最近のとしろうのお仕事           2013.5.1
@重松 清氏と対談しました。とても深い話になったと思っています。良かったら『総合教育技術』誌4月号(小学館)に掲載されているので、読んで下さい。

A今、NHK Eテレ(教育TV)に『いじめをノックアウト』という番組が放映されています。金森はその番組の専門委員です。毎回、番組について、教師向けに指導コメントをかなり長く書いています。番組を観たり、コメントを読んで頂けたら幸いです。
なお、番組案内やコメントはインターネットで「いじめをノックアウト」で検索し、 「特別活動 小学3〜4年 いじめをノックアウト NHKfor school」の項をクリックすれば詳細が分かります。

ちなみにコメントは以下のように書いています。若い教師に分かりやすく、という条件のため、私としては丁寧に書いているつもりです。
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 金森先生のコラム二回目のテーマは「あだ名は禁止するべきですか?」です。
あだ名はいじめにつながるので、禁止すきだというのは、アンナさんの考えです。きっと、アンナさんか友人が、ひどいいじめを受け、それがあだ名と深くかかわっていたと想像できます。そうです。こんな場合、まず、禁止が妙案かどうかよりも、具体的な場面を想像できるかどうかがまず問われます。私が想像したある場面、「足ロボット」と言われたA君のことは後で述べます。

 番組で高橋さんは、あだ名を一律に禁止することは「何か違うものも減ってしまう気がする」と言い、アンナさんを説得するにふさわしいルールを考えています。「何か違うもの」というのは、集団生活を送る構成員が、次第に関係性を深め、自然にその人らしい愛称=あだ名で呼び合うことによって、さらに気軽に楽しく接するような親しみ、柔らかさ、おおらかさなどが希薄になるのではと考えてのことでしょう。だから、高橋さんはルールを作ることに戸惑いつつとても慎重に考えています。

 番組を見ていると、高橋さんが考えているのは、ルールというより、あだ名をつける側が大切にしようよ!気を付けようぜ!という確認・合意事項だと考えるべきでしょう。番組で重要なのは、以下のことです。
@自分の気持ちや生活を綴る「かがやきノート」という仲間と教師に伝える手段(方法・道具)とルートが準備されていること。・・・以下略」
迎 春!
 新しい年、それぞれの人生がより一層充実することを祈っています。例によって近況報告です。今年4月に67歳に。11年に槍が岳に登った際には左肩・腕が全く動かなくなり、肝心の槍先には登頂できず、12年の白馬岳では途中の小蓮華山辺りで青息吐息の状態で体力衰えをとても実感。
 昨年4月、初代金森ゼミ生が小学校教員、幼稚園教員、保育士などの職に就きました。何とか子どもにしっかり向き合い、情熱的に悪銭苦闘しているだろうかと気になっています。我が新米時代、小松・那谷小の宿直室に寝泊まりし、毎日「生活ノート」に赤ペンを入れ、学級通信を出し続けていたこと、朝、子どもに起こされすぐにグランドでサッカーに興じていたことなどを思い起こしています。
 昨年の一大事業はオランダに招聘されて、12日間で15都市を巡り、24回の講演・授業をやりとげるという過酷すぎるボランティアでした。日本に比しまだまだ弱い段階の学力競争にオランダの教師や学校の支援に関わる人達が危機感を持ち、それを乗り越える哲学・教育学、教師論を私から学びたいという姿勢・熱意に驚きました。そこで多くの友人・見聞をも得た旅はまさに38年間に渡り共に学んできた教え子たちからのプレゼントだと思っています。
 大学、いしかわ県民教育文化センター、森は海の恋人サークル、憲法を守る、反核・脱原発・・・の仕事・活動はまだまだ続きそうです。
 
 本年もよろしくお願いします。
2013.1.1
金森俊朗
10日間で23回、4000人参加のオランダ講演
中高生にも授業をしましたが、とても感動的に受け止めてくれました。
子どもの求めているものは、どこも同じだなあと実感しました。
詳報は今後HPに書きますが、オランダでの授業の様子を添付してみます。
「オランダ講演・授業記@」



北陸中日切り抜き 2012.11.1

久しぶりの文になります。大津市立皇子山中学校を始めとする「いじめ」による自殺事件で、知人やマスコミからもコメントが求められました。何よりも保護者、子どもが強い不安感をもっています。大切なことは、大津市立皇子山中学校事件の推移(マスコミはそればかり)ではなく、自分が関わっている学校や家庭で、何が欠落し、何をすべきか、できるかを問い、一歩踏み出すための話し合いでしょう。8月17〜19日の鹿児島での二回の講演、26日の石川交流研での講演にも触れるために以下にメモ的に大切なことをまとめてみました。できたら、26日の午後、ぜひ聞きに来てください。
子どもを信頼し子どもと共に
問題解決に立ち向かう中にこそ
希望が見いだせる
金森俊朗 
大津市立皇子山中学校を始めとする「いじめ」による自殺事件が問うていること

@3.11が問うたことに教育・社会が真剣に応えていない状況の浮き彫りでは、と私は考えている。・・・被災者の共通の思いは、そこにあった日常生活、家族・友人を始め、作物が実る大地、子どもが駈け飛び回る大地、流れる川、幸豊かな海など緑豊かなふるさとが奪われることの怖さ・悲しさの訴えである。安易な「がんばれ、がんばろう」ではなく、彼等一人ひとりの個の悲しみのリアリティに徹底して寄り添い・共感することの教育・子育てが問われていたのではないか。例えば、まず教師や親が『つなみ』『つなみの子どもたち』森健、『希望の地図』重松清を読めば、何をバトンとして受け止めるべきかが問われている。被災者が大きな犠牲の上に、絞り出して発した想いをこの一年半の間、教師や親は全身を込めて子どもと考え合ったのか。3.11以後のいじめの受け止めは私には深刻である。

A子どもと子どもを本気でつなげる、子どもと教師がつながる、教師と親がつながるには、関係性をつくり変えるような豊かな活動や発見・出会いに胸震わせる学びが必要である。それらを通して、子どもを丸ごと、生活・社会との関係においてようやく少し捉えることができる。   
道徳の重点的実施研究(皇子山中学校は道徳の研究指定校だった)やアンケートでは上記三者の関係性をつくり変えることはできない。子どもを深く捉えることはできない。

B度々アンケートによる調査を繰り返しているが、子どもは調査対象者ではない。「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者を育てること」(47年教育基本法)が教育や子育ての目標である。「問題を調べ解決する」「困難を打破する」「危険・悪から逃げる」「正義を実現する」主体者である。主体者として育む道筋において、種々の問題状況を認識し合い、話し合いによって解決、共感する教育の追求こそが重要である。

Cいじめ問題はむろん、生きづらさの問題(不登校、貧困、虐待、リストカット、摂食障害、不安等)の全てに共通している課題は、友をつくる力、人との関係性、自然・文化との関係性を育む力である。さらに新たに強調したい力は生き抜く知恵としての「逃げる力」を自覚的に追求すべきだと考えている。その「逃げる力」を発揮するには、状況を多角的に捉える力、選択肢を多く考える力が必要である。

D思春期的な課題の一つとして今、強調したいのは、孤独感・不安感・激しい揺れを強く持つ時期だけに「孤独に耐える力」だと考えている。
a、たっぷり愛された、聞いて貰った、支え助けて貰った人と体験をつくり続け、その自覚を強める。
b、自分を種々の角度、世界から見つめ、励まし、ゆったりさせてくれる、あるいは対話ができる、ときには逃げ場になる、競争・序列とは無縁な海・山、読書、音楽、料理、天体観察、登山などの時や場、趣味特技を育てる。(『君の友だち』重松作品の雲が好きな女の子) 

E大人社会にはかつてよりは増加し、多彩にあるにもかかわらず、子ども社会には激減したフェスティバル・カーニバル文化、ガキ文化の復権と「快」の感性を育むことの大切さ → ストレスの発散、攻撃・暴力性の昇華

F被害の深刻さ、悲しみの教育は多いが、「加害」の教育はきわめて弱い。加害、犯した罪の深さの自覚の典型は、灰谷健次郎指導「チュウインガム一つ」(作者村井安子3年)。金森は「ごんぎつね」でごんを撃ち殺してしまった兵十を読むことに挑戦(『子どもたちは作家になる』)。いじめ加害の手記を使用して加害の教育の充実を。


G貧困、弱者いじめの政治、学力テスト体制(競争・序列・排除)、教師の多忙化強化の下では、いじめを始めとする「生きづらさ」の諸問題の多発、深刻化は、全て想定内でなくてはならない。4月からの学校・学級づくりと地道な積み上げが問われている。

Hしかし、『反原発・再稼働ストップ』運動を典型として、新しい生活・地域を変えていく、問題に立ち向かう姿が強く大きく社会・歴史の前面に見えている。その身近な「実像」(ほんものの人)との出会いを創る可能性は強まっている。

新年のご挨拶  

春よ 来い !  早く 来い !     
 昨年槍が岳、白山登山直前に肩や腰を痛め、そろそろとやっと登る。槍が岳では左手が全く動かなくなり室堂からの登頂は断念で悔しい思い。冬はやたら寒さが身にこたえる。電車内で長く読書ができない。あ〜高齢者! だが何とかまあまあ元気。 
 
 大きな衝撃を受けた3.11。平和サークル「むぎわらぼうし」で核兵器・原発の学習会を何年間も続け、志賀原発訴訟の原告団の一員にもなっていたが、また2010年12月の日生連石川サークル研究集会において鎌仲ひとみ監督を招いて「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映&講演会を開催したものの、まさかの大災害。それ以降、津波・地震・原発・自然エネルギーの学習や被災した子どもたちの作文や教師・保護者の手記を読む。被災者の内面世界と立ち上がる力から学ぶことに、また気仙沼・畠山氏への支援の一環として、金沢親子学習サークル「森は海の恋人」活動の活性化に努力。今、宮城・福島から要請された講演はボランティアとして行くつもりでいる。
 しかし、「本当に私たちの苦しみを知ってがんばれと言っているのか?何をがんばればいいのか?がんばれば放射能はなくなるのか?」という福島の高校生の怒りと批判的な問いに、どう応えるべきか答えを持てない。最低限やらなければならないことは、被災者の悲しみ・苦悩を忘れず、自分たちの地域からの生存権保障・幸福追求権への闘いを強めることであろう。個人の節電やライフスタイルの見直し程度では済まない。
 孫がようやくできただけに、彼等若い世代にもっとこれからを生きる希望を手渡したい。私の誕生のとき(1946年4月8日、2日後の総選挙において39名の女性議員当選)日本国憲法(11月公布)が手渡されたように。だからやっぱり引き続き、いしかわ県民教育文化センター・日本生活教育連盟・大学などで、また講演・執筆を通して、多少なりとも楽しみながら活動しなければと思っている。8月は日本生活教育連盟全国研究集会を石川(片山津温泉)で開催。その開催実行委員長の大役も仰せつかりかなり多忙に。また今年9月、再三要請されていたオランダ講演に行くことをとうとう決意。何よりも体力が求められる。

 みなさん、身体を大切にゆったりとがんばりましょう。楽しみましょう。
 本年もよろしくお願い致します。
『あなたと民医連をつなぐ月刊誌 いつでも元気』4月号から「金森俊朗の教育論
 仲間といっしょにハッピーに生きようぜ!」と題して1年間連載中なので良かったらお読み下さい。
HP掲載原稿は9月号に掲載されたものです
相談されたら優しく包み込んで  
わが子や仲間・同僚の子がかなり深刻ないじめにあっていると分かったらどうすればいいのでしょうか。
 
叱咤激励、非難は禁物
 いじめは文科省調査によると中学校一年生を頂点に小学校高学年と中学校に多発しています。この時期には、〈親離れ〉と〈自分くずし〉を進行させ、他者に情けない弱い自分を自ら晒すような事態をできるだけ避けたいのです。ひたすら耐える場合が多いのです。だから、いじめられていることを親に相談するのは、あるいは親が気づくのは深刻な事態に陥ってからになりがちです。  
 そもそもいじめの本質は、圧倒的な「優位」者かグループが、精神的肉体的な暴力によってその人がその人らしく生き、学ぶ権利(日常)を奪う行為であり、その人の人間的な誇り、尊厳を著しく傷つけ、人間への信頼感、生きる希望を奪う行為です。相談は、孤独化と無力化に苦悶し耐え、わずかに残された親への信頼感と勇気を振り絞ってのSOSです。相談すること自体が闘いなのです。
だから「元気、勇気を出していじめに負けるな、がんばれ!」や「あなたのこんな面が悪いから」という傍観者的な激励や非難的な態度は子どもを絶望に追い込むことになります。「どんなに辛かったことか、よく相談してくれた」と包み込み、共感することです。そして加害者から引き離し、共に夜空を見、山や海岸を歩き、共に寝て、安心感と温もりを与えることです。「私にはとことん支え守ってくれる家族や仲間がいる」という実感が子どもから生まれるまで休ませればいいのです。 

ともに苦しみたたかう姿勢で
 感情的になって学校や加害者、その家族に立ち向かうことは事態を悪化させるだけです。「子どもと共に苦しみ闘う」と自分を落ち着かせ、いじめを乗り越える戦略を家族、仲間と共に練ります。
 戦略の第一は、子どもの話をじっくりと聞き、子どもなりの「誇りと自信」を守り強めることを中心にします。
 第二は、わずかにあるはずの友や教師のさりげなく心配する眼差し、言葉かけをていねいに見いだすことです。話の中心がどうしても加害・被害の関係性に絞られ、日常の関係性における希望を過小評価しがちです。
 第三は、教師、加害グループの保護者、学級・学年の保護者に抗議ではなく「相
談」という要素を強めて、まず誰から当たっていくかを吟味することです。安易に担任に相談すると、配慮無く加害者を呼びつけたり、学級全員の前で叱責して、かえって事態を悪化した事例もよく耳にします。
 第四は、戦略の進行を子どもと家族や仲間と共に話し合いながら充実させていくことです。特に大人・働く人・市民として、いじめ・差別・抑圧にかかわって弱さ、醜さを含めてどう生きてきたかを我が子に率直に語ることを大事にしたいものです。
 
加害者の母も「心配していた」と
 知人からいじめ相談を受けたことがあります。中一の娘が部活の同級生から虚言による悪者に仕立てられ、無視・排除・孤立化させられ、やがて学級にまで広がろうとしている状況でした。
当初、夫が娘や妻にも原因があるかのように怒り非協力的な態度を取ったこともあって、知人は取り乱していました。知人が教師や加害児の保護者に抗議的に迫ろうとするのを何とか押さえ、戦略を練りました。まず最も話を聞いてくれそうな加害グループのある母親に事情を説明したところ「娘から話を聞いて心配していたところだ」との返事。いじめグループに属する我が子がいじめている知人の子をひそかに心配していたこと、母親もまたいじめに同調してしまう我が子を心配していたことが分かってきました。
そのようにして好意的な保護者を二人見いだし、第三点に少し希望が見いだせたのです。やがて、担任に相談し担任から部活の担当教師に働きかけてもらい、いじめグループは弱体化します。 
 こうした事態の好転は知人の娘に元気と周囲を冷静に見る余裕を与え、傍観者的だと思っていた子の中に友を見いだし、仲良くなります。第二点目に希望が見えたのです。どろどろしている現実を簡単に書きました。いじめの中心者はあまり変わっていないようです。でも、確かに変わったのは、いじめられていた子でした。新しい友を得たこと、友を見る目を深めたことです。さらに、親から本気で愛されていることを確認できたからです。
 知人は最近「いじめからのSOSだけではなかった気がする。中学生になって期待をかけるだけで本気で愛しているのかと迫られたんだと思う」と語りました。すばらしい問い直しと学びでした。娘さんは看護師になりたいそうです。

 
子どもが持つ力に確信もって
 いじめの多くは学校という特定集団における関係性から起きますが、解決もま友や親・教師との関係性がもつ力に左右されます。いじめ問題に限らず現実に直面する多くの問題解決は困難を極めます。そのとき、私は子ども(人間)が持つ立ち上がる力、さらに人と人とをつなげる力が希望を生み出すことに確信を持つことだと思っています。
 その確信を青年教師だった私に刻んだ子どもたちがいます。放課後、いつものように校庭で男女仲良くサッカーを楽しんでいた我が学級・六年生の子どもたちが、気がつくと運動場の片隅に車座になって何やら話し合いをしていたのです。気になって私が近づいていくと、一人の女子が泣きながら離婚家庭の悲しみを語っていました。他の子どもたちも、家庭や友人関係での悲しみを語っていました。
 きっかけは、ある男子が転校後間もない女子に体型を揶揄した言葉を投げつけたことです。泣き出した子を女子たちは守りながら、サッカー中止と話し合いを要求したのです。その子が離婚による転校であること、悲しみに傷ついていることをすでに受け止めていた子が話し合いをリードしていました。
「私たちだけで解決するから先生は職員室にもどって。習い事もすっぽかしている子もいて真剣なんだから。明日ちゃんと報告するから」と追い返されました。
薄暮まで自主的に話し合っていた姿に私は感動しました。
『あなたと民医連をつなぐ月刊誌 いつでも元気』2011.9月号掲載
金森俊朗
2011.9.1

歴史に誠実であること  
 原稿執筆に悪戦苦闘中、地震・大津波・原発事故が起きました。底知れなく広がる死者と被災者、被害状況に、心震わせながら多くのことを考え続けました。書きたいことの多くは別の機会に譲るとして、本書との関連で少しだけ書きます。
最も考えたのは、過去の歴史から私たちは十分に学び、教えようとしてきたのかということです。869年の「貞観地震」を始めとする大地震・大津波の研究、その被災者たちの言い伝えや村づくりなどから、また、1945年のヒロシマ・ナガサキ、1986年のチェリノブイリ原発事故を始めとする核・放射能の恐ろしさなどからの学びと生き方の問いつめです。ここでは前者にのみ触れます。
私が注目した一つは、歴史からの学びに誠実であった地域の事例です。種々のニュースをまとめると以下のようになります。

 【宮古市重茂半島の姉吉漁港から2`延びた急坂に「此処より下に家を建てるな」との戒めを刻んだ石碑が立つ。明治・昭和の三陸大津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた後、住民が石碑を建立。戒めを守り村づくり。大津波警報発令で港にいた住民は、高台にある家を目指して曲がりくねった約800bの坂道を駆け上がる。巨大な波が濁流となり押し寄せ、石碑の約50b手前で止まった。「幼い頃から『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のお陰で全家屋が守られた」と自治会長は語る。】

 二つ目は、日常の津波や地域学習と避難訓練を生かしつつも危機に際し、自主・自治・共同を生かした学校(教師・子ども集団)が多く見られたということです。特に釜石市鵜住居町の住民で指定避難所・防災センターに避難した大半が死か行方不明に対し、その地域の小中学校生562人は全員無事と対照的でした。
中学生は、歴史からの教訓「津波てんでんこ」の学びを生かし教師の指示を待たずに高台を目ざして走り、途中小学生にも声をかけ、小学生の手を引いたりおんぶしたという。高台に着いたが誰かが「まだ危ない」と言い出したので、さらに高台へ。学校から1`、高台に向かって小学低学年生が全員無事走りきるのは容易ではありません。

 「てんでんこ」の中の統制と自主と協力共同、坂道を協力して走り切る身体性、柔軟な判断力は、住民以上であったのです。危険を予知・察知し、逃げる・避ける・乗り越えることを含んだ、この地域に根ざした「文化としての身体」が育まれていたことに私は感動しました。
 三つ目はライフスタイルの見直し問題です。否応無しの「便利だが脆(もろ)い」生活、社会の追求の中で、「不便だが強い」生活、子育て、「文化としての身体」性の重視・拡充が迫られました。

 今後、大震災の検証が進む中で何を学ぶべきかがもっと明確になるでしょう。
本書を読み終えて、危機に対応する子育て・教育を改めて考え、家族・仲間・同僚たちと話し合っていただければ幸いです。

亡くなられた方を悼み、被災者の一日も早い復興を願って
2011年4月8日 65歳誕生日に  金森俊朗  
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以上は、拙著『生きづらさに苦悩する子どもに向き合う子育て・教育への構図』
(2011年5月6日・北陸学院大学発行・ブックレット・800円)の「あとがき」です
金森俊朗
2011.5.2


畠山さん
気がかりでたまらなかった気仙沼の畠山さん家族の消息は、先日東京在住の娘さんのブログにて判明。23日畠山さんのHPに以下のメッセージが代理によって掲載されていたことを東京の友人が教えてくれました。もう一つの記事の方は、仙台の河北新報社のものです。

畠山さんの所へ金沢の「森は海の恋人」の仲間と共に二度訪問。その際、私の手を何度も握ってやさしく「先生、いい仕事をしてるね。子どもとまた来て下さい」といっていた笑顔のおばあちゃんが亡くなってしまいました。本当に悲しいです。しかし、重篤さんはその実母を奪われても、強く養殖場を復活させようと無事だった家族と共に決意しています。お見舞いを申し上げると共に、復活・復興を心からお祈りすると共にできる応援を模索したいと思っています。

まずは、エッセイと記事を転載します。
金森俊朗
2011.3.24
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<<畠山重篤 緊急エッセイ>>

三月十一日午後二時四十六分。三陸沖を震源とする大地震があり、大津波警報が発令されました。地震の大きさから三十年以内に九割の確率で起こると言われていた三陸沖津波か、と覚悟を決めました。私の経験の中で最大の津波は、五十年前のチリ地震津波です。気仙沼水産高校二年の時でした。

ゆっくりとした大きな揺れが続く中、わずかな時間で三台のトラックを高い所に移動させました。チリ地震津波の到達水位よりもずっと高い所です。やがてあっという間に湾の中の潮が流れとなって引き始め、岸壁の底までが露わになるほどに干上がって行きます。大きく潮の引いた舞根湾を見ると、みるみる海の水が塊となって膨らんでゆきます。津波の第一波です。岸壁を勢いよく超えた流れに乗って岸壁の船が次々と陸へ流れ込み、海辺の養殖場の事務所や加工場へものすごい勢いで流れ込んできます。湾に整然と浮かんでいた養殖筏が水の塊と一緒に次々と湾の奥へと流れ、あらゆるものと絡み合っています。いつもは水面から7、8mはある牡蠣の水揚桟橋の屋根近くに水が迫った時、これはチリ地震津波とは桁が違うと悟り、高台の自宅の庭まで駆け上がりました。我が家は海抜25mほどです。

家に残っている家族と高台の自宅から湾をうかがうと、第二波が押し寄せています。第二波は第一波の数倍の高さの「水の壁」です。舞根地区はほとんどが我が家より低い海辺にあり、ほぼすべての家が海に飲み込まれ、ナイヤガラの滝のようなものすごいスピードの引き波で、轟音と共に一瞬のして蹂躙されてゆきました。まさか自宅まで、、、とは思いましたが、どこまで上がってくるか来るか分かりません。
三才の孫を抱きかかえ、裏山の藪の中を少しでも高い所へと駆け上りました。ぎゅっと抱き着いている孫の顔も引きつっています。崖の上から恐る恐る振り返ると、高台の自宅へと続く坂の一番上まで水が来ています。すべてを覚悟して、更に山の上へ、上へと木々をかき分け、逃げ続けます。山の上の道には、やっとの思いで逃げてきた人たちが集まっていました。高齢者を車に乗せた人たちが多くいます。涙交じりで口々に身内の安否を気遣っています。我が家でも連絡の取れない、学校や幼稚園へ行っている孫たちは大丈夫か。また、カキパパに聞くと三男が船を沖合に脱出させる、と出て行ったというのです。津波は沖合では大きな「うねり」ですので、比較的安全なのです。でもそれは時間との闘いでもあります。押し寄せる波より先に沖に出られたのか。心配です。
夕闇が迫る頃、気仙沼の方向でものすごい爆発音が続き、黒煙が真っ赤に染まった空を覆い始めました。石油タンクが津波で流され、流れ出した油が燃えているようなのです。空は空襲の様相です。

闇夜にみぞれが降り始め、高齢者が多いことから毛布などを手に入れるため、恐る恐る自宅の様子を見に行きました。庭先まで水が上がったようですが、何とか大丈夫なようです。たくさんのロープや浮き球などが庭先の木々に絡まって揺れています。まだ潮は動いていますが、どうやら峠は越えたようです。その晩から我が家を開放して、三十人ほどの共同生活が始まりました。ほとんどが高齢者、介護が必要な方もいます。

津波から三日目、船で沖に向かったまま安否が確認できなかった三男が、生きて家に帰ってきました。唐桑瀬戸まで出たものの、第一波に遭遇して大島瀬戸へと押し流さ、木の葉のように潮に飲まれる船を捨てて海に飛び込んだそうです。ものすごい速さの波に乗り、大島へと二百メートルほど泳いで、命からがらたどり着いたところを助けられたそうです。流れ着いたのは海抜20mほどの家の庭先だったそうです。島からは自衛隊のヘリで避難所へ救出され、ようやく家へとたどり着いたようです。

そのことと引き換えになったのでしょうか。一方でとても悲しいことがありました。気仙沼市内の特別養護老人ホームにいた母、小雪が津波に巻き込まれてしまったのです。冷たい水に浸からせてしまいました。泣くに泣けない心境です。

もう十日が過ぎ、陸側の残骸とは対照的に、海は何事もなかったように静かな姿を取り戻しつつあります。海鵜(ウミウ)が数多く飛来し、盛んに小魚を食べています。海の生産力には変わりはありません。

何年かかるか分かりませんが、養殖場を復活させようと息子たちと話し合っています。
全国の皆さん、どうか見守っていて下さい。

                           畠山重篤
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≪河北新報社の記事≫

宮城のニュース海 必ずよみがえる 気仙沼の畠山さんが再起の誓い

施設が破壊された養殖場で、再起を誓う畠山さん=20日午前11時30分ごろ、気仙沼市唐桑町

 豊かな海をはぐくもうと、気仙沼湾に注ぐ大川の源流域に広葉樹を植える「森は海の恋人」運動。全国的にも知られる運動を20年以上、引っ張ってきた宮城県気仙沼市唐桑町のカキ養殖業畠山重篤さん(67)は、津波で93歳の母を亡くし、養殖場も壊滅的な被害を受けた。失ったものは大きいが、畠山さんは「海は必ずよみがえる。自分には海しかない」と再起を誓う。
 畠山さんによると、唐桑町西舞根の養殖場には、20メートル近い津波が押し寄せたという。カキやホタテの水槽がある作業小屋は全壊。たくさんのホタテが、口を開けた無残な姿をさらしていた。養殖施設が全滅し、5隻の船も失った。「去年のチリ大地震津波の被害から復旧し、これからという時だっただけにつらい」。海を見つめ、畠山さんはつぶやいた。
 母親は気仙沼市鹿折地区の福祉施設で津波に巻き込まれた。「老いた母を冷たい海に漬からせてしまった」と悔やむ。
 宮城県南三陸町や石巻市、岩手県内の養殖仲間とも連絡が付かない。養殖を再開するにも、今回のような大津波の再来を警戒しなくてはならない。海底に何が沈んでいるのかも不安だが、畠山さんは「へこたれてはいられない」と顔を上げる。
「これまでの経験だと、津波の後の海は、カキやホタテの成長が倍以上、早い。人間さえ元気なら、海は元通りになる」
 毎年6月、大川上流の一関市室根町で植樹祭を実施してきた。これまでに参加した全国の人などから心配の声が寄せられている。畠山さんは言う。
 「チャリティーのような形で今年も植樹祭をしたい。自分のやることをやるだけさ」
                  (丹野綾子)2011年03月21日月曜日 

「支え」
 1月29日武蔵野大学にて「手が拓く世界」の授業をしました。学生に「我が人生で、我が手が生み出した、または誰かの手が生み出してくれたドラマをぜひ掘り起こして欲しい。宿題です」と言いました。金沢に帰る飛行機の中で、何年か前の鎌倉でのドラマを思い起こしました。
・・・・・・・・・・・・・・
 神奈川にMさんという足にハンディをもった友人が住んでいます。東京に住んでいる友人たちと私の金沢に住む仲間たちとで、かつて何回か鎌倉を散策しました。そんなとき、歩きづらいMさんの「支えになって」散策することが何回かありました。あるとき、Mさんは私の腕につかまりながら小声で「あ〜、これで楽に歩ける。先生にしか言えないけれど、Yさんといっしょに歩くと、すごく疲れるの」と言うのです。言いたいことがすぐ分かりました。
 私より少し若い仲間のYさんは、どちらかというと自ら積極的に人とのつながりを求めようとしないタイプです。私に「たまにMさんと歩いたら」と言われ、がんばろうと思ったのでしょう。Mさんの腕を自分から持ち上げ、引っ張るようにして、つまり強く支えるようにして歩いていたのです。そうするとMさんは、体のバランスが崩れ、歩きにくい上に、常にYさんのスピードに合わせようという意識になり、疲れるようです。彼は「支えてあげる」という意識が強かったのでしょう。
 私は、Mさんと歩くとき、両手をズボンのポケットに入れ、やや腕を「く」の字型にします。どちらの腕につかまるか、腕を組むのか、強くつかまるか、軽くつかまるか、離すかは全てMさんの意志です。Yさんが手を離して立ち止まるのは、休憩か、あるいは何か凝視したいものに出会ったか・・・です。
そうすると私も立ち止まります。でも、多くはMさんから、言葉がかかりますから、そんなに気を遣いません。私は「支えてあげる」のではなく、「支えになっている」だけです。どうして私がそうするようになったかは、自分でもよく分かりません。多分、圧倒的にMさんと行動を共にしているNさんを見ていて、自然に「まねるーまねぶー学んだ」のだと思っています。幼児は「共生態としての体」(竹内敏晴)を持ち、まねることによって、共鳴・共振・共感しながら「人の身になる」ことを自然に体で覚えていくと言われます。
 私がそうできたもう一つの理由は、両足を失って車椅子生活を送っている、長年の友人の言葉が胸に刻まれていたからでしょう。彼は、「いっしょにいて疲れない人とは友だちになれる」と言ったことがあります。障害者だからといつも先回りして気を遣われ過ぎると「疲れる」、自然な友だち関係でいい、必要なときには「ヘルプ」と言うから、という意味だろうと思い、特に突っ込んで聞きませんでした。このときの散策にも彼は参加していました。坂道では彼は勝手に早く、見事な車椅子操作で下っていきます。
 Mさんに「彼にこんなふうにしてと直接言えばいいよ。気がつかないのだから」と言うと「だってね、一生懸命だから悪くて」と答えました。これは非常に大事なことを含んでいます。強者の過剰な善意に、弱者はどうしても断りにくく、何とか応えようと疲れてしまうのでしょう。
 このことは親子関係を考える上でも重要なことだと書きながら気づきました。多くの親や教師は、勉強・スポーツ・習い事の成績向上に過剰な期待をかけ、「支えてあげる」からがんばれとむち打っています。子どもは「善意あふれる愛」=期待に何とか応えて、良い子になろうと疲れていくのと似ています。自らの意志で生きようと試行錯誤する。失敗や応援が必要だと自ら判断したとき、支えになるものが確かにそこにあれば、あるいは「そこにある」という確信・信頼があればいいのではないでしょうか。
金森俊朗
2011.2.1
新しい年を迎えました。毎年、棚からぼた餅が落ちてくることを待っていてもだめだよ、自らが状況を変えなくては、と思っていても、新年となるとやっぱり何か良きことを期待しますね。
 「厳しい世の中」であることは間違いのないことだけれど、自ら生きる充実を求めて動いていると、様々な人がつくっている、つくろうとしている【希望】が見えてくることも確かです。暮れに開催した日本生活教育連盟石川冬の研究集会には、全国各地から青年教師や教師を目指す学生たち、さらには仲間をつなげて活動する、東京と愛知のお母さんが家族一緒に参加。遠い地まで出かけて講演を終えたとき、こんな一過性の語りは何になるのだろうか?と虚しくなるときも正直多々あります。今回の集会や大学での重松清講演・トークの会、東京での公開授業の集いで、「講演・テレビ・著作に触れ、さらに学びたくてやってきました!」という人がこんなにも多くいること、だから無駄ではなかったことをとても実感しました。
 東京の中学校PTA講演会を終えたとき、その企画運営責任者の土肥さん(東京在住で、金沢の映画館・シネモンド支配人)宅に一品を持って、仲間達が続続と集まり、さらに朝日新聞の記者・上野創夫妻(創さんは『がんと向き合って』の著者、朝日連載記事「ニッポン人脈記・がん その先へ」の取材・執筆者)も加わり、深夜まで飲み語り合いました。そのときの一母親が息子を連れて今回冬の研究集会に参加。最後に息子さんが「こんな先生たちがいて、日本も捨てたもんではないなあ、と思いました」と語り、大拍手を受けていました。  
 私は、逆にこのような研究集会に母と共に参加し、そんな感想を述べるまでに学んだ高校生と働きかけた母に「日本も捨てたもんではないなあ」と思いました。2月12日には、愛知・一宮の講演に出かけます。この会の主催者は、冬の研究集会に参加した真木さんという母親たちが中心になって作っている「NPO団体つなハピ」(つながり合ってハッピーに、から命名)です。彼等は、私の小学校教師のとき、授業参観にも来ているし、昨年石川で開催した交流研究集会にも参加し、外に飛び出して学ぶことも大切にしているのです。数少ない先生達とつながり、さらに多くの、500人以上もの親子や市民・教師をつなげるこの人たちに、これで三度目かな、会います。
 私は、教師だけの小さな集まりの講演要請を受けると、失礼を顧みずに、教師だけで集まって勉強していても教育を変える力にはならない、保護者・市民と共に学ぶ会にして欲しいと要求します。教師の多くが、そうした一宮の「つなハピ」の会や各地の学童保育の研究会にもっと参加し、学び、共同することが大切だと思っています。それが、大きな「希望」を生み出すでしょう。
 だから、やっぱり今年も講演には出かけなければならないでしょう。4月には65歳になります。元気ならば有り難いのですが・・・。各地での出会いを楽しみにしています。
 本年もどうかよろしくお願い致します。

