰がリーダーを任されたチームは、それぞれの事情を知り、協力するようになっていった先、とてつもないダンジョンが生まれて4人は最大の危険をはらんだ冒険に参加する羽目となる。

 それは、ある漫画家が生んだダンジョン。漫画家だけに想像力がぶっとんでいる上に創造主となった漫画家の辛い記憶が根源となっていて攻略に戸惑う。けれどもそれぞれに事情があって諦められない4人の少年少女は創造主の思いを探って解決の糸口を探し出す。その方法が呼ぶひとつの再会と離別に胸打たれる。辛い思いを忘れ安寧に漂っていたいけれど、現実がそれを許さないならどこかで決別しなくてはならない。そのきっかけを得られるか。そんな思いを与えてくれる作品。ようやくチームとなった4人には、次にどんなダンジョンが待っているか。実はVR装置の暴走が仕組まれたもので、それを担った科学者たちは何を意図し、そしてどこに逃げているのか、なんてことも描かれるなら続きが出て欲しいもの。期待して待とう。

 何かの底が抜けてしまった。理性であり慈愛であり共感であり想像といったものの。ひっくるめて良心とでも呼ぶような感情が欠落し、あるいは存在を消滅させてしまって後に残るのは憎悪であり嫌悪でありといったネガティブな可能。それを剥き出しにして振る舞うことが非難されるどころか当然と認められ、讃えられる。良心にしたがって反論しようものなら、罵声と罵倒が浴びせられて存在を消させてしまう。そんな時代だからなんだろう、小田原市で生活保護を担当する職員が、慈しむべき対象者を脅すような文言をジャンパーに記して闊歩していたという。

 公僕なのに。何の権利があって。弱者を脅して引っ込ませてさらなる旧知へと追い込むようなことを平気でやれてしまう。そんな非道をどうして。なんて当然浮かぶ思いも自分たちこそが“正義”といった感情にとらわれた頭には、まるで浮かばなかったんだろう。そして突っ走った挙げ句に問題化して、ようやく事の重大さに気づいたか否か。未だに当然と思っていたりするのかもなあ。それで解雇され生活を保護される側に回って、社会の敵だと威圧されたらいったい何を思う? 自分がそうなる時への想像がまるで浮かばない欠落もまた、今の時代の病理なのかもしれない。

 前にアスキー・メディアワークスの展示会で見た匂いが出るVRが正式に「VAQSO VR」って名称で製品化を目指すことになってその発表会があったんで見物に行く。前は映像に合わせて火薬の匂いや唐揚げの匂いや女の子の匂いが漂ってきたけれど、今回はゲームに実装されて飛んでくる桃を撃てば桃の匂い、樽を撃てば爆発して広がる火薬の匂いが出てくるらしい。連動が巧くいっているってこと。女の子の匂いも漂うとかでこれが「サマーレッスン」に導入されたらいったいどんな女の子の香りが漂って自分をそばにいるような気分にさせてくれるんだろう。問題は実物の女の子の香りを嗅いだことがないってことで、それが本物かどうか分からないのだった。寂しくなんかない。


【1月16日】 第2話が放送されてカルロ・ゼンさんの小説を原作にしたテレビアニメーション「幼女戦記」は、銀翼と呼ばれラインの悪魔との呼ばれる幼女の兵士、ターニャ・デグレチャフの中身が日本の会社の人事部でリストラに血道を上げた会社員だとうことが判明。そして神を信じないと嘆かれた挙げ句に神によって転生させらえた世界で赤ん坊から始めたものの意識が残っていればそりゃあ子供では優秀を極めた上に、魔法の力もあったみたいで幼くして士官学校に入り優秀な成績で卒業をして最前線へ。そこで敵の侵攻を単身で止めよとして満身創痍になりながらも生還して、軍功を上げて勲章をもらった挙げ句に宣伝映像に出てドレス姿で「たーにゃ・でぐれちゃふです」と微笑んでみせる。

 さすがは立場に応じて自分を殺せるサラリーマンといったところ。でもそんな優秀さが帰って徒となって最前線をたらい回しにされるとは、この時は思いもよらなかったのだという。原作の方ではさっさと後方に引っ込んで机上でもって戦略を立て情報を分析する仕事に就きたいのに、優秀すぎる頭脳とそして強大な魔力がそれを許さない。北へ西へ南へ東へ。そんな中でも東の連邦を相手にした戦いで、部隊を率いて首都へと乗り込み軍事施設を破壊し広場に帝国の旗を立てたところを敵の指導者に観られたのが拙かった。もう幼女大好きなその指導者が、蹂躙したいという欲望を燃やして進める戦いに終わりなんてないよなあ。やっぱりどちらかが降伏するまで続くのかなあ。そこが見えないうちはやっぱり読み続けよう単行本。

 おお。発表になった第40回日本アカデミー賞で片渕須直監督の「この世界の片隅に」が優秀アニメーション作品賞を受賞。優秀音楽賞でも音楽を担当したコトリンゴさんが「この世界の片隅に」の仕事で輝いた。抜群の脚本とか監督としての仕事とかも認めて欲しかった気がするけれど、そこは入れ始めるときりがないから、キネマ旬報ベスト・テンでのアニメーション監督して初の監督賞受賞をもって讃えておこう。そんな優秀監督賞にアニメーションでは「君の名は。」の新海誠監督が這い入っていて、ほかに優秀脚本賞も受賞していた。もちろん作品として優秀アニメーション作品賞を受賞し、優秀音楽賞にRADWIMPSが輝いていた。

 2016年で最もヒットした映画、ってことでここから最優秀アニメーション作品賞を狙うんだろう。と言うか何で最優秀作品賞に入らないんだろう。そういう風になっていたっけ。キネマ旬報が宮崎駿監督にも与えなかったアニメーション監督賞を片渕須直監督に与えて実写もアニメーションの同じ映画といった認識を改めて世間に与えたのに、日本アカデミー賞は2007年にアニメーション作品賞の部門を作って分離。そこで宮崎駿監督や細田守監督が受賞を果たしても、作品賞の下に置かれる扱いになってしまったのはやっぱりちょっと解せないなあ。そこをどうするか、ってこともこうやって、年間1位をアニメーション映画がとることでまた考え直されていくのかな。あと優秀アニメーション作品賞では「映画 聲の形」が入っていることが嬉しかった。ちゃんと観てくれている人、いるんだねえ。

 一方で特撮でも優秀作品賞に入った「シン・ゴジラ」は、ほかに優秀監督賞で樋口真嗣さんと庵野秀明さんが連名で入ってあの2人があってこその映画ってことを感じさせた。どっちかって訳にはいかないもんねえ。そして優秀主演男優賞は長谷川博己さん、優秀助演女優賞は石原さとみさんと市川実日子さんといった面々が取り、役者としての演技っぷりでも世間に強い印象を残したことを裏付けた。優秀音楽賞は鷺巣詩郎さん、優秀撮影賞は山田康介さん、優秀照明賞に川邊隆之さん、優秀美術賞は林田裕至さんと佐久嶋依里さん、優秀録音賞は中村淳さん山田陽さん、優秀編集賞は庵野秀明さん佐藤敦紀さんと他にも多数の部門で「シン・ゴジラ」は受賞。ここから最優秀が決まる訳で、どれかは取りそうだよなあ、出来れば作品賞、行って欲しいけれど。

