ヴュルツブルクの戦い 1796年9月3日



(以下の文章はMagWebに掲載されているDave Hollinsの"The Battle of Wurzburg: Decided by Cavarly"を翻訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


 多くのナポレオン狂にとって、1996年はナポレオンの第1次イタリア遠征200周年記念の年として記憶されている。だが、その年(1796年)の主人公であったオーストリアとフランス共和国にとって、最も重要な戦場は革命戦争の中で最初の大規模なフランス軍の侵攻を受けようとしているドイツだった。厳しいことに神聖ローマ帝国の諸侯はハプスブルクの皇帝を支援しようとする意思に欠けている事実をすぐに示した。フランツ2世の軍は当初、フランス軍のライン河を越えての前進も、それに続く蹂躙も止めることが出来なかった。10年後、神聖ローマ帝国は崩壊した。

 ヴルムゼルがイタリアで敗北した部隊を増援するために出発した後、ライン河沿いのオーストリア全軍は24歳半のカール大公に指揮されることとなった。彼はシュミット大佐やマイヤー大佐を始めとした有能な幕僚に支援されていた。カールが元々指揮していた低ライン軍は8万人の兵から成っていたが、ラトゥール率いる南方の高ライン軍は5万5000人にまで減っていた。彼らはジュールダン麾下のサンブル=エ=ミューズ軍(7万8000人)とモロー麾下のライン=エ=モーゼル軍(7万6000人)という2つのフランス軍と対面していた。1796年6月及び7月前半に行われたライン河沿いでの一連の衝突の後で、カール大公はヴァルテンスレーベン率いる右翼部隊(3万5000人)から離れ、ジュールダンが中央ドイツを通って前進するのを妨げるためライン河沿いの要塞に2万人の兵を残してモローと対しているラトゥールを増援しようとした。

 当初、オーストリア軍はカール大公とラトゥールの下でしっかりとした後退を行い、8月1−3日にはドナウ河南岸への渡河をカバーするためにモローを相手にネレスハイムで時間稼ぎの戦闘をした。モローが手探りするように前進している間にカール大公は後退を続けるラトゥールのために3万5000人の兵を残し、彼自身は残る2万8000人の兵を率いてヴァルテンスレーベンと再合流すべくドナウ河を北岸へ渡った。合流した部隊は8月24日にアンベルクでジュールダンを叩き、フランス軍を手酷く痛めつけたが多くは罠を逃れ北へ退却した。その間、ラトゥールは大敗してミュンヘンへ押し戻され、大公はその救援のため29日に1万人の部隊を派遣しなければならなかった。カール大公の直接指揮下に残された部隊は歩兵55個大隊、騎兵132個スコードロンの計5万人弱で、ヴァルテンスレーベン大将(Feldzeugmeister)、スタライ中将(Feldmarschalleutnant)、クライ少将及びホッツェ少将が部隊を指揮していた。

・追撃

 モローと戦うために南方へ移動する前に決定的な勝利が必要であることを知っていたカール大公はジュールダンの追撃継続を決定した。大公の主力がフランス軍をレグニッツへ追跡する間に、ホッツェはバンベルク−ヴュルツブルク道路を確保するため北西へ向かった。主要道路から追い出されたジュールダンはマイン河の北シュヴァインフルトへと退却した。フランス軍主力の様子を監視するためエルスニッツ准将(Generalmajor)の師団(歩兵5個大隊と騎兵17個スコードロン)を派遣したうえで、大公の率いる部隊の大半はバンベルクを占拠し、さらにヴュルツブルクを奪回するため西方へと街道を進んだ。ヴュルツブルクの街はその地域で重要な交差点を押さえているため、戦役の初期段階におけるこの街の失陥は帝国軍に深刻な影響を及ぼしていた。守備隊1個大隊と他の支援用の部隊(計800人)を街に残していたジュールダンもまた、この街の重要性に気づいていた。双方とも次の本格的な衝突がこの街の周辺で生じるのは避けられないと考えていた。

