1796年―ライン戦線



(ナポレオンによる1796年のドイツ戦役に関する解説はこちら


・カール大公登場

 フランス側では3月25日にモローがピシュグリュの後任としてライン軍指揮官に任命。彼は4月に司令部に着任した。一方のオーストリア軍ではクレアファイトが年初に辞任し、カール大公が後を継いだ。1月1日に発効した休戦の間、オーストリア軍は軍の再編を進めており、フランス軍は弾薬や補給の不足で計画していた攻勢開始が遅れていた。先に攻撃をしかけようとしたカール大公だったが、ボナパルトの進撃に対応してライン河上流にいたヴルムゼルが3万人(2万5000人の説もある)の部隊を連れてイタリアへ向かうことになったため前進を中止。逆に6月にはジュールダンのフランス軍が攻撃を再開した。

・前哨戦

 カール大公はライン河に14万5000人の兵を集め、うち5万人はライン上流のモローと相対し、7万人がマインツの東に集結してジュールダン麾下の7万人の部隊と対峙していた。ジュールダンの北翼2万2000人(2万1000人の説もある)を率いるクレベールはデュッセルドルフにあるライン河橋頭堡を5月31日夜に出発。南にいるヴュルテンブルク公の部隊2万4000人へ向けて接近した。4日にクレベールはオーストリア軍主力をアルテンキルヒェンで攻撃。中央をルフェーブル、側面をスールトとネイの率いる部隊で攻撃した彼はオーストリアをフライリンゲンへ退却させた。参加兵力はフランス軍1万1000人、オーストリア軍6500人で、オーストリア軍は1500人(3000人の説もある)と大砲12門(10門の説もある)が捕まった。クレベールの素早い追撃に加え、フランス軍の増援部隊がノイヴィート及びボンでライン河を渡河したのを知ったヴュルテンブルク公は、6月9日にはラーン河南岸へ下がった。

 カール大公はマインツ南東から増援を率いてラーン河沿いの戦場に到着し、ジュールダンは7万人の軍勢をラーン河北岸に集めた。6月半ばに両軍はラーン河に沿った80キロメートルの前線で対峙。15日にオーストリア軍右翼のヴェルネックがまずヴェッツラーで渡河し、ルフェーブル師団1万1000人を打ち破った。オーストリア軍は3万6000人が参加し、損害はフランス軍500人、オーストリア軍400人だった。16日にヴェルネックはグライフェンシュタインへ前進し、カール大公の他の部隊もさらに西方でラーンを渡った。ジュールダンはモローのライン軍がライン河を渡る時間は十分に稼いだと判断し、彼の右翼と中央を後退させた。17日夕方(18日朝の説もある)にジュールダンの主力はノイヴィートでライン西岸へ退いた。

 しかし、デュッセルドルフ方面への後退を命じられていたフランス軍左翼のクレベールは17日、ボンへ退却する途上のウケラートで停止。19日にはオーストリアのクライ将軍麾下の1万4000人がウケラートの南方にいたクレベールの部隊に襲い掛かった。クレベールはネイやリシュパンスの率いる騎兵を先頭に反撃に出たが、クライの逆襲を受けて後退を余儀なくされた(反撃は20日朝という説もある)。フランス軍は22日にはデュッセルドルフへと戻ってきた。ウケラートの戦いの参加兵力についてはフランス軍2万4000人、オーストリア軍3万人で、損害はフランス軍3000人、オーストリア軍600人との説もある。

・モローの前進

 ライン上流を任されていたオーストリアのラトゥールは6月8日からライン西岸の部隊を引き上げ5万人の兵をマンハイム橋頭堡の背後に集めていた。6月14日、モローは自ら率いる4万人の兵と、ヴォージュ及びザールからきた兵5万2000人(ドゼーとグーヴィオン=サン=シールが指揮)を橋頭堡攻撃のため集めて橋頭堡への攻撃を実施。だが、ジュールダンのラーン河からの退却を知ったモローは方針を変更。攻撃目標を南方に定め、20日(22日の説もある)にはケールとガンプスハイムでの渡河をカバーするためマンハイムで敵を牽制する動きを見せた。その間、23日に渡河部隊はストラスブールに到着。24日未明から渡河が始まり、早朝にはフランス軍前衛部隊がライン河東岸へ進出。ドゼーはオーストリア軍を奇襲して簡単にストラスブール対岸のケール要塞を奪った。この戦闘にはフランス軍1万人、オーストリア軍7000人が参加し、損害はフランス150人、オーストリア700人だった。