 そんな「シン・ゴジラ」こそランキングからはすでに落ちているけれど、「君の名は。」は週末の観客動員数が前週の3位からさらに上がって2位になっているところが凄いというか、いったい公開されてからどれだけ経つんだ。まるまる4カ月以上は経っているにもかかわらず、公開されて2週目以降の映画がグッとランクを下げるのに対して未だ残っているだけでなく、ランキングを上げてくるところに今までの映画興行にはない力って奴を感じる。IMAXのような特別な体験を与えるイベントが行われていることもあるのかなあ。そうやって映画館で映画を観てもらえる工夫を重ねることで、習慣づけられ次の映画も見に行こうってなる。今を稼ぐだけでなく、育てることにも繋がっている。そんな感じ。

 もっと凄いかもしれないのは、上映館数ではぐっと下がる「この世界の片隅に」が前週の10位から8位に上がったこと。1月7日で上映館数がぐわっと増えてイオンシネマ系で観客席も結構な数のところが割り当てられていることもありそうだけれど、それでちゃんと客席を埋めているところがやっぱり凄い。こちらは公開からだいたい2カ月。普通だったら単館系のロードショーってことでもうランキングから消えて映画館でも上映が終わり始めていて不思議はないのに、逆に増やしていてランキングも上げている。「君の名は。」以上に映画興行の世界ではあり得ない現象が起こっているってことで、口コミで支えた観客から先、情報が届いたところで本当に観たい人がようやく気づいて観に行っているってことなんだろう。最初に宣伝できなくても方法はある。ただそれは一朝一夕ではない。その案配を噛みしめつつ、次への糧として欲しい。アニメーション映画が爆死するのは嫌だ。

 「週刊プレイボーイ」を手に取ったら「アニメツーリズム協会理事長・富野由悠季が吼える!」って見出しであの富野由悠季監督がインタビューに答えていた。いわゆる“聖地巡礼”の場所を投票なんかで決めて盛り上がろうぜってやってるアニメツーリズム協会のトップに、そうした活動をはあんまり縁がなさそうな富野監督が関わったことに誰もが不思議を抱いていたけれど、インタビューを読むと印象として聖地巡礼に割とノリノリ。それは引きこもりがちなアニメーションのファンが外に出る良いきっかけになるっていった意味で、自分も若い頃は杉並区と練馬区しか行かなかったけど、もっと早くあちらこちらに行けば良かったと話してた。あとは旅行業界と縁遠いことも、彼らにとっての常識に縛られない提案ができるといった理屈。そんな立場からいったいどんあ提案が出てくるか。ちょっと楽しみになって来た。

 「本能寺おっぱい」じゃなかった「おっぱいホテル」じゃあ「おっぱいバレー」といっしょだそうそう「本能寺ホテル」を観たけどおっぱいが京都の街を歩き回っては豊かな実りを感じさせつつそんなおっぱいに知恵が回って頭が働かないのか頓珍漢でとっぴんぱらりな空っぽ娘のお前一体何がしたいんだ言動に付き合わされてSAN値が下がって体力をごっそり削られた。いやストーリーそのものに破綻はなく、観て納得の収まりは見せるけれども、逆に言うなら収まりすぎで波乱がなく破天荒にも向かわずそれを2時間とかで見せられても間が伸びる。そんな間を自分は何をやりたいのかわからないというより分かろうとする思考能力そのものがなさそうなヒロインの言動に付き合わされてストレスが溜まって爆発しそうになる。

 あんな自分に何もなく相手に合わせているだけのキャラクターによくもまあ付き合っていたもんだと旦那候補を褒めたくなるけどそうした苛立ちも葛藤もなく、それが相手の全てと認めそれなら俺は全部と思う旦那候補もやっぱり頭が緩いというか。お互いにそんなやついねえ的感想が沸き立ってみに切る女性も男性も困惑の渦に叩き込むであろう。現代人の若者がこぞってテンプレート以下の空っぽばかりなのに対し、大人は自分のやりたいことのために踏み切るし、戦国時代の武将たちもやりたいことのために決断をし命すらかける、そんな男たちに感化され目覚めたヒロインがさぞや大きなことをやるかと思ったら。

 まあそれでも小さくてもやりたいことを見つけられたのなら良いのかなあ。観客がエンターテイメントの結末として納得するかはわからないけれど。タイムスリップ物でタイムパラドックスの懸念もまぶす展開なら幾つかひねりようもあっただろうし、エピローグに意外を持ち込んでもよかった気がするけどそれも平凡、というか意味不明。あの場所から織田信長がどうにかなって現代に来て、って続編なんかもちょっと思い浮かんだけれど、それをやるまでのヒットになるかどうなのか。だからこそもうちょっと観る人をたのしませる映画にしてよって思ったけれど、それはおっぱい成分が存分に担っているからまあ良いのか。とかおっぱい。じゃなかった、とか思った。総じて面白くはあるので気楽に楽しむ分には良いかも。


【1月15日】 気がつくとジェフユナイテッド市原・千葉レディースからフォワードの菅沢優衣香選手が浦和レッドダイヤモンズレディースへと移籍していた。ゴールキーパーの山根恵里奈選手と並んでジェフレディースでは日本代表のなでしこジャパンに選ばれる常連で、そしてチームでも得点源ではあったけれども2016年は少し得点が下がっていたのもあったし、なでしこジャパンでも起用されながらチームにフィットしない苦労があったんでここで心機一転、新天地でプレーを整えゴールゲッターとしての才能を再び世に出していってくれるものと期待しよう。残るジェフレディースは誰がエースになるんだろう。まだ体制が発表されてないけれど、下からの成長を促すものと見守ろう。

 あの石田彰さんが声をあてているキャラクターがいつまでも正義の味方であるはずがないといった意見はすでに第1章の頃から挙がっていて、いつ堕ちるかと誰もが期待に胸をドキドキさせて見ていたけれどもそれがようやく叶った「チェインクロニクル ヘクセイタスの閃」第2章。黒の王の討伐にさまざまな種族から成る義勇軍を率いて乗り込んだものの敗れて妖精のピリカを失い、世界を記した「チェインクロニクル」も半分を黒の王に奪われ世界にはだんだんと闇は広がる。

 再び討伐のための義勇軍を組織して黒の王を倒さないと世界は黒に染まってしまう。だからと立ちあがったユーリだけれども既に1度、敗れた彼に不安を抱き不満を覚えて逆らう者も出てきた。それが鬼の一族で九領の筆頭当主を務めるシュザで、自らも黒に染まりつつある見でピリカ捜索の手がかりを探そうと精霊島へ向かうユーリたち一行の前に立ちはだかって攻撃を仕掛け、フィーナが持っていた「チェインクロニクル」も奪い取る。そんな諍いの最中に現れたのが、黒の王の下で魔神として世界を混沌に塗り替えようとするエイレイヌや、聖王女ユリアナの配下にありながらもその待遇に疑心を抱いた果てに魔神に堕ちたブルクハルトらが現れユーリに迫る。