金森俊朗
2011.1.4
ペスタロッチー教育賞(ペスタロッチーきょういくしょう)とは、
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチを研究し、戦後の教育に貢献した教育学者長田新を記念し、長田が教鞭をとった広島大学大学院教育学研究科が1992年に設立した賞である。
民衆教育に貢献した個人・団体におくられる。一般には、「ペスタロッチ」と表記されることが多いが、長田新は、ペスタロッチーと表記することを好んだため、この賞の呼称は「ペスタロッチー教育賞」である。
受賞者
1992年 宮城まり子(女優・ねむの木学園の創立者)
1993年 谷昌恒(北海道家庭学校校長)
1994年 児玉三夫(明星学苑理事長・明星大学学長)
1995年 山田洋次(映画監督・「学校」)
1996年 NHK名古屋放送局(「中学生日記」製作スタッフ)
1997年 本吉修二(学校法人白根開善学校校長)
1998年 黒柳徹子(女優・ユニセフ親善大使)
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2010年 金森俊朗(北陸学院大学人間総合学部教授 )
11月30日、午前10時30分頃、広大な広島大学院教育学研究科玄関に着きました。駅までお迎えに来て下さった車から降りようとすると玄関に教職員が6人ほど並んで出迎えて下さったことにまず驚きました。しばらく研究科長を始めとする研究者(教員)と歓談後、早い昼食です。多分「修士レストラン」と書いてあったかと思う、学内の特別なレストランの特別室のようなお部屋です。学長・副学長・研究科長・もみじ銀行頭取・中国新聞社社長と共に昼食歓談。その後、場所を変えて表彰式です。表彰式では、学長・研究科長が挨拶、もみじ銀行頭取が祝辞ですが、驚いたことにそれぞれが私の実践をかなり詳細にきちと角度を変えて評価するお話でした。この賞に対する強い熱意、知性に圧倒されました。その後の記念講演は講義がある平日にもかかわらず、350人もの学生・教職員がしっかり聴いているのにも驚き、関心と学びの意識の高さに感心しました。

受賞は初めてではないし、大きなテレビスタジオでカメラを向けられる経験の多い私が、大変緊張しました。世界教育史の巨人と言われるはるか遠い存在だったペスタロッチーを冠する教育賞であること、宮城まりこ・山田洋次・黒柳徹子・アグネスチャンや○○学園理事長などが歴代の受賞者であることなどを考えると、肩書きのないイチ平教員の、私でいいの!?という思いがどうしても生まれます。でも、子ども・保護者・市民と共に、さらに日本生活教育連盟や石川県民間教育研究団体という手弁当で実践・研究・運動する仲間と共に歩んできたことも受賞の理由にあげられていることを思うと、そうした仲間が評価されたのだと、喜んで受け止めるべきだと思いました。

今回は、まずペスタロッチーとはいかなる人物なのか、なぜ広島大学がこの賞を創設したのか、私がなぜこの賞を受賞したのかを理解して頂きたく、またペスタロッチー教育の基本原則が今の日本にもっと広がることを願って、下記に、広島大学によって書かれた文書を掲載したいと思います。

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチー
 スイスの教育家・教育思想家。1746年,チューリッヒに生まれる。チューリッヒの大学に学び,そこでルソーその他の革新的な啓蒙思想に触れ,政治の改革を求める学生組織「愛国者団」に入る。その後,農業を志し,アンナ・シェルテスと結婚,農業経営のかたわら,貧児・孤児の教育事業に着手する。1781年,教育小説『リーンハルトとゲルトルート』を発表し,絶賛を博す。シュタンツでの孤児救済の活動を経て,1800年,ブルクドルフ,1804年,イヴェルドンに学園を開く。『メトーデの精神と心情』『ゲルトルート教育法』など,多くの著書を刊行する。学園は,多くの国々から参観の人々が集まり,教育実践研究のセンターとなって,ヨーロッパ,アメリカにペスタロッチ一運動が広がる。1825年,弟子たちの内紛から,学園を閉鎖してノイホーフに退き,1827年,ブルックにおいて没す。81歳。

ペスタロッチー墓碑銘
ハインリヒ・ペスタロッチーここに眠る。
1746年1月12日チューリッヒに生まれ,1827年2月17日ブルックに没す。
ノイホーフにおいては貧しき者の救助者。
「リーンハルトとゲルトルート」の中では人民に説き教えし人。
シュタンツにおいては孤児の父。
ブルクドルフとミュンヒェンブーフゼーとにおいては国民学校の創設者。
イヴェルドンにおいては人類の教育者。
人間!基督者!市民!
すべてを他人のためにし,己には何物も。
恵みあれ彼が名に!

ペスタロッチーとペスタロッチー教育賞

 広島大学大学院教育学研究科は,もみじ銀行及び中国新聞社の後援を受け,今日,我が国の極めて困難な教育状況の中で,優れた教育実践をおこなっている個人あるいは団体を顕彰するため,先のペスタロッチー賞の精神を継承し,ここにペスタロッチー教育賞を創設した。その趣意として,以下のことが挙げられる。
 教育の荒廃が叫ばれる中,優れた教育を地道に実践し,「真教育」の原点を示している実践家ならびに団体を顕彰することは,これらの人々を勇気づけると共に,その活動を社会に広め,活性化させるために,極めて重要なことである。この賞は,混迷する教育の現実に対して,教育の原点を示し,我が国教育の立ち直りのきっかけにしようとするものである。その象徴としてペスタロッチーの名が称えられよう。ペスタロッチーは民衆教育の父であり,教育の実践家として,子どもへの限りない愛情と慈しみを身をもって示した教育者であった。同時に,多くの困難を克服しておこなわれた教育実践から編み出された教育思想・教育理論は,単に18,19世紀の所産としてではなく,常に「真教育」の象徴となり,今日に至るまで世界の教育を動かし,教育の原点を示すものと考えられている。とりわけ,本研究科には,1921(大正10)年以来の,ペスタロッチ一研究及び運動に関する長い伝統があることも忘れられてはならない。
 ペスタロッチーの実践・思想・理論には,今日の教育荒廃を克服するための方途を示す力があると確信される。ペスタロッチーの精神を教育の原点として捉え,優れた教育を実践している人々を顕彰することは,正に今日の教育にとって「地の塩」となろう。

ペスタロッチー教育賞  受賞者紹介

 北陸学院大学人間総合学部教授  金 森 俊 朗 氏

 金森俊朗(かなもりとしろう)氏は昭和21年石川県能登に生まれた。昭和舶年に金沢大学教育学部を卒業し、平成19年に退職するまでの38年間、石川県内の八つの公立小学校に勤めた。現在は、北陸学院大学の教授として、これから教師になろうとする若者に氏の志を託すべく教鞭を執るとともに、講演・執筆活動を通して、教育に関わるすべてのひとに教育の希望を語り続けている。金森氏の教育実践は「金森学級」とも「いのちの教育」とも呼ばれ広く知られている。氏の学級を一年にわたり取材したNHKスペシャル「涙と笑いのハッピークラスー4年1組 命の授業」は多くの視聴者に感動を与え、2003年日本賞グランプリを受賞した。また、妊婦や末期癌患者を教室に招く「本物に触れる教育」は、著書『性の授業・死の授業』や『いのちの教科書』で紹介され、命の教育のモデルとして高い評価を得ている。
 そうした金森氏の教育実践は、長年にわたる地道な教育経験に裏打ちされたものであり、教育を良くしたい、子どもを善くしたいとの願いに突き動かされた教員同士の研究会において磨かれたものである。上からの政策ではなく、まず、目の前に日々を生き抜く子どもたちがいる。そうした子どもたちに教えられ、ともに学んだ経験と工夫の積み重ねが、関心を同じくする教員に受けとめられ、全国から参観者が訪れる学級をつくっていったのである。
 金森氏が「いのちの授業」に取り組み始めたきっかけはいくつかある。教え子を自殺と事故で亡くし、さらに幼いわが子を失い、自らも交通事故で一命を取り留めた経験が重なる。氏にとって「いのちの授業」は切実な願いとして始まったのである。
 子どもたちに「いのちは大事だよ」と話すだけでは解決にならない。頭では分かっていても、彼らには、別の子と比べられ、勉強が、スポーツが、ピアノができないダメな子だと叱られ、追いつめられている現実がある。表面的には明るく振る舞っていても、孤独に心を閉ざしている子どもは少なくない。自らの生を実感し、これからの人生の拠り所となる「原風景」と出会えるような子どもの時間が奪われている。金森氏は、教師が教えるというスタイルはとらず、子ども自身の体験のなかから、いのちについて考えるきっかけを探る。教室を出て、自然の雨と風をからだで感じ、友とからだをぶつけ合う。死に直面し生きることの意味をぎりぎり問うているひとの姿に触れる。腐敗する動物の死体の観察から、土と食物といのちのつながりを学ぶ。こうした学習に支えられて、子どもたちは心のうちに秘めていた、家族を失った悲しみや自己を肯定できない辛さを友の前で語り始める。このとき学級は、友に心をひらき、共感し支え合う場となり、自分のなかに自尊心や希望を見いだしていく場となる。
 昨今、学校教育は批判されることが多い。金森氏の実践は、そうした学校教育にもまだ十分可能性のあることを示してくれている。その姿に、教育現実に真撃に向き合う多くの教師が励まされ勇気づけられてきた。そして、教育は子どもに希望をもたらすものでなくてはならないという氏のメッセージは、「いのちの教育」として広く受け入れられ始めている。
 ペスタロッチーは、子どもの生活と無関係な知識の教え込みではなく、子どもが具体的に生きている「身近」な関係から教育は始まらなければならないと考え、「生活が陶冶する」と言った。何よりも子どもの生活から出発することを大切にしてきた金森氏の実践は、この教育の原理をペスタロッチーと共有するものであったと言えるだろう。氏の長年の功績に対し、第19回ペスタロッチー教育賞を贈呈し、高く顕彰したい。
金森俊朗
2010.12.6
今、少年期に育てておきたい「溜め」とは
・・・湯浅「反貧困」から子育て・教育を考える
 私は湯浅氏から学び、少年時代に育まなくてはならない「溜め」を改めて考えてみた。
(以下は、いしかわ県民教育文化センター09年年報『教育・共同・地域』所収原稿の一部です 
稲の生長には大量の水が必要である。渇水期や日照りにも困らないように、先人は、水を生み出す豊かな森を育み、河川上流部に堰を設け、用水を作ったり、谷水を集めて溜池を作ってきた。
 人間の一生にも困難や危機、不幸に遭遇した場合、それを乗り越えるための備え=溜めが必要である。
 少年期において育んでおきたい「溜め」は、自然、その素晴らしさや恐怖・危険とたっぷり関わった体験、道具と技術を使ってモノに働きかけた経験、仲間とぶつかり合った遊び体験、読書や演劇・音楽鑑賞や創造、台所での共同の食事づくり、自らの好奇心・問いを調べ深めた学びなどたくさんある。その中でも、特に強調したい「溜め」は、@人間関係を豊かに作る力 A自分への自信や肯定感 B自己と人間を信頼し、心開いて誠実に他者に伝えたり、相談、援助を求める力である。

(一)関係性の中に生きていることの自覚化
 @とAは深く関わる。一年生が「いいこと」と題して次のような詩を書いている。

きょう、さんこもいいことがありました。
それは、わたしが
といれのかみを かえれなかったのに
できました。
たいやが とべました。
それに てつぼうもできました。
うれしい いちにちでした。

一年生に限らず多くの子が喜んで伝えようとする表現、報告は、何かが「できた」喜びである。それを教師も親もほぼ無条件に喜び褒め、「やればできる」「努力さえすれば何でもできる」とさらに励ますことが多い。
それだけでいいのだろうか。子どもの物語をよく観察したり、聞いたり、想像すれば「できた」ときはもちろん、「できない」ときにも共通した「すばらしさ」があるはずである。自分だけでなく、誰か他者が、そのことを教え、助言、忠告、励まし、援助、支えることが、そして他者と響き合って呼応した自分がそこにいたはずである。「応援してくれる人を得た、その人と高め合う関係性を持てた自分がいたことの自覚」が@Aを育てる。 
しかし、右の詩のように書かせている(発表させている)表現が圧倒的に多い。今、関係性の中に生きている、生かされていることをもっともっと掘り起こし、意識化させる実践が必要だと強く考えている。
次の詩を想像力を豊かにして読んで欲しい。
【さかあがり】
    上川友香里(高知県・六年生・一九八四年)
「あと一回で・・・・。」/藤岡さんに言った。
「がんばってよ。」/本当に心をこめて言った。
「うん、がんばるけん。」/顔でそういったように思えた。
(きっとできる。)/信じていた。
藤岡さんは、/手に砂をつけ、/鉄棒をにぎった。
足をふって、/「1、2、3、えいっ。」/足が空向いてあがった。
おなかの辺りが鉄棒について、/ぐるっときれいに回った。
「藤岡さんできたやいか。やったあ。」
藤岡さんは、/両手で顔をかくして、/笑い泣きしていた。
私は、/すわりこんで笑った。
友だちが何かできた時、/こんなにうれしいとは、/思ってもみなかった。
もう、/えんりょしながら、/さかあがりしなくてもよくなった。
二人で、/うす暗い空に向けて、/堂々とさかあがりをしてやった。
(日本作文の会編日本子ども文詩集より)
 すばらしい詩である。これまで上川さんは、逆上がりができない藤岡さんを思い、「遠慮しながら」逆上がりをしていた。今回ずっと練習に付き合い、コツを教え、応援。藤岡さんの表情、しぐさ、回り方を実によく観察し、表現している。できる、できないのプロセス(日常)にこれだけの応答性、関係性を深めている。今、教育・子育てにおいて最も大切にしたいことが、この詩に凝縮されている。藤岡さんの詩が同時に欲しいところである。
では、どうしたら上川さんのような捉え、表現が生まれるのか。まず私は、書くことより、口答での発表と応答を大切にする。関係性を徹底的に浮き彫りにすることを通して、状況(応答する関係性)の中で学び合っている、生きていることをていねいに自覚させるのである。

 次のような指導も意識的に行う。自著『希望の教室』(角川書店)から引用する。
・・・・雨上がりの朝、健悟はこう言った。
「ぼくは今日、学校に行くとき、虹が見えました。学校に入るまで、ずうっと虹が見えました。そして、学校に入ってから、友達は虹を見たんかな、と思いました。」
友達の名前を言ってごらんと促すと、「裕平さんです」と健悟は答えた。それを聞いてから私は、
「とても大事なことだよ。どこかへ行ってきれいな風景を見た。ああ、これをあの友達にも見せたいなと思う、一緒に味わいたいなと思う。このとき、ふっと出てくる人が本当に大事な人なんだよ」と言った。健悟にどうして裕平のことを思い浮かべたのかと尋ねると、「裕平さんとは、一緒に帰ったり、一緒に遊んだりしているから、虹を見て思い浮かべました。ぼくの大事な友達です」と言った。

わざわざ裕平の名前を明言させたのには、理由があった。健悟は以前、裕平にあるいやがらせをしたことがあった。ズツクや筆箱隠しなどのいやがらせ的な問題の多くは、仲のいい近い人間関係のところで起こる。健悟が虹を見せたい友達が裕平だということは、わかっていた。だからこそ、仲問みんなの前で、白分にとって裕平が大切な友達だということを言わせておきたかった。

ある授業中、尚矢は机の上にテストファイルを置いたままにしていたので、「片づけなさい」という意味を込めて指を差した。尚矢はなかなか気づかない。まったく関心を寄せない子もいれば、わざわざ後ろを振り返って尚矢を見た子もいる。両隣の実と純は、テストファイルを指差した。遼大はずっと後ろの席から「テストファイル、ロッカーにやってこんなんぞ」と声をかけた。やっとのことで、尚矢はファイルを持ってロッカーに向かった。
それを詳細に再現してから私は言った。
「たった一分ほどのことだけど、尚矢が今の瞬間、生きているときに、これだけの人がもう関係しているんです。」
「すごいな」と大樹が言った。遼大は「こんな小さな行動でも、人と人とが、網のようにつながっているんだなと思いました」と言った。

このような働きかけを日常に意志的にやり続けないと、作文や発表にはなかなか他者との関係性が豊かに表現されない。@Aは単純に希薄になったと指摘するのではなく、大人が意識化させる努力をしていないのでは?と問う必要がある。自分の努力世界にのみ生きている、という捉えを強めているように思えてならない。
金森俊朗
2010.10.27
市民と共に
9月に入っても猛暑続きです。今日(9月11日)午前は、平和サークル「むぎわらぼうし」の会で、沖縄から招いた宮城さんに、沖縄の歴史と現状と想いをたっぷり語ってもらいました。聞いていて一番思ったのは、先日のTVで、『はだしのゲン』の作者・中沢さんが、被爆で亡くなった人に祈るな、祈るのでなく、戦争を始め、無残に殺したもの・ことに対して「なぜ怒らないのだ、怒れ!! 怒りが大切なのだ!」と激しく言っていたのを思い出し、私たちに必要なのは沖縄の怒りを共有することだろうと。では、怒りを共有するとはどうすることなのか? なぜ、怒りの共有が全国各地で起き上がってこないのか、しっかり考えたいと思います。

明日午前は、親子地域学習サークル「森は海の恋人」サークル(結成は、私の水産・林業の学習「森は海の恋人」を通して気仙沼の畠山重篤氏に出会ったこと。1993年以来活動はつづいている)の恒例、植樹したブナの世話、くい打ち、看板修理・書き・・・など。かつて教師も参加していましたが、今では日生連メンバーの北谷と金森だけに。教師が次第に市民運動からから遠ざかっていくようで不安です。上記の、本日の「むぎわらぼうし」にも現場教師は、私の他は性教協の女性教師一人でした。
午後は、いしかわ県民教育文化センター主催の「現代の貧困と教育・子ども」と題した公開学習会。車をとばして山から大急ぎ下山で駆けつけることになりそうです。
多忙なのは誰しも同じだけど、何を選択して忙しく充実感をもつか、だと思っています。

このHPでも紹介した東京での「公開学習会」は、日生連と角川書店のスッタフを含めると、190名を越える盛況でした。130名が授業できる限界だろうと角川書店と相談していたら、前日や当日も申し込みがあって、断ったとか。ほとんど角川と金森のHPでの告知なのに、スゴイことです。学生がかなり参加していたことが何よりもの希望です。感想用紙を準備してなかったので、紙切れにでも書いて!とお願いしたら、どっさり集まり、感激! 
参加者に今日的な意味をどう提起するかを問い詰めた授業内容創造。それを授業としてどう構成するか、その2点に最も苦慮しました。授業方法は38年間、自分なり磨き上げてきたので、今更あまり変えようがありません。以下は内容や若干の反応です。



●1限【自由と希望を求めて、「脱獄」せよ】   
吉村昭『破獄』(新潮文庫)から灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』(角川書店)に広がる世界・・・
★4つの刑務所を破獄した「日本の脱獄王」と看守たちとの壮絶な戦い。参加者と共に破獄方法を考え合う。脱獄王が破獄の挑戦を止めた、所長の「教育方針」が止めさせたことなどが意味するものは? を考え合う。
★今、私たちは「牢屋」入っている?と問うと、「あまり入っているとは思わない!」と答えた人が多く、私はびっくり。学校はある意味で「格子無き牢獄」だと金森は思っているから、我が子に「お帰り、お疲れさん」と言っていた。中学生(3人が3限とも受講)に聞いてみた。「お疲れさん、とボクも言って欲しい。中学はとても疲れる!」と発言。彼は、授業後に帰宅するや、『破獄』を読みふけっていると母の弁。子どもの方がちゃんと実感しているのに安心。その発言を受け、心を閉じ封印している「お父さん、帰ってきて!」や「こんな何もできない私が憎い!」(両作文は拙著『子どもの力は学び合ってこそ育つ』参照)という我が学級の子の詩や作文を読む。 
★灰谷健次郎「せんせいけらいになれ」、茨木のり子「女の子のマーチ」(『茨木のり子詩集 言の葉』ちくま文庫)を読む。こうした願い・要求を自由に表現させることが、やはり大切ではなかろうかと締めくくる。 

●2限【ああ〜想像力! 寄り添うと言うこと】
★長谷川義史『ぼくがラーメンを食べているとき』を裏表紙を見せないで読み聞かせして、「読んで思ったことや引っかかったこと」を問うていく。「隣の隣の・・・と続くことによって遠い世界が身近かなことのように感じられる」など素敵な読みが続く。6,7人同様な感じたことが続いたので「ちょっと変えてみようか。この本を読んでいたら、ある日ある時のこと、や、誰々さんのことが浮かんできたよ」と言えないか?と切り返しを要望したがダメだったので、松谷みよこさんが語った我が小さな幼子のエピソードを語る。(こんなことは授業準備の時、想定や準備していない。参加者の発言を受けてのこと)

★裏表紙に描かれた絵を見せ、「本文中、砂漠で倒れていた(死んでいた)はずの少年が最後の最後、本を閉じた時に、歩いている。この絵の意味することは?」と問う。「満月に向かって歩いている。希望を表しているのでは」など、多様に出だされた。ここは詳細な記録で再現するとおもしろい。「金森もこうやって皆さんとまだまだ、新しく深く読んでいる最中なのです」と強調して自分の読みを一応語る。
「確かに読み終え、こうした世界、人を心に住まわせたとき、倒れた人たちも立ち上がるのでは」が私の読み。
「この本を逆に読むことも可能では。最後に登場するのは、猫があくびしている横で、ただラーメンを食べている日本の少年。これが意味するのは?
・・・などと。
★詩「大漁」金子みすずを全員で読む。重松清『青い鳥』や金森学級の健ちゃんの言葉「見守ってくれているだけで生きるエネルギーがわいてきます」などについて語る

★ゲストフォークシンガー・増田康記「ひとつぶの涙」を歌う。宮沢賢治「農民芸術概論綱要・・・世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」を歌った歌。金森が大好きな笠木透さんの歌。
注・増田康記(全国的に活躍しているフォークグループ「笠木透と雑花塾」の中心メンバー)

★想像力を横に広げることだけでなく、縦に伸ばすこと、時間的歴史的に想像することを何年生からでも大事にしてきました。今年は「日韓併合100年」ということもあって、この人たちのことも想ってみようではないか。歌で。韓国を訪れ笠木さんたちが元「従軍慰安婦」から聞き取った悲しみを歌った歌「ホウセンカの花」を増田さんに。

●3限【いのちの本質とは・生きるとは・・・性と死から考え合う】

★まず、参加者に授業の前提になる人体観を宇宙飛行士の肉体や感覚器官の退化を通して考え合う。
★7ヶ月の胎児の心音を聞いて貰いどんな感じの音に聞こえたか、発表してもらう。
★4ヶ月半の胎児が親指をしゃぶっているような写真を投影。しゃぶっている行為にどんな意味があるのか、考え合う。
これらの授業の実際を別の機会に「小さな小さな大宇宙!」と題して書きました。(前々回のメッセージに掲載しました。再読して下さい)

9月4日に授業では子ども達が考え出した「響働」という言葉も紹介。その後に、心音をもう一回流して、「これがあの子の心音。この鼓動を響かせながら自分自身を成長させてきた」と確認をするのを忘れていました(すみません)。確認すると、最初に発表した「早いテンポ、力強い」ということの訳が納得できます。
★ここまでの学びを増田さんが歌「ぼく」に。
★誕生の際も、誕生後も共同がうまくいかなければ「死」が。私たちの夫婦の子どもの死を語る。
★上野 創さん(朝日新聞社記者、2度の肺がんと闘う。自らの闘病手記「ガンと向き合って」を同新聞に連載)に語って頂く。自分が死ぬという怖さより、愛し愛された大切な人が私の死によって大きな悲しみ・苦しみを課してしまうことがたまらなく怖かった、と語る。その創氏の言葉の重さは、彼自身が著した『がんと向き合って』(朝日文庫・ファルマシア医学記事賞受賞)を読めばすごく分かる。この本は、大変素晴らしい、ぜひご一読を)
★誰もが避けることができない「死」。死を語ることをタブー視しないことが大切。
★笠木透さんが死を意識して創った歌「カンオケの穴」(曲・山本幹子)を増田さんに。
・・・・・・・・・授業・完

最後に強調したのは、@無料でこれだけの企画をプレゼントして下さった角川書店の大きさ!に感謝。
A催しのねらいが私の『子どもたちは作家になる』の発刊記念であり、授業の中心軸に本を使用し、角川書店でおこなったのは、本をしっかり読んで欲しいとの強い願い。重松さんの金沢・北陸学院大学での講演にて「本を読むということは、自分を豊かにすることにとどまらず、次代の人々にそうした本を手渡すことになる。今の人たちが読まなければ、その本は消えてしまう」と語ったことを引き合いに出して。

さすがに疲れました。でもすごく充実していました。
金森俊朗
2010.9.15
  一人で抱え込まないで
 六年間も書いてきたこの連載も今回で最後です。
 今から、九年前のこと。小学三年生を担任して間もなくのある日、相談があるからとE子の母親が放課後の教室にやってきました。
E子の父は癌で入院中だが余命あと一ヶ月と宣告されたとのこと。父はまだ三〇才前半でスポーツマン。義父はショックのあまり寝込み、息子はこの春、新一年生で入学したばかりのため、手がかかります。
「大変な状況のために三年生になったばかりの娘をかまってやれず・・、それに娘もやがて父の死期が近いことに気づくでしょう。先生、どうか娘を温かく支えて下さい。お願いします」と頭を下げました。涙が机に落ちました。
「ご免なさい、先生。人前では泣かないようにずっと我慢してきたのに・・・」
 私は思わず言いました。「お母さん、どうか遠慮せずに泣いて下さい。余りの悲しみを一人で抱え込まないで。泣ける人を持ち、思いっきり泣くことはとても大切です。お母さんが必死に我慢していたらE子は泣けないじゃないですか。E子が気づいたとき母と娘、抱き合って泣けばいいじゃないですか。学校でのEちゃんにはできるだけのことをしますから、遠慮無しに何なりと言って下さい」。
 五月の末にE子の父は逝ってしまいました。その後、母子三人は遠い母の実家に転居し、時折元気に暮らしている近況を知らせてくれます。
 E子を担任する一年前、四国から若い女性教師が四日間学級に居させて!とやってきました。事前に事情を書いた長い手紙が届いていました。
 ある朝起きたら夫が亡くなっていた。過労死とのこと。
夫婦は二〇歳代で子どもはまだ一歳。死のうと思っても死ぬことができず、胸が張り裂けるような悲しみと寂しさに耐えがんばっているのに、周囲からかけられる声は「がんばって!」ばかり。
「これ以上何をがんばれと言うのか。先生の学級だったらそれを言われないで、生きる大切な何かを掴めそうな気がするから」と言うのです。学級一年間の記録をテレビで見、迷った上での決断でした。
 辛さを受け止め、共感し、共に生きていこうや!との思いがこもった手や肩がそこにあるなら、その人たちは自ら傷んだ手を置き、それを支えに自ら歩き出すことでしょう。
 読者の皆さん、ありがとうございました。家族、仲間と共にハッピーに生きようぜ! 