 6月24日遅くにモローの渡河を知ったラトゥールだが、敵の牽制を警戒したためモローの行動を遮るため送り込んだのはスタライ将軍麾下の1万7000人だけだった。スタライがキンツィヒ川の防衛線についた26日にはモローは3万4000人をライン東岸に送り込んでいた。27日、連合軍の中央にいるヴュルテンベルクとバーデンの兵1万2000人を攻撃するためフランス軍はキンツィヒ河両岸を遡った。攻撃の一部は失敗したものの、28日にはドゼーの2万5000人がヴィルシュテット(レンヒェン)でオーストリア軍(9000人の説もある)左翼を迂回。スタライは1800人の損害(1400人の説もある)を出して北東へ退却しレンヒ河後方へ退いた。フランス軍の損害は200人だった。モローがライン上流で攻撃に出たため、カール大公は2万5000人の兵を率い急いで南下した。

 モローは兵を3つの部隊に再編。左翼をドゼー、中央をグーヴィオン=サン=シール、右翼をフェリノに任せてドイツへの前進を始めた。ラトゥールはムルク河へ後退し、7月4日にはラシュタットとゲルンズバッハの間に1万8000人の部隊を集結させた。カール大公の2万5000人の増援はまだ到着していなかったが、ラトゥールは防御に有利な地形を諦めるより戦うことを選んだ。モローは5日にドゼーの部隊で攻撃を開始。ゲルンズバッハにいるオーストリア軍左翼を後退させ、ついでクッペンハイム周辺のオーストリア軍中央を叩き、3時間の戦闘のすえムルク河対岸へ退却させた。ラシュタット付近のフランス軍左翼は強力な砲兵と騎兵に支援されたオーストリア軍相手に苦戦したが、夕方には街の南にある森を奪った。ラトゥールは夜を徹して20キロメートル退却した。ラシュタットの戦いに参加したのはフランス軍2万500人、オーストリア軍6000人という説もある。損害は双方500人だった。

・ドナウへの退却

 カール大公は退却してきたラトゥールの部隊と合流し、ミュールベルクとエトリンゲンの間に防衛線を敷いた。その兵力をほぼ4万人で、半数近くが騎兵だった。グーヴィオン=サン=シール部隊の到着によって6万5000人に増えたモローのフランス軍は7月9日にオーストリア軍に攻撃をしかけた。サン=シールは連合軍左翼をアルプ河からゲルンズバッハへ後退させたが、ドゼーによる中央部への攻撃はマルシュ村を巡っての激しい争いとなり、村は何度も持ち主を変えたものの夜が来た時点ではオーストリア軍が確保していた。戦闘に参加したのはフランス軍3万6000人、オーストリア軍3万2000人で、損害はフランス軍2400人、オーストリア軍2600人の説もある。カール大公は12日、マンハイムとフィリップスブルクとシュトゥットガルトに守備隊を残し、ドナウ河へ退却すべくプフォルツハイムへ向かった。モローは積極的に追撃しなかった。

 モローがキンツィヒ河で勝利を収めた後、フェリノ将軍率いるフランス軍部隊は主力と別に南東へ進みキンツィヒ河とエルツ河の間に部隊を展開していたフレーリヒのドイツ軍を目指した。7月14日、彼はハズラッハ付近の連合軍中央を攻撃し、この部隊をシュヴァルツヴァルトへ追い払って連合軍の側面部隊も退却させた。フレーリヒはカール大公の命令に従い、ドナウ河へ退却した主力に合流すべく後退。一方のフェリノは南方のボーデン湖方面へと前進した。カール大公がヴュルテンベルクとバーデンを放棄したために両国は7月下旬にかけてフランスと講和を結んだ。

・危機

 カール大公がモローに対応すべく南下したのに乗じてジュールダンが二度目の渡河攻撃を実施した。6月下旬から7月初旬に彼の部隊はデュッセルドルフ、ノイヴィート、ケルンから前進し、マインツ北方に散開しているヴァルテンスレーベンの7万人に接近してきた。数で劣るヴァルテンスレーベンは7月10日にフリートベルクで反撃したがこれは失敗。ラーン河からロスバッハ方面へ後退した。この戦いにはフランス軍3万人、オーストリア軍6000人が参加し、損害はフランス軍700人、オーストリア軍1000人だった。ヴァルテンスレーベンは12日にはさらにマイン河南岸へ退却した。4日後にジュールダンはフランクフルトを占領。ヴァルテンスレーベンは東へ退却し、フォルヒハイムへ向かった。