 お前は負けた。お前では無理だ。もう良いじゃないか。世界は黒に染まるべきだ。そんな囁きに堕ちそうになり、けれども踏みとどまったユーリを悲劇が見舞い、耐えていた心は折れてそして……。黒い石田彰の出来上がり。それは石田彰さんが声をあてていた段階から必然だったのかもしれないけれど、聞いて正義の味方の時は感じられた不穏がまるで感じられず活き活きとして聞こえてくるところに、もはや否めないダークな声質の本領ってものがあるのかもしれない、ってそれは可愛そうだけれどでも役が、そうやって声を染めていったのだった。本人はどっちが好きなのか分からないけれど。

 というかその前段として、自分は仲間を信じるし仲間も自分を信じる、その「絆」があるから自分たちは戦って来られたし、これからも戦っていけるんだってところをアラムっていう、新しく加わってきた少年に聞かせ見せつけ導くユーリなんだけれど、その自分が転んでいくってのは何だろう、やっぱり根は優しくてそれでいて正義感が強くて、けれども圧倒的な勇者でもない自分へのどこか不安なり不信ってものがあったのかもしれないなあ。それを補う仲間のはずが、そんな仲間の上に立場上、いるようになって受けるプレッシャーにやっぱり潰された、と。分相応だったか。良い参謀がいなかったか。ともあれ人は容量を超えた期待は受けない方が良いと。逃げることだって時には必要。あるいは頼ることも。

 物語はフィーネとアラムだけになった面々が精霊島へと渡りそこでユグドって眼鏡っ娘と出会い彼女が持つユグド大陸に関するクロニクルへと潜る展開へと向かうけれど、やっぱり現れた黒ユーリの攻撃も苛烈を極めて危機が迫る。いったいどうなる? そしてアラムの運命は。ここで実質的に物語の主人公となったアラムが、果たしてどんな力を持ち、そしてどれだけの大勢を引きつけられるかに興味が移っていった感じ。来たる最終の第3章では、ユーリをどう処遇し、そして砂漠にいるドラゴンをどう遇し、さらにはアラムの主人公らしさがどう発揮されて世界は変わるか、黒の王はどうなるかってあたりが描かれそう。

 魔神に堕ちたものは人間へと戻れるのか。エイレイヌとか今さらだろうしブルクハルトも悔いながら倒れていくのが性分に合ってそうだけれど、ユーリは一応主役だし、戻るのかそれとも。というかこれだけ絶体絶命の状況、そして性善説よりも性悪説が強くて人は悪に引かれ強さに憧れ欲望にもろい存在であることを裏返せるだけの希望なり、正義の力なりが示されるのか。それはいったい何なのか。ってあたりを探りながら来たる第3章の公開を待とう。

 第1巻でダスト層雲を晴らして樫宮揺月との関係も良好なものとなった魔法使いのカリム・カンデラ。ずっと高い空を飛べず人類の生存に必要な精霊を呼び込めないで見かけ倒しの魔法使いと思われていたけれど、飛べるようになった今は女の子たちからもキャーキャー言われる存在になっていて、それに学校では先輩のレイシェ・クリエという魔法使いの少女が気が気でない。実はカリム・カンデラが好き。でも言えずにいる乙女なレイシェにはさらに難題があって、カリムはどうやら樫宮揺月がずっと気になっているらしいということで、一方の揺月はといえばまだ恋心には目覚めていない様子。

 長く反目していたカリムとの関係が戻ったものの、その精霊を大量消費してしまう体質から街には戻れず精霊の森に暮らしながら、尋ねてくるカリムと会っている。そんなカリムと揺月が、来たるお祭りでグラオベーゼンという空を飛んで精霊を呼ぶ儀式を執り行うことになった。青空を取り戻した英雄たちの共演を世間は待ちかねているけれど、ひとりレイシェ先輩はそんな2人の仲が接近ししてしまうか気が気でない。一方で精霊が迷ったままで人に取りつき分身を作って意識を乗っ取る伝承も心配され中、祭りは迫りそしてレイシェはそれとは相手が意識しないまま、カリムと2人で街に買い物に行くことになった。

 浮かれる2人。そんな2人をなぜか夢で目撃してしまった揺月。どうして。どうや精霊につかれていたらしい。何が起こる? そこはどうにか乗り越えたレイシェは、揺月と2人で空を飛んで意識を確かめ合う。カリムへの。ってな感じに三角関係が出来上がるまでの物語を描いたストーリーは、朴念仁で鈍感なカリムに苛立つ一方で、純情な少女たちの心を思いキュンキュンとさせられる。言っちゃえよ。でも言えない乙女心。良いねえ。とりあえず仲良くなって同じ目的も持ったレイシェと揺月の間で、カリムはどんな変化を見せるのか。そんな当たりが続けば描かれるのかな。魔法使いがいて精霊が人類に欠かせない世界ならではのストーリーと、そこに生きる少年少女のラブストーリー。楽しんで行きたいので是非に続きを。

 東京国立近代美術館フィルムセンターの押井守監督特集上映でGLAYのプロモーション映像として作られた「Je t’aime」を初めて見た。2010年ってことは 『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』 より後だから目下のところ、押井守が監督したアニメーションとしては最新になるのか違うのか。CEATECで披露された『サイボーグ009』があったけれどあれはアニメーションって印象じゃなかったから、枝として描かれキャラクターが登場してアクションが連ねられたアニメーションとしてはやっぱり相当に最新ってことになるのかもしれない。

 まあ対して変わらないけど「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」あたりと。犬が出てくる。バセットハウンドのカブリエル。それが浅草あたりの橋の下に住んでいて、時々街に出ては浅草の仲見世あたりをうろついている。交差点には機銃がおかれているけれど、誰かが護っている感じは亡い。というより人がまるでいない浅草でただガブリエルだけが動き回ってはある時現れた飛ぶ何者かと対峙する。その何者かのためにガブリエルはテニスボールを拾って届け、似たような丸いものを集めて届けてそして……。

 まるで説明されていない世界観だけれどSF的に言うなら何者かの侵略を受け、あるいは防衛のために人がいなくなった街でただ犬だけが取り残され、そこに現れた敵なり何なりとのしばしの交流を図りつつ、離別を得るといったところ。ストーリーがある訳ではなく、何かの断片として提示されたその静かな廃墟といった感じ、生前とした世紀末といった雰囲気の世界観を味わいつつ、起こる逢瀬とそしてアクションを堪能できるといったところ。そんな映像がGLAYの歌といったいどういう関係があるのかはまるで分からないけれど。