 9月1日、カール大公はホッツェとスタライの部隊にキッツィンゲンの橋でマイン河を渡らせ、そこからヴュルツブルクへと前進した。キーンマイヤー准将の兵(歩兵2個大隊と騎兵4個スコードロン)はフランクフルトへの主街道を遮断するためリンデバッハで再度マイン河を渡った。同時にホッツェは街の郊外を歩兵6個大隊と騎兵9個スコードロンで攻撃。街の住民は門を開き、フランス軍大隊は要塞の中へ退却した。スタライの部隊(歩兵13個大隊と騎兵33個スコードロン)も続いてキッツィンゲンの橋を渡り、そしてホッツェの東方にあるレッペルンドルフの丘へ移動し、マイン河東方からシュヴァルツァッハを経由して前進してくるカール大公の移動をカバーした。

 ジュールダンはモローがカール大公に圧力をかけると考え、また彼自身が直面しているのはオーストリア軍の左翼に過ぎないと信じていた。彼は9月2日に東西を結ぶ主要街道を奪回するためシュヴァインフルトから南下することを決断した。ルフェーブルの師団1万2549人が北方へのルート確保のためシュヴァインフルト付近に残った。この師団に対応して北方に残ったオーストリア軍はエルスニッツ准将の部隊であり、結果としてこの戦役唯一の大規模な本格戦闘に参加したのはフランス軍の3万人に対してオーストリア軍が歩兵3万1000人、騎兵1万3000人だった。

 ジュールダンは2日早くにボノーの予備騎兵と1個軽騎兵スコードロンをシュヴァインフルトから派遣し、その日の朝のうちにこの部隊はヴュルツブルク郊外に到着した。そこではすでにホッツェの2個オーストリア歩兵大隊が街の守備についており、残りの部隊は東方の小高い地域に展開していた。フランス軍守備隊は未だに要塞を確保していた。

 最初のフランス軍部隊(ベルナドット師団だがベルナドットが病気だったためシモンが指揮していた)が正午ごろにレングフェルト付近に到着して支援できるようになった段階で、フランス軍は恐ろしい強襲を仕掛けた。守備隊による急襲と協力したこの攻撃はオーストリア軍をシュタインベルクとクルナッハ谷から追い払ったが、ホッツェの兵はガルゲンベルクと街の郊外にしがみついていた。その後、午後3時からこの小高い地域の間で砲撃戦が夜まで続き、双方の歩兵による一連の襲撃が行われたが、いずれも敵の戦線にたどり着く前に退けられた。その間、スタライは彼の部隊をレッペルンドルフの丘に動かした。リヒテンシュタイン准将率いるスタライの前衛部隊(軽歩兵3個大隊と騎兵16スコードロン)はビベルガウ、オイエルフェルト、エルゼルドルフ村周辺のエステンフェルトの丘に至り、その左翼でホッツェの前哨部隊と接続した。ベルナドット師団はレングフェルト全面の丘に陣を敷き、歩兵2個大隊と騎兵2個スコードロンをシュタインベルクに配置した。

 ジュールダンは彼の主力からさらに2個部隊をシュヴァインフルト街道を通じて北方から前進させた。彼は未だにホッツェとスタライの部隊とだけ対峙していると考えていた。シャンピオネは右翼をヴュルツブルク−シュヴァインフルト街道に置き左翼はクルナッハの背後まで伸ばした。彼はクルナッハを攻撃するよう命じられていた。オイエルフェルトを攻撃したクライン麾下の騎兵部隊に支援されながら、シャンピオネはオーストリア軍をクルナッハから追い払い、近くの小川沿いに防衛線を敷いた。その間、彼の騎兵部隊は、より行動しやすいマインブリュン付近まで下がった。この地域では軽歩兵による散兵戦が午後6時まで続いた。

 グルニエが率いる後続の部隊は夜の間にオーベル=ブライフェルトとウンター=ブライフェルト周辺の場所を占めた。彼らと、今やベルナドット師団の背後に位置しているボノーの騎兵とを主な予備にすると考えたジュールダンは、数的優位が期待できる翌日の戦闘を楽しみに待った。