 フランス軍はエーレンブライトシュタインやマインツを包囲するための部隊を後方に残さねばならなかったため、オーストリア軍の追撃に当たる兵力が次第に減少していった。それでもフランス軍は22日にはヴュルツブルクやシュヴァインフルトに、8月4日にはバンベルクに到着。東方へと退却を続けていたヴァルテンスレーベンだが、ここでカール大公の命令に従って退却路を南方へと変えた。7月末にジュールダンが病気になったために臨時に指揮権を受け持ったクレベールは8月7日にフォルヒハイムのオーストリア軍を攻撃。オーストリア軍右翼にはルフェーブルが、左翼にはシャンピオネとベルナドットが向かう一方で、コローが中央のフォルヒハイムを攻撃し、ネイの前衛部隊が町を取った(フォルヒハイムを奪ったのは8日との説もある)。中央で後退を強いられたヴァルテンスレーベンは全軍をアンベルクとスルツバッハへ退却させたが、フランス軍はこれを追撃し11日(18日の説もある)にアンベルクに到着した。ヴァルテンスレーベンは再度退却。8月20日、ナープ河東岸まで下がったところでようやく止まり、味方の増援を待つかたちになった。

 ドナウ河ではカール大公がプフォルツハイムを捨ててさらに東へ後退。7月15日にはモローがプフォルツハイムを占領した。カール大公は8月3日にネルドリンゲンに司令部を構え、5万5000人の兵力をドナウから北へ伸びる防衛線に配置した。モローのフランス軍が戦線中央にあるネレスハイムに近づき、ネルドリンゲンへ通じる道路を確保したため、カール大公は8月10−11日の夜に両翼から集めた兵を6つの部隊にまとめて反撃に投じた。11日早朝から始まった攻撃は、計画の複雑さに加えて雨のために勢いがなく、モローは予備部隊をオーストリア軍の攻撃に対応するため送り込むことができた。フランス軍は左翼が後退を強いられたものの中央ではネレスハイムを確保し、右翼エグリンゲン付近ではグーヴィオン=サン=シールがオーストリア軍の攻撃を繰り返し撃退した。ただし、最右翼のドナウ河沿いではデュエームが大損害を受けて壊走した。モローが翌朝の反撃を準備している間に、カール大公は攻撃を諦めて後退した。モローはここでもオーストリア軍を追撃しようとしなかった。この戦闘にはフランス軍5万人、オーストリア軍2万人が参加し、損害はフランス2400人、オーストリア1600人だった。

・アンベルクの戦い(1796年8月24日)

 カール大公は8月13日にドナウ南岸へ退却した。彼はモローが自分の部隊に続いてドナウ南岸へ渡るだろうと予想していた。そうなればモローとジュールダンとの間にドナウ河という障害物が挟まり、フランス軍は互いに協力できない状態になる。その上でカール大公は主力を率いて北上し、ジュールダンを叩く計画を立てていた。神聖ローマ帝国の他の諸邦が和平交渉を主張する中、カール大公は反撃の機会を窺っていた。

 モローは8月14日にドナウ河方面へと南下を開始した。一方、ジュールダンがモローの部隊よりはるか東に突出しているのを知ったカール大公はついに攻撃を決意。17日に2万8000人の部隊を率いてノイブルクとインゴルシュタットの間でドナウ河を再渡河し、ヴァルテンスレーベンと合流すべく北上した。ドナウ南岸ではラトゥールの3万6000人が残って防勢を敷いた。カール大公は22日にタイニング[ダイニング]でベルナドット師団6000人(9000人の説もある)を打ち破り、アンベルクへ前進。ベルナドットは北方のフォルヒハイムへ下がった。大軍の接近を知ったジュールダンは8月23日夜にナープ河からアンベルクへ退却し、広く散開していた部隊の集結を図った。24日、オーストリア軍はヴァルテンスレーベンが正面から攻撃する間にクライ師団が東から回りこんでスルツバッハへの退路遮断を狙い、西からはカール大公がフランス全軍の包囲をもくろんで機動した。数で圧倒されたフランス軍は、ネイがクライの騎兵に抵抗して確保していたスルツバッハへの退路を通って退却した。アンベルクの戦いにはフランス軍3万4000人、オーストリア軍4万人が参加。損害は双方4000人(フランス2000人、オーストリア400人の説もある)だった。カールはその後数日フランス軍右翼を迂回するように前進を続け、ジュールダンは28日(27日の説もある)に孤立していたベルナドットの部隊とフォルヒハイムで合流し北西へと退却を続けてバンベルクまで下がった。そこで立ち止まって戦闘するかどうか検討した後、ジュールダンはオーストリア軍前衛に激しく追撃されながらシュヴァインフルトへと退却を続けた。