 飛ぶ少女といったら宮崎駿監督が手がけたCHAGE&ASKAの「ON YOURE MARK」があるけれどもあれはしっかりとストーリーがあって短い中に起承転結めいたものもあって音楽とともに楽しむことが出来た。それとはまるで反対を行く風景と展開がある作品。でも僕たちはそこから果てしない物語を、深い奥底を想像することができるのだ。なぜってそれは僕たちが押井守の子供だから。とか思ったり。ともあれ高品質の映像、リアルに近く描かれた浅草や花屋敷といった街並み、そして戦闘する少女に破壊されるそのエフェクトだけで存分にお腹を満たせる映像。GLAYの初回限定版DVD以外には収録されていないのかなあ。まあ手に入れたところで小さい家のテレビで見る程度。こうやって大きなスクリーンで隅々まで味わえる機会はやっぱり貴重だということで。行って良かった。


【1月14日】 あれはもう遠い昔のことになるんだろう、岩田聡さんが任天堂の社長になってインタビューをした頃だか、社長として発表会に登壇した時だかに「Wii」という新型のゲーム機を挙げて、それまでのゲーム機はゲーマーのものになってしまって、他の家族にはまるで関係のないものになってしまって、それが理由でゲーム全体の市場が狭い範囲に止まってしまっていた、「Wii」ではそれを変えて家族のみんなに関係のあるものにしていくんだってことを話してた記憶がある。リビングに置いてあっても遊ぶのは子供かゲームズ機の男たちばかり。それでは売れるはずもなく、そして広がるはずもない。

 だから「Wii」では家族全員がそこに自分を登録できて、そして自分たちが遊べるようなタイトルを作っていくことにした。その代表例とも言えるのが「Wii fit」でコントローラーを振ったりすることによって体力を測定したり運動したりといったことができるようになった。それもゲーム的な感覚で。これなら子供だけじゃなくお父さんもお母さんもおじいちゃんだってお婆ちゃんでも楽しめる。あるいはレシピとか脳トレの延長とか。そうやって家族みんなが関わりのあるものだと意識するようになって、他の家族にも波及して「Wii」は爆発的に売れ、家庭用ゲーム機の市場を広げた。それはもはやゲーム機の市場ですらなかったかもしれない。

 違う分野の違う機器なりの市場をも取り込んだからこそ利益の最大化。それが図られ任天堂はとてつもなく大きな存在へとなっていったけれど、「Wii U」で同じような戦略がちょっとだけ外れてしまって誰にも必要なものとはならず、そうこうしているうちにゲームといったカテゴリー自体が家庭用ゲーム機で家のリビングなりに陣取り遊ぶものから手にしたスマートフォンなんかてさあっと遊んで移動してまた遊ぶようなカジュアルな暇つぶしへと移行していった。こうなると家庭用ゲーム機を昔から単身でいたゲーマーの中からも家庭用ゲーム機を置き去りにする層が出て、そしてゲーム機の市場は縮小へと辿る。日本では。それは世界的に大ヒットをしているプレイステーション4でも同様で、時に先鋭的なゲームは売れても市場全体を盛り上げるほどではない。今やおそらく市場はピーク時の半分。それすらも今後危うい。

 そんな市場に投入された「Nintendo Switch」が任天堂復活ののろしになるといった味方もあれば、失望を誘っているという見方もあって迷う人もいそうだけれど、こと海外においては未だゲーム機でゲームを楽しむ層が多く居るなかで、アクションでありシューティングといった要素を持った任天堂のゲーム群はきっと大いに受けるだろう。そしてプレイステーション4の細密な画像でもって繰り広げるシューティングのファンとはまた違ったゲームはアクションでありボタンを操作して動く画面が自分と直結する快楽であると認識した多くのゲーマーたちに支持されて、それなりのマーケットを築くだろう。それがプレイステーション4を上回るかどうかはソフト次第か。

 外に持ち出し遊べるとか、ハプティクス内蔵のコントローラーが手に感触を伝えるとか、クリエイターにとっては挑戦しがいのあるギミックも搭載されていて、それを使ったゲームが生まれ新しいカテゴリーを拓くかもしれないけれど、今までのぷるぷるするコントローラーがゲームの楽しさに付加価値は与えても、ゲームそのものを劇的に変えた訳ではなかったことを見ると、やっぱり+アルファの要素に止まるのかそれとも。ハプティクス利用で手にしたコントローラーが左右に引っ張られるような感触まで再現できると、もうちょっと違った没入感って奴を醸し出してくれるかもしれない。それをゲームにどう使うか、ってあたりがクリエイターの腕の見せ所か。本当はどういったハプティクスを搭載しているか分からないから、このあたりは想像。震えるだけじゃないと思いたい。

 そうした海外での反応の一方で、日本ではもはや家でゲーム機でもってゲームを遊ぶという習慣がやや廃れ気味になっている。そうした人たちにゲームをまたやってもらうための苦労を考えると、ちょっと先行きをバラ色に見ることは難しい。持ち出して遊べるちったって、2時間とか3時間しか電池が持たなければ持ち出すのにも躊躇する。そんなあたりをクリアできるハードでも登場できれば別だけれど、10時間は軽く動くスマートフォンを、電話もかけられメールも使える機能ともども利用していくんだろうなあ。「Nintendo Switch」にそうしたスマホやタブレットと競争して勝てるだけの性能があるのか。そこがひとつのポイントか。今のままではNintendo64あたりのファンを呼び戻すとか、スーパーファミコンミニを勝った層がまた買うか、そんな感じ。これをもって失望ととらえるか、ガッチリと本流は固めて底堅い展開に回帰したと見るかで評価も分かれるかも。どうなるかなあ、日本のゲーム市場は。そしてゲームプレイヤーのマインドは。

 これはすごい。そして素晴らしい。NHKが初音ミクのライブをについて、普段はんまり気に留めていなかったのに、世界的な作曲家の冨田勲さんのお気に入りだからといった要素が乗ると番組に仕立て上げたりしていたのを見るにつけ、すごくて新しいものでもやっぱりネームバリューに縋ってしまうんだなあ、あるいはそれがないと価値に気づけないんだなあと思っていたりする。その流れでいくとこれなんて気づかない上にこれからも取り上げることはなさそうだけれど、でもやっていることは初音ミクのライブにも増して様々な要素が乗って、それこそ21世紀のライブエンターテインメントを大きく変える可能性すら秘めている。だからそれこそ7時のニュースで取り上げるべきなのに、気づいた感じがしないのがどうにもこうにも寂しくて悔しい。「AR performers」。それは新時代のエンターテインメントコンテンツなのに。