・オーストリア軍主力の行動

 だが、実はオーストリア軍主力はホッツェとスタライを支援するために移動していた。カール大公は2日、彼の2個師団に対してマイン河東方25キロメートルにあるオーベル=シュヴァルツァッハ付近で一日休養するよう命じていた。しかし、その日の午後の間にジュールダンの移動について情報を得たカール大公は、バンベルク街道に沿って行軍縦隊でクライとヴァルテンスレーベン(予備部隊)を動かし始めた。その日シュヴァルツァッハにあるカール大公の司令部からスタライに出された命令によると、主力軍は3日午前10時ごろに到着するとあった。さらに3日午前5時に出された命令では、スタライに対して自軍が十分強力だと思うなら攻撃し、そうでなければ主力を待つようにと命じていた。

 主力軍の兵が布陣できるようにスタライは2日夕方の間に彼の部隊を西方へシフトさせていた。9月3日早朝は濃い霧が辺りを覆い、視界は数フィートしか効かなかった。双方の偵察部隊がしばしば互いの陣地に踏み込んでいたが、主力の前進を隠すという点でこの霧はオーストリア軍にとって有利だった。マイン河屈曲部周辺の地形はほとんど平坦だが、ヴュルツブルクのある西半分はより地形が小高く谷や小川のため起伏に富んでいるため、騎兵にとっては東半分の方がより活動しやすかった。土地の大半は畑でその中に小さな森が点在しており、谷間には小さな村々があった。丘の大半はブドウ畑だった

 フランス軍陣営の騒音や移動などから、スタライは増援が到着する前の3日早朝から攻撃があると確信した。前日に建設したシュヴァルツァッハ仮設橋を守るために2個大隊を残し、スタライは左翼をレングフェルト東方の丘に集結させた。そこはベルナドットの先頭部隊の正面だったが、フランス軍はオーストリア軍の存在にすら気づいていなかった。彼はホッツェの右翼と連携するため、あるいは少なくともフランス軍の攻撃を遅らせるために前進を計画した。当初は防勢的に布陣したホッツェに左翼を支援されながら、スタライは歩兵6個大隊、騎兵10個スコードロン、大砲12門をレングフェルトへ差し向けた。同時にカイム准将(擲弾兵3個大隊、ユサール2個スコードロン、大砲4門)はエステンフェルト森を通って移動し、リヒテンシュタインはクルナッハとオイエルフェルトの間を行軍した。午前3時に宿営地を出発し、スタライの兵は霧に隠れ音を立てないようにしながら前進した。

・夜明けの霧

 霧が上がる夜明け(午前8時ごろ)には、彼らはレングフェルトに接近していた。完全な奇襲を受けたフランス軍はホッツェとスタライの部隊による攻撃に対して僅かな抵抗しか示さなかった。カイムの支援を受けてスタライは素早くレングフェルトの丘を占拠した。ジュールダンはベルナドット師団をクルナッハ川沿いの険しい谷間から撤退させ、シュヴァインフルト街道の背後に下がりエステンフェルトに左翼を置いた。シャンピオネの軽歩兵も同様に退却を強いられ、谷間とヴュルツブルクそのものは完全にオーストリア軍の支配下に入った。フランス軍の方が数的優位にあるためこれ以上の前進は不可能だと知っていたスタライは、レングフェルトの丘に大砲17門を配置して守りに入った。

 ジュールダンは素早く兵を集結させ、午前10時ごろには反撃を始めた。霧が晴れたためカール大公の部隊が東方から前進してくるのが明らかになっており、ジュールダンはスタライとカール大公の間に楔を打ち込もうとした。シャンピオネの部隊はカイムの小規模な部隊(スタライの右翼)を圧倒し、エステンフェルト森を奪回してカイムをラントライテン川の背後にある丘まで押し返した。その間、7回に及ぶ襲撃の末にベルナドット師団はオーストリア軍をレングフェルト村から一掃したが、その東方にある大砲の場所へは到達できなかった。オーストリア軍歩兵はロッテンドルフ付近の丘まで後退を強いられ、その間に砲兵の支援を受けたフランス軍騎兵はオイエルフェルトへ突進し、リヒテンシュタインの兵を追い散らした。