(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.8.31
  小さな小さな大宇宙!
 命・存在の本質は「互いにぶつかり合いながらの共同」だと考えています。それを教え込むのではなく、子どもや大人達との授業を通して考え合い、発見、納得することを大切にしてきました。
 最初に骨折経験から体は活動・運動しなければ維持、成長できないことを明らかにし、それを前提に授業開始。
次にある早いテンポの音を流し、「何の音のように聞こえるか」を問います。「電車、太鼓、工事現場、床を踏みならす音のようだ。」「共通するのは?」「力強い。」「なぜ、こんなに力強く、速いテンポの音なのか、これから解き明かそう」と。
三番目に四ヶ月半の指しゃぶりをしている胎児の写真を見せ、この子は何をしているかをみんなで考え合います。
@肩、腕、手首、指を動かし、骨、関節、筋肉、口、皮膚などを発達させていること。 A羊水を飲みながらのど、食道、胃、腸などの消化器官、排泄器官などを発達させていること。それらは比較的容易に読み解きます。
ここで誕生直後に乳房を吸う赤ちゃんの写真を見せ、母親たちに、乳を吸われた体験を話して貰います。「すごく強くてちぎれるかと思った。」さらに誕生直後の赤ちゃんの表情を撮った写真を何枚も見せます。吸う筋肉の力や豊かな表情を表す微細な筋肉の発達に今更ながら驚きます。
なかなか考えつかないのがB剥落細胞で汚れる羊水を飲みながら胎児自身が羊水を浄化していること。胎児は身長にして二五〇〇倍にも成長するので、細胞は驚異的に生と死を繰り返しています。
こうしたとき、母親はつわりに苦しむことを語って貰います。肺の発達、羊水の正体などの学習はここでは省略。  
以上を通して「いのち、成長、誕生って」と問うと「母・家族と子の、ぶつかり合いながらの二人三脚、共同、協働、協同」との考えが出ます。母は必要最小限の援助と保護しかできず、その下で胎児が自ら自分自身を激しくつくっていたことに誰もが驚きます。
最後に最初の音が心音だと言うと「やっぱり。だから力強くて速かったんだ」「ぼくらが全速力で走ってるときと同じくらいに頑張ってるんだ」と。四年生が「先生、ぼく、この音を一生、忘れんよ〜」と叫ぶ。その鼓動で今、つくっているのは、「たくさんの人々を心に住まわせること」「心や知恵、ハッピーに生きること」を確認。私って小さな小さな大宇宙なのです。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.8.14
 若い女性の働き方
  年老いていく中で自戒しているのは、自分の人生体験から生まれた、あるいはマスコミによる価値観だけで、他者や社会、特に若者への見方を偏狭にしたくないということです。
 そんな思いに十分に応えてくれる学習会を「いしかわ県民教育文化センター」主催で先日持つことができました。「高卒者の進路動向に関する調査」として、女性五人を五年間にわたって継続的に聞き取ってきた女性若手研究者・杉田真衣氏の報告です。
 八〇分間を費やして報告された四人それぞれの働きざまを詳細に紹介できず残念ですが、共通している確かなことは、「今の若者は我慢が足りず、仕事を容易に変える」どころか、未来が見えないような過酷な生活、労働条件の下で働いているということです。
 例えば母と二人で暮らすS子は、高校在学時から週五、六日アルバイトをし、授業料や家計の援助。学費の工面ができず調理専門学校への進学を断念し、弁当屋のアルバイトに。朝九時から夜十時まで室温三五度の厨房で立ちっぱなしで働く。高校のとき借りた学費返済や生活費のため、弁当屋に働きながら、一時クラブ、キャバクラ、カラオケ店で働くことも。三年間続けた弁当屋で仕事があまりできない正社員にきつく扱われ体調を崩すが、休むことも許されず、ついに辞める。
 その後はカラオケ店や寿司屋で働く。しかし母が交通事故で入院。その間重い病気が発見されるがお金がなく、治療できないまま死亡。
 そんな彼女を支えたのは、 似たような雇用・労働条件の下で働く高校時代の友人とその家族、知人であった。
 杉田氏は彼女たちに共通して見えることとして、自立を難しくしているのは家庭の経済状況と健康問題を指摘しています。次に、正規で就職できる機会の少なさです。しかし氏は、すぐ側に「女性性」を売るなどのリスクがあふれる中で「不利な状況に置かれた人たちが互いに承認し合い支え合って」生きる関係性を見いだしています。
 「キラキラした未来を考えたことがない」と言うS子たちに寄り添い、彼女たちが作り出そうとしている社会を共有できる道を模索している若い研究者が眩しく見えました。   
安易に批判、希望を語るな、事実を徹底してリアルに追うなら、新しい世界と価値観が持てるだろうとS子たちと杉田氏の若者たちから教えられました。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.7.20
   笑顔で食べて
 友人が「全国各地に講演の旅、それぞれの土地の美味しいものを食べることができていいなあ」と羨みます。
でも、料理だけをゆっくり味わう機会は少ないのです。講演後の飲食交流会は、もっぱら参加者の顔を見て聞き話すことが多いため、料理を味わう余裕があまりないのです。そんな中でもこだわりの地酒が楽しめる土地や宴席なら嬉しくなります。つい飲み過ぎてしまいます。
 やはり自宅でくつろぎながらマイペースでじっくり食べるのが最高です。一合と少々の冷酒だがいつもおかずを食べ過ぎてしまいます。
「残すのはもったいないと言いながら食べ過ぎは体に良くないよ」と妻にたしなめられてもたいらげてしまうのです。戦争直後、昭和二一年に生まれ、しかも田畑・畜産・酪農・養鶏・リンゴ栽培の家業をたっぷり手伝いさせられ、おやつ代わりに蒸かしたサツマイモを食べて育った少年時代。落ち穂を懸命に拾い集める祖母の姿が今でも鮮明に思い出される我が身に「もったいない」は刻み込まれています。
そんな私は小学校教師時代の給食時間、つい力を込めて語ることが度々ありました。
「全く手をつけずに残すのなら、食べる前に食管に戻すか、近くの子に食べて、と言うくらいしてや。もっと食べたい人もいるんだから」というマナーや食材になるまでの奥行き、時には、食をめぐる歴史や世界のエピソードまでも。
 先日、『二〇〇九年度日本子ども文詩集』(日本作文の会・編集)にとてもすてきな詩を発見。現役時代なら教室にリンゴを持参して朗々と読んだことでしょう。
「ザーザー ザザザー 雨の音がすごかった その時わたしは 畑でりんごもぎ ひどい雨の中 手袋をしていたけど 手がとても冷たかった ますます雨は ひどくなっていく それでもわたしはりんごもぎ やっと終わったかと思ったら どろだらけですごくきたない ながぐつも ジャンバーも 冷たい手でもいだりんご どこでだれが食べるのだろう びしょぬれになった わたしのことを 思ってくれるだろうか どこのだれか知らないけれど おいしく笑顔で 食べてほしい 雨の中でわたしは思った」
 青森の小学校五年生が書いた詩。晩秋の冷たい雨の中で懸命に働いた子の強い願い。   
命の糧に込められた文字なき「手紙」を丁寧に読み解き、味わいたいものです。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.6.22
  絵本を楽しむ
「ぼくが言った言葉をそのまんま、すぐ続けて言って」
「ああ、真似っこかあ」
「そう、真似っこしてね」
「はだか」
緊張していた顔が思わずほころんで、笑顔いっぱいに「はだか」と叫ぶ。
「おおっ、いい声だ。あなたの笑顔がとってもいいなあ」
そんな声を掛けながら「真似っこ」形式で以下の若山牧水の詩を楽しみました。
「裏の田圃で/水いたづらをしてゐたら/蛙が一疋/草のかげからぴょんと出て/はだかだ はだかだと鳴いた/やい蛙/お前だってはだかだ」
 初めて入った北陸学院小学校三年生の教室。チャイムが鳴ったので私が黒板の前に立つと、多くの学校でいきなりかけられる「起立!」の号令は無く、柔らかい拍手。とても自然な流れです。
「おおっ、何もしないのに拍手で迎えてくれるのは嬉しいなあ」と言って、自己紹介もせず始めたのが、詩の音読を楽しむことでした。
 次に楽しんだのは私のあだ名にちなんだ工藤直子の詩「ゴリラはごりら」です。
 言葉は楽しい!という実感の次は、言葉はすてき!という第二部に入りました。取り上げた絵本は『だいすきっていいたくて』(カール・ノラック文、クロード・K・デュボワ絵)。  
朝目覚めると口いっぱいに「すてきな言葉」が広がっていました。「ほっぺがどんどん膨らんでくる」。一日我慢していた言葉が、夜とうとう両親にに向かって飛び出す。「言葉は妖精のように辺りをとんで、みんなに幸せの魔法をかけ」たのです。とってもユーモラスな絵がさらに「言葉には幸せにする力がひそんでいる」ことを気づかせてくれます。聞いている子どもの笑顔が一段と柔らかくまん丸に見えました。
 最後に読んだのが『ともだちからともだちへ』(アンソニー・フランス作、ティファニー・ビーク絵)。
「君は大切な大切な友だち」という手紙をもらい大喜び。だが差出人の名前がなく、捜しに出かける中で、自分のことを気にかけてくれている人、気にかけるべき人を見逃していたことに気づきます。
 長い絵本だがこれまでとは違って体も動かさず、ドキッとするほどに集中しています。きっと主人公に重ねて「誰だろう、こんなに自分を大切に思っているのは?」と捜していたのでしょう。
 久しぶりに言葉と絵本、そして子どもと教室の力を実感し、充実感を頂きました。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.5.29

 新年の願い!
 二〇一〇年の幕開けです。
「抱負、期待、願いは?」とよく聞かれます。新年だからと言って他力本願的な期待、願いは好きではありません。それでも子ども・青年にとってもう少し希望ある時代・社会になって欲しいと願っています。そのためには、自分ができることを一人で、仲間で元気に楽しく果たしたいものだと思っています。
 子ども・青年にとって私たちができそうなことって何でしょうか。
まず気をつけたいのは、子ども・青年をやたら愚痴らないことでしょうか。
二つ目は何より自分自身が生活、仕事、社会を作る一人の大人として楽しみながらひたむきに生きることでしょう。そのありのままの生きざまが子ども・青年を育むと信じています。
と言っても「ひたむき」と言うのは容易ではないですね。私の場合、大学教員としての勤めは当然だが、それ以外に、講演、執筆、いしかわ県民教育文化センター所長、劇団「文化座」友の会理事、NPO法人「一歩一歩楽園」理事、日本生活教育連盟全国委員など、それ他にも多くの活動を抱えているため、それらのどれかが、また肝心の家族や居住地域の務めがいい加減です。でも「いい加減さ」も大事ですよね。全てに一生懸命!は長続きしないか、他者に同等のものを要求しすぎますから。
 三つ目は、二つめの活動で青年と共同・協働しながら、あるいは活動にほんの少し関わりながら彼等の可能性を実感し、それを私の言葉で社会に発信することです。
 入院生活を余儀なくされた子に笑いと癒しをと活動する大阪の若いクリニクラウンたち、引きこもる子や精神を病む子に居場所づくりや農業体験を共に進めている若い小児医師を中心とする熊本の青年達、金沢の街づくりと学びの要求に応える「タテマチ大学」の青年達など全国各地にたくさんいます。事件を起こす青年・子ども達は容易に見えますが、地道に誠実に働く、あるいはボランティア的に活動している青年達の姿は、意識しないと見えないのです。 
 内閣府の意識調査によると、二〇才未満の青年・子ども達がどの世代よりも圧倒的に多くボランティアをしたいと思っています。そんな彼等にせめて安定した職を保証する社会づくりに役に立ちたいものです。政策の充実要求はもちろんですが、各自の職場でもできることがあります。これが四つ目です。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.5.2
地域の人に寄り添う
 学生と共に生活科の現地学習に出かけました。とは言ってもキャンパスのすぐ横です。まず立ち止まったのは住人が居ないような民家です。   
玄関から覗き込んだ私に「先生、そんなことをしていいんですか?」の声。「だって部屋に入る所に履き物が揃えてあるし、どう見ても廃屋って感じではない。でもいつも人影を見たこともないしチラシも郵便受けに入ったままだし、気になるじゃない」
「きっとお年寄りが一人で住んでいて病気で亡くなったのでは?」
 そんな問答をしながら少し進みました。「うわあ、すごい煙!」と叫びながらも働いている人の姿に気づいた学生が「ご苦労様」と声をかけました。おばさんが「枯れ草だからそんなに煙たくないでしょう。ビニールだったら大変だけど」と言いました。
「一面に燃え広がらないのですね」
「そりゃあ風向きを考えているから。風下から燃やしているから少しずつしか燃えないの。風上から燃やすと燃え広がるし、それに」
 全てを聞かなくても学生は気づいたようです。枯れ草を畝のように細長く寄せて、隣の枯れ草の列と十分に空けて、一面に燃え広がらないようにしていることを。
「今年は荒れさせてしまったけど、来年は畑にするために雑草の種も燃やしてしまいたいし」と語るとすかさず学生が「灰もちゃんと肥料になるしね」と言うのです。
「ところでおばさん、あの家には人が住んでないの?」と尋ねると、やはり高齢者が亡くなったこと、長男が県外で働いていて多分定年後に帰ってきて住むだろうとのこと。
 たくさんのことを教えて頂いてまた近くの新しい建物に。障害をもった人たちが作った居場所・作業所です。
「ええっ!あの金森先生ですかあ。今、ソバ打ちやっています。良かったら学生さんもやっていったら」
いきなりの好意的な声かけに学生も中に入り、作業を見、問いかけ、集う人々と施設の奥行きをほんの少し知ることができたのです。興味を示した木工や野染め、「私たちもやりたい!」との声に「ぜひこれからも来て下さい。交流しましょうね」に笑顔で応えた学生たち。
「先生、見ているだけではだめだね。地域の人にちゃんと聞いて仲良しになるとすっごく分かるって納得できた」
 私が最も教えたかったことを自ら学び取っていました。 

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.3.29
ブナの実に込められた願い
 私は、市民サークル「金沢・森は海の恋人」に結成から十五年間関わっています。先日、恒例の秋の登山で赤摩木古山に向かったが、五箇山からブナオ峠に入る所で通行禁止。そこで伝説の山・人形山(一七二六m富山、岐阜県境)に変更しました。
 体調があまり良くないOさんSさんと一緒に山頂を諦め一行から離れてゆっくり登りました。登山道の脇には、先の台風で倒れたのであろう樹木が多く切られていました。まだ新しい切り口は、「もっとしかり歩け!これは木を伐採し片付けながら登っている労働の跡だぞ」と叱咤激励しているようでした。
 単調な杉林を抜け出ると見事な紅葉やブナの巨木が出迎えてくれました。登山道にブナの実を包んでいる堅い殻(殻斗)がいっぱいです。
「よーく見て。土と同じ色をしているが、ブナの実(種)が殻から飛び出して落ちているから」と言うと二人とも探し出しました。やがてSさんが「娘に送ってやりたいな。三十個以上拾わなくては」と懸命になりました。
 娘さんは京都の小学校教師です。娘が担任している子どもたちにブナの実を手渡し、嬉々として語るであろうブナの森での体験記を想像しているのでしょう。その言葉を聞き、私は感動していました。
 私はSさんの娘を小学校三、四年生と受け持ち、子どもと保護者と共に「性と死を見つめる」「ゴミから地球を考える」「海の幸を育む森の力」などの学びを展開していました。
そうしたときSさん夫妻は多くの保護者に働きかけ、今のブナの実のような「贈り物」をたくさん届けて下さったのです。
 その「贈り物」は形ある物ばかりではないのです。例えばエイズの学習の際、Sさんは、HIV感染者の差別と戦っている人形劇の演じ手や野染めの染織家を紹介し、招くことに努力しました。お陰で優れた文化創造を楽しみながら弱者と共に生きる学びを展開できました。
 
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.3.9
溜め」の大切さ
 反貧困ネットワークやNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの事務局長湯浅誠氏が著した『反貧困』(岩波新書)は、貧困を自己責任だとすることへの間違いと怖さを明快に教えてくれます。
 第一は本紙の「生活図鑑」で「ほころぶ社会保障 弱者にしわ寄せ セーフティネットの検証」で紹介されたように、雇用、社会保険、公的扶助の三層のセーフティネットが綻んでいることです。典型的な例が正規から非正規への雇用代替が急速に進められ、一五〜二四才の若年層では四六%に達していることです。湯浅氏は「一度雇用のネットからこぼれ落ちたが最後、どこにも引っかかることなく、どん底まで落ちてしまう」状況になっていると指摘し、そうした社会を「すべり台社会」と呼んでいます。
 第二は、貧困状態に至る背景に「五重の排除」があることです。それは、@親世代の貧困と高額な教育費が生み出す教育、進学からの排除 A低賃金で不安定雇用、雇用保険・社会保険などにも加入できない企業福祉からの排除 B頼れる親・家族を持たない家族福祉からの排除 C公的福祉からの排除 D自分自身からの排除です。
 Dは@からCの排除を受け、“そうなるのは弱くて甘いあなたのせい”と言われ続け、人間の尊厳や人間存在の意味を喪失する状態に追い込まれることです。この「自分自身からの排除」は、子ども・子育て・教育の世界と共通する重要な指摘です。勉強・習い事・スポーツでの成績向上をひたすら期待、要求され、応える事ができない自分や学ぶことへの否定、絶望感を持ち、不登校や摂食障害、リストカット、鬱病などに苦しむ状況はまさに「自分自身からの排除」です。
 湯浅氏は、貧困問題の解決のためにセーフティネットの拡充と共に「溜め」の必要性を強調しています。頼れる家族・親族・友人と言った「人間関係の溜め」や自分に自信がある、自分を大切にできると言った「精神的な溜め」など日照りに際しても有効に働く溜池のような「溜め」です。
 湯浅氏のような反貧困に立ち上がった人々の素晴らしさは、政策要求にとどまらず、アパート入居や生活保護申請、就労援助などの「人間関係の溜め」作りとそれを通して「精神的な溜め」の回復に努力していることでしょう。
 私は今、少年時代に育まなくてはならない「溜め」を改めて考えています。 
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.2.17
寒中お見舞い申し上げます
 11月4日に母・よきいが91才で亡くなったために、新年のご挨拶を失礼させて頂きました。母は、私の幼き時代、体が弱かった私をとても大切にし、意識がなくなるまで、「そんなに頑張らなくても、もっとゆっくり休んで。兄のように早く逝ったら・・・頼むから」が口癖でした。
 母の想いを大切にし、本年も健康に過ごし、互いに「私らしく生きる」ことができるようにぼちぼちと横道しながら頑張りましょう。

 昨年も本業の大学勤めはもちろん、青森・秋田から沖縄まで全国各地へ講演の旅が続きました。小学校教員時代よりは、少しは余裕の時間を確保し、観光を楽しむ努力?をしてきました。講演要請は、年々減少するはずだとの見込みが外れ、今年も講演の旅は減りそうにないですね。

 そんな中でも、「北陸中日新聞」と『作文と教育』の連載を執筆し、1月に『金森俊朗の子ども・授業・教師・教育論』(子ども未来社)、10月に『子どもたちは作家になる』(角川書店・・06年度西南部小4年生と共に読み合った文学の授業から)の単行本2冊を出版しました。良かったら読んでみて下さいね。

 今年の重点は、重松清氏の講演(8月28日 午後 北陸学院大学にて・・・・4月から北陸学院大学地域教育開発センター長になり、講演会を企画主催)、「大人のための課外授業」(9月4日東京・角川書店本社ビル2階ホールにて、90分授業3コマの予定)を成功させること(両方とも参加、大歓迎!)と ゆったり登山や読書を楽しむことです。
   本年もよろしくお願いします。 

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.1.21
少年期の「溜め
 
 稲の生長には大量の水が必要です。渇水期や日照りにも困らないように、先人は河川上流部に堰を設け、用水を作ったり、谷水を集めて溜池を作ってきました。
 人間の一生にも困難や危機、不幸に遭遇した場合、それを乗り越えるための備え=溜めが必要でしょう。
 少年期において育んでおきたい「溜め」は、自然とたっぷり関わった体験、仲間とぶつかり合った遊び体験、読書、台所での共同の食事づくり、自らの好奇心・問いを調べ深めた学びなどたくさんあります。それらのほとんどはこの連載で述べてきました。
 今回、特に強調したい「溜め」は、人間関係を豊かに作る力と自分への自信や肯定感です。自己と人間を信頼し、心開いて誠実に他者に伝えたり、相談、援助を求める力を育むことです。
ところが多くの子は自分の弱さ、辛さ、悲しみを持っても誰にも言わ(言え)ずに、内面に抱え込んで苦しんでいます。苦しみは、辛さとそうなっている「ダメな自分」の二重になっているのです。
 嫌なあだ名でからかわれ続け、登校をしぶっていた四年生のK君の文です。
「ぼくがいじめの事を発表したとき泣いてしまいました。聞いて泣いている人がいて、『みんなぼくを支えてくれている。ありがとう。ありがとう』と心の中で言っていました。それだけではみんなに伝わらないと思い、手紙ノートに書き、発表することにしました。伝えたくてたまりませんでした。いじめた人もあやまってくれました。ぼくは、友だちは持った方がいい、いや持たなきゃあいけないと思いました。学校のテストで百点を取るより友に全部打ち明けて楽しく生きる方がいいも思いました。」
 私の応援で勇気を出し、発表することによって、支えてくれる友、悲しみの奥行きが分かり謝った友、さらに悲しみを乗り越えた自分が見えたのです。以後K君は学級に積極的に自分を出していくように成長しました。
 こうした経験を作ることが少年期の重要な「溜め」です。ところが最近、勉強・習い事・スポーツにおいて良い成績を獲得させることに目が向きすぎ、その過程での人間関係を作る力があまり注目されていないようです。子どもの人間関係のトラブルに、保護者が一方的攻撃的に介入する事例も多く聞きます。小さなトラブルを解決する力を育ててこそ「溜め」になるのです。 

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2010.1.5

小さい秋 見つけた
 文字を追う仕事が続くと肩が凝ってきます。例によって大学キャンパス内を散策します。思わず口ずさんだ歌が「小さい秋みつけた」でした。
グランドから畑の方に下りた目立たない所に小さい秋を見つけました。真っ赤なヒガンバナに混じって真っ白なヒガンバナが咲いていました。  
これまで見たことがなく一瞬ぎょっとしました。後で調べてみると「シロバナヒガンバナ、雑種らしい」と書いてありました。またよく見ると、花が咲き終わった後に下から葉が伸びていました。これも新発見でした。
少年時代、故郷で全く見る機会がなく、教師になってから咲き誇る花を求めました。それは、四年生国語教科書に掲載されている「ごんぎつね」(新美南吉作)に「そう列は、墓地へ入ってきました。人々が通ったあとには、ひがん花がふみ折られていました」という文があり、子どもに本物を見せたかったからです。だから、咲き終わったヒガンバナをよく観察したことがなかったのです。もっと「小さい秋」をていねいに見なくてはと思いました。
以前アケビの中身を見て「これ何や?わあっ、気持ち悪い!でっかいイモムシやあ」と叫んだ学生がいました。幼児教育に関わる学生は秋の山の幸・アケビくらいは味わっておいて欲しいものです。そう思って昨年はあちこちの山に出かけ捜して食べさせました。大学がある三小牛山は竹林で占められ雑木林がほとんどなく諦めていました。
でも、今年キャンパス内をよく捜すと、崖っぷちのコナラの木にからまった高い所にしっかりあったのです。
今回は「小さい秋」を口づさんだ成果でしょうか。アケビやシロバナヒガンバナ以外にたくさん発見しました。紅色の袋の中に黒い実をつけているゴンズイ、同じように紅色の袋から真っ赤な実を見せているマユミ、やがて見事に紅葉するヌルデ、真っ赤に熟すマムシグサの実、エゴノキの実などです。
そんな発見に喜び、ふと気になった「小さい秋みつけた」の歌を調べました。サトウハチローは、一四歳のとき大好きだった母を離婚で失い、刑務所に何度も出入りするほどすさんだようです。この歌は母を慕って作られたとも言われているらしい。九〇歳を越えた私の母は今、意識不明のまま入院中。母を気にかけている私がふと口づさんだのがこの歌。母が「小さい秋」を贈ってくれたのでしょうか。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.12.9
手が持つ力
 六年生の国語教科書上を開くと「創造」と題する以下のような詩が載っています。
「(一連)一まいの紙から、船が生まれる。飛行機が生まれる。(二連)ひとかたまりのねん土から、象が生まれる。つぼが生まれる。(三連)生まれる、生まれる。私たちの手から次々と。」
 この詩は良い教材か、どのように授業するかと問われたので、教師を対象に授業することに。まず「創造」という題名から思うことは?と聞くと「人真似でなく独創的、時間をかけ格闘すること、私には苦手なこと」などと発言。
 次に内容を紹介。一連目は大多数の人が折り紙を、まれに設計図を連想。一、二連は「創造というより造形という感じ」の発言に多数が共感。「二つの連に共通しているのは」と問うとかなり考え「形あるもの」という発言にようやく欠落している大切なものに何人かが気づきました。 
 題名と三連目、高学年や学年当初ということから考え、形あるものに拘らず、むしろ手が生み出す精神的なもの、表現、生き方に気づかせるべきではないかと話しました。
 例にかつて私が担任した六年生の作文を紹介しました。
「四年生のころAさんが『鉛筆貸して』といったので、ぼくは渡すしゅん間に手に触れたら、すごいきれいなやわらかい手だったので、ぼくは赤くなってしまい、その人の顔もまるで見えなくなってしまった。なぜか知らないけれどAさんが好きになってしまった。同じクラスだからまるで授業のときもAさんのことで頭がいっぱいで、勉強のことなんか頭に入らなかった。ぼくはAさんと家が近いのでいつも窓から首をつき出してその人の屋根を見ていた」
 手が創造したものは、初々しい恋とその想いを表現した文章の二つです。参加者に「人生を掘り起こし、この我が手や他者の手が生み出したドラマを語って下さい。その上で新しい三、四連を創ろう」と要求しました。
 「小学一年の頃おなかが痛かった時、祖母がずっと長時間さすってくれた。あの手の温もりが今も忘れられない」
こうした声を聞きながら最後に美空ひばりの歌「一本の鉛筆」(松山善三作詞)を披露。「一枚のザラ紙があれば私は子供が欲しいと書く。あなたをかえしてと私は書く。一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く。一本の鉛筆があれば人間のいのちと私は書く」
手は詩も音楽も他者との共感も、命をも生み育みます。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.11.28
一冊の本との出会い
 木村秋則著『リンゴが教えてくれたこと』という話題の本を読みました。絶対不可能と言われたリンゴの無農薬・無肥料栽培を、十年間収穫ゼロ、極貧の苦難を乗り越えて成功させた人の生き様と思想に圧倒されました。
 読みながらリンゴに関わる体験を思い出しました。一つは少年時代、我が家がリンゴ栽培もしていたことです。飼育していた牛や豚、鶏の糞(堆肥)を背中に担ぎ、山の中腹にあったリンゴ園まで運んだこと。夏、茂る下草を刈ったこと、父の消毒作業を支えるため、兄弟で農薬液を手押しポンプで送ったこと。そのどれもが重労働だったが、熟しかぶりついたときの味や喜び、逆に台風で無残にも落ちたリンゴを拾う悔しさは今も鮮明に覚えています。
 木村氏の農では堆肥も下草刈りも消毒も不要とのこと。それでも少年時代の重労働は無駄だったとは思えません。それは五十年近くも前で、木村氏が模索し始めたのが三十数年前のこと。また、父の農や暮らしに対する研究熱心と迫力には今の私でも越えていないと思っているからです。
 二つ目は、小学生に「労働」という概念を育てるためにおくやまひさし文・写真『二本のリンゴの木』(一九七九年刊)を使ったことです。本は試験場に頼み全く人手をかけないリンゴの木を一年間撮影した記録。収穫は人手をかけた木から大きいリンゴが一二〇〇個に対し、放置した木は小さいのが八十個。  
この結果を子どもに提示し、
「この違いを生み出したものは?」と考えさせたのです。人間に役立つものを大量に生み出す労働の役割を押さえ、最後に筆者の見解、小さいが「不思議に甘かったこと」と年間十五回以上の消毒によって「受粉をしてくれるはずの、いろんな虫が死んでしまったという事実」を追加しました。労働の質を少しだけ問題にしました。
 おくやま氏が実験、木村氏が本格的な挑戦を始めた頃、金沢において山川氏は、無農薬に近い低農薬・無袋・有機・産直に挑みます。三つめは山川氏との出会いで労働の質の学びを本格的に追求できました。彼の息子の担任になったのです。大喜びで自分らしく働き生きる農民像を子どもと共に一年間追求しました。
 今「食・農・いのち」の研究を始めようと思ったときに出会った一冊の本が、リンゴに関わった私の人生を浮き彫りにさせてくれました。もっと読書をしたいものです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.11.13
ボクたちの盛夏
 五十年前のボクたちは貧しかったが豊かに遊んだ。水着はなく、「黒猫」と呼んでいた小さな三角布に紐が付いているミニふんどしで午前も午後も仲間と川遊びに熱中した。
 自宅前の川には、用水を取り入れるための大きな水門を備えた橋があった。人が通る部分は低く、水門を上下させる設備の部分は十分に高く、変化ある飛び込みを満喫できた。おまけに、水門で仕切られた下流側は浅く温水に対し、上流側は深くて冷水。満潮時になると、川魚は水門から流れ落ちる淡水を求め、集まり群がる。水門を越えようと高くジャンプする。魚を手づかみできる楽しみもあった。
 魚の酔っぱらいやあ!と呼んでいた不思議な光景に時折出会った。フラフラと泳いでいたり、腹を見せ死んだかのように浮いている。それに向かって石を投げる。まず、命中しないが、魚は素早く泳ぎ逃げるがまた元の状態に。
 大人の目を盗んで、稲を運ぶ船にムシロ旗を立て海の方に向かったり、種モミを浸す大型タライを持ち出しタライ船にして遊んだりもした。
 泳ぎに飽きると、山の方に行って、秘密の基地づくり、小石を糸で結んでオニヤンマ取り、杉玉鉄砲・弓矢・刀作り、チャンバラ合戦などに夢中だった。いずれの場面にも大人はいなかった。
こうした日々を私は「きらめきの少年時代」「子どもの日々がフェスティバル!」と呼ぶ。
懐かしんでいるのではありません。私の体、人格、自然観、教育実践論の土台は、十才前後の仲間との遊びと家畜・田畑果樹労働の兄弟による手伝いによって育まれたと言いたいのです。そうした豊かな体験の意味をずっと問い新たな再生を考えてきました。
時代が違うからと諦めないで、学校での学び・文化創造活動や子育てに「きらめきの少年時代」の要素を取り入れてきたのです。可能な限り子ども自らが悪戦苦闘することを基本に、土砂降りどろんこ学習、大がかりな野菜・米を育てる学習、源流探検、ニワトリの屠蓄解体料理、登山などをやってきました。  
大人によって整然と準備された道具、環境、指導、保護のもとでの体験は土台になるのでしょうか。単なる学力不足が問題ではないのです。学びの意欲を生み出す生活、学びを血肉化する生活が極端に薄い今、学びを人生・社会づくりにつなげていく「生活体験を自ら創る力、共同して創る力」が必要でしょう。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.10.13
 ねっとりの蒸し暑さの中で
 気温が三十度を超す。雨が降りそうで降らないので大変な蒸し暑さ。そんな中、敢えて涼しい研究室を飛び出し、花を終えて実を大きくしつつあるアケビ、栗、ドングリ、柿、花桃などを見つけて歩き回りました。発見の喜びを共有できない味気なさの中、小学校教員時代を思い起こしました。
かつてこういう日の教室は地獄のようでした。蒸し暑さに関係なく休み時間になると運動場でサッカーに、体育館でドッチボールに興じ、汗びっしょりになって教室に戻ります。子どもたちのエネルギーに感心します。「暑いから近寄らないで」と言うと余計に体を寄せる始末。
 こうしたときの楽しみはやはり水泳の時間です。友と水ではしゃぎまわる子どもの喜びは凄まじいものです。この時間のもう一つの喜びは友と関わり合って記録を伸ばせることです。
「三年のとき一五メートル泳げていたけど、四年になったら十メートルしか泳げませんでした。でも、E君が『少し手の力をぬいて泳いでみて』と教えてくれたので、泳いでみたら一五メートル泳げました。うれしかったです。次泳ぐときは二五メートル以上泳げるようになりたいです。E君どうやったら五〇〇メートル以上も泳げるようになるのですか。またいっしょに泳いで教えて下さい」
記録が更新できたR君は翌朝、自ら進んで書いた文を発表していました。
 蒸し暑さの中のもう一つの楽しみは「どしゃぶりどろんこ」体育です。たたきつけるような雨の中を飛び出します。チャンスを逃すと最適な条件を備えた日は二度とないのです。水着の上にTシャツを着て、グランドの最も水が溜まった所でスライディングや泥水の掛け合い、サッカー、ラクビーなどに興じます。擦り傷をあちこちに作っても誰一人やめようとはしません。
 野性的な解放感と挑戦心、どしゃぶりや土、友とボディコミュニケーションをできる逞しい心身を育てたいからです。長年子どもたちから最も大好評だった体験でした。
 猛烈な蒸し暑さをも好条件にして黙々と生長する実・植物にそうした子どもたちのエネルギッシュな成長が重なりました。改めて悪条件の中でエネルギッシュに友と関わり合って生きる日常が、子どもたちにとって大変貴重だと思いました。さらに定年まで「きらめきの少年期」を共有できた幸せも感じた散策でした。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.10.2
 平和をつくる言葉
 七月金沢にて広島・長崎で被爆した子どもや母親の手記を朗読する劇「夏の雲は忘れない・・・一九四五・ヒロシマ・ナガサキ」を観ました。出演者は、中村たつ、山田昌、渡辺美佐子、高田敏江、柳川慶子、日色ともゑといった熟練の優れた女優さんたちです。
原爆によって突然肉親を奪われた怒りや悲しみ、親子の絆、愛の深さを一人で長く、あるいは二人で互いにたたみかけるように、さらに六人で群読のように朗読した表現は激しく胸に迫ってきました。
例えば「弟」と題した小学五年生男子の詩。