 格闘技のゲームなんかを出しているユークスが、「ラブプラス」なんかを手がけた内田明理さんを招いて始めた新しいぷろじぇくとが「AR performers」。すでにβライブを去年の4月に秋葉原で開いているから知っている人も多いだろうけれど、説明するなら初音ミクのように半透明のスクリーンにCGでもって作られたキャラクターが映し出されて動き踊るといったもの。あたかもそこにいるように見えるけれど、それ自体はCGのキャラクターでしかない。その意味では仕込まれた踊りを歌を“再生”する初音ミクのライブと似ている。でも「AR performers」は違う。その場で受け答えをする。そしてアクションもその場でもってリアルタイムで紡がれる。共に誰かによって。その誰かは分からないし見えない。だから観客は目の前にいるキャラクターたちにそれらを統合して、リアルなパフォーマーとして感じ取る。CGでも、リアル。そこに新しさがある。

 ライブ会場でもってスマートフォンを振ることで、アプリを通して応援の度合いを伝えてそれが集計されてバトルの勝敗を左右したり、自分がどれだけ応援したかをランキングによって表してもらったりといったイベントをライブの間に行える。それは生身のアーティストでだって可能なことだけれど、「AR performers」はそれはCGでもって描き出されたキャラクターでもって行っている。ランキングは生もの。それについて語るのにあらかじめ仕込まれた言葉は使えない。初音ミクが出てきた歌舞伎でもそこは同じで、CGの演技に生身の役者が会わせるようなことをやっていた。冨田勲さんのライブではタイミングを調整するくらいだった。

 けれども「AR performers」たちはちゃんとその場で名前を読み上げる。受け答えもする。素晴らしい。誰かの動きがキャラクターの動きになり、喋りが喋りになる。とてつもなく高度なことをやっているのに、そう感じさせないすごみって奴は現場で見れば了然だけれど、分からないと初音ミクみたいなものと思ってしまうんだろうなあ。あとは内田明理さんが冨田勲さんではないこともあるのか。そういう名前でしか判断出来ないメディアは滅び、面白さを感じ取って騒げるメディアに残って欲しいけれど、オールドな新聞とかテレビはやぱり気づかないか、気づこうとしないんだよなあ。勿体ない。そんな場所ですごいと叫んでも伝わらないこと分かっていても、やっぱり叫び続けるのだった。やれやれ。

 そんな「AR performers」を見たディファ有明のそばにある駅からゆりかもめに乗って豊洲へと向かう途中に見えたのが巨大な豊洲市場。本当だったらそこをトラックが横付けあれ人が走り回って魚に野菜なんかをさばいているはずが、延期となって塩漬けにされたまま無人の状態を続けている。そしてそんな場所から採取された水に有害物質が基準値を大きく上回って含まれていたといった発表があって、これはもうしばらく移転は出来そうもないって状況になって来た。いくら使うのは安全に使えたとしても、そして今の築地に比べてましかもしれないとしても、移転する先の状況そのものが拙いと世間も拙いと思ってしまう。

 そこに地下水なんて使わないし遮断をすれば安全だし、築地の方がもっと悪いんだから移転して慎重に使えば良いだけだといった正論は挟めない。メディアも分かっていながら(あるいは本当に分からず)政治的なバランスの上で小池都知事に味方し移転反対へと傾きこれはダメだと騒ぎそう。当の小池と自治は補償もあるし決着を付けたくても、最初に騒いで自分の権勢を見せようとしたツケが回って身動きとれない。そうして永遠に使われることのなくなった豊洲市場をどうするか。ライブハウスか。漫画図書館か。そんな声も出てきそうだなあ。東京オリンピック中のコミケの会場に? 話は出そうだなあ。


【1月13日】 そうかフリークラスには定年があって、今C級2組で戦っている加藤一二三九段が降級点を3つもらって陥落すれば、その時点で引退が決まるということなのか。そうでもしないと高齢の棋士がいつまでもフリークラスに居続けて、給料をもらい続けることになるから日本将棋連盟としても大変。だから定年を儲けたんだろう。でも加藤一二三九段は現役であればまだまだお客さんを呼べる棋士で、スポンサーだって集められると思えばフリークラス転出者はそこから初年度は戦えるようにすれば良いのに。決めたことをコロリと変えるのは得意じゃん日本将棋連盟、タイトル戦前の金属探知機による検査とか、だからここは英断を、ひふみんに将棋盤を。

 のんちゃんがアフレコしている場面をNHKが撮っていたのか、製作者の方で記録として抑えていたのをNHKが借りたのか、分からないけれどもちゃんと主演声優を紹介して「この世界の片隅に」という映画にかける思いを伝えた「クローズアップ現代プラス」はやっぱり腰が据わっているというか、まったくブレていないというか。民放キー局では未だに舞台挨拶なんかに登壇した映像が流れた記憶がない。「SING」って映画に出演するウッチャンナンチャンの内村光良さんはしっかりとアフレコ場面が取材されてて放送されているのに。そんなもんだよ芸能マスコミ。もちろん内村さんが取り上げられることにまったく異論はないけれど。

 興味深かったのは「にんげんをかえせ」といった広島への原子爆弾投下に伴う悲惨な状況を記録したドキュメンタリー的な映画をずっと上映している人が、最近はそうした直裁的な映像を見ることが敬遠されている中で、直接“悲惨”を描かなくてもあの時代、あの場所で起こった悲劇をじんわりと感じ取らせることは可能で、そんなきっかけになっていく映画として「この世界の片隅に」を位置づけることができるとか話していた場面。個人的にはドキュメンタリーであろうと記録写真であろうと「はだしのゲン」のような悲惨なシーンが実写の映画で描かれていようと、それはどれも実際に起こったことで残酷だからを目を背けず、むしろしっかりを目に刻むべきだと思っている。

 東京大空襲の後を撮影した写真なんかも含めて昔は戦争を記録したムックなんかがいっぱい出ていて、それを読んで戦争というのは肉体にも及ぶ被害があるんだということを身に染みるように感じた記憶がある。子供が見るから怖がるというのは子供を舐めた話で、そうやって肉体への悲惨を避けさせているから、いじめだとかいった誰かを傷つけてその痛みが分からないような事を平然とやってのける子供が生まれてくる。焼かれれば熱い。傷つけられれば痛い。そんな当たり前を当たり前として伝えることが、なぜ敬遠されなければいけないのかが分からないけれど、そういう状況があるならやっぱり求められるんだろうなあ、「この世界の片隅に」という作品のような描き方が。

 ゲストでは渋谷天外さんが話していたことに共感。それはあの映画が戦争を描いていないといった世間一般の声とはちょっと違って、戦争そのものを戦争だあって描いたものではないとしても、戦争があった時代に生きていて、日常がだんだんと戦争というものの浸食されていきながらも、それを非日常として驚くことができなくなって、日常として受け入れてしまう怖さがあると渋谷さんは指摘していた。ぼくの感想もまさしくそのとおりで、あの映画を見て戦争の一方で家庭には笑顔があったとか、誰もが健気に生きていたとか思うことは自由だけれど、だからといって戦争はやっぱり悲惨でなければない方が良いものだって思いが浮かばない訳じゃない。浮かべていけない訳でもない。そこをしっかり踏まえないと、戦争があった時代を地続きのものとして捉えようとした映画の主題を見失う。そんな気がする。