・ヴュルツブルクの戦い(1796年9月3日)

 ジュールダンが疲労しきった4万人を率いてシュヴァインフルトへ到着したのは8月31日。しかし9月1日にはオーストリア軍左翼のホッツェ将軍が南西にあるヴュルツブルクへ進み、マインツを包囲しているマルソーの部隊とジュールダンとの連絡を絶った。政府からの圧力を受けたジュールダンは敵の位置もよく分からないままヴュルツブルクへの攻撃を決断する。彼はヴュルツブルクにいるのはオーストリア軍の左翼だけだと思っていた。ルフェーブル師団を後衛としてシュヴァインフルトに残し、ジュールダンは2日にシモンを前衛とした3万の兵で前進を始めた。既にヴュルツブルクはホッツェが占領しており、フランス軍守備隊は街中の城砦に立てこもっていた。一方のカール大公はシュヴァインフルトとヴュルツブルクを結ぶ道沿いの深い森に位置したホッツェに対して既に増援を送り込んでおり、前進するフランス軍を包囲すべくクライの部隊をはるか右翼に展開させた。オーストリア軍の兵力は4万4000人だった(戦闘に参加したのは1万7000人との説もある)。9月3日の戦闘は霧の中で始まり、両軍は目標を確認しないまま大砲を撃った。カールはシャンピオネ麾下のフランス軍左翼に対してクライを前進させた。数で劣るフランス軍騎兵が一掃され、ジュールダンはシュヴァインフルトのルフェーブルに至急の増援を要請した。その間にホッツェは街への弱い攻撃を追い払った。午後半ばにカール大公はヴァルテンスレーベンの予備部隊をフランス軍左翼に投じ、壊走したフランス軍は残された退路である北西アルンシュタインの方角へ逃げた。フランス軍の損害は2000人(3000人の説もある)でオーストリア軍は1500人。

 ジュールダンはオーストリアの追撃をどうにか逃れて9月9日にはラーン河北岸まで戻った。6月14日からマインツを包囲していたマルソーはオーストリア軍の接近に伴って9月7日(8日の説もある)に包囲を放棄。10日にはラーン河下流でジュールダンと合流した。オーストリア軍は16日にラーン河に対して攻撃を開始。クライがフランス軍の左翼を回りこむように見せかけたうえで、カール大公の主力がフランス軍右翼を守るマルソーを攻撃した。彼の部下が勝手に退却したためマルソーは17日にラーン河の防衛線を諦めて退却を始めた。20日にジュールダンの右翼はボンとノイヴィートでライン河西岸への退却を始めた。この退却戦の途中でマルソーが重傷を負い、やがて死亡した。

・モローの後退

 一方のモローはカール大公が8月17日にドナウ北岸へ向かったことを知りながら特に対応を取ることなく、19日にディリンゲンやドナルヴェルトでドナウ南岸へ渡った。彼はそのまま東方へ進み21日(20日の説もある)にはウルムとミュンヘンの中間にあるシュムッター河まで前進した。22日にはライン河渡河以来、大きく南下してアルプスの麓沿いに東方へ進んでいたフェリノのライン軍右翼部隊がようやくモローの主力部隊と合流した。