 いた(板)といたの中に
 はさまっている弟、
 うなっている。
 弟は、僕に
 水 水といった。
 僕は、
 くずれている家の中に、
 はいるのは、いやといった。弟は、/だまって
 そのまま死んでいった。
 あの時/僕は
 水をくんでやればよかった。

私の左側には小学校低学年かと思われる男子、右側には小学生の兄弟が座っていました。開演後しばらく右側の子は分からない言葉が出ると母に尋ねていました。左側の兄は朗読の度に弟に低い笑い声をたてふざけていました。これでは集中して観ることができなかも、との心配はすぐに消えました。三人の小学生はやがて全く声を出さないどころか身動きもせず、一時間半見事に集中して聞いていました。
 子どもの余りに短い人生最期の生きたいという言葉、母や弟妹を想う言葉、逆に母が全身やけどを負った子を抱きしめることもできないままに死なせた悲しみの言葉は、女優の朗読によって確かに深く
幼い子どもにも届いていました。右側の子は次第に母に寄り添っていきました。言葉と表現の力の大きさを改めて実感しました。
 大勢の立ち見も出た超満員の観客を魅了した今回の舞台は、女優さんたちとそれに呼応した観客の力の総和でしょう。二三年間続けてきた「この子たちの夏」が演劇製作体の解散により中止。出演してきた一八人の女優が「世界でただ一つの被爆国、その国の民としてこれだけは声を大にして語り続けなければという強い思い」(中村たつ)で自主的に舞台化し全国行脚に。
 その熱意に何としても応えたいとチケットを広め、購入した主催者と観客との共同が、平和の礎になる「死者の言葉」を生者の心に住まわせることができたのでしょう。
 

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.9.12

 小さな体験が生み出すもの
 社会科演習で学生と共に海水から塩を取り出す実験をしました。海水を汲んできて大きい鍋に入れ、強火で蒸発させ塩を取り出すという単純な実験。延々と待つ時間の間に、中世から昭和三〇年代まで盛んに行われていた能登の製塩業の学習をしました。
能登の塩田は塗浜と呼ばれる揚浜塩田。まず岩石海岸に岩石を敷き詰め、砂利、粘土を敷き平らにし、さらに細かい砂をまいて浜床を作る。
その浜床に砂をまき、運んできた海水をまき、蒸発させる。その砂を濾過装置のような箱に入れ、また海水を注いで砂に付着した塩を溶かすという作業を繰り返して濃塩水を作り出す。それを釜に入れて煮詰めて塩を取るのが製塩業という仕事です。
自ら実験しているからこそ難解な漢字の多い、込み入った過程の説明も興味深く読めました。ようやく理解できたときに生まれた疑問は、能登の製塩業はなぜこんな面倒で大変な作業をしたか?です。
一時間以上経過した頃横の鍋から何かが飛び散り、それをなめて「うわあ、本当に塩だ、塩だ。感動するなあ」と叫んでいます。塩がかなり現れ、表面がトロッとした状態で火を消しました。
さっそく指を突っ込みなめてみて「にが〜い」「でも甘みがある。分かったあ、天然塩だからミネラルいっぱい」「もう一つ、分かった。この苦いのが、にがりなんだ」「にがりと言えば、豆腐を固まらせるものだね」「ええっ、どうしてこんなものが豆腐を固まらせるって、昔の人は分かったんだろう?」「海水の濃度は三%と言われたが、たった二gでこれだけ塩が取れるなんてやっぱり多いよ。びっくりだ」
 続々と生まれてくる疑問を整理して分担して調べてくることに。その上で最も大きな疑問、なぜ複雑な作業をするのか?を考えました。二gを蒸発させるのに長時間の強い火力が必要だったことから、「この方式だと膨大な燃料、薪を消費することになる。だから自然の力でできるだけ濃塩水にする。まさに省エネ」だと納得、感心。
 また、学生たちは三〇gの海水を重い、重いと交代で運んだことから、製塩業の従事者は、一回に七二gもの海水をニナイ棒で担ぎ、一日平均往復で一四六回運んでいたことに大変驚いていました。
 小さな体験を丁寧に広げ深めていけば、人・物の奥行きがよく分かったり、好奇心が強まり学ぶことの楽しさを味わえたりします。 
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.7.6
お越しくださった皆さま、ありがとうございました。
「夏の雲は忘れない」のお誘い
 学生時代より「花には太陽を、子どもらには平和を!」という歌をよく歌ってきました。自然には自然のままを、子どもには人間らしいままを謳歌して生きる社会・時代を残すのは、親・大人として当然の最高の財産だと思っています。
 若いアメリカ兵が国家の命令によってイラクの子どもの命を奪っているような、我が子や教え子たちが、銃を手に多国民を殺すという社会・時代だけは親とし て教師として絶対作りたくない、と強く願っています。しかし、願っているだけではその財産を残すことはできません。せめてその願いを多くの人と共有して 「人間を、平和を守れ!!」と声を出し続けることなら、私にもできます。願いを深く確かなものに、そして多くの親子にいのち・存在・平和であることの尊厳 を少しでも広めることができたのは、朗読劇「この子たちの夏」でした。10年間以上その上演運動に関わってきました。
 被爆した母が子を想い、子が母を想う手記を円熟した女優さんたちが朗読する美しいシンプルな感動的な劇は、今年から新しい台本のもとに「夏の雲は忘れない」として引き継がれました。ぜひ、ぜひ多くの方々に観劇・感激して欲しいと強く願っています。


農の魅力を子どもに
 幼少年時代にぜひ、土に触れ作物を育て、収穫を楽しむ農の体験をさせたいものです。
収穫物は、太陽・風・雨・土の恵みを受けて育ったいのち、日照り・強風・長雨・病害虫と闘って育ったいのち、育てた人の汗と愛が染み込んだいのちです。
農は、いのちや自然を実感できる世界、子どもが大好きないじくりの世界、人間の意志通りにいかない世界、働きかけつつじっくり待つ世界、食材と働く人の奥行きにアプローチできる世界、人と人、人と地域、人と他の生物との関係性を豊かに育む世界です。
だから私は小学校教師時代、可能な限り米、野菜、果物、工芸作物を育ててきました。
特に大規模な農園作りに取り組んだのは、五年生時に「学級崩壊」で荒れた六年生を担任したときでした。「荒れ」の中にエネルギーを見いだし、それを発揮させる「場」にしたかったのです。
二人の専業農民の協力・指導を受け、かつて畑地であった荒れ地を開墾し、メロン・スイカ・ナス・トマト・サツマイモ・ネギ・キュウリを三六〇本以上植えました。畑は学校から二キロ程離れていたので、作業、世話も行き帰りも大変でした。
夢はスイカ割り大会、焼き芋会と収穫物を売って得たお金で本を買うこと。目的は、農の体験とそれを軸に地域に誠実に働き生きる人々を調べ研究すること、夢の実現。子どもたちはその全てをやり遂げました。感想の一部です。
「六年生になって本当の畑作りができると知った時、私はとってもうれしかった。自分たちの作ったもので、自分たちが学ぶ。何てすばらしいんだろう。ようし、がんばるぞと思いました。畑作りをして働くことの大切さもしみじみ分かりました。いつも何気なく口にしていたナス、サツマイモなどの作物が、私たち以上の労働によって育てられたものだということも分かりました。そして何よりもその作物を育てている人の心もちょっとは分かったつもりです。」
農園活動のリーダーとして大活躍したのは、かつて最も荒れていた男子でした。「僕は生まれ変わった」と卒業文集に書きました。今は子を持つ父。数年前、PTA会長を務める彼は、私に講演を要請してきました。
農の教育力を両親や農民、さらに子どもから学んだ私は、今、大学で希望する多くの学生と共に畑作りを開始。教育者を志す彼らが、喜んで働くのは実に爽やかで嬉しい。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.6.11
抱きしめて!
 以下の文は、大学院生が私の講義(授業)を受けて書いた長文のごく一部です。短い連載原稿に敢えて長く引用するのは、子どもの体・人生史が生み出した生の言葉にじっくり触れて欲しいからです。
「父の私に対する期待が大きく、いつもその期待に押しつぶされそうでした。弟や同じ年のいとこと比べられ、いつも良い子でいなけれぱならないという気持ちでいっぱいでした。小学校高学年の時に担任の先生と合わず不登校になり、初めて自分の気持ちを親に話すことができました。  
しかし、中学生になってからも良い子でいなけれぱならないという思いは消えず、親の顔色を窺いながら生活していました。高校に入っていじめを受けるようになり、最初の頃は親に気付かれないよう振舞っていましたがだんだん困難になり、母に打ち明けた時、母は泣きながら今まで我慢させてごめんねと私を抱きしめてくれました。
それから親子関係はうまくいっていますが、今思うと本当につらかったです。親の期待に添えない状況に陥り、私はいらない子なんだと思ったことや、いじめの苦しさから死にたいとリストカットをしたことも何度かありました。
そうするしかストレスが発散できませんでした。今は、恋人が大事にしてくれ必要としてくれたからやめることができました。
私の周りの教師を目指す子は『いじめ、不登校をなくしたい』と言いますが、いじめや不登校、リストカットを経験した私には全てきれいごとにしか聞こえません。経験した子にしかわからないことも多いと思います。だからこそ、私はそうした子どもの気持ちに共感し、共に考えていきたいと思います。」
悲痛な体験を憎しみに転化させず、似た経験をしている子の内面世界に共感し、一緒に考え、共に生きる教師になろうとしています。彼女の転機を生み出したものは、自ら「打ち明けた」こと、「母が泣きながら」「抱きしめ」たこと、さらに「恋人が大事に」「必要としてくれた」ことです。
心と体、すなわち人格と命を丸ごと包み込み、抱きしめることがとても重要なのだと教えています。勉強、スポーツ、習い事という能力全開を要求されるだけの存在にはしない。あなたは共に家族や学級、学習、文化をつくり、この時代を共に生きる上で大事な、必要な存在なんだよ!そう接する親・大人を子ども・若者は願っているのです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.5.20
バランスの喪失
 イチゴ生産の危機、花粉交配をするミツバチ不足が原因!ミツバチを殖やす女王バチが伝染病のためオーストラリアから輸入停止のためとのニュースに驚きました。ミツバチが花びらを一周して交配してこそ、あのイチゴの形に育つこと、女王バチすらも輸入していることを知って慌てて調べました。
ミツバチは、イチゴにとどまらず、ナス、メロン、スイカ、キュウリ、カボチャ、梅、桃、梨、キウイ、サクランボ、ブルーベリーなどの花粉交配に欠かせない生物であること、にもかかわらず、養蜂業者が飼っているミツバチの激減があること、特に〇六秋から〇七年の春にかけ、アメリカの三割近くのミツバチが逃走し、蜂群崩壊症候群として問題になっていることなどが分かりました。
交配を担っていた多様な生物を農薬散布によって死滅させ、過重な負担を背負わせていたミツバチすらも危機に。人間にのみ都合よい生産・消費システムの追求は、バランスよく存在し、共存しあっている生態系を次々に破壊しているようです。
こうしたバランスよく存在し、共存しあっている関係性を改めて考えてみました。最も恐ろしいのは、自然界の生態系を守らなければならない人間の、育ち=教育におけるバランス崩壊です。
水と土にまみれて泥んこになって遊ぶこと、土・雨・太陽の恵みを受けて作物を育てること、もぎたての旬の香りと味をかぶりつくこと、大地に足を踏みつけて高き山に挑むこと、大海の波に乗りつつ小島まで泳ぎきること、危険を予知し、避け乗り越えるスリルある冒険に挑むことなど。
それらは生態系の頂点の恩恵を受けて存在する動物であることの、実感と認識を体を通して獲得する体験です。
しかし、そのどれもが、テレビ・ゲーム機・パソコン・携帯電話などの機器文化に、商業娯楽施設に出かけることに、学校・塾・習い事に過剰に教えられる世界に、保護され守られる世界に比べてあまりにも貧弱です。
人間の内部のバランスを崩してしまっては、大自然の生態系のバランスを守れるはずはないでしょう。
四月という入学・進学・就職の子育て・教育の新しい段階を迎える時期、何よりもあらゆる生き物が命芽吹く、命萌ゆる時期に、子どもを含めて私たち人間の内と外になくてはならない「バランス」を改めて考えてみたいものです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.4.26
私って必要とされているの?
 幼子を育てながら出版社で働く親しい編集者から次のようなの執筆要請です。
若いお母さん方は子育てにとっても悩んでます。「子どものやる気を引き出すには」「子どものしつけはいつから始めればいいのか」などの具体的な子育て方法を書いた本がとても売れてます。先生が強調する「子どもはいじくりの世界が大好き!土と水に親しみを」なんていう本をぜひ書いて、悩みに応えて下さい、と。
以下のように答えながら断りました。悩みがなくなる子育てってありえない。その前提が間違い。方法論を書いた本や体験から断片的に知った知識だけに頼っていては、次々に子育て方針が変わるよ。
まず、悩みに悩んで我が子や環境を見つめ直すこと。次に夫婦や家族・近所・友達に相談し、年齢に関わらず互いの子育てに関心を持ち学び、子育ての砦を作ること。さらに、これまでの自分を育てたものは何か?と問いながら自分自身を見つめ掘り起こすこと。そんなことの大切さが納得、実感できる本づくりをしたら・・・と。
実は、私も悩んでいるのです。多くの子や若者と接してきて、最も語られるのが「どうせ私なんか誰も必要としていない!」という悲痛な思いに対してです。
少し大きくなると、勉強・習い事・スポーツの面で、能力・成績が向上するようにひたすらガンバルことを要求される存在になるからです。その要求に応えられない自分に存在感を実感できないのです。
私たちの少年時代にあった、働き者、優しい、根気強いなどという家族や地域からの人格評価や「あなたがいてこそ」「あなたを当てにできるから」ということを実感できる場があまりありません。
家庭や地域で「いのち・人間としての存在者」という実感をどう育めばいいのでしょうか。この連載で強調してきたのは、例えば幼少から食事作りを継続し、それを中心に家族づくりの一員になってもらうことです。責任をもって動物や植物、環境を飼う、育てる、守ることもそうです。
特に、伝統行事で子どもが主役として活躍できる場を持っている地域は貴重です。子どもを安易に「利用」するのではなく、洪水や地震の際に進んでボランティアに加わったような社会参加が必要です。
誰かの生きることに役立っている私、微力だけれど無力ではない私たち!という実感を育む場を、子どもも若者も私も模索しているのです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.3.29
雑木林に入ってみると
 小学生たちが「今年はツララができないなあ。取って遊びたいのに!」と話していました。そう言えば今年はツララを見かけません。
一度だけ、凍みて雪上を歩いてもごぼらない(はまらない)朝がありました。さっそく講義で宮沢賢治の『雪わたり』を紹介しました。
「“かた雪かんこ、しみ雪しんこ”四郎とかん子とは小さな雪ぐつをはいてキックキックキック、野原に出ました。こんなおもしろい日が、またとあるでしょうか。いつもは歩けないきび畑の中でも・・・すきな方へどこまでも行けるのです。平らなことはまるで一枚の板です。そしてそれがたくさんの小さな小さなかがみのようにキラキラキラキラ光るのです。」
 こんな情景の中を歩く感動を体験した学生はいません。この冬、せっかく三小牛山にキャンパスが広がる大学に勤めたのだから、雑木林の雪中散歩を楽しもうと思い、かんじきを持参しました。しばらく様子をみている間に雪は消えてしましました。
 通勤は楽ですが様々な雪での楽しみを体験できないのは寂しいものです。
 すっかり早春の装いを始めている雑木林に散歩に出かけました。まず、松の木の高いところにスズメバチの巣を発見し、第一の目的を達成しました。初夏に付属の幼稚園生
を案内する探検コースの点検です。葉を落としている今が一番見通しが効きます。
 最も嬉しかったのは、以前から探し求めていたヤママユガとウスタビガの繭を発見したこと。第二の目的も達成です。生活科の講義で糸くず一本を「いじくる」ことから、綿花、真綿、シルク、養蚕、天蚕の世界までを教えたからです。さっそく学生に紹介し、黄緑色の糸を触らせると感動していました。
 アケビの芽がわずかに緑色を覗かせているのも見つけました。そんなに植物に詳しくない私が断定できるには訳があります。実は初冬にアケビのつるを切り取り、研究室の花瓶にさしておいたのです。かなり前に芽を伸ばし、今では小さな濃い紫色の花を咲かせています。
残雪に残るカモシカやウサギの足跡や糞も発見。林を出て農家の納屋を覗くとおじいちゃんが藁で箒を作っていました。以前の三小牛町や仕事の様子もたくさん教えてもらいました。お土産に藁と完成した箒を頂きました。これは目的外の大収穫です。
散歩はやっぱり素敵です。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.3.8
子どもの素晴らしい研究力
 かつて運動場の上に群舞するアカトンボの多さに驚いたものでした。一昨年の春、勤務校前の田で小学四年生とヤゴを懸命に捜したところ、数匹しか発見できませんでした。全国的に減少の報を知っていたので、「やっぱり」という程度で済ましていました。
ところが、そうした減少傾向を克明に調査した子ども達がいました。福井県若狭町の小学五年生。担任教師は、私の長年の研究仲間です。
調べたのは、アカトンボと同様に減少しているカエル。アマガエル、シュレーゲルアオガエル、ツチガエル、トノサマガエル、ダルマガエル、ニホンアカガエルの六種を、@学校田とその周辺の田Aアイガモ農法の田B冬水田んぼ農法の田Cカヤ田(沼・山とつながる昔ながらの田)の四種類で調査。
例えば、六月にカヤ田を調査した女子は「今まで見た田んぼとは大違い!びっくり生き物たち」と題して発見した生物を書いています。
・ホトケドジョウ・マドジョウ・メダカ・フナ・オケラ・アメンボ・ガムシ・タニシ・カワニナ・イトミミズ・ヘビトンボ・コマツモムシ・マツモムシ・ヒル・ミズカマキリ・ヤゴ・オタマジャクシ・多種類のトンボ・(前述した)六種のカエルとウシガエル
 詳述したのは、彼らは丁寧な採集、観察、調査をもとにほとんど固有名詞で記録していることの素晴らしさを分かって欲しいからです。
カエルに関しては、種類と個体数を調べ、それらが豊富なのは、CBA@の順になること、その訳が農法(農薬、肥料、水管理など)、あぜ・水路の構造、周辺環境、さらにカエルの体の仕組み(足に吸盤の有無)や産卵の時期・場所にあることを、専門家も招いて学びながら突きとめます。
彼らの感想や提言は、「アカトンボやカエルは減少。環境が大切」ではなく、極めて具体的です。「自分たちでカヤ田に近い田を作る」「地域で冬水田んぼやアイガモ農法が増えるように伝えていく」「農林水産課に行って水路の工夫をお願いする」など。
指導したのはまだ幼子を抱えているママさん教師。他方でカヤ田を運営管理する環境保全団体の一員です。しかし、この学習は教師からの一方的な指導ではなく、子どもが地域にある「冬水田んぼ農法の田」を発見したことが起点。
仲間と共同で研究すること、地域の自然・人・産業の素晴らしさの発見は、まさに子どもが生みだした希望です。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.2.24
我が子にこれだけは
 ある会の席上「すごく忙しくて子どもに思うように関われない。母親として最低限何をしなければならないですか?」と問われました。それは「もう一度我が子を見つめ直し、同じ問いを夫や子ども、あるいは友人に対して発し、話し合うことではないですか」と答えました。
 逃げたのではありません。他者から考えを安易に貰おうとする限り、次々に生まれる悩みを解決しながら、共に豊かな子育てを追求する家族・仲間のつながりを築けないからです。
 その上で、子どもの存在・いのちの尊厳については、機会(子どもからの問い、血縁者の誕生や死、社会的な事件など)を逃さず、リアルに思いを込めて語り込んでと、以下のような事例を話しました。
 小学三年生のJ子は、母に兄弟姉妹の「命の危機」について尋ねて書きました。
 《私のお母さんはお兄ちゃんを産むときにお医者さんに「赤ちゃんがあぶない。お母さんの命を取りますか、それとも赤ちゃんの命を取りますか」と言われて「子どもを助けて下さい」と言ったら、お医者さんが「全力をつくします」と言ったそうです。それでお母さんはいたいのをがまんをしてがんばったら元気なお兄ちゃんが出てきてお母さんもぶじ助かったのでよかったなあと思いました。(略)
 お母さんは子どもを二人なくしました。それでいったん赤ちゃんを産むのをやめたけど、また、産もうと思ったそうです。でも、やっぱり子どもがほしかったから産んだそうです。(略)お母さん、私を産んでくれてありがとう。》
 多忙な中で、メモを取りながら聞く三年生に分かるように語り込む母、聞き取り、長文に書き上げる娘の二者ともに大変です。その中で娘は、二人の子を亡くした母の悲しみ、子の命を守ろうとした母の強い想いを受け止めただけではありません。
 母は娘が書いている文を読み、感激の涙を流したそうです。語り込む母と娘の捉えに涙した母の姿を娘は心に刻んだはずです。母は、我が子が家族と自己の存在の大切さをしっかり受け止め、感謝していることに大きな喜びと励ましを受けたことでしょう。
 J子は書き上げた文を朝一番に嬉しそうに学級の仲間に報告。「母子の危機のとき父は?」と仲間に問われ、今度は父からの聞き取りを書いてきました。父母に愛されて誕生、成長している新たな実感がこの学びを支えていました。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.2.8
ほのかな希望
 寒風に雪が舞うと身体をすくめ、温かい部屋に籠もりたくなります。そんなときテレビに映しだされた青年たちが心配になります。突然の解雇、寮からの立ち退き命令。先月の給料は手取り五万円で、今手元に残っている現金は数百円。「職に就けるなら距離を問わないが、これでは面接に行くこともできません。ホームレスになるのかと不安でいっぱいです」と語る青年。
 そうした人を、さすが今日では「勉強しなかったからだ」「がんばりが足りないのだ」と公言する人は少なくなりました。一九八五年以来続けた派遣労働法の「改正」によって、三二〇万人以上の派遣労働者が存在しているからです。十一月末の厚生労働省の調査によると、「派遣切り」など非正規雇用の解雇・雇い止めで失業した労働者が全国で三万人を超えるというのです。青年の責任ではありません。
 そんな心配をさらに強める声を今年直接聞きました。「本当はこの故郷が好きです。ここで働きたい。でも、町は寂れる一方で働く場所が無い」。北海道の日本海側、檜山地区を講演で訪れたときの中学生の声です。その前後に訪れた北海道赤平市の青年会議所のメンバーも島根県江津市の教職員も「子ども達に、我が故郷はいいぞ〜と胸を張って言えないのが悔しい、情けない。あまりの格差です」と語っていたことです。
 でも、一筋の光明も見えてきています。一つは、東京で極小の居酒屋経営を軌道に乗せた友人の話をじっくり聞けたこと。有名デパートでブランドファッション売り上げトップだった彼は、大量に売る生き方に疑問を持ち辞めます。
 良質な飲食を提供しながら、生産者とお客とのつながり、健康、平和、環境を大切にしている店です。収入が半減しても「物・金・ビッグな腐敗の方向」ではなく、「スモール・ゆっくり・シンプルな発酵の方向」に向かうライフスタイルは可能だという実践的な提起でした。収入増加を目指さず、来年は週休二日にできると語る彼のような青年は確実に増えています。
 もう一つは、今大変注目されている「首都圏青年ユニオン」(青年の、青年による、青年のための労働組合)の活躍に触れたことです。その委員長が私たちの研究会誌に「若者はどこへ向かうのか」と題して連載。明日二七日、(2008.12.27)加賀での研究集会にて講演。直にお会いし、青年自身が生み出す希望に触れることができることを楽しみにしています
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2009.1.25
迎春
仲間とつながりあって ハッピーに生きようぜ!!
 暗く厳しい社会ですが、この時代を子どもと共に生きる大人として、仲間と手つなぎしながら希望を創り出す営みに精出せたらいいなあと願っています。
昨年の4月から、北陸学院大学幼児児童教育学科の教員として学生と共に結構楽しく学び合っています。小さな大学なので学生の声を聴き、科学・文化・人間を豊かに読み解く力を獲得してもらいたいと奮闘中。可能な時間を見つけ、付属の扇が丘幼稚園に出かけ、幼児と共に竹・ロープを使った遊具作りも楽しみました。子どもと共に汗を流す生活が私に合っているようです。
講演・授業、新聞・雑誌の原稿執筆、県民教育文化センターの運動にも多忙で、「森は海の恋人」親子サークル、「むぎわらぼうし」平和サークル、「一歩一歩楽園」三世代農園づくりNPO法人、劇団文化座友の会、そして山歩きや読書、友に会いに行くことなどの活動が不十分でした。今年は、もっと講演を減らし、少しでもゆったりしたいなあと思っています。

本年もよろしくお願い致します。
金森俊朗
2009.1.1
思いやりがない!?
 しばしば耳や目にする「今の若者・子どもに思いやりがない」との論についてどう考えるかと学生に問いました。自己体験をからめながら、社会的歴史的な現象・事件など広い視野、多様な視点をもって考える力を育むためです。
 まず容易に使う「思いやり」って何だろうと聞きました。
「相手のことを考えたり理解しようとする優しさ、誠実さ」という心情論と「見返りを求めず、相手の立場に立ち、支えるために行動すること」という実践論に分かれましたが、両者とも取り上げた事例は全て後者です。
 多くの学生が取り上げた自己体験的な事例は、これまでの学校生活での虐めと高校大学へのバス通学における座席の譲り合いでした。
 虐めを受けたが支援されなかった子と逆に支援された子や自ら止めた子、さらに虐めを見ていて止めることができなかった自分を責める子と加害者を責める子によって「思いやり」の有無の捉えは大きく変わっています。バスの場合、乗客の年齢層は多様なのでさらに複雑になります。
 自己見聞や体験にこだわった結論がいかに一面的なものであるかが明瞭になりました。
ましてや「今」と「かつての若者・子ども、あるいは今の年配者」と比較することは容易ではありません。
 さらに論を進め、最大の虐めである「戦争」や明確な社会的差別である「障害者」「ハンセン病」「HIV」、はては地球温暖化問題を取り上げた学生は、「昔の人はそれほど思いやりがあったと簡単に言えるのか」と反論しています。
 私は、もっと視点を多く持ち、広く見つめることを促すために以下の今日的若者像の幾つかに触れました。
低賃金で過酷な仕事にはげんでいる介護士やそれを目指す学生。阪神・新潟・能登などの大震災やつい最近の浅野川洪水災害時の中高大学生や若者のボランティア、アフガニスタンで亡くなった伊藤和也さんを典型とする海外でのボランティア的活動など。
学生たちは自分の視野の狭さと最初の一般論の貧しさにすぐ気づき始めました。「時代や政治の仕組み、人権意識などが違うのに、単純に比較して言う方がおかしい」と。
まだ、視点捜し、事実調べ、議論は途中です。学生たちに、無責任に発言される狭い体験論的な見方に縛られないで、自分を含んだ若者・子どもが、今、生みだしている希望をしっかり掘り起こし見つめて欲しいと願っています。 