 ともあれ映画の魅力を目一杯に伝えた番組だったけれど、そこで浮かんだ感慨が直後のバラエティ番組「LIFE」に登場したカッツアイで全部吹っ飛んだ。久々に見たなあカッツアイ。泥棒をする女性3人組みたいだけれど、姉妹じゃなくって親子ってあたりがちょっと面白いかも。そして何をするでもなく「カッツアイ」とポーズを決める。レオタードで。グッとくるよなあ。いろいろな意味で。そして最弱のコマンドも登場して勝たない勝ち方って奴を見せてくれた。そうかああやって戦えば弱くても勝てるのか。勝てません。内村光良さんはほんとうに芸域が広い。ビリヤード場の店主とか、切れっぷりが最高だった。あの暴走を松っちゃんがやったらシュールになるし、ナンチャンだと熱血になる。弱者の叫びめいたものが漂うウッチャンは、やっぱり得がたい役者かも。「SING」でどんな声を聞かせてくれるなあ。

 キャラクターの表情とか仕草とかが「みならいディーバ」や「てさぐれ!部活もの」に似ているなあと思ったら同じヤオヨロズの制作だった「けものフレンズ」。とはいえ石ダテコー太郎さんの監督した作品のようにぶっとんでメタ入った感じはなくって、ジャパリパークってアフリカにも似た地域に集う動物が擬人化したようなキャラクターたちが、動いて喋って親切で好奇心も旺盛で、どこかから来たおそらくは人間のかばんちゃんを連れていっしょに旅をする展開が真面目に描かれている感じ。サーバルって動物をモチーフにしたサーバルちゃんはとりわけ真っ直ぐで好奇心も持っていて、サバンナから出てジャングルに入ってもかばんちゃんについていく感じ。体力では劣るかばんちゃんが知恵を使ってセルリアンとかいう敵を倒すのを見て感動して、一緒に行けば何か自分も学べると思ったのかな。危険はないのかって不安も浮かぶけどそこはアニメーションだからきっと仲良く安全に、切り抜けて旅を続けていってくれるだろう。見ていこう。ゲームは多分やらない。

 それこそ15年ぶりくらいに見たかもしれない近藤正純ロバートさんが、日本カーオブザイヤーの実行委員にまでなっていたとは驚きというか、新しく自動車のメディアを立ちあげそれを成功させるなんてことが、どんどんと若者の自動車離れが進んでいる現代に可能なのかってスタート当初は感じたけれど、若者ではない層にはしっかりと自動車は文化として根付き生活としてかたわらに存在しているみたいで、それが証拠に幕張メッセで始まった東京オートサロン2017の会場には、幕張メッセの全ホールを埋め尽くしてカスタムカーやらチューニングパーツやらが並んで、それを見に朝から大勢の人が来場していた。コンパニオンさん目当てもいたかもしれないけれど、でもやっぱりメーンは自動車。改造されたそれらを見入っている人の多さに、自動車を愛でる層の存在って奴を感じ取る。

 あるいはマスプロ製品として自動車メーカーが送り出す金太郎飴的な自動車はあんまりもてはやされなくなっても、こうやって個々人が手を入れ自分好みに仕立て上げる車はしっかりと人気を保っていて、そんなパーソナルな時代にマッチした自動車を提案できる東京オートサロンが、本家本元の親方日の丸的な東京モーターショーを上回る賑わいを見せるのも時代の流れなのかもしれない。そこにうまく食い込めたってことなのかな、近藤正純ロバートさん。そして今回は円谷プロダクションを傘下に持つフィールズが立ちあげ展開している、ウルトラマンのキャラクターをそのままではなくファッション性なりコンセプト性を抽出して、様々なアイテムに展開している「A MAN of ULTRA」の最新アイテムとして、自動車が登場したところにアドバイスなんかを行ったらしい。トヨタの86をベースにして、ウルトラマンなら白と赤じゃなく全体を黒にして赤い線をところどころに入れるシックさ。見てもすぐには分からないけれど、じっくり見れば感じ取れるそのウルトラマン性。大人のウルトラ心をくすぐり車好きマインドにもフィットする車として、話題になっていくかも。幾らくらいになるのかなあ。


【1月12日】 うへえ。もう大統領になることは確実であとは就任を待つばかりといった段階で、これまでの不遜で不穏な男といった皮を脱ぎ捨て知的で冷静なビジネスマンといった風貌を見せ、アメリカ合衆国を経済的にも軍事的にも引っ張っていくナイスガイってところを見せるかと思ったドナルド・ドランプ次期大統領が記者会見でもってメディアを名指しで批判し嘘つき呼ばわりまでして質問には答えないと言い放ち、メキシコ相手に壁を作って予算はメキシコに請求するといった、外交的にも大問題の内容を平気でぶちかまして世界中を唖然とさせた。

 選挙戦の時から変わってないといえば言えるけれど、そうした場所での発言は対立候補との違いをくっきりとさせる戦術であって、大統領という公明正大な態度が求められる立場になればもうちょっと、大所高所から判断して何を言って良いのか、何が実際にできるのかを考えながら喋るんじゃないのかと思っていたら甘かった。支持していた人たちは指示していた内容がそのまま出てきて嬉しいかというと、冷静に考えてこれは世界を相手に戦争でも起こしかねないし、闘いにはなならなくても独り相撲の果てに土俵に沈みかねないと思って青ざめているんじゃ無かろうか。でもそんな人間がアメリカ合衆国の大統領にそのままなる。いったいどうなる? 面白そうだなんっていってられない冒険が始まる。その先は冥府か地獄か。

 とはいえメディアが対立してでも持論を貫こうとしているだけ日本よりましかもしれないアメリカ合衆国。日本なんてデイリーな官房長官の会見は別にして、企画的に行われる総理大臣あたりの会見だと聞くことはだいたい事前に決まっていて、官邸とのすりあわせなんかもできていて、そういう質問をするところにしか指名が飛ばないようになっていたりする。そして不規則な発言をしようものなら次回はなくなる。それが分かっているから抑えて質問をするか、あるいは最初から忖度というなのおもねりでもってソフトで称賛にすら近い質問しかしないような感じになっている。そんな持ちつ持たれつの翼賛会が成り立っている日本は権力の思うがままにすべて進んで、そして今のこの状況。どっちがましか。考えるまでもないなあ。

 興行収入が10億円を突破して、とりあえずヒット作の仲間入りをした映画「この世界の片隅に」。テレビCMがそれほど流れず、朝のワイドショートかでもまるで紹介されず、公開館数も100に満たない小規模での単館系ロードショーとなった作品が、公開から2カ月弱でこれだけの成功を成し遂げたことをもって、良い作品を作りさえすれば、たとえマスコミが無視したところで口コミでもって人は集められるんだといった作品本位主義を唱える人が出始めているけれど、それはちょっと足りないんじゃないのかな、というのがずっとこの映画の成り行きを見て来た人たちの気分かも。