 23日、カール大公が軍の大半を率いて北へ向かったことが確実となった段階で、モローは部下を集めて今後の方策を検討。ジュールダンを支援するため24日にラトゥールに対して攻撃をしかけた。フェリノによる側面攻撃の成功によりフリートベルク付近のラトゥール軍中央は孤立。オーストリア軍はドゼーに退路を断たれる直前にイーゼル河へ後退した。フランス軍は4万人、オーストリア軍は2500人が参加し、損害はフランス軍400人、オーストリア軍1800人だった。ラトゥールはドナウ河へ向けて北上し、自軍の右翼とカール大公が増援として残しておいたナウエンドルフの1万人と合流した。しかし、モローは再び前進速度を落とした。フェリノが行って失敗に終わったミュンヘンの橋確保の試みを除いて彼はイザール河東岸に前進する努力をせず、ジュールダンのアンベルクでの敗北という噂の確認を優先した。9月10日、ドイツの新聞によってジュールダンの敗北が確認されるとモローは攻勢を諦めてライン河への退却を始めた。

 カール大公はジュールダンをライン河東岸からほぼ追い払った段階で、モローの退路を断つべく1万6000人の部隊を率いて南下した。一方のモローはラトゥールのゆっくりとした追撃を受けながら9月下旬にはビベラッハでリス河を渡った。ラトゥールの両側面部隊が接近してくるのに気付いたモローはビベラッハ東方にいるラトゥールの中央を攻撃すべく足を止めた。10月2日朝、モローの4万人(3万9000人、3万5000人の説もある)はラトゥールの2万3000人(2万6000人、1万5000人の説もある)を攻撃。ドゼーは弱体なオーストリア軍右翼を圧倒してビベラッハに突入し、4000人の捕虜を得た。ラトゥールは夕方には残りの部隊を救出し、夜の間にリス河から後退した。損害はフランス軍500人、オーストリア軍は捕虜を含め4300人だった。だが、依然としてモローの北には2万のオーストリア軍がドナウ河沿いに展開して彼の側面を脅かしていた。

・モロー脱出

 モローはシュヴァルツヴァルトへの退却を続け、10月13日にはフライブルクへ戻った。北側から回り込んで退路を断とうとしたカール大公の行動は失敗し、モローはライン左岸との連絡を回復した。フライブルク北方でナウエンドルフやラトゥールと合流したカール大公麾下の2万8000人(2万4000人の説もある)は19日、モローの3万2000人(3万8000人の説もある)が北方へ前進すべくエルツ川へ移動している際に攻撃をしかけた。激しい雨の中、湿地帯で戦闘が行われた。オーストリア軍右翼はドゼー相手に成果を上げられなかった。だが、フランス軍中央はエメンドリンゲンから追い出され、ヴァルトキルヒ付近の右翼部隊もグーヴィオン=サン=シールによる反撃で戦線崩壊を遅らせるのが精一杯だった。オーストリア軍で実際に戦闘に参加したのは1万人で、損害はフランス2800人、オーストリア1000人だった。モローは夕方にエルツ川を渡って南へ退却。翌日、さらに右翼を大きく突破されたモローはドゼーの左翼部隊をアルト=ブライザッハ経由でライン左岸へ退却させる一方で、残りの部隊を率い22日に40キロメートル南方のシュリーンゲンへ移動した。

 モロー麾下の3万2000人はシュタインシュタット東方からカンデルン付近の丘まで15キロメートルに及ぶ陣地を確保。カール大公麾下の3万6000人は10月23日(24日の説もある)にフランス軍全戦線に攻撃をしかけた。朝のうちにシュタインシュタットは奪ったものの、中央での成功はその後活用されることなく、強力なフランス軍右翼は頑強に抵抗を続けた。夕方早い時間に雨が霧にかわり、戦闘は終了。オーストリア軍で実際に戦闘に参加したのは2万4000人で、損害はフランス1200人、オーストリア800人だった。モローは夜の間に退却し、26日には最後の部隊がフンニンゲンでライン河を無事に渡河した。

 イタリアにいるボナパルト麾下のフランス軍への増援を考えた総裁政府はオーストリアに対してライン方面での休戦を申し出たが、オーストリアはこれを拒否。フランス側ではサンブル=エ=ミューズの指揮官ジュールダンが辞任し、ブールノンヴィルが9月22日から指揮を取った。10月21−22日にはフランス軍が確保しているノイヴィートの橋頭堡をオーストリア軍が攻撃したが、クレベールによって撃退された。一方、ライン軍の橋頭堡であるケールとフンニンゲンもまたカール大公によって包囲された。11月22日にはフランス軍1万9000人がケールから出撃を試みたが、3000人の損害を出して退却した。


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