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.12.25
  料理を楽しみながら
 こんな私に食育に関する講演の要請がきます。確かに子どもの「いのち・存在を輝かせる」教育には、食の問題は不可欠だと考え実践してきました。でも、今日強調されている食育には教育の全体構想や改革への指向が弱いのではと思っています。
 例えば給食の残滓が多い問題に対してまず私が取り組むのは食育ではありません。
「食べられないものを無理矢理に食べなさいとは言わない。残して捨てるくらいなら、最初から貰わないか、少量にして!とか誰か食べて!とかを給食当番や仲間に言えばよい」と訴えます。食が細かったり、好き嫌いが激しくかなり残す子の発達課題は、まず完食するかどうかよりも、仲間に自分の思いや意志を伝える力、活発に運動や活動を展開し食欲をも生み出す前向きな力だと捉えるからです。
 やがて積極的に遊んだり、伝え合う仲間になってくると、周囲が責めないで「ええっ、それ、食べないの?美味しいよ、ちょとでいいから食べてみんか」「御飯にくるんで食べたら食べれるよ」などと言うのです。仲間に言われてちょっぴり挑戦。それを見て「やったあ」と喜び合います。
 問題や個の発達課題を仲間と共に克服していく道を確かなものにしつつ、食をめぐる独自課題・・・生産者の苦悩や喜び、食材は生命体でありいのちを絶ち解体している人がいること、自ら栽培すること、旬・地産地消・自給率などを一年間かけて様々な学習と結合して学びます。
でも私は食育を学校が背負いすぎない方がいいと思っています。最も優れた食育は台所で子どもと親や祖父母が一緒に料理作りをすることです。子どもはいじくりの世界が大好きです。様々な食材(いのち)に直接手を触れ、道具や器(文化)を知り、技と心遣いを伝授され、挑戦することにとても強い好奇心や喜びを持ちます。食卓でどんな感想が寄せられるか、期待を持ちます。食への関心や食欲が自然に高まります。
意義はそれだけにとどまらないので多忙な中、敢えて勧めています。今、子ども達の多くは、勉強やスポーツなどの能力全開ばかりを期待され続け、十分に応えることができずに自己の存在感・肯定感を持ちにくくなって苦しんでいます。家族のための料理作りを一緒にすることを通して、自分という存在が家族にも「あてにされ必要とされている」という実感を得ることにもつながるからです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.12.10
  秋・種を楽しむ
 我が家の植木鉢にちょっと珍しい植物を育てています。メガルカヤです。カルカヤは「刈る茅」であり、屋根葺きなどに利用されます。全国に分布する多年草ですが、今は簡単に見られないようです。
 珍しいというのは、その種が驚くことをやるからです。メガルカヤは、半開きの扇の形をした小穂を六個つけます。その小穂の頭の部分に長い褐色ののぎ(芒)があります。麦を思い出して下さい。メガルカヤは麦よりずっと長い芒をもっているけれども穂はとっても小さいのです。
 秋が深まる頃、芒に朝露が当たると芒が回転を開始。他の小穂に当たり、回転した穂=種が地面に落ちます。すると、芒は再び回転を始め、種を地面に潜らせていくのです。自分の力で潜っていく種!信じられない光景です。
 植物が持つ「命のリレー」の感動的な戦略の典型として、現役教師時代、授業で見せました。子どもは勿論、全国各地から参観に来た教師たちも大変驚きました。
 なぜ、芒は自ら回転するのでしょうか。メガルカヤの芒はこよりと同じ原理でできていて、湿度によって回転するのです。
 最初の授業は映像でしか紹介できませんでした。ところが、この授業を知った大阪に住む教え子が大変な努力をして捜し、金沢まで根、土付きで持ってきてくれたお陰で実物を見ることができました。
 退職しても求められる全国各地での授業や仲間の授業にも使えるように大事に我が家で栽培しているのです。
 秋が深まると樹木や草花に様々な種ができます。それらの種を食べたり、工作に使ったり、命のリレーを学んだりすることができます。
 昨年までの教師現役時代には、秋になると子どもたちや保護者と競うようにして様々な種を集めることに夢中になりました。
 自分が子どもの時、「どんぐり」というのは総称でたくさんの種類があることを知りませんでした。今、公園に行くといろいろなどんぐりを拾うことができます。
シイ、イチイガシ、マテバシイなど生でも食べられる美味しいどんぐりを見つけると嬉しいものです。
でも、多くはあくぬきしないと食べられないどんぐりです。クヌギ、コナラ、カシワ、アラカシ、アカガシ、ミズナラ、アベマキ、ツクバネガシ、アカガシ、シラカシなど子どもたちと区別できただけで凄く嬉しくなります。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.12
この“時・季節”を生かす
 幼児や子どもの学びは、大人のそれとは大きく異なります。大人の多くはプログラム化された研修の場で学ぶ意識のみが強く、そこに向かうプロセスは手段にすぎません。
ところが子どもは目的までのプロセスや何気ない日常生活、風景からしっかり学び取ります。六月に小学校三年生の女子が友だちに次のような報告をしました。
「私は日曜日におばあちゃんの家に行って、天井を見るとツバメの巣がありました。よく見ると泥でできていたので、おばあちゃんに聞くと、あれは田んぼの泥でできているんだよと言っていました。ツバメの巣はとてもきれいにできていました。普通は天井に泥をつけたら、泥がポタポタ落ちるのに、下には泥も何も落ちていなく不思議でした」
 巣を発見して観察し、祖母に問い、感動と疑問を生みだしています。それを聞いた男子は校舎にある通気口に鳥の巣があると報告。みんなで見に行くと穴の隙間に藁が見えます。何とそこは、駐車場の一角で私が普段車を停めている所でした。
別の子が下に鳥の糞があるのを見つけ、「鳥の糞は白色に黒っぽいものが混じっている。田んぼや木の虫を食べているはずなのにどうして白色なの?」と問いました。教室に帰り、早速ユニークな鳥の巣を描いた絵本を読み聞かせました。
今、木々の葉が色づき、大人達をも楽しませてくれます。
山や公園に行くと、本当に赤や黄に染まった、一枚と同じものがない、多彩な葉があります。また、色・形・大きさ・機能の異なる木の実、草の実(種)がたくさんあります。
 子どもは物をいじくり回して遊び、遊びの中で発見をする天才です。他人の洋服に投げてくっつけるオナモミは、虫眼鏡で拡大すればトゲの先端が曲がってカギになっていることに驚きます。同じようにマジックテープを拡大して観察してみて下さい。オナモミをヒントに発明したと言われています。
 コマ作りやクッキーを楽しむことができるドングリ。クヌギ、コナラ、ミズナラ、スタジイ、マテバシイなどと何種類も見つけて区別するだけでも楽しいものです。
 山歩きに出かけると、麓のバーベキューなどの施設に若い親子連れが多数いるのに、山歩きをしている家族はほとんどいません。
 この“時・季節”しか味わえない遊び的学びを子どもと共に楽しみたいですね。


(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.11.11
子どもが聞いています
 新聞、テレビ報道によれば、大阪府の橋本知事が全国学力テストの結果公表に消極的な市町村教委を指して、「くそ教育委員会」と言葉汚く非難したとのこと。さらに「〇九年度からテスト結果の開示・非開示によって、予算をつけるかどうか決めさせてもらう」とまるで脅しやいじめの発言。これらを全国の子どもが見聞きしているのです。その悪影響をどのように考えているのでしょうか。
 さらに問題なのは学力テスト実施目的を無視しているということです。橋本知事だけでなく、マスコミや教育関係者を始め多くの人も同じです。学力テストの目的を再確認しておきましょう。
「■全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から、各地域における児童生徒の学力・学習状況を把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る。
■各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し、その改善を図る。」(文科省)
 端的に言えば、文科省・教委・学校が改善課題を明らかにし、その達成を図るためのテストです。文科省は、テスト結果公表によって過度の競争や序列化を引き起こさないよう繰り返し注意を喚起しています。(〇六・四・二五)
 ところが、現実にはすでに過度の競争、序列化が激しく進行しています。国の学力テスト実施以前から「学力向上事業」で県、市町村、学校、学年レベルでテストが展開され、地域別・学校別・学年別の点数やランキングが明らかにされてきたのですから。
 私と同じ研究会に所属する梅原利夫氏(和光大学)は、学力とは@学びを求める力(学習意欲)A学んでいく力(分かる・できる・使える力)B学び合う力(共同の学習)C学び取った力(基礎・基本の学力)D次の学びにつなげる力(応用・発展の学力)の五つの層が互いに組み合わされ、発達していくものと強調しています。
 学力テストはCにあたる国語と算数・数学のみを、ペーパーテストで測定可能な部分だけの調査です。結果をヒステリックに拡大して取り上げず、もっと冷静に限定的に見ることが大切でしょう。
私は、子どもの学びの力や未来を創造する力はうんと広く奥深く豊かだと信じています。大人はそれを総力上げて掘り起こし、応援することではないでしょうか。
 
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.10.13
言葉の教育を豊かに
 会議を終えてきた友が「これが教育か!」と怒っていました。「学力(テスト)向上のために、全校一丸になってもっと漢字練習の徹底を図る。家で練習してこない子は首根っこを押さえてでも休み時間にさせる」。主任がそう声高に迫ったというのです。
 漢字を習得させることは大切です。でも、そのための指導法や漢字を学ぶ意義を議論せずに、単に反復練習の徹底を、しかも学力テストのために強調するのは余りにも貧しく情けない。
 私は県内外の学校に招かれ、
教職員と共に授業研究をしています。授業を参観して思うのは、言葉を育てることにもっと力を注ぐべきではないか、ということです。
 単語ではなく文脈ある考えでの応答、口をしっかり開けて語ること、子どもが教師にだけではなく仲間全員に向かって語ること、言葉を広げること、思いや事象にふさわしい言葉を捜すこと、その日その時にこそ教えられる言葉を見逃さないこと、板書の際もっと漢字を使ってどんどん読めるようにすること、辞書を活用すること、学びと関連する本を紹介することなどです。
 例えば、子どもが「ひどい雨が降って稲が倒れていました」と報告すると、私は「ひどい雨という言い方を変えると」と問います。「強い雨」「激しい雨」「豪雨」「大雨」「たたきつけるような雨」「土砂降り」などが出され、それを板書。「ぴったりする言葉を選んでもう一度どうぞ」と促すと「短い時間にたたきつけるような激しい雨が降ったので稲が倒れていました」と。そこで私は「それを見て」とさらに促すと「農家の人が稲刈りに困るのではないかと思いました」と深くなりました。
 こうした僅かな機会や読書、あらゆる教科の中で、言語を育むことを強く進める日常の中に漢字学習を位置づけます。  
漢字の学習は、音読み、訓読み、成り立ち、意味、書き順、画数、部首、熟語、同音異義、単文作りなどの要素を盛り込まなければならず、教師も生徒もやっかいです。
 だから少しでも楽しく学べるように漢字の成り立ちを解き明かす「漢字教室」を取り入れてきました。九月は稲穂を持ち込み、「のぎへん」に気づかせ、「のぎへん」の漢字を調べます。この学習を子どもたちは大好きでした。
 反復練習も習得をチェックするテストも、ノートや作文を書くときに可能な限り漢字を使うことも私は人一倍重視してきたつもりです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.9.29

「甘ったれるな!」
 中高生や大学生の授業・講義の際よく使う詩「友達」は次のように表現されています。
「困った時、助けてくれたり/
自分の事のように心配して/相談に乗ってくれる/そんな友人が欲しい」
その願いは同じ、と言います。
「さあ、次にどう書いているかな」と問い、大声で「馬鹿野郎」と読みます。みんなびっくりします。
「当然な願いを言ったのに『馬鹿野郎』と言われました。『甘ったれるな!』と怒られているのと同じですね。なぜでしょうか?続きを読みますね」と後半を紹介します。
「馬鹿野郎/友達が欲しかったら/困った時助けてやり/相談に乗り/心配してやる事だ/そして相手に何も期待しない事/それが友人を作る秘訣だ」(ビートたけし・作)
 見返りを期待せず、自分が努力すること、あ〜、その通りだと共感が広がります。
 この後、友や親に懸命に伝える努力をして分かり合った子どものドラマを語ります。
例えば、母子家庭の子が「お父さんがいなくてかわいそう」と軽く言われることに泣きながら一言一言絞り出すように伝えた例。
「保育園の時からお父さんがいない。お母さんに、なんでお父さんいないの?って聞いたら、別れたって言った。お父さんがいないって信じられなくて。でも、お父さんがいないからって悲しんでいたらだめだから、前向きに生きていかなきゃあいけないから。お母さんがちゃんといたから、ちゃんと今まで育ててきてくれたから、今私はここにちゃんといるからいいんだと思います。だから、私はお父さんがいないからって不幸だと思いません。かわいそうだと言うのはやめて!」
 聞いていた学級の仲間は、何気なく放つ言葉の裏に、人一倍苦労して困難や悲しみを乗り越えてきた母子の姿に共感しないで、優越感を持っていたことに気づきました。
 そうした授業・講義を受けた中学生や学生のほとんどが、自分を見つめ直します。
「バカヤロウ!あまったれるな!という言葉が今も耳について離れません。思っていても自分から行動することがなかったようです。自分をさらけ出すことをせず、逆にそれを怖がっていたのだから、それで自分を理解してほしいなんて図々しい話です。自分をさらけ出すのはやはり怖いので徐々に徐々に頑張っていきたいです」(大学一年生)
子ども・若者への働きかけも根気強く徐々に徐々にです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.9.22
幼子から学ぶ
 「金森せんせーい、おはようございまーす。今日もおうち(家)、作りに来たのー?」
甲高い賑やかな幼子の声に迎えられます。少し前から同じ学院の幼稚園で、孟宗竹とロープを使って遊具や樹木の上の家作りをしています。
 今年五月、大学のグランドで付属幼稚園二つの合同親子遊びが開催。応援を依頼された私は、学内に繁殖している孟宗竹二十本以上を使って七種類の遊具を製作。長い竹三本を組んだターザン遊びは特に好評でした。「こんなのをぜひ幼稚園に作って」とその場で要請されたからです。
 副園長から「作っているのを子どもに見せたいので、子どもが居るときに来て」と言われので「この先生は確かな人だ」と嬉しくなりました。
 知らない人が知らない間に作ったものにしたくないのです。作っている人・使っている材料や道具・駆使する技術など、人とモノの奥行きを子どもや教師に捉えさせたいとの意図が分かったからです。 
 幼子の好奇に満ちた目を受けて仕事開始。容赦なく近づき、さわり、「何で切るの?」「それは何て言うの?」と質問攻めです。少しできるとやりたがります。「やっていいぞ〜」と言って子どもたちの遊ぶ様子を見つめます。安全や難易度がすぐに分かるので、次々に作り替えていきました。
 周辺の場所では、切り残された竹や縄を使った遊びが始まっていました。子どもは遊びの天才といいますが確かです。私にとって不用で片づけなけなければならないものでも子どもにとっては遊びにできる貴重な材料なのです。
翌日、副園長が長い竹を机にくくり付けてあるものを見せ、説明してくれました。「先生のロープ縛りをじーと見ていた子が、後でこのシーソーを作ったのですよ。友達に説明する喋り方もポーズまでも先生を真似て」。まさに学ぶとは、真似ることからです。
 これらの体験と後日談は、当初ボランティアのつもりだった私の意識を変えました。安全でスリルを味わえる遊具づくりの原則や遊具を使って体や関係性を発達させる筋道など、実践的な研究ができることに気づいたのです。ボランティアではなく、研究者の本務そのものです。
ようやく四種類目の製作物、五本に幹が分かれて伸びている樹木の高い所に家を完成させました。抵抗ある上り下りに挑戦し、樹木上に寝ころんだり、飛び跳ねたりしている笑顔が疲れを吹き飛ばしてくれます。私が宝を貰いました。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.9.4
先を読む力
 中学生によるバスジャック事件、父親殺害事件が続き、衝撃を与えています。友人知人から「いくら中学生でもそんなことをすれば、これからの自分や家族の長い人生を破滅させることは分かるのではないか。先を読む力が育っていないといことなの? どうしたら育つの?」と何度か質問されました。
 それは、マスコミによる安易な子ども・若者非難論ではなく、例え少数者であってもそうした子どもを出したくないと誠実に努力している人たちの問い、願いです。
今も以前も非難に値する事件の圧倒的多くは、人生経験豊富な大人や企業や役所のトップが起こしています。
先を読む力=見通す力を私はどうやって育んできたのでしょうか、考えてみました。
危険を予知し回避するような力は、野外でのスリルに富んだ遊び体験からです。
他者に大変な迷惑をかける否かを見通す力は、軽いいたずらがもたらした結果を見せつけられた経験からです。
 仕事の先を読む力や手際良さは、手伝いとして父と共に仕事(稲・リンゴ栽培、鶏・牛・豚の飼育、草刈りなど)をした体験からです。
 先・状況・現場などを読む力を育んだものは、学校ではなく、圧倒的に遊びのガキ仲間、家族、地域での試行錯誤と失敗の体験です。
学校教育らしきものは、読書による様々な人の生き方に触れたことでしょうか。
 最近私は感動的な場面に出会いました。幼稚園で子どもと一緒に竹を使って遊具を作っている時でした。
手伝いしたいという女の子に、初めの方は種々の道具を取ってと頼んでいました。やがて、指示しないのに針金を使うとペンチを、ロープを使うと剪定バサミを、竹を取ると竹のこぎりを、ノミを持つと金槌を私に差し出すようになり、驚きました。  
四隅を移動しながらの仕事だったので、道具が散乱しています。やがて彼女は信じがたい行動にでました。道具を捜す手間を省くためか早く差し出すためか、一カ所にきれいに並べたのです。五才の子です。すごーいと叫びました。
少年時代、父に「見ていたら次の手順が分かるだろう。いちいち言わせるな」と怒られたのと大違いです。
 こうした先を読む力やハードルを越える力の鍛えを、大人の方が先取りして奪っているのでしょう。鍛えを意識して夏休みにじっくり子どもとつき合ってみたいものです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.8.21
若者に希望ある職場を
 秋葉原で起きた無差別連続殺傷事件の背景でクローズアップされた1つは派遣労働の実態でした。「定職に就かないフリーター、働かないニートが増えている」と若者を非難する風潮は相変わらず根強くあります。子どもに未来への希望を育む教育に携わる者として、一方的に若者を非難する風潮には怒りを感じます。
 一九九五年に六〇万人だった派遣労働者は、〇六年には三二〇万人に。十年間に五倍以上の激増ぶりです。定職に就かない若者が激増したからでしょうか。いいえ、それは人件費削減をねらって経済界、政府が進めた規制緩和策の結果です。
 「労働者派遣法」が法制化された八五年は、派遣が一三業務に限定されていました。次々に解禁業務を拡大し、〇四年製造業への派遣解禁を盛り込んだ「改正労働者派遣法」が制定。それによってほぼ全職種で派遣が増大しました。
 就職する若者側から見れば、安定した就職先が減り、派遣を求める企業が増えると同時に、派遣会社が増加、巨大化し、そこが就職先にもなったたということです。
 教員にも臨時講師がとても増えました。これまで出会った全ての若い彼らは、期限後の雇用不安を語っていました。
 雇用不安や低賃金にとどまりません。本紙二三日に「日雇い派遣」原則禁止の法改正の動きは「続く違法行為・劣悪労働招く」と大きな見出しで報道されました。しかし、どのマスコミも違法行為の詳細な報道はしていません。
知る努力をすれば見えてきます。正規非正規を問わず、どんな職種の若者でも、一人からでも加入できる若者のための労働組合=「青年ユニオン」の活動を見れば、残業代や賃金の未払い、一方的な解雇などの驚くべき実態が分かります。その上、人間らしい働き方を求めて立ち上がっている若者たちが発見できます。
世界最小の歯車を作る会社社長・松浦元男氏は「今の若者は能力が高い。僕らが五年かけて覚えたことを一年で覚えてしまう。僕ら年寄りの役割は、彼らが潜在能力を発揮するためのチャンスと動機を与えること。世界最小の百万分の一グラムの歯車を開発した社員は、工業高校時代は相当のツッパリ。人の真価を理解するのに一〜二年かかる。若者に希望がある」と語っています。
今、必要なのは若者の働き場を保障する法改正と大人が若者の中に希望を見いだすことではないでしょうか。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.8.10
向学心に燃える
 新しい大学での初講義は「人間総合学入門」。テーマは「自分と他者の存在・命は、いかに大切であるかということをリアルに実感的に深く捉えること。と同時に子どもたちに、そう捉えさせる教育実践の具体像とは?」です。
 命・存在の本質は、ぶつかり合いながらの共同・共生であることを、胎児時代の成長、命のリレーにおける死の危機、自己否定感に苦悩する心を開いての交流を軸に読み解くこと。私の概説ではなく、小学生が調べたり、内面世界の悲しみ、苦しみを綴り交流した実例から考えたのです。
 びっしり書かれた感想を読んで、学生の多くがこれまで生きてきた自己体験と関わらせて学んでいることがとても素晴らしいと思いました。
「小学校高学年の子どもたちが命について考えている事に凄いと思いました。A子が自己暴力で苦しんでいたのを知ってすごく心が痛くなりました。私は中学1年からずっとイジメにあって、ずっと不登校状態でした。『死ね、気持ち悪い』と言われてきました。本当に死ぬことも考えました。だから、凄くA子の気持ちが分かります。親に本当の気持ちを言えない、本当は心はボロボロなのに助けを求めることができない苦しさ。大人は深いところまで気づいていないのだと思います。」
「講義を受けてとても良かったです。私は途中で泣きそうになりました。小中学生の時に孤独を感じ、自分が嫌になったり死にたいと思ったこともありました。誰かに言いたい、でも誰にも言えない。そんな中で私は生きてきました。他人からみたらいつも元気だから悩んでいるなんて思ってもらえない。もし、金森先生のような授業があったらきっと私は助けられたかも知れない。私は小さい頃から小学校の先生になりたいと思ってきました。今日、先生に出会い、私が探していた先生だって思いました。身近に目標となる人ができて本当に嬉しいです。この四年間様々なことを学び、頑張りたいです。」
 学びは、こうした「自分を掘る」という営みを通してから客観化することが大切になります。
 かなりの学生から「続きをやって」「二回目の講義を」との要望を受け、嬉しい限りです。スタートにみせてくれた学生の向学心が私を育ててくれます。「学力を上げられなかった」と自己を責めないで、「学生の学力は低い」と言い放つ大学教員にだけはなりたくないものです。

(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.7.22
子どもを深くとらえる
 入学式のニュースが続きました。生徒、学生に学校という集団で学び合う、生活をつくり合う喜びを満喫して欲しいと強く願っています。
 かなり以前と違ってじっと座っておれない、他者の話を聞けないから始まって、暴力、虐め、不登校、引きこもり、自傷行為、学級崩壊などの問題状況が生まれています。教師には人間を深くとらえる力や努力が求められています。
小学校教師時代、三年生を担任したときの四月。玄関前でT子が、手に花を持って私の登校を待っていました。頭をなでながらお礼を言うとT子は嬉しそうでした。数日後再び花を持って待っていました。家族の誰が花を育てているかなど話しました。
 数日後またもや同じ事が起きました。「ありがとう。でもな、玄関でなく教室で花を渡して」と言い、職員室に向かいました。途中、はっとして足を止めました。
T子が玄関で待っていたのは、私にたくさんの声、愛をかけてという願いだろうと気づいたからです。感情表現が乏しいT子は友達が少なく、誰かの行為を少し離れた所から笑って見つめていることが多いような気がしていました。その姿、表情が頭に浮かんだのです。
同じように四年生を担任した四月、最初の給食を屋上で車座になってしました。私の隣に先を争って座ったのは、頻繁に暴力を振るうと聞いていたK君でした。
食後「K君はよく暴力を振るうと聞いたよ」と言うと、うろたえながら「最近は減っている」と答えました。私は減ったのではなく、努力して減らしたのだと褒めました。
後日野外を歩きながら話していたとき、彼は「何で僕が暴力を振るうようになったかと言うとほらっ」とシャツを上げました。体にたくさんのあざがあり、父に殴られた後だと教えてくれました。
花や暴力にはメッセージ、願いが強く込められていました。至急取り組まなければならない友人、家族関係づくりが明らかになりました。 
こうしたことを「子どもの中に社会や時代を読む」と言って大切にしてきました。でも、殺人事件や学級崩壊を受けた最近の教育論には、モラル強化が目立ち、深い人間論が欠落しているようです。 
モラル、規範意識の徹底だけでは、ストレスや悲しみは自他いずれかに向かって暴発します。深い人間的な共感があってこそ厳しさは受容され、力につながります。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.6.19
土に触れ、旬を食べる
 夕食に出された揚げたてのウドとタケノコの天ぷらを見て本当に美しい色だと、さらに食して実に美味しいと感動。そして春の命を食べているのだとしみじみ思いました。
毎日のように、わらび、あさつき、ふき、かたは、こごみ、さんしょなど春の命のいずれかを口にしてきたのに、この日はことさら強く感じました。
きっとこの日、四十人以上もの大人、子どもと金沢市の郊外にある高雄山に登ってきたからでしょう。整然と田植えされた水田、しなる木に登り、歓声を上げて遊び喜ぶ子どもの姿、秋に大きな実をつけるあけびの深紅の小さな花、新緑と安易に言ってしまえない実に多彩な柔らかい緑、昨夜激しい雨が降ったにもかかわらず、ぬかるみになっていない山道など全てに萌ゆる命、胎動する命を全身で感じてきたからでしょう。
こんな時に改めて読みたくなる本が水上勉著『土喰う日々』です。
「たらの芽、アカシアの花、わらび、みょうがだけ、里芋のくき、山うど、あけびのつる、よもぎ、こごめなど、わが家のまわりは、冬じゅう眠っていた土の声がする祭典だ。    
土をよく落とし、水あらいしていると、個性ある草芽のあたたかさがわかっていじらしい気持ちがする。ひとにぎりのよもぎの若葉に、芹の葉に、涙がこぼれてくるのである。・・・氷がとけ、土がとけ、その養分を吸って芽吹いた草々の、いのちのつよさと美しさが胸にこみ上げてくる。いじらしくて、涙ぐむのは人の自然だろう」
 すごい!自然に涙ぐむのは。それは、自分と大自然に、生きている、生かされている命の鼓動を聴くことができるからでしょう。
 先日から「食育」の相談を受けていたのを改めて考えました。食材が大自然と多数の人々の手によって育まれた生命体であることを実感させずに、食材の栄養指導に偏りがちではないか。「土と農に携わる人と触れるところから出発すべし」との持論をさらに強くしました。
 それは、食育に限ったことではありません。転んでも手をつけず、鼻や額をすりむく子の増加、頻発する花の切り取り事件、動物虐待事件などを考えてみても、自然との強い関わり中でこそ子育て、教育を追求すべきでしょう。
 今、野山や食卓には旬の食べ物が、田畑では幼い稲や野菜の苗が見られる季節です。関わりをつくるチャンスです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.6.6
 森への恩返し
 植樹や下草刈り、枝打ちなどの森づくりにあなたは関心を持っていますか。一緒にやりましょうと呼びかけられてもなかなか動き出せません。行動に踏み出すきっかけづくりは容易ではありません。
 せめて森林を生かした遊びや製作をうんと楽しむイベントが必要でしょう。もう一つはやはり森林の恵みを深く学ぶことではないでしょうか。
傲慢にも私は林業に携わるプロを相手に以下のようなことを応答的にやってみました。 金沢市内で一日に使う水の量は学校のプールで七百杯分、市民一人当たり四一〇リットル。私たちは水道水からだけでなく、食料からも水をたくさん摂取しています。それだけではないのです。 
 食料生産にはたくさんの水が必要です。食料一sを生産するために必要とされる水は、小麦で2トン、白米で3、6トン、豚肉で5、9トン、牛肉になると20、7トンにもになります。さらに工業生産にも必要なので、間接的な使用量を含めると日々刻々膨大に水を利用しています。
 それを生みだしているのは森林です。大きな恵みを受けている森林に対して私たちはどれほどのお返しをしているのでしょうか。同様に森林の恵みを受けている熊は何かお返しをしているでしょうか。
 すぐ思いつくのは、糞や死骸が肥やしになるということです。実は熊も鳥と同じように種子散布者なのです。どんぐり類やオニグルミは完全に食べられますが、ヤマザクラやミズキ、ヤマボウシ、アケビ、ヤマブトウなどの種は糞として、九〇%以上の健全率で散布され、その発芽率は七〇%以上に達するそうです。
 熊が完全に食べてしまうクヌギ、コナラ、ミズナラなどの堅果はリスやネズミ、カケスなどが越冬のため地中に埋め、食べ忘れたものが発芽します。同様にアリもスミレやカタクリなど二百種にわたる植物の種を散布すると言われています。それにアリは種を山火事からも守る存在です。
 森林の恵みを受けている生物は相利共生しているのです。どうです、膨大な恵みを受けている人間、あなたも森林を少しは育みませんか?
 熊とその糞、野鳥と彼らが食べる赤や黒の果実、種を運ぶアリ、森の四季と渓流、間伐・枝打ち作業をする人たちの姿と表情などの写真パネルがあればもっと説得力、興味が強まるでしょう。
 以上は一例ですが、深く楽しく学べば少しは興味や行動力が生まれないでしょうか。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.5.20
 森林・樹木と仲良しに
 先日、石川県林業研究グループのセミナーで講演。森づくりを子ども・市民と共に進める要を話してと言う要請です。多くの人と森づくりを進めるという志に多少とも応援になるならと承諾しました。
 森林は国土保全、水源涵養、地球温暖化防止、生物多様性保全など大きな公益的機能を持ち、優れた木の文化を生み出しながら、あまり関心を寄せられていません。
 国土の三分の二を森林が、その四割が人工林です。一九六〇年に八五%あった木材の自給率は現在一八%と著しく低下。安い外材輸入のため林業従事者は激減。伐採、間伐、枝打ちなどの世話ができず、森林は悲鳴を上げています。
 関心の低さは、森林・林業・木の文化をほとんど真正面から学ばせていない教育にも一因があると思っています。 三八年間にわたる教師時代、私は◇木登り・ターザン・隠れ家づくりなどの遊びから ◇川・農業用水・水道水などの水を生み出す源は ◇海ープランクトン・海藻の栄養はどこから ◇建築現場を訪れ、大工さんの聞き取りからなど、多彩な切り口から森林、林業を教えてきました。 そんな授業から植樹したいとの夢も生まれました。六年生全員の学びと林業従事者の協力が実り、学校から八〇キロ離れた旧白峰村で植樹。その後二〇才まで同窓会を兼ね下草刈りに通い続けました。
 また、校区の親子が市民と共に「森は海の恋人」グループを結成しブナを植樹。以後、一三年間、今も世話や学習を続けています。
 こうした森林への強い関心を育てる基本は、まず森林を生かしたスリルある遊びや製作をうんと楽しむことです。
 沢付近なら、川遊び・源流探検・崖登り・橋づくり・腐葉土や湧き水掘りと観察などのメニューが増やせます。
ポイントは場所選びと事前の長い説明、注意を極力減らすことです。私の場合、まず意欲ある人に真っ先にやって貰います。上手な点を褒め、不十分な点を実際に即して指導します。上手な先行者は、その後コーチ的存在になって仲間を応援してくれます。
 もう一つの基本は、森林・樹木の役割や恵みを概説するのでなく、はっとするような切り口から感動的な学びを生み出すことです。この点は後日書きましょう。
 セミナーでは以上の二点を中心に具体的に語りました。
 森はやがて芽吹きます。黄色のマンサクと残雪が迎える森に出かけてみませんか。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.5.8
本当に怖いのは
「中国産の食べ物って本当に怖いねえ」「私はもう買わないようにしている」
 中国製ギョーザ中毒事件以来、そうした会話が至る所でされています。単純に購入しない方法で安全が確保できるのでしょうか。
 〇六年中国から輸入された冷凍野菜は三三万トン、生鮮野菜は五四万トン。その多くは加工され、どんな商品になっているかは容易に分かりません。まして牛、豚、鶏などの餌(飼料)も圧倒的に輸入に頼っていることを考えれば事態はますます複雑です。
 今回の事件で問題なのは、輸入食品の検査体制の弱さと食料自給率を三九%に減少させた国策であることは、多くの人が指摘している通りです。
 それ以外にも様々な指摘がありますが、私は「土離れ」や第一次産業軽視の子育て・教育の欠落を忘れているのではないかと考えます。
 有機・無農薬栽培に励む農民が、キャベツについているアオムシを手で取っている姿を見て、あるTV番組の若い女性の出演者たちが悲鳴を上げ「気持ち悪い」「いやだぁー」と叫んでいました。
 食料は大自然のもと、様々な生物の連鎖の中で育つということ、食物も土も生き物であり病気にもなること、農民はそれらと格闘していることを知らないのです。そうした大人が育っていることも本当に怖いことです。
 子ども時代に田畑や森の土にしっかり触れ、土のでき方やその中に生きる小動物や微生物について理解する。日々食する代表的な作物を可能な限り全過程に関わって育てる体験をする。森が生み出す水の現場も探訪する。そうした体験を軸に安全な食を育てている人から直接学ぶ。
 教師現役時代、そうした学習を農林業従事者や保護者、地域の人の協力を得て精力的に取り組んできました。教室には常に稲、麦、綿花やブナの森の土を置き、機会あるごとにそれを使い考えました。
 土そのものと土や太陽が生みだす恵みを体験的科学的総合的に正面から学ぶ教育が義務教育に欠落しています。
 土や自然の恵みに直に触れる生活を大切にすること。安全な農産物の栽培・飼育が決して容易でないことを本当に理解すること。だからそれに取り組む農に生きる人や地域を精一杯応援すること。
 そうしたことを大切にする子育て・教育は、安全な食だけでなく、人間を豊かに逞しく育てるはずです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.4.24
大好きだよって何度も
 本紙一月三一日に報道されたように「いしかわ県民教育文化センター」は「虐め問題への緊急提言A保護者編」を発表。提言@は〇七年二月、教育関係者に向けたもの。
 どちらも政府の教育再生会議が〇六年十一月に発表した「いじめ問題への緊急提言」の対案です。再生会議提言を貫いていたものは加害者への厳罰主義でした。
 我々の立場は、虐めの加害も被害も経験した若い母からの手紙が最も語っています。
「再生会議の提言が出たニュースを最後まで見られないほど震えてしまい、子どもたちはどうなってしまうのかととても怖くなりました。」
「M先生が、いじめている側もとても苦しい気持ちを抱えていることも多いのです、と話されたとたん私は号泣しました。母とうまくいかず苦しかったこと、自分が先頭にたって学級の子を無視していた頃のこと、それによって持った自己嫌悪の気持ちなどがたくさんあふれてきてずっと泣いていました。」
「金森先生の授業をテレビで見て、その場で子どもたちの心の苦しい部分をすくい上げてくれていてとてもとても幸せでした。私は加害と被害の両方を経験したけれど、大人になって自分の中に残っているのはいじめた側にいた頃の自分の嫌な面や相手の子の表情がほとんどです。」
 自己嫌悪で苦しんでいた自分を「やっと好きになってもいいんだと思えるようになったのは、M先生がたくさん受け止めてたくさん『大好きだよ』と言い続けてくれたから」 手紙を下さった彼女は、加害も被害も含めた全ての子に大人がすべき大切なことを言っています。「苦しみをたくさん受け止め、大好きだよと言い続けること」です。
 自殺した子の遺書の多くに「こんな弱い、だめな子でご免なさい」と書かれています。「親の前でこれ以上惨めになりたくない」と自分だけで抱え込む傾向も強いのです。「虐められる側にも原因、問題がある」との強い見方がさらに追いつめています。
 だめでも弱くてもいい、一緒に泣き、笑い、抱いて包み込みましょう。家族や友人と相談し、相手や学校に一歩歩き出さないと虐めを乗り越える力、生きる火種は子どもの内側に育たないでしょう。
 ちなみに我々が「虐め」と表すのは、「虐」がしいたげる、むごい、死ぬなどの意味を持っているから。虐めは残虐な行為で、許さないという強い意志表示のためです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.4.7
 ぎりぎり悩む選択を
 これまでに県内外の学校に招かれ、道徳の授業を参観する機会が何度かありました。教師たちの苦悩に共感しつつも授業は建前の再確認や決意表明で終わる場合が多く、あまり納得いきません。
 保護者、市民からも強化すべしという道徳教育。「自分の言動に責任を持ち、誠実に行動する気持ちを養う」ことをねらいとした「手品師」という教材で読者の皆さんと考えてみましょう。
 腕はいいが売れない手品師。夢は大劇場で華やかに演ずること。ある日元気がない少年に出会う。父が死に、働きに出た母が帰らないという。手品を見せると元気に。
「おじさん、明日も来てくれる?」「ああ、来るとも」
 その晩、友人から明日大劇場に出演できるから今夜すぐ来いとの話。急病で倒れた手品師の代役に。迷いに迷って「明日約束したことがある」
と断る。
 翌日、小さな町の片隅で少年一人を前に手品を演じる。
 要約だが子どもに与えられる教材もそう長くはない。これはかなり評価の高い教材。
 子どもたちは「僕なら出演し夢を実現するチャンスにするのにそれを捨て少年との約束を守った手品師は偉い」と言います。教師はねらいに達したと考え、これまでの自分を想起させる段階に進む。
 私ならまだまだ進めない。「僕ならしないのに手品師はなぜ断ったのか?」「手品師の約束は少年に対してだけ?友や家族との約束は?」「手品師として成功することが自分に対する責任、誠実さでは?」「少年との約束を守ることも出演することも可能な道はないのか?」などと問い返し、考え合います。
 小さな町だから捜して話す、約束場所に張り紙する、家族や友に行ってもらって事情を話すなど二者択一がベストではないはずです。
 私なら登場人物の生活を想像することに力を入れ、多くの人が幸せになるには?ととことん悩ませ考えさせます。
 学校という集団の学び合いは、多様な考え、価値を生み出し、交流し、新たな発見をするということです。
 さらに日本の子どもにもっと思考力、応用力を!の強調が道徳の授業になると抜け落ちるのも気になります。
 生きる上での困難な問題に直面したとき、そこから逃げず、諸能力やこれまでの体験を総動員して、道徳的にも価値ある豊かな生き方を追求する力を学校と家庭の両方で根気よく育てたいものです。
(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2008.3.25
枯れない好奇心は子どものお陰!
 講演会で時々次のようなことを問いかけます。
「布施明が歌っていますね、真綿色したシクラメンほど・・って。真綿色と綿色と違うのですか?その先に真綿と綿って別物?それとも同じもの?ご存じの方はいますか」
 参加者は圧倒的に女性ですが、知ってる人はごく少数です。綿は誰もが知っているように栽培されているアオイ科の重要な繊維作物のこと、さらにその果実から取れる綿花のことです。
 それに対し真綿は、蚕の繭から引きのばして作った綿です。それをつむいでよりをかけた絹糸が紬糸、その糸で織ったのが紬織です。くず繭を捨てずに紬として利用したのです。私たちは蚕の繭から取れるものは絹糸のみ、また、綿は植物のみだとインプットされています。
 現役教師時代、私が担任していた3、4年生はその違いを学んでいました。私が教え込んだのではありません。
 3年生の理科の学習で「チョウの一生」を学びます。チョウはサナギになります。また、チョウの幼虫に寄生したコマユバチが幼虫の体内から出てきて繭になります。小さな黄色の幼虫、やがて変化する繭に驚き不思議がる子に、机の中に保存していた蚕やウスタビガなどの繭の実物を見せます。
 すると子どもたちは、チョウやコマユバチの体の変化、両者の関係、サナギと繭な全てに感動し、興味をもち、もっと深く知りたいとすぐに図書室に走っていきます。
 コマユバチ、ヤママユガ、天蚕など50才過ぎて子どもたちにたくさんのことを教えてもらいました。年齢と共に退化するはずの好奇心もみずみずしく保持させてくれました。
 これまでの教科書や学習は、身近な布やあのシルクロードを作った蛾(天蚕・家蚕)について全く教えていません。私は、調べるどころか興味すら抱かずに長年生きてきました。基礎学力って何なのでしょうか。
意味がないどころか教育の荒廃を強める全国学力調査やそれに連動する自治体のテストを直ちに止め、「これからの地球や社会の未来をよりよく変えていく子ども」、「にもかかわらず自己否定感を強めがちな子ども」にとって必要な学力・学習論こそじっくり議論すべきです。