 なるほど、民放を中心としたテレビメディアは主演声優に関する紹介をほとんど無視し、それに絡んだ報道を公開前後の段階でまるで行おうとはしなかった。わずかに、というかその規模からすれば民放を束ねた以上に大きいかも知れないNHKが、頑張って紹介はしてくれたけれど、届く範囲は年令的にやっぱり限られ若い女性層に向けたPRはあんまり足りていなかった。そんな状況を口コミが打破して観客を呼んだ、というのは一面では正しいけれど、それで果たしてどれだけの人が呼べたかというと、公開された週末にランキングで10に入るのがやっとというレベル。メジャーな映画からすれば10分の1以下といった数字だろう。

 だから、やっぱり口コミの届く範囲には限界があったと言うのが正解。ただし、それだけの口コミが既にあったということが、翌週からの興行成績を落とさず10位以内に踏みとどまらせた。つまりは公開されるずっと前、それこそ「マイマイ新子と千年の魔法」のころから監督の片渕須直さんへの関心を高め、共感を深めていた人たちがいて、そうした人たちに関する対話も辞さずに丹念に行っていた監督や周りのスタッフ達がいて、良い関係が築けていたところに「この世界の片隅に」の映画化が持ち上がり、作品を知る人たちはそれならと思い、知らない人も片渕監督なら間違いはないだろうと思って支持をしていった先に、クラウドファンディグの成功があって、それが映画製作のスタートへと至って完成から公開へと繋がっていった。

 1月11日にTBSラジオで放送された伊集院光さんのラジオ番組の中で、クラウドファンディングにつて話していた片渕監督が、いきなりクラウドファンディングにかけても成功はしない、ずっと前からの準備が大切といったようなニュアンスのことを話していた記憶がある。そこでの議論は深まらなかったけれど、なかなか大手の企業が動かない企画でも、ネットを通してファンに呼びかければほらこんなにお金が集まるんだよ、なんていったバラ色のビジョンをもってクラウドファンディングを称賛する意見も出始めていて、対比して良い物を見分けられない企業なんかを非難する材料になっていたりする。でも一般だってそれが本当に良い企画かどうかなんてすぐには分からない。だから失敗するクラウドファンディングが幾つも出ている。有名な監督の企画であるにも関わらず。

 そんな中、ずっと前から頑張っていた片渕監督が、是非に作りたいと言っている、「この世界の片隅に」だから、ひとつ支援をしてみるか、なんて意識が既に醸成されていて、そこに降りてきたクラウドファンディングの企画だから飛びついた人がいて、成功を呼んだ。その成功がまたひとつのニュースとなって広がって、応援していた人の口コミも回り始めて少しだけ、関心の輪が広がって2週目3週目の踏ん張りを呼んだ。そうやって作られた鑑賞済みの人たちが、これは本当に良い作品だからと観てようやく気づいたことで、さらなる口コミを呼んでいって倍々ゲーム、とまではいかないまでもちょっぴりの加速がついて、情報が広がっていったというのが実際だろう。何年にも及ぶ準備があって、コミュニケーションがあっての口コミの発動。それがなかったら、たとえとてつもなく素晴らしい作品であっても、これだけの広がりは呼ばなかったんじゃなかろうか。他の過去に累々と重なる良い作品たちと同様に。

 民放が無視してもSNSが口コミを呼ぶ、っていうのはある側面で正しいけれど、そんなSNSを駆動させるだけの規模はやっぱり必要。そして民放が無視しなければ所収から一気に大勢が見に集まって作品の良さを広げて、もっと早くに10億の壁を突破し20億円にだって迫っていたかもしれない。そうではなく、ようやくの10億円達成というのが今。それはインディペンデントな規模では成功でも、他に多々ある映画としてはようやく同じ土俵に上がれたに過ぎない。そして今後、作られる同じように良い作品が口コミを呼んでも、これだけの規模になるとは限らない。

 そんな自覚を改めて持たないと、良い作品さえ作ればマスコミなんていらないぜ、って作品至上主義であり権力否定論者的なサークルに止まって、観て欲しい人たちへのアプローチを逃すことになる。準備は大切。作品性も重要。マスコミだって使えるなら使う。マスコミの方もタレント性だの原作がメジャーだのといった分かりやすいフックだけでなく、作品性でもって評価する意義を知る。そんな考え方が「この世界の片隅に」の成功を機会に、生まれ広がっていけば今後も多く作られるだろう長編アニメーション映画にとって嬉しい限りなんだけれど、やっぱり目立つ作品、タレント性で数字がとれる作品にマスコミの目は向き、フックが足りない作品は置いていかれるんだろうなあ。今だに民放キー局でののんちゃんの出演はほとんど皆無だから。この状態が世間では不思議でも業界では当然なのが恐ろしい。

 「この素晴らしい世界の片隅に祝福を2」。いかんちょっと混ざった。「2」がついたのは「この素晴らしい世界に祝福を2」という続編が始まったからで、第1期でもって機動要塞デストロイヤーを止める偉業を成し遂げ街を救ったカズマたちだったけれどもその際に転移させた動力源が領主の家を吹き飛ばしたことで罪に問われ、検察官によって引っ立てられて尋問を受ける。その検察官がメガネでグラマラスで実に可愛らしいんだけれどそれで気を緩ませるとすぐに突っ込まれてはい有罪。臨んだ裁判でも証拠不十分から裁判長が無罪にしようとしたら領主の圧力で有罪に変更させられそうになって、カズマにはいろいろと難題が降りかかりそうだけれどそこはやっぱり主人公。あっさり逆転して解放されて次の冒険に出ていくんだろうなあ。といった展開を想像しつつ観ていこう、だらだらと。


【1月11日】 日本だと何か良い話的に伝えられていたメリル・ストリープさんによるゴールデングローブ賞贈賞式におけるトランプ次期大統領への批判スピーチだけれど、その中でちょっと引っかかる部分があって世界はどういう反応を示すんだろうかと気になった。それは「ハリウッドにはよそ者と外国人がたくさんいる。その人たちを追い出したら、あとは、アメリカンフットボールとマーシャルアーツくらいしか見るものがなくなる。マーシャルアーツはアーツ(芸術)ではないけれど」。まあそんな感じ。

 英文だと「And if we kick them all out you’ll have nothing to watch but football and mixed martial arts, which are not the arts.」って感じで、それをニュアンスも含めて訳せる英語力(えいご・ちから)は僕にはなく、あるいはマーシャルアーツって言って、そこにアーツってあるけどいわゆる芸術文化としてのアーツじゃないよって、半ば冗談めいて言葉を添えた程度なのかもしれない。でも、やっぱり何かを引き合いにして自分たちへの抑圧を訴えるとそこには分断が怒りたたき合いが生まれかねないので気をつける必要があるのだった。