 以上のオーストリア軽歩兵部隊が退却した正午ごろに、スタライの予備歩兵部隊が到着しフランス軍の進撃を止めて戦線を安定させた。シャンピオネがオーストリア軍右翼に切り込み、シモン(ベルナドット師団)が戦線を安定させたのを見たジュールダンは、今こそ予備部隊を投入しオーストリア軍の戦線を打ち破るのに絶好の機会だと考えた。ボノーの予備騎兵はシャンピオネの左翼を回りこみ南方ロッテンドルフへ転回してオーストリア軍後方へ移動するよう命じられた。グルニエの部隊は第二波として砲兵の砲撃に支援されながらゼーリゲンシュタットを通って移動することになった。

 濃い霧はカール大公の主力部隊の行軍を遅らせただけでなく、オーストリア軍の架橋作戦まで混乱に陥れた。仮設橋は前日のうちにシュヴァルツァッハに架けられていた。しかし、デッテルバッハ西方4キロメートルの場所でマイン河を渡ろうとした第二の橋の建設は霧が上がるまで進まなかった。このため午前中のほとんどの間、シュヴァルツァッハの橋のみが使用可能だった。真夜中に宿営地を発したクライの部隊は予備部隊の先頭にたって早朝のうちにマイン河を渡る筈だった。カール大公が参謀とともにその朝到着した時、彼は僅かな軽歩兵以外のクライ部隊の大半が未だに左岸に残っているのを見た。スタライの厳しい状況を知っていたカール大公は、軍の移動がこれ以上遅れてヴュルツブルク近くにいる彼の兵が酷く危険になることを恐れた。兵たちをせきたてて渡河のスピードを上げることができたカール大公はスタライの部隊に向かい、午前11時半ごろにそこに到着した。

 彼の兵が致命的な圧力に晒されているのを見たカール大公は素早くクライのところへ戻りその前進を再調整した。クライは彼の騎兵(ユサールと竜騎兵計42個スコードロン)を午前10時過ぎに渡河させていたが、歩兵はまだ渡河中だった。大公は使える可能な部隊を決定的に無防備な右側面へ移動させることを決意した。クライは彼の部隊を北方のプロセルハイムへ転回させ、平坦な地域を通ってディップバッハへ向かった。そこからなら彼はグラムシャッツ森周辺にいるフランス軍左翼(グルニエ)を攻撃しシュヴァインフルト街道を遮断できる。しかし、歩兵14個大隊が渡河を終了するのは正午過ぎになりそうだった。その間、ヴァルテンスレーベンは午前10時ごろにデッテルバッハ橋に到着したが、その橋は歩兵と運搬車で充満していた。

 彼の部隊をスタライ部隊の中央右へできるだけ早く移動させるよう命令を受けていたヴァルテンスレーベンは、数時間で渡河を完了するのは無理だと知っていた。かつてオーストリア軍の北翼を指揮していた時の遅れがちな行動とは対照的に、ヴァルテンスレーベンは彼の重騎兵24個スコードロンを率い、一部は浅瀬を通り一部は泳ぎながらマイン河を渡った。そしてヴェルネック少将麾下の擲弾兵12個大隊が橋を使っている間にヴァルテンスレーベンはビベルガウへ向かった。

・正午時点の決断

 正午前後のこの重要な時点で、ジュールダンはグルニエとボナーを南方ロッテンドルフへ向かわせる準備をしていた。しかし、北方ではすでにグルニエ自身の戦線が圧力を受けていた。騎兵42個スコードロンに先導されたクライの部隊は今や北方プロセルハイムへの道を行軍し、オーストリア軍の右翼をジュールダンの左翼を攻撃しその背後を脅かせる場所まで展長しようとしていた。

 グルニエの部隊が南東に転回しその左翼をマイン河に置いてスタライを迂回しようと試み始めた午前11時から、クライの軽騎兵偵察部隊がグルニエ部隊と接触するようになった。正午までにはオーストリア騎兵の先頭部隊が平地に展開するようになり、グルニエの計画は1時間で破綻した。クライの主力がプロセルハイムへ移動するにつれて北方での戦闘は激しさを増し、ジュールダンは計画の再考を強いられた。平坦な土地でクライの騎兵を前にしてこれ以上の前進ができなくなったグルニエは、僅かにシャンピオネに歩兵1個連隊と竜騎兵2個スコードロン及びいくつかの軽騎兵を派遣することしかできなかった。