 最近出版した『子どもの力は学び合ってこそ育つ』(角川新書)は、子どもと私で作った全国学力調査を始めとする競争主義体制への異議申し立てのつもりです。
 
【現場から教育を問う教育運動月刊誌『クレスコ』連載
「やっぱり、教師でよかった」より、大月書店 】
金森俊朗
2008.3.17
恥ずかしいけど、言っちゃおう
 「私たちはどこから来たのか」に続いていよいよ「私たちはどこへ行くのか」の学習です。「最近、ちょっと体と心が変なのです、変わったんです。恥ずかしいけど言っちゃおう」と呼びかけます。
 四年生の女子が書いたものです。
●私は時々おなかが痛くなると生理かなあとドキドキする。友達と「生理になった?」「なるかも」と話すようになった。
●最近お風呂で体をふく時にタオルが胸にあたって痛くなる。少しふくらんだ所にあたってぎゅーとつぶれるような感じがする。それからもっと胸がふくらんだかなあと思って確かめる。体のことがとっても気になってきている。
●好きな人と目があうとそらしたりしてしまう。小さい時は、平気で話していたのに、少し大人になると好きになるって少しレベルが違うな。
●前は平気でお父さんといっしょにお風呂に入っていたけれど、今ははずかしくていっしょにお風呂に入れなくなった。
 四年生の男子です。
■映画でラブシーンを見た時、チンチン(ペニス)が立つ。雑誌に女の人の裸があると、小さい時には何も思わなかったのに、今は見たらペニスが立ったりする。
■ドラマのキスシーンや抱きしめるシーンに変に笑いが出てきたり、こたつの中に隠れたりして「何やっているんや、俺、狂ってしもたんか?」と思う時がある。
■最近ある人を見るとドキドキするようになった。以前は普通に遊んでいたのに。出会った時、前は「よっ」とか言っていたけど今はすぐ隠れようとしてしまう。
■これまではすぐ寝られたけど、今は30分くらい好きな人のことを考える。 

 
こういうのを書いてくれると感謝感謝です。「いいなあ、こんな本音を出してくれて」と同僚が羨みます。本音は「私たちはどこから来たのか」、つまりそれぞれの父母や祖父母の出会い・愛・結婚・性交・妊娠・出産などの学習が豊かに取り組まれたかどうかに関わります。
 それぞれの文を私が読み広げます。以前父のペニスを引っ張って遊んだことや乳房を見ての母の嘆きなどが出されたり「おまえコタツかあ、俺は慌てて二階へ行く」などと楽しい大騒ぎです。
 そうした中で共通に出る声があります。「自分だけが変になってしまったのかと心配だったがみんな同じだったので安心した」と「何も意識してないのにほんの少し前ととても変わってきた私たち。もう産み育てる側に向かってるって本当に不思議」というものです。
 この後は初恋物語を読み聞かせたり、書いてもらいます。とても初々しい恋物語に私も楽しく若返り!!
【現場から教育を問う教育運動月刊誌『クレスコ』連載
「やっぱり、教師でよかった」より、大月書店 】
金森俊朗
2008.3.7

保護者を強力な応援団に
 現役教師時代、土砂降りの中での遊び、川への飛び込み、雨中や雪中遠足、荒れ地を開墾しての農園作り、冬のプールでの筏乗り、鶏の屠畜解体料理の授業や行事をたくさん取り組んできました。
 多くが危険で冒険的な学習です。しかし保護者からのクレームは全くなく、むしろ保護者や地域の積極的な応援、協力を得てのものです。どうして保護者がそんなに応援したのでしょうか。
 一つは学校から帰った子どもの輝き、報告(お喋り)です。
 二つ目は授業を見聞きして、学びの楽しさ、奥深さを知り、親がもっと勉強したいと願うからです。
 三つ目は、保護者の持っている親、労働者、市民、かつての子どもとしての力をたよりにして、学びを創造していくからです。自分自身だけでなく家族全員の「いのちのリレー、成長史における死の危機や喜びのドラマ」の聞き取り学習はその典型です。
 エイズ・メモリアルキルトにかかわる染織家を招いて講演、野染め体験、キルトづくりをして、ウガンダに送る全校的活動も保護者が主導しての学習でした。
これら三つに共通しているのは、日常的にどれだけ教師、子どもが保護者の奥行きを見つめ、学ぶことを大切にしているかです。
 四年生の美里は、「お母さんって大変だ」と題して、看護師の仕事を終え、遅い帰宅後の家事、育児を綴り最後を次のように締めくくりました。
「私はお母さんの忙しさがあらためて分かりました。お母さんの大変さが分かったのでこれからはお母さんが喜ぶようにお手伝いをしようと思いました。お母さん、ありがとう。」
発表が終わるとたくさんの子が母の忙しい状況を語りました。病気で入院していた陽は「看護師さんって本当に忙しくて大変だ。それがよく分かったのが夜のナースコールの音なんです。静かなのでよく聞こえるんだが、本当にしょっちゅう鳴るんですよ。夜勤でさえ大変なのに看護師さんは少ないし、患者さんは多いし・・・僕は看護師さんに感謝しています」と語りました。美里は本当に嬉しそうに聞いていました。
 単身赴任の父を気遣う子、長時間労働に疲れている父を心配する子、成果主義の導入によって睡眠薬を服用する父を心配する子・・・。
 子どもの優しい目を通して浮き彫りになる保護者の実像に深く共感しながらの仕事です。教師が市民性・社会性を欠落させると子どもと保護者と共に歩むことができなくなります。
【現場から教育を問う教育運動月刊誌『クレスコ』連載
「やっぱり、教師でよかった」より、大月書店 】
金森俊朗
2008.2.9
豊かに返球する厳しさと楽しさ
 4年生の逞しいリーダー、陽君は私を次のように褒めてくれました。
「教室では先生がキャッチャーで子どもがピッチャーや。先生は最後まで聞いてくれる。自分が要求したボールと違っても先生は、古田とか城島みたいにバシンって捕ってくれる。他の先生やったら最後はど真ん中にいくとしても『カーブ来た』というだけで捕ってくれん、最初から。それでピッチャーのエラーになってしまう。だけど先生やったらずーっと信じて見てくれてるから。もしも違っても最後には体で受け止めてくれる」
 褒めすぎだが、その思想、言葉、論理は完全に陽君独自のもので、とても4年生のものとは思えない。そんな彼だから、最初から捕球を拒否された悲しい経験を持ってきたとも言える。
 朝、私の学級は子どもたちたちの「仲間に伝えたいこと」からスタートする。
例えば激しい雨降りの朝。「今日、登校するときに用水を見たらとても濁っていた。稲は大丈夫かなあと思った」「きったねえ水やあ」「汚いとは違う。山の土が入っているから稲の栄養になるはずや」『これを見てしっかり言うてや』と金森。教室に置いてあるブナの森の土を前に持ってくる。「あっ、そうや。前に緑のダムって勉強した」「 ブナの森の土は落ちた葉っぱが分解されて」「バクテリア」「そや、バクテリアに分解されて土になる」「腐葉土って言うんや」「熊や鳥の糞やら死骸も入ってる」「栄養たっぷりの土だからそこからの水だから濁った水は大事や」
 わいわいとみんなで応答しながら実際はもっと豊かに考えていった。途中私は考えやすいように【稲】や【鹿】の頭蓋骨(実物)、谷川の写真などを大急ぎで見せる。(教室には博物館のように教材を置いてある。)それがまずキャッチャーとしての仕事である。
 子どもの応答が終わればキャッチャーとしての返球である。「山が豊かであればそこからの水の栄養、カルシウム・カリウムなどで肥料をやらなくても現在の3分の1程度の収穫ができるらしい」とかつて読んだ『土は呼吸する』を思い出して補説。「すごーい」「そんなら洪水も役に立つってことになるの?」「すごいことに気がついたなあ」急遽、これまた教室の隅に置いてある地図を広げ、世界の4大文明まで説明。
 一限後、みんなで校門前の用水や田を観察に行き、土の沈殿を見るためにペットボトルに水を汲んでくる。 
子どもの何気ないような報告も前号の「お父さん帰ってきて」のような心の叫びもしっかり受け止め返球するのです。 
【現場から教育を問う教育運動月刊誌『クレスコ』連載
「やっぱり、教師でよかった」より、大月書店 】
金森俊朗
2008.1.23
迎春
 ありがとうございました!!07年3月、38年間つとめた小学校教師を退職。在職中は本当にお世話になりました。子どもを始めたくさんの方々の応援のお陰で充実した仕事を楽しく創り上げることができたととても感謝しています。

4月からはフリーになったものの、毎月10回以上の講演、4本以上の原稿執筆などに奮闘。猛暑の中、全国を駆け回ったせいか、9月に肺炎で入院。突然講演を中止し多くの方々にご迷惑ご心配をかけてしまいました。でも、今はすっかり元気です。
 そんな中で角川書店から『子どもの力は学び合ってこそ育つ』を出版。不十分だらけですが、安倍政権が子ども・教師・保護者・青年の事実をねじ曲げ、さらなる教育破壊を進行させるのを少しでもくい止め、誠実に学び、生きている子ども・仲間たちに応援歌を届けたかったのです。

 08年4月から、新しく誕生した北陸学院大学(金沢市三小牛町)・人間総合学部・幼児児童教育学科・教授に就任予定です。不安いっぱいですがまたみなさんの応援を頼りに、保育士・教師の卵の養成に努力したいと思っています。応援をよろしくお願い致します。
 また、石川の教育を、子どもを軸にみんなの手で守ろう、つくろうと会員を募って活動してきた県民教育文化センター(私が所長)も会員が減少してきています。こちらの方もぜひ応援してください。
金森俊朗
2008.1.1
 親子で散歩
 ある小学校四年生の学級PTAの取り組みをとても興味深く聞きました。例年、夏休みに行っている親子の触れ合い活動を「親子散歩」にしたそうです。継続できること、時間帯や一緒に歩く人、コースなど各家庭で自由にできることもあって親子共に楽しく実施できたようです。親から寄せられた感想の一部です。
■一日の出来事や友達とのことなどいろんな話題が自然にたくさん出てきてコミュニケーションをとるのには最良。父親の子ども時代と今の町並みの違いを話ながらいろいろ発見をした。昔と今を比較しながら子どもにいろいろ話すと「へぇー」と言って驚く子どもがおもしろかった。
■ある日歩いていると、モグラの死骸を見つけ、初めて間近に見てびっくりしたのと感動してしばらく観察していましたが、息子がこのままにしておくのはかわいそうというので、土に埋め、手を合わせて帰りました。こうした機会がないとモグラにもきっと会えなかったでしょう。毎朝、子どもたちと一緒に走ったり歩いたりしてとても気持ち良かったです。
■「ちょっと手をつなごうよー」と言うと「後で、暗い所ならいいよ」と言って暗い所でだけ手をつないでくれました。「来年はもう手もつないでくれないね」「だって恥ずかしいから。」私がちょっとひどそうにすると「大丈夫?」と優しいところは変わっていない。子どもの良いところがたくさん見えました。
 この取り組みと感想をいじめ問題を話し合う会で紹介しました。
 ひどくいじめめられている子の多くが「一番大事な人を心配させたくない」、「これ以上自分を親の前で惨めにしたくない」、「親の感情的な対応がいじめを強めるのではないか」などの思いから、家族に一番知れれないように生きています。でも、子どもは早く気づいて欲しい、助けて欲しいとも思っています。
 ただ不安がって聞き出そうという態度はかえって子どもの心を閉ざします。では、親はどうすればいいのかが問題になりました。
 散歩なら自由な雰囲気だし、問いつめるよりも語ることが自ずと生まれるし、何よりも自然に触れる事自体が癒してくれるし、いいねえということになりました。
 いじめ対策に限らず、四季折々の色やにおいを感じながら歩くことは、豊かな感性を育み、心身をリフレッシュさせてくれます。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.11.23
 大切なのは議論
 
 講演会で時々次のようなことを問いかけます。
「布施明が歌っていますね、真綿色したシクラメンほど・・って。真綿色と綿色と違うのですか?その先に真綿と綿って別物?それとも同じもの?ご存じの方はいますか」
 参加者は圧倒的に女性ですが、知ってる人はごく少数です。綿は誰もが知っているように栽培されているアオイ科の重要な繊維作物のこと、さらにその果実から取れる綿花のことです。
 それに対し真綿は、蚕の繭から引き延ばして作った綿です。それをつむいでよりをかけた絹糸が紬糸、その糸で織ったのが紬織です。くず繭を捨てずに紬として利用したのです。普通は蚕の繭から取れるものは絹糸のみだとインプットされています。
 現役教師時代、私が担任していた三、四年はその違いを学んでいました。教え込んだのではありません。
 三年生の理科の学習で「チョウの一生」を学びます。チョウはサナギになります。また、チョウの幼虫に寄生したコマユバチが幼虫の体内から出てきて繭になります。驚き不思議がる子に、机の中に保存していた蚕やウスタビガなどの繭の実物を見せます。すると子どもたちは、それら全てに感動し、興味をもち、もっと深く知りたいとすぐに図書室に走っていきました。
 コマユバチ、ヤママユガ、天蚕など五〇才過ぎて子どもたちにたくさん教えてもらいました。その時、身近な布やあのシルクロードを作った蛾(天蚕・家蚕)について全く教えられていないことや担任した子のように調べるどころか興味すら抱かずに育ってきたことに疑問を持ちました。
 こんなふうに学習や学力をどう捉えるか、その学力の基礎とは?をずっと考えながら実践してきました。これまでの著作や最近出版した『子どもの力は学び合ってこそ育つ』にも私なりの実践的な提起をしたつもりです。
 特に全国学力調査をきっかけに、「学力とは?」「基礎、応用力を測るにはあの全国学力調査の問題は果たして適正だったのか?」「テストで測ることができない大切な学力とは何か?」との議論が起こるのを期待していました。
 その際、忘れてならないのは単なる子どもではなく、「これからの地球や社会の未来をよりよく変えていく子ども」、「にもかかわらず自己否定感を強めがちな子ども」にとっての学力・学習論だということです。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.11.9
 秋・種を楽しむ
  
 我が家の植木鉢にちょっと珍しい植物を育てています。メガルカヤです。カルカヤは「刈る茅」であり、屋根葺きなどに利用されます。全国に分布する多年草ですが、今は簡単に見られないようです。
 珍しいというのは、その種が驚くことをやるからです。メガルカヤは、半開きの扇の形をした小穂を六個つけます。その小穂の頭の部分に長い褐色ののぎ(芒)があります。麦を思い出して下さい。メガルカヤは麦よりずっと長い芒をもっているけれども穂はとっても小さいのです。
 秋が深まる頃、芒に朝露が当たると芒が回転を開始。他の小穂に当たり、回転した穂=種が地面に落ちます。すると、芒は再び回転を始め、種を地面に潜らせていくのです。自分の力で潜っていく種!信じられない光景です。
 植物が持つ「命のリレー」の感動的な戦略の典型として、現役教師時代、授業で見せました。子どもは勿論、全国各地から参観に来た教師たちも大変驚きました。
 なぜ、芒は自ら回転するのでしょうか。メガルカヤの芒はこよりと同じ原理でできていて、湿度によって回転するのです。
 最初の授業は映像でしか紹介できませんでした。ところが、この授業を知った大阪に住む教え子が大変な努力をして捜し、金沢まで根、土付きで持ってきてくれたお陰で実物を見ることができました。
 退職しても求められる全国各地での授業や仲間の授業にも使えるように大事に我が家で栽培しているのです。
 秋が深まると樹木や草花に様々な種ができます。それらの種を食べたり、工作に使ったり、命のリレーを学んだりすることができます。
 昨年までの教師現役時代には、秋になると子どもたちや保護者と競うようにして様々な種を集めることに夢中になりました。
 自分が子どもの時、「どんぐり」というのは総称でたくさんの種類があることを知りませんでした。今、公園に行くといろいろなどんぐりを拾うことができます。
シイ、イチイガシ、マテバシイなど生でも食べられる美味しいどんぐりを見つけると嬉しいものです。
でも、多くはあくぬきしないと食べられないどんぐりです。クヌギ、コナラ、カシワ、アラカシ、アカガシ、ミズナラ、アベマキ、ツクバネガシ、アカガシ、シラカシなど子どもたちと区別できただけで凄く嬉しくなります。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.10.26
「未熟さ?」の持つ魅力
 今、壺井栄・作の『二十四の瞳』を読み返しています。若さに、羽ばたく自由が保障されているときは、技量や経験の不足はマイナスどころか、むしろ未熟さの持つ魅力が生まれるということを確かめたいと思ったからです。
 青年教師時代は、未熟さをせめて情熱や愛情でカバーしようと子どもに一生懸命に向きあいます。そこから思いがけない成長や交流の感動が生まれたりもします。『二十四の瞳』はその典型でしょう。
 主人公の大石先生は、新米教師一日目、十二人の一年生の出席をとるだけに四五分間を使います。小説ではその後を次のように書いています。
「・・・ソンキの岡田磯吉の家が豆腐屋で、タンコの森岡正が網元の息子と、先生の心のメモにはその日のうちに書きこまれた。」「だれもかれも寸暇を惜しんで働かねば暮らしのたたぬ村、だが、だれもかれも働くことをいとわぬ人たちであることはその顔を見ればわかる。この今日はじめて一つの数から教え込まれようとしている小さな子どもが、学校から帰ればすぐに子守りになり、麦つきを手つだわされ、網曳きにゆくというのだ。働くことしか目的がないようなこの寒村の子どもたちと、どのようにつながっていくか」
 子どもを良く知りたい、深く関わりたいという強い思いで出席とりに長い時間をかけたのはとても共感できます。子どもたちを生活者としてしっかり捉えています。明日からの学びをどう成立させるか、根本から問うています。
 今の学校体制では初日のこの時間は、教科書やたくさんの書類の配布、下足箱や雨具掛けの配置決め、明日以降の予定説明等に当てられ、子ども一人ひとりとの出会いはあまり重視されていません。
 大石先生のように子ども一人ひとりに声をかけ、応答しながら子どもを捉えていたら時間がかかります。若いからとか初日だからそれも大事だよ、多少遅くなってもいいよと大目に見る空気は教育界から急速に失われています。
「学年の歩調を揃える」という上からの強い指示、統制は、未熟さが持つ魅力など生み出しようがありません。
 夏、全国各地の青年教師たちから押さえ込まれる不満を相当聞きました。希望に燃えて教師になった二人からは、絶望に至るような責め立てに遭っているとの相談も受けました。二人とも子ども、保護者の両者からは好評なのです。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.10.12
「小」を守る大人の生き様
 学生の頃、大学の恩師が、日本教育史の中で特筆すべき学校があると何度も強調していました。一つは、村の神社の神木を伐採して、もう一つは村人全員が五年間も禁酒をして建設した学校です。
 その例から、学校とは、単に子どもが教育される場ではなく、少年時代の内面世界を育てたふるさとの中核であり、地域の人にとって文化と共同と活力の拠点であると。だから、教師になったら、学校に寄せる地域の人たちの思いを十分に受け止めよ、と力説していました。私は肝に銘じ長年実践してきました。
 昨年の現職まで校門前の田で稲を育てる学習を地域の農家の人の応援を得てやってきたのも、そうした地域の人の学校、教育に対する思いに応えるためでもありました。
 全村の禁酒によって学校を建設するという前代未聞の、日本教育史上の輝かしい快挙を成し遂げたのは、津幡町の河合谷小学校です。
 なぜ輝かしい快挙なのか?当然とも言える自己欲を捨てて子ども、学校を大同団結して守ろうとする地域の大人達の思いと生き様そのものが永続的な教育になるからです。
 禁酒によって建設された学舎は無いが、そうした「無形文化財」に匹敵する村人の思いと歴史は、現在の学校に脈々と生かされているという。 具体的には特認校として校区外からの希望者を受け入れ、緑したたる環境や少人数の教育の可能性を、河合谷地区全戸と保護者、教職員との協力で成果をあげつつあるという。「大」と「多」のみが教育にとって最大の価値でないことは誰にも分かります。
 その河合谷小と築き上げてきた文化を、地区やPTAに相談無く、いきなり閉校、消滅させるということを報道や知人によって知らされ驚き、愕然としています。廃校の理由は誰も納得していません。
 廃校はいつでも誰でもできます。全ての人の相談と英知を結集してこれまで以上に豊かな学校と地域にする姿こそ子どもに誇って見せたいものです。今、子どもに最も育てたいのは「どうせ頑張っても無理や」という諦め、絶望ではなく、努力したら変えることができるという希望です。 講演で訪れた沖縄と北海道の小さな村と町の行政者や青年達は、「小」であることの良さを引き出し、この町に育ったことを誇れるようにしようと懸命でした。津幡町が小さいがでっかい価値を持つ地域と学校を守って大切にすることを強く願っています。 
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.9.14
夜中に響くナースコール
 かつて担任していた四年生のヨウ君が退院したとき、次のような感想を述べました。
「入院してボクが一番学んだことは、看護師さんのことです。ボクの部屋はナースセンターの近くなので、夜寝静まるとナースコールの音がとても響きます。しょっちゅう響くのです。その度に看護師さんは飛び出していきます。夜中まで忙しく働いていることとみんなが寝ている間もいやがらずに昼間と同じように・・・昼間、ボクみたいなわがままな者にまで本当に優しかったから、夜も寝ないで優しく看ているのだなあと思い感動しました」
 彼はナースコールの音と看護師さんの多忙さ、優しさを胸に刻んできたのです。退院後の感想と言えば「健康のありがたみを痛感した」「退屈で仕方がなかった」が多い中で、素晴らしいものでした。
 私を含めて入院生活の経験を持つ子が、ヨウ君に刺激され看護師さんの誠実な働きぶりを語りました。彼らの感想にとても喜んだのがミサトさんでした。
「私のお母さんの仕事も看護師です。でも今までお母さんの仕事は嫌いでした。忙しくて参観日も来れないし、夜も夜勤があって居ないときがあるし・・。でも、ヨウ君たちの感想を聞いてみんなに感謝されている大切な仕事なんだなあと気が付きました」
 仲間からの、働く人としての評価がミサトさんの見方を変えたのです。
 しばらく後、マイコさんはかつて看護師だった祖母の苦労を聞き、発表しました。
「おばあちゃんは患者からうつされて肺結核になってしまいました。一番大変だったのは結核と出産が重なったことです。本当は三人も子どもが生まれるはずだったのに、結核と重なって、今のお父さん一人しか生まれなかった。お父さんはたぶん兄弟を欲しかったと思う。
 おばあちゃんはお腹が大きくなっても『産めません』と言われたとき、泣くほど悲しかったそうです。おばあちゃんは五年間結核と闘ってきました。そんなおばあちゃんをスゴイと本当に思います」
 あ〜、そんなおばあちゃんの生き様とその孫であることにマイコは誇りを持っているな、と伝わってきました。
 私も入院していた時ナースコールを聞くと、ヨウ君たちの感性と学びの素晴らしさを実感しました。又、日夜人を看る仕事を誠実にやり抜いている人とその労苦に感謝しています。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.9.27

言葉を育てるとは
 「言語力」の育成に関し文科省の有識者会議は報告書を了承したとの新聞報道が八月一七日にありました。内容は、国際的な学力調査等で子どもの読解力の低下が指摘され、また、いじめなどの人間関係をめぐる問題で言語力の必要性が高まっているとして、小中高の全教科を通じて、言語力の育成を目指すことを求めるというものです。同省は学習指導要領の改定の柱に言語力を置いており、この報告書を元に各教科で具体的な検討を進めるようです。
 具体的な例としては「身近な地域の観察・調査などで的確に記述し解釈を加えて報告する」(社会、地理歴史、公民)などをあげてありました。 読んでがっかりしました。その程度は多くの教師が日常的にやっていることです。
 また、「言語力」などと言わずに分かりやすく内容を言うべきです。私なら以下のように言います。
 自分が理解できた言葉と自分の論理で表現し、自分を語ることを大切にします。それを他者に伝え、交流しあって、豊かな言葉、確かな考えや思い、論理さらに自分を含めた人間観や世界観を高めます。それが言葉の持つ力であり、使って発揮される力です。  そうした力は、全教科はもちろん全教育を通じて育てるものです。少し書いてみます。
@子どもは言いたい、聴いて欲しいという要求を持っています。その表現の場と時を保障し、出されたものを豊かにしていく日々の努力を学校と家庭で大切に。
A友と友、子どもと大人の交わり、即ち社会性を豊かにし、子ども権利条約の言う意見表明権を大切にする学校に。
B教師だけ向けられた単語発信の授業でなく、子どもが教師を含めた仲間に文脈ある考えを発表し、聴き合い、つなげ深め合うという生きた言葉が大切にされる授業を。
C日本語には、同じようなこと・もの・様子・感情などを表す多様な言葉、表現の仕方があります。全ての教科、生活の場で意識的に言葉を広げたり、選択していくことを。D視(観)点・視角・視座を持つこと、それらを変えて見ること、複眼的な見方をすることなどを意識的に育てること。それらを生かし、伝えたい相手を特定したり、主述の明確な文や語りの重視を。
 個人で考えただけでももっとあります。言葉を意識的に育ててきた日本の優れた教師たちの財産が数多くあるのに、文科省はどうしてそこから学び、生かそうとしないのか、不思議です。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.8.24

