8月31日(智北→天塩川温泉) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
全駅間歩き2日目(36.4km) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
音威子府村の天塩川温泉を目指します。 この日の夜は、智北駅の待合室で一夜を明かしました。 私自身、駅寝未経験というわけではなかったのですが、 徳島県の坪尻駅で駅寝した前回は全く眠ることができず、 実質徹夜になってしまいました。 正直なところ、この日の夜もあまり眠れませんでした。 さすがに今回は3〜4時間眠ることができたのですが、 当時は、宗谷本線に夜行列車「はなたび利尻」の設定があり、 1時半前と2時半過ぎの通過時には2回とも起きてしました。 待合室内とはいえ、すぐ近くを通過するわけですから、 通過時にはかなり大きな音が響き渡ります。 朝の6時になると、外も明るくなっていました。 待合室の外に出てみると、少し肌寒さを感じました。 朝6時半、智北駅を後にします。 今日の全駅歩き、スタートです。 最初の列車が来るまではまだ1時間近くあります。 ![]() 宗谷本線に沿って進みます。 畑の中に一本の木が立つ光景は北海道らしさを感じます。 20分ほど歩くと小さな川を渡ります。 この川が名寄市と美深町の境となります。 美深町に入ると、道の先右側に小屋のような建造物が目に入ります。 南美深駅の待合室です。 待合室でしばらく休憩していると、 待合室前で車が止まり、高校生を降ろして走り去っていきました。 駅周辺の民家はまばらですが、 それだけに、車で駅まで送り迎えしてもらうのが 日常的な光景になっているのかも知れません。 ![]() ホームを見渡すことができる踏切の反対側に向かいました。 ホームには、3人の高校生が列車を待っていました。 やがて、踏切が鳴り、2両編成の旭川行き列車が入ってきました。 (写真は上記始発列車停車中に撮影したものです。) ほとんどの板張り駅では、1両分のホームしかない上、 ワンマン運転の関係で、列車はホーム中央に止まります。 1両でも列車はホームをはみ出してしまうのに、 2両編成ともなると、踏切を完全に塞いでしまいます。 そのまま道なりに進み、美深駅を目指すことにします。 朝7時半ということもあって、散歩している人もちらほら見かけます。 美深駅に向かう途中で、同じ道を散歩していたおじさんが話しかけてきました。 どんな話をしたのか、今となってはあまり思い出すことができませんが、 歩いて稚内まで目指すことや、美深町のことや、美深駅にある美幸の鐘のこととか話していたと思います。 今でも覚えているのは、おじさんは美深のことを「ぴうか」と言っていたことです。 美深の地名はアイヌ語で小石の河原という意味を示す「ピウカ」に由来しています。 この「ピウカ」に漢字を当てて、「美深」という地名が誕生しました。 このような経緯から、美深駅は開業以来長らく「美深」と書いて「ぴうか」と呼んでいました。 しかし、漢字本来の読みにつられる格好で1960年台に読みも「びふか」に改まったようです。 このように、地名(の読み)が当てた漢字につられて変わる例は、北海道では多く見られ、 札幌近郊の月寒(チキシャフ→つきさっぷ→つきさむ)などもその一例です。 ![]() 美深駅は、町の中心部にある赤い2階建ての建物です。 建物の上には美幸の鐘があり、スーパー宗谷1号到着時などに鳴らされます。 駅舎1階にはJRの駅設備と地元産品を販売する売店があり、 2階は美幸線記念館となっています。 美幸線記念館は施錠されていますが、売店の人に見たい旨を伝えると開けてもらえます。 美幸線は、かつて美深から分岐し、同町の仁宇布までを結んでいたローカル線です。 沿線住民は少なく、国鉄赤字ワースト路線の常連でした。 美深町長はじめ多くの人々が北見枝幸までの全線開通を願っていましたが、 願いは叶わず、1985年に美幸線は廃止されてしまいました。 記念館には、当時の美深町長が直々に東京や大阪まで切符販売に出向いたという、 「国鉄日本一赤字線脱出大作戦」のチラシなども展示されています。 美深駅で待っているようにとおじさんに言われたので、 美深駅の待合室でしばらく休憩しているとおじさんが来ました。 おじさんは、寂しくなったら食べてとキャンディーの山を持ってきてくれました。 (ほんとに大量で、全駅間歩きの中で少しずつ消費したのですが、消費しきれず東京まで持ち帰るほどでした。) さらに、当年6月に美深町の松山湿原(日本最北の高層湿原)で開催された祭りで配られたバッジをいただきました。 少し話をしただけなのにどうしてこんなに親切にしてくれるのでしょう。 私はおじさんにお礼をいって、美深駅を後にしました。
朝の8時半ということもあり、町を歩く人の数はまばらでしたが、人の生活感がある場所にいると何となく安心します。 しかし、15分も歩けば、またもや民家がまばらな地帯となります。道の左右には水田が広がります。このあたりは稲作の北限といわれています。 途中で道を間違えてしまい、少し大回りしてしまいましたが、美深駅から1時間ほどで初野駅に到着しました。 初野駅の周囲は民家もまばらな稲作地帯でしたが、何かの工事がこの先で行われていたようで、 大型ダンプカーが駅横の踏切を頻繁に通過していきました。 待合室隣の駐輪スペースには1台の自転車が止められており、この駅にも利用者がいることが伺えます。 |