 「芸術」への抑圧を訴える時に、どうして「スポーツ」を引き合いに出す必要があったのか。そう思ったら、やっぱり本国の方でももんだいになっていたらしく、マーシャルアーツの大きな団体のトップがこれだって立派に「アーツ(芸術)」だから是非、見に来てくれよと誘ってた。そこで乗り込んだメリル・ストリープが並み居る男どもをなぎ倒して勝利したら愉快だけれど、そういう対立をしている場合じゃないってのが今。なのにこうやって分断が起こって争いが起こる。日本なら有害コミック論争なんかを経て、良い漫画と悪い漫画なり良いアニメと悪いアニメといった分断から、慰撫と弾圧の繰り返しを招きかねない可能性について感じている人が多い。だから不用意な比較を伴う一方の称揚は避けた方が良いと分かっているだろうけれど、それでも単純化による波及には勢いがあるからなあ。それで足下をすくわれてはたまらないので、言うときは慎重に。そしてクリティカルに。

 予約し忘れていたけれども、スタートした瞬間に録画のボタンを押せたんでほとんど入った「ACCA13区観察課」がオープニングからしてスタイリッシュでストーリーもクールでスリリング。ぼんやりしているような愛煙家のジーン・オータスがあちらこちらに出かけていっては、不正をただすといったストーリーが見えたけれどももっと別の、権力の暗部にうごめく大きな不正を暴くような展開になっていくのかそれとも。オノナツメさんのキャラクターはやっぱりこうした西洋風の方が良いかなあ、男も格好いいけど女の子たちも可愛いなあ。本部長のモーヴがとてつもなく格好いい。パンツスーツ姿の制服もグッド。声が田中敦子さんでもう完璧。いっぱいの登場をこいねがう。

 2016年 第90回キネマ旬報ベスト・テンで日本映画の第1位になって翌朝のワイドショーがまるっと無視する感じの中で、TBSラジオは伊集院光さんがラジオで録音とはいえ片渕直監督へのインタビューを放送。ずっとすごい映画と言われながらも見るのをためらってたいけれど、TSUTAYAで映画を借りて見るコーナーに登場してもらうに当たってやっぱり見ておこうかと映画館に行って見てこりゃすごい、このすごい映画について語ってもらう時間が欲しいを番組に掛け合いつくった時間で、古い映画について話してもらう企画とは違う、「この世界の片隅に」について語ってもらったそうで、それがもう実に深かった。

 縁、というものがあって例えばこうの史代さんの漫画をようやく読んでこれは自分が是非にアニメーションにしたいと手を挙げたものの、果たして受けてもらえるか分からなかったのが、話を持っていくとか「名犬ラッシー」を見ていたらしくてそれならといた感じになったらしいし、演出補の浦谷さんがダイビングの教室に通い始めたらそこの先生が番組に絡むことになってしばらく休みになって、それはどんな番組かと見始めたのが「あまちゃん」で、そしてのんちゃん能年玲奈さんの存在を知って声を頼むまでになったという、そんあ縁。そしてのんちゃんは自分がオーディションを受けるならこの役は私だといった感じの手紙を自らしたため訴えたとか。伊集院さんはそこで今後、そうした直訴めいた訴えをマネージャーさんの仕込みでタレントさんがやるようになるかもしれないけれど、自発的にやれる人は違うよねって話してた。そこを見極める目も受ける側に求められそうだけれど、まあ分かるよなあ、プロたちだから。

 声についての話もあって、のんちゃんはやっぱりすごいけれども片渕直監督は、やっぱり声優という枠に縛り付けるよりはいろいろな分野で女優として活躍して欲しいと話してた。自分以外の作品で好演することへの嫉妬めいた感情はそりゃあ皆無ではないけれど、でもあれだけの才能を囲うのも限るのも勿体ないし、文化に対する犯罪でもあるから。声についてはお姉さんの径子さんについての言及もあって伊集院光さんがどこかイジワルでけれども優しい人って分かる声を出していると褒めていた。尾美身詞さん。実はキャンディーズの藤村美樹さんの娘さんだそうだけれど、役者として舞台に立ったり吹き替えのお仕事なんかをしているらしい。本当はすずさんでオーディションを受けたけど、それも年齢的に無理と分かりながら絶対に関わりたい作品と思ったから。だったらと代わりに出した声が今と同じ。これならと採用。縁だなあ、やっぱり。

 国立近代美術館フィルムセンターで押井守監督の「紅い眼鏡」を観た。実は初めて。実写トリロジーのDVDボックスは持っているけどなんか見る気が湧かなかったというか、観てもまあ押井守監督だろうなあと思ってうっちゃっていた。そしてようやく観た『紅い眼鏡」は押井守監督だった。主に実写の。そして大体においての。権力への反抗だのなんだのと言った全共闘的なタームなんてもはやかすれ始めてアナクロな対立の中に右も左もバカばっかと言った雰囲気を醸し出す舞台装置に過ぎない時代、そこで過去に縛られ逃げ続ける男とそれを追う権力を持ち出しスラップスティックな展開を作り出そうとした、といった感じ。

 やってる演技はクソ真面目だし舞台装置も意味深でカメラワークもアーティスティック。だから見た目はとってもドタバタなアニメーションを作っていた人の絵とは思えず映画青年の本領がいよいよ発揮されたと思ってしまいそうになるし、もしかしたら公開時に観ていたらアートな押井守監督のオーラを勝手に見て虜になって称えていたかもしれない。でも数々の実写作品を後に作ったものを観て、そしてアニメーション作品に方も観て結局は最初から最後まで変わらず、実写だろうとアニメーションだろうと同様に、シュールな舞台を整えクールな演技をさせつつどこかシニカルに、そして含笑いをしながらスラップスティックな物語を組み上げ観る人を煙に巻き、けれども頭良いものを観たと思わせる、そんな映像作家なのだと思うようになった。その原点にしてもはや到達点とも言えるのが「紅い眼鏡」という映画なのかもしれない。

 千葉繁さんはまだ若くてスリムだけれどアグレッシブ。鷲尾真知子さんは後に頻繁に顔出しするようになる、その片鱗を見せ田中秀幸さんはそのまま役者だってできそうな活躍ぶりを見せてくれた。玄田哲章さん。声の人だなあ、いや小池朝雄さんのような役者もできたかもしれないけど、声の良さが際立っている。仕方がない。古川登志夫さん。誰だろう。後で探してみよう。永井一郎さんはやっぱり板から来た人だから役者をやらせてもうまい。天本英世さん。天本英世さんとしか言いようがない存在感。大塚康生さん。今と変わらないなあ。

 そんな役者の配置も面白く展開も現実が幻想に飲み込まれおいつ追われながら繰り返される時間をもがきながら走っているよう。夢の中で逃げていて逃げ切られなさそうなのに逃げなければいけないあの感じを、映画としてストーリーの中に作り上げた。その意味ではすごいかも。というかそれは「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」であり「AVALON」でもありと、つまりはやっぱりどこまでも押井守監督なのだ。退屈はしないし楽しめるし観た後にこうやって考えることもできる映画。でもやっぱりもう1回観るとなると……。兵藤まこさんを観たいがために観るかなあ、あとはモーゼルミリタリー。大好きなんだよあの拳銃。



(ACCESS COUNTER '96.07.20)


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