講演の際、ミニ漢字教室をやって、
「参考図書は?」との質問がありました。
中心的に使用しているのは
『図説 漢字の成り立ち事典』 辻井京雲著 教育出版です。

 子どもに注がれるまなざし
 ある駅での光景です。三人の女子高校生がペットボトルや缶入りの飲み物を飲みながら歩いて来ました。スカートを短くし、薄い白ブラウスから真っ赤な下着がはっきり見えます。
 反対側から歩いて来た五、六人のスーツを着たビジネスマンが足を止めるようにして、彼女たちを見ました。軽蔑したような、好色そうなまなざしでした。
 彼女たちはそれに気づき、フンというように顔をそむけました。そして、少し前にいた駅の清掃をしているおじさんに声をかけたのです。
「おじさん、掃除、いつもご苦労さん」と。顔を上げた彼は「おおっ、あんたらか、ありがとう。それ、空っぽだろう、よこしな」と笑顔で言う。「ありがとう、これくらい私らするよ。ではね、おじさん、がんばって!」と明るく手を振って去って行ったのです。 ビジネスマンとおじさんに対して表した表情は全く違っていました。子どもはもちろん、私たち大人でも他者のまなざしには敏感です。
 今、社会は子どもたちにどちらのまなざしを注いでいるのでしょうか。
「最近、少年による重大な事件が以前に比べて増えている」と思っている国民は九三%です。(〇五年少年非行等に関する世論調査・内閣府)
それに連動して「モラルの低下」や「命の大切さを知らない」が強調されています。  例えば一つの事実は、この紙上で何回か書いたように重大な事件の典型である少年による殺人事件は一九五〇〜六〇年代の四分の一以下です。
 テレビ、新聞、国会等で安易に言われる「学力の低下」「教師の指導力低下」「家庭の教育力低下」「ニートの増加」などの主張は、子どもたちから見れば、「あなたたちは、今の大人の子ども時代と比べて、モラルも学力も悪い! あなたたちを育て導く教師も父母も青年も悪い!」とのまなざしにさらされていることになるのです。 
 しかも、これらの主張は、ていねいに事実の検証をすれば、間違いか、部分の拡大解釈か、以前と単純に比較できないものかのいずれかです。
 大人のようにイライラを発散させる遊び・フェステェバル文化すら奪われ、健気にがんばる子どもたちにもっともっと温かいまなざしを注ぐことが大切です。自己肯定感を高めるまなざしが必要です。 「私なんていなくても」「どうせ何しても」と苦しんでいる子が少なくないのです。

 
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.8.10

土台作り
 私の実家は七尾市の北の方にあります。能登地震では、築六十年近く経っているものの柱と壁に僅かな隙間を生じた程度の被害で済みました。
 でも田を埋め建築した近所の数軒は、まだ新しいのに屋根瓦が落ちたり建物の一部が壊れる被害を受けました。
 被害が僅かだったのは、亡き父のお陰だと母は語りました。田に盛り土をし一年以上放置し大きな礎石を通常の倍も埋め込んだそうです。ここは海を埋め立て新田開発をした所だから尚更だそうです。
 十分な高さを持ちながら一階の三六畳分の上に二階を作らず、南東の一角に子ども部屋一室を設けただけです。その分、柱や梁、壁を充実。新築当時周囲に家はなく、強風を避けるべきとの大工の忠告を聞いてのことだそうです。
 それを聞き、法隆寺・薬師寺棟梁だった西岡常一氏の言葉を思い出しました。
 高さ三二メートル、総重量百二十万キロある法隆寺の五重塔が、千三百年間幾多の台風にも地震にも倒れず、また土に沈み込まないのは、まず基壇(土台)が大変しっかり作られているからだと。
 これらや先月の全日空のシステム異常による欠航に遭遇し、苦労して帰宅した経験から、改めて人生の荒波を乗り越える人間の土台づくりを考えました。今日、学力とモラルが強調されるが、土台を確かなものにする営みは果たして大丈夫なのでしょうか。
 私はこれまで野性的な強さを育むことも意識した学習を大胆に実践してきました。土砂降りの中での遊び・体育、源流探検、川への飛び込み、岩壁や崖登り、雨中や雪中遠足、大木を使ったターザン遊び、大規模な農園作り、砂浜での堤防作り、冬のプールでの筏乗り、川原からススキを運んでの縄文式縦穴住居作り、鶏の屠畜解体料理、白山市白峰での植樹・下草刈り、自主的な探偵団を作っての私の実家や能登島水族館探検、白山や医王山登山など正規の授業や行事、休日を使って。
 危険で冒険的な学習だが、保護者からのクレームはなく、むしろ保護者や地域の応援や協力を得てのものです。 そこでは状況判断力、集中力、忍耐力、人と交わる力、対話力などが鍛えられます。 それらと読書と自分の言葉を持つことが土台作りだと考えてきました。
 我が家の子育ても、私は登山に連れ出すことに、妻は料理を楽しく作る技術習得に、夫婦では読書を楽しむことに少しは心がけていました。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.6.8


 今を生きる確かな手応えを
 「今日の子どもは、命の大切さを知らない」と多くの人が言います。本当でしょうか。それは我が子や身近な子どもの様子からではなく、社会的事件からではないのですか。
 事件で判断するなら、未成年者の殺人犯検挙人数は、一九五〇、六〇年が年間四四八人でそれ以後減少し七五年から百人を割っているのです。
 殺人に限らず他の凶悪犯罪も同様。数十年の期間で見ると日本の少年の凶悪犯罪は目立った減少を示し、欧米やアジアには見られない日本独自現象だと言われています。
 それなのに政治家も教育行政者もマスコミもこぞって子どもたちを悪く言います。
 かつて子どもであった今の大人たちは、小さい頃から「命の大切さ」を本当によく知っていたのでしょうか。
 「命の大切さ」を知らないという一般論からスタートするから、「大切だよ」という説教・言葉・道徳・観念の教育が横行するのでしょう。
 事実は「命の大切さ」を知らないのではなく、「今を生きている実感・充実感・迫力・輝きや明日・未来を生きたいという希望」が持ちにくい、希薄になっているのです。
 本紙に連載を開始した水谷修氏も「今、子どもたちが苦しんでいます」と断言しています(五月十八日付け)。
 そう捉えると大人が子どもと共に日常的に実践すべき課題が具体的に見えてきます。
 一言で言えば、少年(大人)時代を子ども(人間)らしく輝いて生きる充実感を持てるように作りかえることです。 それを学校で、ということになれば二点に絞られます。 一つは、未知なる世界・異世界を学び合うこと(授業)の充実です。自主的な学びや読書の時間が世界の中で最低ランクになっています。
 もう一つは、学校でこそできる遊び・授業・行事づくりの体験を通して多くの友・集団との交わり合いや人間観を豊かにすることです。
 課題はもう一つあります。子どもたちは生き辛さを、大人のように趣味やフェスティバル文化で発散もできず、他者暴力よりも自分をいじめて
いるのです。不登校、引きこもり、リストカット、薬物乱用、節食障害などです。
 揺れ苦しむ内面世界を全力で共感的に受けとめることが大人に求められています。癒し活力を生み出す大自然に触れる生活を求めています。
「子どもは生きるジタバタ劇を繰り返しながら成長する。ガキらしく輝かせたい」それが私のモットーでした。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.5.25
 すべての人に贈りたい
 学級でもめ事があって激しく泣いている子がいた時のことです。みんなに迫って語り込んでいる私の口から思わず出たのは、「こんないやなことを言われ、悲しみや辛さを味わうためにわざわざ学校に来るの?違うでしょう。友達と出会ってハッピーになるためでしょう。勉強するのは今と将来がハッピーになるためでしょう。ハッピーに!」でした。
 その時「そうや、ハッピーになるためや。俺らハッピーになるために生まれてきたんやあ。」と相づちを打った子がいました。それ以後、私も意識的に「友と友がつながり合ってハッピーに!」「一緒にハッピーに生きようぜ!」を使い出しました。 
 今から七年前のその頃、教育基本法や憲法を変える動きが強まってきていました。一九四七年に施行された教育基本法の理念実現を日々丁寧に追求しなければという思いが強くありました。「つながり合ってハッピーに!」は子どもと共にその理念を実践化できる合い言葉にできると確信できました。
 日本国憲法の前文に「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と書かれています。平和的に生存するとは、二点の保証があってこそです。一つは、九条の「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」、もう一つは「基本的人権の享有」です。戦争の否定だけにとどまらず、日常的な暴力はもちろん、その人がその人らしくあること、あろうとすることを妨げられないということです。
 それを受けて教育基本法一条では教育の目的は「平和的な国家及び社会の形成者」を育てることだとしています。
 それらを憲法一三条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」と合体させたのです。
 つまり私たちは平和的に生きてこそ幸福を追求できるし、幸福を追求してこそ平和的な生存とそれを保証する国家と社会を形成できる。生まれて生きるのは、それぞれが幸せになるためなんだ。そのために学校があり、我々は学び合っている。
 そんな意味を全部込めて、みんなで共同して「ハッピーに生きようぜ!」という合い言葉、目標が完成したのです。
 だから、単に学校や子ども
に対するだけでなく、全ての社会や大人に対しての合い言葉、目標です。全ての人に贈りたいメッセージなのです。 
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.5.15
 子どもを置き去りにしないで
 この原稿を書こうと机に向かったのは四月二四日火曜十時。今頃小学四、六年生、中学三年生は、テスト問題を解いているでしょう。全国と県の学力テスト実施日です。
 子どもの立場で考えると怒りと悲しみがこみ上げます。六年生は私的な生活習慣・学習環境に関する質問調査を含めて一日中六時限テストなのです。六年間の日常ではあり得ず、集中力が持続できるはずがありません。
 さらに何のために、なぜこのテストを受けるのか、子ども自身に目的意識はないので、難解な問題を放棄しがちになる子が当然出てきます。
 進級して新しい友、担任、教科書と出会い、意欲に満ちている時に、これまでの成績の現実に向きあわされ、絶望感を強める子も出てきます。
 すぐに採点され間違いやできない所を補充して、さあ土台を固めて再出発!というテストではないのです。
「ええっ六限も!何でやあ?」との不満の声や早々とリタイヤする子に納得いく説明もできないかつての同僚たちのイライラが見えてきます。
 なぜなら、このテストの点数で教師個々と職場集団、学校がこれまでにも増して直ちに序列化されるからです。金沢市ではこれまで県以外に市の学力テスト、児童英語検定(六年)、語彙力検定(五年)が実施。その対策として多くの学校が民間業者の学力テストを実施。点数一覧表は、必然的に目に見える形での成果を上げる競争に駆り立てます。全国一斉学力テストはさらに拍車をかけます。
 このテスト体制が子どもにどれだけの益になるのかが私の拘りです。見える成果の追求は見えない学びの追求を弱めます。何をどう学ぶことが基礎・基本を獲得したことになるかを検討しないまま反復練習に力が注がれています。
 教師になって一番大切にしてきたことは、仲間と学び、考えることが楽しいこと、自分でも学びを深め、様々な人と世界が読み解け、自分が豊かになることでした。
 例えば、「学」は「學」のくずし字からでき、中心の×は学ぶ事柄を、それを挟むヨは両手を表しています。先達が両手を差し出して子どもが受け止めていくという字です。 基本になる漢字をそうした魅力的な意味を持つ文字であることを考えながら理解し覚えるという漢字獲得の基礎を育てることが必要です。生きて働く「ものの考え方」を育みながら「知」を獲得する喜びを子どもは待っています。

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.4.27
 学び合う楽しさを!
 三八年間勤めた小学校教諭の職を三月で退職しました。最後の授業は子どもたちが大好きな漢字教室。取り上げた文字は「幸せ」です。
 まず「羊」からです。羊は古くから飼われ、毛皮、肉、乳の恵みをもたらし、草を食べ、他の動物を襲わずおとなしく従順です。羊が大きいと立派で美味しいということで「美」。それを食して体をやしなうところから「養」。
 大きな羊は、恵みをたくさんもたらし、しあわせな生活ができるところから「幸」。「大」が「土」と羊の横一画が抜けた文字です。幸せが進んでいくのが「達」。「羊」に「言う」が組み合わさって、羊のような穏やかな徳のある言葉を持つことが「善」。
 絵のような最初にできた文字を解き明かしつつ学び合いました。(注・漢字成り立ちの説はいろいろあります)
 「一年間、心を伝え合って目指してきたのは“ハッピー=幸せ”でした。これからも幸せを目指して頑張っていこう。これにて私との授業は終了。ありがとう!」
 その瞬間「ええっ、いやだあ」「もっと勉強したい」「なんでやあ、年齢をごまかして」などの声が一斉に上がる。
 「終わったあ、バンザーイ!」「お疲れ様でした」との予想は全く外れました。しかし、思わず出た子どもの実感だけに、私に贈られた最高の讃辞だと思いました。好奇心を刺激し、自分にとって意味のある楽しい学び合いを子どもたちは大好きです。私宛の手紙にしほりさんは次のように書いていました。
 「国語、算数、社会、総合、道徳の時間、全部楽しかったです。それは金森先生以外にクラスのみんなが互いに支え合って作った授業だからかも知れませんね。漢字教室最後の漢字は『幸せ』でした。その文字を見て、この学級には四月から三月までずっと『幸せ』という文字が包んでいてくれたんだ、と思いました」
 「みんなが互いに支え合って作った授業」という言葉にとても感動しました。その通りです。学校は集団で学び【合う】場なのです。大学の講義では決して生み出せない学びとそれを追求する仲間の素晴らしさを発見できる場です。 それぞれの持ち味を丁寧に織りなし、子の内に生まれた考えをとことん聴き、学び合うことを高めれば子どもはとても優れた力を発揮します。
 四月当初、学力テストのためのドリルに終始せず、そんな学び合いをスタートして欲しいと切に願っています。 

(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.4.13

近況報告 その2
こんにちは!
 お元気ですか。早いものですね、退職してからもう一ヶ月伴経ちました。皆さんから「少しはゆっくりできていますか?」とよく聞かれます。毎朝8時前後の起床が最大の贅沢でしょうか。本、資料、レポート、手紙類で埋まった部屋の片付けや原稿執筆、研究会準備、庭・畑仕事などとやらなければならないことがまだまだ多く、読書・映画・山歩きなどの余裕はまだ生まれていません。
 連日のように講演依頼が舞い込み、その多さに驚いています。5月の10回を皮切りに、今後は講演の旅周りに終始しそうです。
 それにしても、子どもと日々学びを創り上げながら、原稿執筆や講演もこなした現役生活の悪戦苦闘、よくも倒れず続けられたものだと自分でも感心しています。(たくさん届いたお手紙の返事は殆ど書けず、申し訳なく思っています)友・仲間・同僚・保護者・教え子たちが寄せてくださった温かくて強い関心・感心・共感・応援・協力・支えとあの子どもたちのキラキラ輝く姿が私の背中を押し続けていたのだろうと思っています。本当にありがとうございました。
 その中での仕事の一端は、テレビ・新聞を通して社会に発信され続けました。子ども・学校・教育の持つ可能性がいかに大きなものであるかを多くの方々に理解して頂くことがせめてもの恩返しになるだろうと思い、公開し続けました。
 今後も教育研究・講演・執筆活動や県民教育文化センター活動など教育に関わることを軸にしながら、平和を守ることにつながることを少しずつやっていこうと思っています。引き続き変わらぬご協力をお願い致します。
2007.5.20
金森 俊朗

近況報告
やっと38年間終えたものの、後かたづけでくたくたです。当初の予定では、3月に入ったら教室を片づけて最後は空っぽの教室にするつもりが、「最後の授業」を3日間公開とNHKの撮影のために教室環境をそのまま残すことに。環境全てが学習をつなぎ、深めるために必要だから。地震と27・28日に体調を壊し、発熱・腹痛・下痢・吐き気で食欲無しで最悪。その両日の夜をアテにした連載原稿も未だ手つかず。教室と職員室を早く空にしないといけないので、ようやく30日に空けたものの膨大な本は、別教室の廊下に並べたまま。車庫は車を入れる余裕無し。一応の作業は31・1日とまだまだ続きそう。その後ちゃんと整理するのはいつのことやら。
金森俊朗
2007.4.2
見守ってくれているだけで
 子どもたちとの最後の学びに文学作品「鈴」を選びました。かつおきんや先生の金沢・亀坂を舞台にした物語です。
 作品の中の「わたし」のように、古い道路脇にひっそり置かれている地蔵や石碑に込められた深い想いに心を寄せて欲しいからです。
 また、本人達が直接関わらなくても、互いの生きるひたむきさが困難に立ち向かって生きる支え、励まし、楽しみになっている関係性に気づいて欲しかったからです。
 私の願い以上に子どもたちは、作品展開の推理を楽しみ、登場人物を深く読み味わい、自分と向きあいました。
 読後、しほりは自分の内にある障害をもった人への眼差しを問うていました。
「私ならきっとおあき(足がひどくねじれ、十分に歩けない子)のことを、あの悪たれ小僧のように石を投げるまではいかないけど、白い目で見ていただろう。応援するとしたら、庄一(重病で死と向きあっている子)の三分の一ぐらいであろう。おあきのような子をしっかり知ろう。そんな気持ち、今まではなかった。
 私は今でもきっと少しはおあきや学級に来た重い障害をもった人たちを白い目で見てしまう時もあるだろう。この人生には。でも、そんな風にみても全部がそんなことになることはない」
 「悪口を言わないで」と学級の仲間に言い切って以来、支援の輪を作り急成長をとげた健太の読後感想です。
 「自分が意識して応援しているのでもないのに、ちょっとしたことが相手を喜ばせたり、生きる楽しみになってくれるのがすごいと思った。そんなちょっとしたことで人が楽しんだり、喜んだりしてくれるのなら、庄一やおあきのような人たちを喜ばせたいなあと思いました。
 また、誰かが見ていてくれるってすごいなと思いました。だって、見ていてくれるだけで生きる支えになっていることがあるからです。人と人はつながっているし、誰かが自分のことを見守ってくれているだけですごいエネルギーになることが分かりました。
 それはこの一年間金森学級で学んできたことと同じです。だから、これからもぼくは、友達を見守っていきたいし、友達にもぼくのことを見守ってほしいと思いました」 「退職は淋しい」という子どもたちに「健ちゃんの言ってることが丸ごと、ボクの想いだよ。ずっとずっと君たちをしっかり見守っているから」と答えました。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.3.23
伝えることが違う!
 民放のあるテレビ局からいじめ問題についての出演依頼がありました。
「二十人以上の教師を集めて単発的に話をさせる番組でしょう。どうしてあんな言い合うだけの番組を作るのですか。考えでなく、子どもと大人が懸命に取り組む姿を伝えることが大切でしょう」
相当話し合って断りました。
 秋に私が出演したNHK教育番組にも失望しました。息子さんをいじめで亡くされた大河内さんとじっくり話せるからとの条件は裏切られました。私たちの話は次々と紹介されるメールやFAXの紹介の合間に、という感じでした。 三月三日の「いじめ、どうすればなくせますか」大討論会と銘打った二時間以上のNHK番組も同様でした。
 いじめられている子どものかなりが「先生や親に言う気がしない。信頼できない」と言い切っています。こうした子どもの大人への不信感が重要だと思うのです。いじめに限らず、子どもが悩みや不安、社会や人生に対する問いかけを持った時、大人が真剣に向きあってくれないと失望しているのですから。
 だとしたら私たち大人にとって大切なのは、大河内さんのような子どもの信頼を得ている人から学ぶことでしょう。どうしたら子どものどろどろした意見をとことん聞き、深い想いを引き出せるのかということを。それを語る姿、真摯に学ぶ大人の姿こそ映像そのもので多くの子どもと大人に伝えることが大切でしょう。
 私は出演する以上、私の考えよりも、子どもたちが容易に言い出せない苦悩や不安、ストレスを、さらにそれらを出し合って「一緒にやろうよ!」と健気にがんばる姿を丁寧に伝えたいのです。
 先日の番組でも「いじめられる側にも問題、責任がある。変わるべき」と答える子どもが半数近くいました。司会者は「それについてどう考えるか」と問いました。「その考えはおかしい・・・」と発言する大人達。両者共にズレています。「子どもがそう考えていることから何を学ぶか」です。子どもの考えはオリジナルではないはずです。あなたは大人として本当に「異質」を排除、抑圧、差別しないで尊重しているの?強者が弱者を、上が下を、男性が女性をを・・・といじめているのではないの?大人はどれだけいじめと闘っているの?と問うている、と受けとめるべきでしょう。
 子どもは説教的な意見ではなく、大人の今の生きざまを示して欲しいのです。 
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.3.9
ここはわが子のふるさと
 四年国語教科書に「手と心で伝える」と題する文章があります。一九才で視覚を失った作者が「それまで親しんでいた文字と離れることは、まるで心のふるさとを失うように思えたのです」と書いています。四年生どころか大人にとっても難解な文です。
 多くの子が分かるように「ふるさとってどういう所?」から考えました。「自分が生まれ育った所」「そこの海、山、川、家、友達と親しんで育った所」「それらと触れ合って大きくなっても思い出が残っているような所」「おふくろの味やにおいを育てた所」などが出されました。
 それをもとに千紘が次のように発言しました。「四月から本を読んできてすごくいろいろな本の世界に入り込んできました。題名を読んだだけでわくわくしたり、本の世界のいろいろな出来事にわくわくしました。本にはすごく違う世界が待っていて楽しい世界に入り込んだりしました。でも、私ももし目を悪くしたら二度とそんな世界に入り込めないから作者が心のふるさとを失うと言ったのがよく分かります」と。子どもたちは「おおっ!」と声を上げました。毎日仲間宛の「手紙ノート」が発表されたり、意欲的に読書している学級ですから、それらが心を豊かに育てていることには納得がいったはずです。読めた子どもたちの素晴らしさに感動。だが、少し不安も感じました。
 あえて「ふるさと」という言葉を使った重みがいつか大きくなったときでいい、実感できる日が来るのだろうか。 子どもたちと接していても、心身に豊かな地域性が刻まれていると実感することがほとんどないからです。欠席の子にプリントを渡してと頼んでもどこに家があるのかさえ知らないと言います。
 十年前に担任した子の文です。「午後、学校の近くの山に行った。十二月なのに土を掘ったらふきのとうやつくしが発見された。小さな命だけど、雪の中でもつぶれないで強く生きて欲しいと思った。それから長い崖を登った。何回も足が滑ったけど、何とか自力で登った。努力した後は気持ちいいなあと思った。これからもし自信をなくしたり、自分らしさが見つけられなくなったら、こんな山や川などの自然の中で落ち着いて考えてみたいなあと思った」
 癒される場、秘密の遊び場、種や実を集めた場、冠雪を美しく見せてくれた山々・・。ここは我が子のふるさとと言えるようにしたいものです。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.2.25
温もりの声がかかる嬉しさ
  四年生の社会科見学で白峰に行きました。子どもと共に町を歩く私たちに「寒い中ご苦労さんやねえ」と行き交う人が笑顔で声をかけてきます。私も子どもも元気に「はあい、今日は」と返しました。
自分たちの校下を学習で歩いていてもそうはなりません。その後に訪れた白山麓民俗資料館でも歓待されました。築一四〇年の豪壮な杉原家の中で昼食と見学。この真冬の時期、ほとんど見学客が来ないだけに厳寒の屋内を覚悟していました。入って驚きました。下見の時と違って、居間のいろりには大きな火が燃やされ、鉄瓶から湯気が上がっています。ふすまを開けると、四つの座敷それぞれに石油ストーブ。早くから火を入れていたことが分かり、部屋と館の方々のあたたかさに感激。
 座敷より居間が良いといろりの側に来た子らに「板の間は冷たいよ」とゴザを持ってきて敷いて下さった。私の杉原家の不十分な説明にも子どもと一緒に耳を傾け「何とおもしろい!引き込まれて聞いてました」と笑顔いっぱいに褒めて下さる。そして子どもたちに「さあ、気をつけて見ておいで」と声をかける。
 子育てで大事にしたいものは町と館でのこうした温かい声かけ、応答、笑顔でしょう。

 息子がまだ小さかった時のことを思い出しました。息子が玄関前の道路の掃き掃除をしばらく続けたことがあります。遊び半分のように道路を掃き始めた息子に、通りすがりの見知らぬおじいちゃんが「ぼく、小さいのに偉いなあ、感心やあ」と温かい声をかけたからだろうと思います。
 私たちの少年時代、温もりの声かけはたくさんありました。薄暮の中、稲はさに稲をかけている私に通りすがりのおばちゃんが声かけました。「遅いのに精が出るねえ、どこのあんちゃんかいね?」「満蔵(金森の屋号)のおじ(次男)です」「そう言えばお父さんに似なさっとるわあ。ご苦労さん、もう上がって休まんかいね。」と。
 中学生の私には恥ずかしく、しどろもどろの応答でした。手伝うのが当然という我が家と違って、見知らぬ人が大人に対するようにねぎらってくれたのが内心嬉しかったのでしょう。未だに覚えているシーンなのですから。
 今も毎日、どの子どもにも笑顔で声かけようと心がけているつもりでも容易ではありません。にっこり笑ってゆっくり「○○ちゃん!」と言うだけでステキな笑顔が返ってきます。肝に銘じなくては。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.2.6
僕らって、親の生き甲斐だぞ

 新年の始めにしっかり伝えたいことがあります。子どもたちは、戸外に遊びほうける場も時間も奪われながら、また、お金さえ出せば何でも手に入る誘惑が多い中で、それでも健気に頑張っているよ、ということです。子どもたちへの非難ではなくもっと応援して欲しいということです。
 特に少年による殺人事件が報道されると、「最近子どもによる凶悪事件が増えすぎ。家庭や学校が悪い!」「子どもを産み育てるのが怖い」などの声が上がります。
 これは大変な誤解です。例えばインターネットで「少年による殺人犯罪」を検索すると、統計や分析、主な事件内容を見ることができます。概略を言えば、一九五〇〜六〇年代には、年間三五〇〜四五〇件に対し八〇年代以降は百件を割っています。数十年の期間で見ると日本の若者の凶悪犯罪は目立って減少し、欧米やアジア諸国には見られない現象だと言われています。
 それなのにどうして増加しているとの誤解が一般的なのでしょうか。それは少年による凶悪犯罪が大人によるそれよりマスコミによって大きく扱われていることや政治家や行政が教育を変えるために利用しているからでしょう。教育基本法改正の根拠にも増加・凶悪化論が持ち出され、家庭や学校の指導力低下、モラルの低下が強調されました。
 もちろん私は、殺人事件が減少しているから楽観せよと言っているのではありません。劣悪な条件化にもかかわらず犯罪に走らず誠実に努力している子ども、家族、教師達の悪戦苦闘や喜びにもっと目を向け、応援しようということです。同時に事件を冷静に見つめ、小さくしかSOSを発することができないで苦しむ子どもにこそ愛ある救いの手をと訴えたいのです。
 子どもと共に歩み、彼らから学ぶことができるってすばらしいことです。まど・みちおの詩に「朝がくると」があります。「ぼくが作ったのでもない水道で顔をあらうと」から始まって、洋服、御飯、本やノート、ランドセル、靴、道路のお陰で学校へ。それは大人になったら「ぼくだって なにかを作ることができるようになるため」という詩です。 子どもは「確かにその通りだが何か納得がいかない」「ぼくらはこうやって学び合いを作っているよ」「それに元気にこうやって生きていることで親の生き甲斐や働き甲斐を作っている」と。予想外の考えに私は唸り、思わず笑って「そうだ!」と拍手をしました。
(北陸中日新聞掲載)

金森俊朗
2007.1.21

迎春
 いよいよ学校での仕事もラスト3ヶ月。子どもと離れる寂しさはあるものの、よくぞ続いたものだと自分でも感心する全力投球の38年間、やっと自由になれる! 少しは休める!との喜び。昨年4月からの9ヶ月、子どもの声を全力で聴き、つなげ、広め、深めることに努めました。
 その中で子どもたちが生み出す深い考えや悲痛な叫びに幾度も心うたれました。子どもって素晴らしいと心底感動しました。その根底に時代、社会、生活の苦悩や願いが沁みていることにも改めて気づきました。
 そんなとき教育基本法が改悪。子どもの不安、葛藤、ストレスをさらに増大する路線、そこから発するSOSを自他への暴力で表現する苦悩に寄り添わずに切り捨て、上からの道徳を押しつける路線に怒りを禁じ得ません。子どもと現場人の悪戦苦闘に寄り添わない政治家に教育を語る資格があるでしょうか。
 どこまでも子どもと共に創りあげた事実を通して、定年後も発言したり、子どもや苦闘する教師たちの応援をしていきたいものです。そのためにも、残り3ヶ月、子どもたちと共に最高の学びを創造し、「つながり合ってハッピーに生きようぜ」を楽しく深めたいと心新たにしています。

 長年に渡るこれまでのご援助に深く感謝すると共に最後の締めくくりと新たな出発に(多くの方から尋ねられますが再就職はせず自由人!取りあえずは本一冊仕上げる予定です)ご協力をお願い致します。
金森俊朗
2007.1.1

 問題の根っこを解きほぐす

教室に入ると多くの女子が、泣いているY子を取り巻き慰めています。理由を聞きました。休み時間に踊り・ソーランの自主練習中、Y子が「筋肉痛だ」と言いました。W男が「それならやめろ」と言い、彼女は「構わんといて」と言い返した途端、かなり強く三回殴られたと言います。一見、単純な言い合いの上、とっさに暴力を振るったかのような事件でした。
私は時間がかかるのを覚悟で「それならやめろ」というのは「親切心か、あるいはそれに近い何気ない一言か」と問いました。周りにいた男子はその通りだと言い、言い返したY子が悪いと言いました。踊っていた女子は、「悪くけなすような言い方でW男が悪い」と言うのです。泣いているY子に「あなたがそう言われたとき、心に一番感じたことを正直に言って」と促しました。彼女は「偉そうに命令しているように感じたから、いつもそうだから反発した」と言った時、多くの子に「そうだ!」という共感の表情が表れました。
 W男は、交流に来る自閉症のI君には大変優しいし、給食当番でなくてもいつも応援する働き者です。他方、ボス的で級友、特に自分より腕力が弱い男子や女子に対してきつい命令調の指示、注意、批判をします。遊びではルール無視を何回もしていました。
「Y子のようにW男は偉そうに命令するので前々から『イヤだ、やめろ!』と心の中で思っていた人?」と聞いたら、Wと似た存在のM男を除いて全員が挙手しました。
 ようやく強者に対する嫌悪感が浮上してきました。それからも具体的な事実を浮き彫りにする指導、前学年から続いていた多数者の弱さと今後の解決策の指導を続けました。最後に国語の学習と兼ねて「心から叫びたい人に叫びをぶつけよう」と詩に表現することを求めました。
 大切だと直感した問題の根っこを解きほぐし、全員が納得し、今後のそれぞれの課題を明確にするには時間をかけた根気強い努力が必要です。
 今、上からの「学力向上 」と「授業時間数確保」などの度重なる指示や多忙化のもとで、現場はこうした事件にじっくり対応する時間と精神的な余裕を失っています。家庭も同じように多忙です。  
 でも「暴力はだめ、謝れ」と上から一方的に徳目を押しつけたら、不満は残り余計に暴力化は進行します。教師も親もふんばり、子どもと正面から向きあいたいものです。      