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紋穂内駅へは、国道経由ではなく、東側の丘越えコースで行くことにしました。 途中で大型車が行き交う道路を離れると、車通りはぱったりと途絶えました。 これ以降紋穂内駅に着くまでにすれ違った車は10台もなかったような気がします。 丘の上は、一面の畑作地帯となっており、わずかに民家が点在する程度でした。 紋穂内駅に向かう途中で放し飼いにされてる馬の一団に出会いました。 この馬たちは、私が一団の前を通り過ぎると私についてきました。やはり、歩く人は珍しいのかも知れません。 丘を越えるとまもなく紋穂内駅にさしかかります。 駅前とはいえ民家はまばらです。かつては、もっと民家があったのかも知れませんが。 紋穂内駅にさしかかる頃には、厚い雲が周囲を覆い、今にも雨が降り出しそうな天気となっていました。 駅のホームから北を見ると、雨が降る様子がくっきりと見えます。 来るぞ、来るぞ、と思っていると、まもなく雨がザーッと降り出しました。朝は青空も出ていたのに…。 幸い、雨は20分ほどでやんだので先に進むことにしました。 天塩川を渡り、国道40号に戻ります。このあたりの国道40号沿線は、畑や牧場が広がっています。 国道を2kmくらい進んだ道の駅で昼食をとることにしました。 道の駅には10台以上の車が駐車しており、この日最も多くの人を見かけました。 レストランで昼食を食べている間にも通り雨が降りました。天気はあまり良くなりません。 道の駅からは、ほぼ一直線の国道を進みます。周囲は相変わらず、畑や牧場が広がります。 恩根内大橋で天塩川を渡ると、恩根内の集落に入ります。 美深よりははるかに小さい集落ながら、生活感のあるまとまった集落であり、 名寄からの路線バスも恩根内駅まで1時間に1本程度走っています。 恩根内駅は集落の東端に位置していました。 小さな駅舎ですが、こぎれいな待合室にはテーブルと駅ノートがありました。 |
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集落東端にある道祖神に軽く手を合わせ、次の駅を目指します。 天塩川の堤防(?)に沿って進むうちに、雲行きはどんどん怪しくなり、次第に弱い雨が降り出しました。 このあたりは2〜3軒の牧場以外に民家のない牧草地帯です。所々荒れ地と化している場所もありました。 国道を離れてから豊清水駅に着くまでにすれ違った車は、空車となった通学バスと1台の乗用車だけでした。 豊清水駅の駅舎は、待合室と保線拠点が一体化しています。 ただし、この駅は無人駅とはいえ、発券窓口がブラインドで降ろされているだけで、 他の無人駅のように、板で塞がれてはいませんでした。窓口にはエゾリスの剥製が置いてありました。 駅を撮影していると、札幌行きの特急列車が通過していきました。 |
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豊清水の駅前には、民家はありません。 …いや、正確には「かつては民家がありました」というのが正しいのかも知れません。 駅前には、凄まじいまでの廃墟が立っています。雪の重みで屋根が潰れてしまったのでしょうか。 このあたりがいかに厳しい場所であるかを思い知らされる光景です。 豊清水から先を目指し、今日の目的地・天塩川温泉を目指します。 駅から少し進んだところで小さな川を渡り、音威子府村に入ります。 村境周辺ということもあり、国道に入ると上り坂に入ります。もちろん歩道なんてありません。 私の横を自転車に乗った一団がゆっくりと追い抜いていきます。 上り坂では、歩く人よりも自転車に乗る人の方が体力的に厳しいのかも知れません。 霧雨が降りますが、歩道のない国道上です。傘をささず、レインウェアだけ着込んで進みます。 ![]() 「森と匠の村」を掲げる音威子府村らしい演出です。 よく見ると、夜はライトアップもできるようです。 トーテムポールの角を左に折れ、しばらく進むと宗谷本線の踏切にさしかかります。 踏切との交点に天塩川温泉駅がありました。 天塩川温泉駅は、「温泉」という名前がつきますが、板張りホームの無人駅です。 天塩川温泉へはこの駅が最寄りですが、 この駅を利用するのは、地元周辺の利用者や 普通列車に乗り慣れた旅行者が中心で、 村の中心にある音威子府駅から無料の村民バス(村外の人が利用しても無料)で 天塩川温泉に向かう人も多いようです。 ここまで来れば天塩川温泉はすぐそこです。 止若内(やむわっかない)橋で天塩川を渡るころには、 目の前に白っぽい2階建ての建物が見えてきます。これが天塩川温泉です。 天塩川温泉は、現在は宿泊もできる住民保養センターとして営業していますが、 歴史をたどると大正期までさかのぼることができる、北海道では古い部類に入る温泉のひとつです。 また、同時に音威子府村では数少ない宿泊施設の一つで、 村内でイベントがあると天塩川温泉が宿泊施設として使用されることが多いようです。 村の中心にある高校の入学試験前日に宿泊しようとしたときは、 「シングルなら大丈夫ですが、あとは満室です」と言われたこともありました。 夕食には、音威子府名物の「黒いそば」が出てきました。 この黒さの理由は、そば殻ごと粉にしてそばの麺を作っていることによるそうです。 夕食を食べて、自室のベッドで横になると、あっという間に眠りに落ちてしまいました。 明日は、最大の難所、音威子府−佐久間の無人地帯に挑みます。 |
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