 (北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2006.12.12
 頭を使った技・・父の贈り物

 「連載にもっと先生の少年時代のことを書いて。先日、家族で山へ行った時、相棒が炭火をおこすのに、わざわざ買ってきた着火剤やバーナーを使い出し幻滅。先生はそんなことをしないでしょう?」
「しないよ。炭は太いまん丸のをそのまま使ったでしょう?。山に行ったら小枝を集め、炭を細く割って、丸めた新聞紙を中心にそれらを組み立てればすぐに火をおこせるよ。できれば長めの枝や新聞をねじったのを縦横に下に敷くともっといいよ。子どもにそうした技を見せることが大切なんだけどなあ。」
「それって誰かに教えてもらったの?少年時代に直接やった訳でもないでしょう。」
「もちろん両方ともないよ。」
「それなのにどうして?先生は源流探検、川での飛び込み、森の中でのターザン、イカダ作り、焼きいも、どしゃ降りどろんこなど自然を相手に、しかも子どもと子どもをつないで上手に楽しませることができるでしょう。
 少年時代に自然の中で豊かな体験をしたというのなら、同世代の人たちがみんなできるはずだけど、そうでもないでしょう?」
 そこで私は、父の影響が最も強いだろうと話しました。 父は、田畑を始めりんご、豚、牛、にわとり、アヒル、樹木を育てる仕事と生活を作っていく上でたくさんの技を見せてくれました。傍観者としてでなく手伝いなので、容赦なく叱りつけられながら。
「頭を使え。しっかり見ておれ、見て体で覚えろ。相手と道具を見極めろ。はしたから丁寧にしろ。雑な仕事だけはするな」が口癖でした。
 例えば牛の餌にする牧草を刈る仕事。砥石で鎌を研ぐことからです。畑に石がないかを確認してから、鎌の持ち手を水で濡らして端を持ち、地表を滑らせるように右から左へ素早く振るようにして刈ります。刃物を使う時の足の置き方、刈り取った跡が一様にきれいになっていることなど教え込まれました。
 最も苦労して獲得したのはは「男縛り」の技でした。かつて今の時期、能登では稲を掛けて乾燥させるための「稲はさ」作りに取りかかりました。いい加減な縛りでは稲の重みでずり下がったり、強風で倒れます。重くて長い木材を腰で浮かせながら押さえつけ男縛りで締めるのです。台風がきても大丈夫でした。
 そうした物の性質を見極めて道具を対応させる技と頭の使い方を伝授されたからでしょう。父に感謝しています。 (北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2006.11.11
 親殺しで思う自立の困難さ

 今年に入り未成年の子どもが親を殺す事件報道に驚いています。一月に岩手県で高一男子が母親をハンマーで殴り絞殺、六月に奈良県で高一男子が自宅に放火し母親弟ら三人が焼死、七月に千葉県で十九歳の長女が実家に放火し父親が焼死、八月に北海道で高一男子が友人と共謀し母親を刺殺など。  
「あの子がなぜ親を殺したのか」は、事件を個別に検証しなければなりません。しかし、「なぜ最近思春期の子どもによる親殺害事件が多いのか」と問われると、それぞれ我が子の自立の問題として考えなければならないでしょう。
 それは決して難問ではないはずです。なぜなら大人の誰もが、思春期に何らかの形で親離れをして精神的な自立を遂げてきたからです。自分の成長史を掘り起こし、向きあえば自分なりの捉えはできるのではないかと思います。
 精神的な自立のことを、「親を乗り越える」とも「精神的な親殺し」とも表現します。後者の表現は強く、聞いただけでギクッとしますが、それだけ子どもの内面の葛藤が強いということでしょう。   この時期に大切にしたいのは「子どものプライドを丸ごと否定しない」や「親の愛を実感させること」などだと言われます。それについての体験があります。
 卒業を控えた高三の時、友人に数学が赤点続きで次回テストも同様なら留年だから何とかして欲しいと泣きつかれました。他の友と組んで彼のテストを書きました。
 できばえに疑問をもった先生は友を呼び、問いただしました。結果は、家庭謹慎三日間の処分でした。当然、親の呼び出しがあります。私は激怒するだろう父に言い出せず苦しみました。
 父は自分にも他者にも大変厳しく、子どもの意見など端から聞こうとしません。その姿勢に何度も反発し、憎しみさえ抱く時もありました。しかしこの時、父はうなだれる私を怒りませんでした。
 校長室で父は、息子の愚かな行動をそれこそ丁寧に謝り処分を受け入れました。その後、「勉強ができない子を救うのが教師ではないのか。その責任をどう考えているのか。子どもの苦悩に心を寄せて欲しい」旨の発言をしました。何てことを言い出すのかとハラハラすると同時に父を偉いとも思いました。
 「親の面子をつぶした」と怒らず、どこかで私を守ろうとした父に、当時の私は親の愛を実感したのでしょう。(北陸中日新聞掲載)
金森俊朗
2006.10.15


本から学ぶ子どもへの眼差し
 金沢在住の児童文学作家・かつおきんや先生は、私のとても尊敬する恩師です。学校で教えられた生徒ではなく、『辰巳用水をさぐる』や『鈴』を始めとする数多くの作品の読者として、また文学や教育についての研究会の仲間として学び、大変強い影響を受け続けているからです。
 子どもや地域をとらえる深い眼差し、地域の歴史を足で探る方法や楽しみ、社会や自然との豊かな関わりの中で子どもが成長する筋道など理論でなく物語として感動の中で学ぶことができます。かつて息子もかつお作品を読み、辰巳用水や金沢の「歴史散歩」をかつお先生に案内され、親子共に楽しみました。
 そんな私ですから講演の際には、もっと読書を!と訴えます。一般的な読書の楽しみはもちろんですが、子育て・教育を楽しみながら深く学ぶことができるからです。 
 小学校高学年から中学・高校生を持つ保護者や教員に強く勧めているのが重松清氏の作品です。六年生の国語教科書に「カレーライス」という作品が入っています。代表作を紹介しましょう。
 連続通り魔事件の犯人が同じ教室にいる同級生だった。僕も「キレてしまうのか?」。家族、友人、異性への思いに揺れながら成長する少年の内面をリアルに描いた『エイジ』(山本周五郎賞受賞)。
 中学二年の一人息子がイジメに遭い、加害の子どもをナイフで刺そうとする父親の内面をリアルに描いた『ナイフ』(坪田譲治文学賞受賞)。
 高校中退を決意する娘とそれを受け入れることができない父親の葛藤を描いた「団旗はためくもとに」やイジメ・不登校・家庭内暴力と心を閉ざした息子に、少年時代の自分を見つめて同質の内面世界に気づき、丁寧に語りかける父を描いた「小さき者へ」などの短編集『小さき者へ』。
 読後不思議になります。大変辛い状況にある子どもや親の複雑に揺れる内面世界が重松氏にどうしてこんなに分かるのでしょうか。登場人物を見つめる氏の眼差しがどうしてこんなに優しく温かいのでしょうか。
 氏と直接話せるチャンスに恵まれました。八月二十六日、重松清・嘉悦登(私の学級を撮った「涙と笑いのハッピークラス」のディレクター)と私の三人連続講演と鼎談があるからです(野々市フォルテにて午後一時より)。
 作品と作家の両者に出会えて「子どもへの眼差し」を学ぶ喜びに興奮しています。(北陸中日新聞掲載)

HPをご覧にになった皆さん、参加をお待ちしています。
金森俊朗
2006.8.18


でっかい誕生日プレゼント
私は一九四六年四月八日に次男坊として生まれました。私が母の胎内に命の鼓動を響かせ始めたのは、沖縄戦、本土空襲と続く戦争末期の頃です。父は「満州」における営農指導の任を果たし帰国していたそうです。それを考えただけでも奇跡的な誕生と言えるでしょう。父母が私の存在に気づいたとき敗戦を迎え、ようやく故郷の大地に落ち着いて農に精出す喜びを持ったことでしょう。私の胎動よりも時代が激動していました。
 私の誕生二日後、総選挙で女性議員が三九名当選、十月農地改革、十一月日本国憲法公布、翌四七年三月教育基本法公布と続きます。社会に関心の強い父は、耕地が自分のものになり、誕生した我が子が兵士として戦場に送られないばかりか、教育を十分受けさせることができる時代の到来に歓喜したと言います。
 我が家では誕生日を祝うという習慣は全くありませんでした。でも、私はいつでも最高の誕生日プレゼントを貰っていると自負しています。それは父母や祖父母たちの喜び、希望が込められた、そして何よりも私の未来が個人の尊厳を守る平和な社会と共にある!と固く誓った日本国憲法と教育基本法です。
 お陰で私は、零細農家でありながら奨学金の援助で大学を卒業できました。他民族に銃を向け、人間としての尊厳を踏みにじることもありませんでした。教員として全ての人間の命の尊さを等しく大切にすることを矛盾なく教えることができました。おのれと他者に最大の幸せになる道を、自分の頭でとことん考えよと迫ることができました。
 しかし定年を迎え、誕生日プレゼントは、大きく変えられようとしています。憲法九条の二項に「軍隊を持つ」との改正案が通れば、「戦争放棄」と「自衛隊はあれど軍隊ではない」で制約されていたものが一挙に解除され、「戦争をする国」になります。それに連動して教育基本法で「愛国心」を教えることが教育の目的だと変えられたら恐ろしいことになります。戦争をしないと誓った国、「愛国」の中味と仕方を強制しない国だったら私は愛せます。
 我が子が誕生成長していくとき最も恐れたのが、突然戦場に駆り出されるということでした。子の命が奪われる、子が他者の命を奪うことだけは絶対にあってはならないのです。子を持つ親たちの普遍的な願いでしょう。大きな目で子ども達の命、安全を守ることも考えたいものです。
今進めている実践については、朝日新聞が4月と5月に計4回、記事にしていますのでインターネットで参照して下さい
2006.5.25
金森俊朗


いのちを贈られた私たち
 05年度もラストに近くなりました。憲法・教育基本法を悪く変えようと言う動きが急速なだけに、また、急激な格差社会や学力向上競争の進行に伴う子どもの苦悩が広まっているだけに、出番を求められ、相変わらず多忙です。でも、日々学校では、子どもたちと一緒に楽しく学びを創っています。

 T君が手紙ノートに、自分は体外受精で生まれ、成功率の少ない難しい誕生を成功させてくれた母と医師に感謝したい、と書いてきました。発表すると、「良かったあ、おめでとう!!」と拍手が贈られました。感想を述べる子が、「僕の母も2回流産し、やっとやっと僕が生まれ・・」と絶句し泣いてしまいました。次の子も。みんなでこの涙は?と考えました。子を失った母の苦しみ、それを乗り越えた自分と母の喜び、生を得ることが出来なかった兄弟姉妹への悲しみの涙だと子どもたちは答えました。感動的な授業でした。そうやっていのちを贈られた私たちがいつの間にか、贈り手に変わりつつあるということで以下のような学習を連動させた。そのことによって「いやらしい」という感情は生まれるはずがないという細やかな指導?もちゃんとやっているんだよ。


「今は四年生で子ども。でも、少しずつ大人に成長している。大人って何ができるようになること?」と聞きました。働いて稼いで自立して生活ができるようになること、女性は子どもを産んで育てること、男性は子どもを産む手助けができるようになること、恋愛ができるようになることなど、容易に答えてくれました。
 そうしたことができるように体と心が今、変わり始めているはずだけど、思い当たることってないかなと問いました。「あるよ」と元気に答えるのは男子の一部で、多くははニヤニヤ笑っている。
 変化を少し出してもらった後、「この頃少し変わってきた私のこと、恥ずかしいけど言っちゃおう!」と書いてもらいました。たくさん出されました。一年のラストになって正直に出されなければ学級づくりの失敗です。
 まずは女子編です。
○最近お風呂で体をふく時に、タオルが少しふくらんだ胸にあたってぎゅーとつぶれるような痛みがする。胸がふくらんだかなあと思ってさわって確かめることがある。体のことがとっても気になってきている。
○好きな人と目があうと、そらしてしまう。小さい時は平気で話していたのに、少し大人になると好きになるって言うのは、少しレベルが違う。
○前は平気でお父さんといっしょにお風呂に入っていたけれど、今ははずかしくて入れなくなった。
 次は男子編です。
○テレビのラブシーンを見た時や雑誌の女の人の裸を見たら、チンチンが立ってびっくりした。
○ドラマのキスシーンや抱きしめるシーンに、変に笑いが出てきたり、こたつの中に隠れたりして「何やっているんや俺、狂ってしもたんか?」と思う時が度々あります。
○最近、同じ年ぐらいの女の子を見るとドキドキするようになった。以前は公園で会っても「よっ」と言っていたけど、今はすぐ隠れようとしてしまう。
○これまでは、すぐ寝られたけど、今は、三十分くらい好きな人のことを考えてしまう。

 率直な思いを出してくれました。初々しく愉快です。それらの文を読み、楽しく交流しました。私だけじゃなかったんだ、安心した。でも大人になるって不思議だなあ。無意識の内に変わってきているんだ。子どもたちはそういう感想を述べてくれました。 

 こうした学びを確かに創り上げるよう奮闘している日々です。   
2006.2.12
金森俊朗


迎 春
 05年には、ライター・川畠さん、角川の伊達さんの強力な応援のお陰で『希望の教室』(角川書店)を出版できました。多忙化・閉塞感の強い学校、毎日100人が自殺する(未遂者はその10倍と推定されている)競争社会の中でも、学校に、子どもに希望があるぞ!という具体的な実践を出せたこと、それが韓国でも出版されることが一番の収穫でしょうか。
 05年1月、宮城への旅(Nスペ撮影のためリストカットの少年に会いに)から12月の長崎講演まで、土日が講演で埋まる状況の中、途中腕・肩・首が動かなくなったり、日帰り白山登山で足が動かなくなったりで、仕方なく夏からジムに通い出しました。でも、時々の運動30分、入浴30分で、少しでもゆったりがもっぱらです。
 講演の旅は辛いのですが、各地で迎えて下さる人々のつながり合っての輝きから元気をもらったり、外の世界から子どもや日々の仕事を見つめ直せる良さもありました。
 そうした中で、会員でつくる県民教育文化センターの活動を、副所長でありながら十分できなかったことが悔やまれます。教育基本法・憲法が「戦争をする国」に照準を合わせて変えられようとしているだけに、減少傾向のセンター会員を増やし(協力お願いします)、何とか踏ん張りたいと思っています。子どもたちに「未来は美しい!」と胸張って言い切れる大人でありたいものです。

 06年は後、1年3ヶ月(07・3・31)で退職を迎える大切な年になります。可能な限り講演や原稿を減らし(これがなかなか難しいくて)、山も歩きながら、子どもと一緒に悔いが残らない楽しい学びを創造したい、そしてそれを記録に残したいと強く願っています。その後の悠々自適な生活を夢見て!

 本年もよろしくお願い致します。 
金森 俊朗
2006.1.4
【つながり合って ハッピーに】
 三歳の時、過労で亡くなった父の死をたった一人で知り、出産直後で入院している母に連絡をしたみふゆちゃん。父のことをかたくなに心の奥底に閉じ込め、十歳まで生きてきました。
 学級の仲間は、父が奪われるということを真剣に考え、彼女の悔しさ、悲しさを受け止め、彼女と共に歩みます。仲間は、天国にいる彼女の父に「いつでも一緒に生きるから安心してね」というメッセージを贈ります。
 今、日本の社会では毎日毎日百人近い人が自殺しています。逆に言うなら百人近い人を殺して成り立っている社会だということになります。「規制緩和」「自由な競争」「選択の自由」という美名の下に、共同して支え合って生きることより、強者が弱者を追いつめ、切り捨てています。許せません。
 私たちの人生・存在・いのちの尊厳を守り抜くには、つながり合ってハッピーを獲得することを私たちのできることから始めることだと思っています。たくさんの人を心に住まわせて生きることだと思います。

 以下の講演日程のように相変わらず多忙です。ゆったりしたい! 山を歩きたい!本を読みたい! そんなことを願っています。でも、世の中の悪さは、ますます多忙に拍車をかけます。救いは、あちこちに出かけた時、その地域に根ざして、仲間と誠実に生きている人たちに出会うことです。子どもたちが日々、つながり合って生きる希望をつくりだしていることです。

金森 俊朗
 05.10.29 

★『希望の教室』が韓国にて韓国版で出版されるそうです。驚いています。
★以下は『通販生活』05秋号に掲載された「石塚久美さん(35歳会社員長崎県)のおすすめ本」の記事です。
金森 俊朗
2005.9.2
『希望の教室』〈子どもの「?」を受け止めてあげよう〉
 学生時代にどんな先生と出会うかによって、その後の人生や考え方が大きく左右される。まさに私がいい例で、小学校5,6年の担任の先生からはクラスの「仲間」の大切さを教わった。そして23年たった今でも、相変わらず当時のあだ名で呼び合う仲間は、私の大切な宝物の一つとなった。熱い先生だったな、いい先生だったんだなと思う。
 著者である金森先生も、筋金入りの熱血先生。『仲間とつながりハッピーになる』という教育思想のもと、30年以上にわたって小学生と向き合い、子ども達が互いに学びあい助け合いをするよう共同の関係をつくっている。また、自然に直に触れ合い、さまざまな実践を試みたり、日本でいち早く「いのちの教育」や「死の授業」を実践した人でもある。3年2組の金森学級では、毎日の朝の会を延長して、学習にちなんだ疑問や発見、友達や家族のことなどを生徒が自由に発表し合う。その様子を一年にわたって追ったのが本書だ。
 特に印象的だったのは、子どもたちが命の神秘を知っていく過程。自分の目でアオムシがサナギ、そしてチョウヘと姿を変えていく様子を見たり、植物を種から育て、おしべやめしべを観察する。そうすることで、人間の命の誕生にも目を向けるようになる。性の向こうには生があり、さらにその向こうには死があることまでも、身をもって学んでいくのだ。
 著者は子どもに関わる仕事をしている人に、「キャッチャーであれ。子どもはピッチャーで、さまざまな球を投げてくるから」と訴える。それは、「聞き合う仲間がいれば、聞き合う場があれば、豊かに受け止める大人がいれば、多くの子たちは、おもしろいほどに自分を語る」ことを、長年の経験から知り得ているからだ。
 また、朝の会で語られた子どもたちの発見や考えは、「子どもたちの可能性の大きさと、私たち大人が何を日々大事にするべきか」を教えてくれる。

春、子ども達と田植えをしました。中日新聞の連載「教育輝き」に次のように書きました。

『 田植え、初体験
 校門のすぐ前に田んぼがあります。初めて赴任した時、「これは毎日見、触れることができる宝物。これをを生かさなくては」と思いました。
 それから一年、この田と耕作者からの学びを「人の足音を聞いて育つ」と題してこの連載にも書きました。
 この学びはさらに大きなドラマを呼び込みました。耕作者の清水さんから願ってもない申し入れがありました。

「先生、あの子どもたちの学びには本当に感心しました。良かったら子どもたちに田植えから収穫まで体験させてやりませんか。勉強になるように好きに使っていいんです」
 四年生なった子どもたちに伝えると大喜びしました。無理せずやれるように校舎側から一人十一株、百人が植えるスペースをお願いしました。

 四月下旬、祭りのようなにぎわいの中で田植えをしました。清水さんは、かつて手植え時代に使用していた田植え枠まで探し回って用意していました。
 さて消費にどっぷり浸かる生活を余儀なくされている子どもたちは田植えをしてどんな思いをもったでしょうか。

「今日田植えをやるとき、気持ち悪いと思って、やるのがいやだった。でも、いざとなってやってみるとすごく土が気持ちよかったから、やってからはんだんしようと思いました。土があたたかくてすっごい気持ちよかったからまたもう一回したいです」(侑平)

「最初に金森先生はわくをころがしていて『重いのかなあ』
と思いました。わくをころがした金森先生の足についたどろは『くつしたみたいだなあ』と思いました。なえはわくをころがした十字の所に植えました。今度おもしろいかかしを作ってすずめに米を食べられないようにしたいと思います」(航輝)

「田植えの稲が一人四十四本もいるなんて初めて知りました。では、百人だったら四千四百本もいることが分かりました。植えるのが終わってもどろうとしたらころびそうになって手を前に出したら手がはまって少し大変だった。今日から秋まで仕事があるなんてびっくりしました」
(椋也)

 初めて実感した田んぼの水と土の心地良さや苗の小ささ。大切な生命を生み出す母なる大地を、「泥=汚い=気持ち悪い」では困るのです。 農業体験という狭い捉えでなく、もの・人・地域・歴史などの奥行きを実感的に考えることができる学習を目指しているのです。』
 
 この稲についに幼穂ができました。7月20日には茎の間から穂が顔を出すでしょう。子ども達と今、【かかし】作りに取りかかっています。もう一方では、田んぼで徹底的に泥んこ祭りを実施する計画を立てています。清水さんからもう一枚の休耕田を自由に使っていいよと言われたからです。子ども達とすっごく楽しみにしています。60歳近い教師にしてはやることが過激? それともはしゃぎすぎ? どうしてこうした応援団が登場したのかは『希望の教室』を読んで下さい。あっ、そうそう、『希望の教室』はどうでしたか?できたら感想を角川書店に寄せて下さいね。

 ここ最近、肩が痛く右腕が痛くしびれ、夜の仕事ができなく困っています。今も、左手でやっとパソコン打っています。やっぱり歳ですねえ。夏休みはたっぷり休みたいところだが、相変わらず多忙です。  
金森 俊朗
2005.7.12
 多忙な中で
『希望の教室・・・金森学級からのメッセージ』を
5月に発行
  
 
04年度4月7日から角川書店のライターが教室に毎日入り、子どもとの学びを記録し続けました。それを基に『希望の教室・・・金森学級からのメッセージ』(続・『いのちの教科書』)を書きました。

 前書きに「今度の本では、ごく日常の学びを出し、閉塞感強まる今の学校体制の中でもここまでできる可能性があると伝えたくて書いた」といういう意味のことを書きました。教師には一年間の学びをどう創り上げるのか、保護者や一般市民にも教育・子育てをどうするのかに何とか応えるよう、書いたつもりです。
 4月28日に発売予定です。

 学年末の殺人的な事務の内、通知表は何とか仕上げたものの、指導要録などは全く手つかずでこれからです。講演の方も、04年度は本当にたくさんやりました。土日が全部つぶれました。3月5日横浜、6日名古屋が04年度の締めくくりでした。さすがにどっと疲れ、普段なら講演後に電車に乗ったらビールを飲んで寝てしまうのに6日は眠れないのです。そのあとの1週間は体調を崩してしまいました。

 05年度こそは、夏休み以外、月2回に押さえようと思っています。以下の日程は、講演を中心とした予定です。それ以外の日は空いていると思わないで下さい。講演以外に、金沢の地で様々な取り組みがあります。新聞連載も継続しています。何よりも、後、2年の教師としての小学生との教育実践に情熱的に創造的に取り組みたいと考えています。
金森 俊朗
2005.3.28
 迎 春
  
 お元気でしょうか。私は春になると59歳になりますが、今のところ元気です。今年もお互いに元気に過ごせるといいですね。
 本年もよろしくお願いします。

 教育界では「学力」向上が叫ばれ、さらに子どもと教師を競い合わせるという。豊かな学びをどこまで奪うのだろうか。怒りを忘れず、老体に鞭打ち、少年たちと楽しく意味ある学びの創造に、日々精出そうと思っています。
 健康である限り後二年子どもと共に汗かこうと思っています。よろしく応援をお願いしますね。

 昨年の夏、戦争をする国へと加速する動きに、ノウという意志を伝え広げたく、劇団文化座の「若夏に還らず」を多くの仲間と上演。多忙な中、観劇に来て下さった皆さんのお陰で成功しました。ありがとうございました。

 ともかく多忙な年でした。休日を返上して講演に全国を飛び回りました。この冬も宮城・静岡・松本・鹿児島・横浜・名古屋などに行かなければならなく、春から講演は絶対に減らそうと思っています。この地での「九条の会」「教育基本法を守り生かす石川ネットの会」の活動を着実にやらなければと思っています。

 何よりも後二年間をこれまでの総決算として子どもと誠実に実りある学びを創りたいと念じているからです。

 昨年、毎日の仕事を角川書店のライターが、教室にて記録し続けました。それを基に『続・いのちの教科書』のような本が刊行される予定です。
また、テレビの方でも1月23日(日)NHK教育の朝5時〜6時「心の時代」に、2月27日(日)21時〜21時52分NHK総合でNHKスペシャル「子どもの心をノックする(仮)」に出演します。
金森 俊朗
2005.1.1


成功、やったね!

「金森さん、そんな忙しくて本当に大丈夫なの」 小学校の教員をしながら、月に六回以上の講演や市民運動に奔走している私が、文化座公演「若夏に還らず」の上演を決意したとき、仲間から心配と不安がぶつけられた。
 誰より不安な私は、敢えて「いのちをかけてやる」と宣言。「戦争をする国」へと強く進み出したこの国に何とかブレーキをかけたいという強い思い、意志を持っていた仲間たちが賛同。また、仲間たちは、子どもたちが他者のいのちを奪い、自らと家族の人生を破壊する悲劇に触れ「つながりあって汗かいて問題を解決していく大人の生き様」を子どもに見せる大切さにも気づいていた。
 「子どもたちに輝かしい未来を」を合い言葉に、若者と若い母親たちが集まる。実行委員会名は、ナウクしようぜと「The URIZUN」の集いと命名。「平和は楽しくやるもの」と集いは知恵を練った楽しい企画。御大・愛さんの講演会終了後の打ち上げ会はまるで、上演が成功したかのような賑やかさ。
 しかし、上演が間近に迫るとチケット売り上げ伸びず、広瀬事務局長の叱咤激励が飛ぶ。当日、不安を吹き飛ばすかのように続々と入場。多くの仲間が本当に必死になって周囲の人々に声をかけた成果だった。仲間が、日常的に平和的な人間関係をつくりだしながら、平和な未来を求める姿に共感と今と未来に危機感を持つ人たちが集まってきた。
 権力から他国の若者のいのちを絶つことを命ぜられた日本の若者・田口は、何度も殺され、未だその魂は還ることができない。その田口の願いが、誠実で苦悩する姿として、観劇した多くの人の心に刻まれたと確信している。平和、ハッピーを求める人々と強いつながりを作れた文化座とURIZUNの仲間に感謝!!
金森 俊朗
2004.11.20
(文化座通信掲載より)

 これから雪の季節。旅も大変だし、
何より地元の教育運動がきちんとできないから、
また、読書も思うようにできないから
講演は何とか控えたいのだが、
相変わらず要請が多く、困っています。

 後、2年と少し、退職すれば自由になりますが・・・。

ちょっとしんどい俊朗より
2004.11.16

おたよりありがとう!

 お便り拝見しました。
この返事が届くまでに半年以上も経過し、既に諦めていられる方もおありでしょう。申し訳ありません。

 これまでにも著作、講演、石川テレビドキュメンタリー「いのち輝いて〜富樫小学校の二年間」(5、6年生を撮影・・・これも好評だったが悲しいかな民放は地味な番組にはスポンサーがつかず放映は少ない)の放映などによってお便りが多かったのですが、NHKスペ「涙と笑いのハッピークラス」の度重なる放映後激増しました。また、9月4、5日の「子どもが見えない」の出演もあってさらに増えました。昨日も一昨日も5通の便りが届いています。連日のように。とてもお一人お一人にご返事を差し上げる余裕は、残念ながら悲しいことにないのです。

 毎月6、7回の講演、連載を始めとする原稿執筆、教育実践研究サークル・日本生活教育連盟の活動、県民教育文化センターの活動、「地域学習サークル・森は海の恋人」「平和サークル・むぎわらぼうし」などの市民活動、そして何より本職の小学校教師としての日々の教育実践創造活動に超多忙な毎日を送り、読書もままならぬ毎日です。どうかご理解をお願いいたします。

 また、多くの学生や教師から授業参観の希望が寄せられていますが、個々にはとても対応しきれません。ホームページで「金森俊朗の部屋」や西南部小学校を検索し、公開研究授業や「部屋」に今後参観希望者に来校可能な日にちを乗せますので参照して下さい。

 せっかくのお便りに十分なご返事も差し上げることができず申し訳ありません。それぞれの地で活躍されること、仲間とつながりあってハッピーに生きることを祈っています。
2004.9.26
かなもり としろう

こんにちは!
西南部小学校に転勤して、
3年生を担任しています。

この年になったら、高学年担任がしんどいので、
中学年ばかりを希望しています。

相変わらず、
講演(6月だけで7回)、原稿、研究会と
本職以外も多忙で、飛び回っています。

にもかかわらず、
今回わが友・女優の佐々木愛さんが率いる劇団・文化座の
芝居『若夏(うりずん)に還らず』を上演する責任者を
引き受けました。

お金を出してもらって、
観光会館をいっぱいにするのは大変なことです。

あえて引き受けたのは、
「これからを生きる教え子達、私の子や孫たち」への想いです。
夢を持って輝いて生きてほしい、
それが追求できる社会、国であってほしい。

間違えても
銃を他者に向ける体制であってはならない
という想いです。

悲しく、ショッキングな長崎での殺人事件は、
活動をより強めなくては、
との思いを強くさせました。

汗かいて、多くの人とつながりあって、
問題を粘り強く解決する大人の誠実な姿を
子どもに見せなければ、
ということです。

「ひとりでかかえこまないで!」
「暴力で解決をはかろうとしないで!」をことばとしてでなく、
生の姿で訴えたいのです。

子どもに日々飛び込む映像は、
イラク戦争を頂点に暴力(殺人)で
解決をはかろうとする大人の姿ばかりですから。
2004.6
金森 俊朗

教育姿勢

私は、いのちについて自分の知っていることを話して、
子どもたちを教えるというスタイルはとりません。

教師が教えるのではなく、
死に直面し、生きることの意味を
ぎりぎり問うている人に
直接子どもに語っていただくことにしています。

本物の生きざま、生の大切さを
語る姿と臨場感こそが、
“生きるための原風景”として
子どもの心に刻まれるからです。

もうひとつは、
子ども自身が身近に体験する「死」、
家族や動物の死などを積極的に見つめ、
その思いを発表します。

学級という場を、
友と心をひらいて語り合い、
自分のなかに自尊心や希望を
見いだしていく場とするのです。

だから、この本も、
私がいのちについてみなさんに何かを
教える本ではありません。
いのちについて、
私自身と子どもたちが
どう学んできたかをお伝えするだけです。
いのち、人間存在を学ぶということを
学んでほしいのです。

――『いのちの教科書』(角川書店刊)より――