 その間、彼自身はオーベル=ブライフェルト周辺に防衛線を敷いた。シャンピオネも同様に前進することができず、オーストリア騎兵の注意を引かないよう歩兵を森や谷間に引きこもらせなければならなかった。彼の前面ではスタライの疲れきったオーストリア兵が、砲兵の見事な支援を受けて戦闘を継続していた。ただ、砲兵の弾薬消費量はすでに彼ら自身の補給を枯渇させ、さらにそれより倍の量があるすぐに使用できる予備の補給をも使い尽くしていた。

 グルニエの前衛部隊は午後1時ごろに僅かにオーベル=ブライフェルトに防衛線を築いたが、その時にはクライの兵がプロセルハイムからディップバッハへと移動しており、フランス軍のさらに左翼を未だに脅かしていた。ディップバッハ北西のハイリゲンシュタット森を守るために歩兵2個大隊と騎兵100騎を派出したところで、グルニエは彼の前衛部隊が激しい攻撃を受けているのに気づいた。グルニエは歩兵3個大隊と竜騎兵1個連隊を率いて村の右にある丘へ向かい、この最初のオーストリア軍の襲撃を止めた。しかし、彼はユサール2個スコードロンが彼の後方にたどり着き大砲5門を奪っていくのを妨げることはできなかった。南方ではヴァルテンスレーベンがオーストリア軍予備騎兵をオイエルフェルトとエルフェルドルフの間に行進させていた。グルニエの歩兵がクライの襲撃の前でしり込みしたとの報告を受けたジュールダンは、戦闘の潮目が変わったことに気づいた。

 彼は騎兵の大半(ベルナドット師団の騎兵の大半とボノー部隊)をシュヴァインフルト街道の背後に集結させることを決意した。この部隊をクライの軽騎兵を退却させたシャンピオネの左翼に合流させ、(シャンピオネの2個連隊とグルニエの竜騎兵連隊を合わせて)クライの左翼を攻撃するのが狙いだった。この攻撃は少なくともフランス軍の次第に危機的になっている左翼に対するオーストリア軍の前進を遅らせることはできるだろう。ルフェーブルに対して増援を送るよう取り乱した命令が出されたが、既にクライの騎兵がシュヴァインフルトへ通じる北東の道を遮断しているため無駄だった。エルスニッツの小規模な部隊との小競り合いに注意をそらされ、また彼の本来の役目であるライン河への連絡線維持を放棄する特別な命令を受けなかったルフェーブルは、砲声に向かって行進しなかった。

・騎兵の衝突

 この局面でのオーストリア騎兵による集団突撃がおそらく戦闘の行方を決めた。アンベルクでジュールダンを壊滅させるのに失敗したと気づいていたカール大公は、南方へ移動してモローと対峙するために決定的な勝利を欲していた。そこで彼は本格的な攻撃を始める前に彼の予備擲弾兵(ヴェルネック)の到着を待つことに決めた。だが、大公はフランスの軽騎兵(クライン)がクライに対して動こうと準備しているのを見た。予備的な措置として彼はリヒテンシュタインに、散開している軽騎兵16個スコードロンを平坦な地域に集めるよう命じた。その上で彼らはヴァルテンスレーベンの右翼に1列の横隊を形成した。主な騎兵戦闘に双方のどの部隊が参加したかは全てはっきりとしている訳ではないが、おそらく決定的な衝突は以下のような展開をたどったのだろう。

 午後2時過ぎ、クラインの3個連隊がクライの左翼に突撃したが、その部隊はブランケンシュタイン・ユサールとバルコ・ユサール(計10個スコードロン)にカバーされていた。この動きに対応するためセックラー国境ユサールとキンスキー軽騎兵に先導されたリヒテンシュタインの16個スコードロンが敵の右翼に飛びかかった。クラインの騎兵はすぐに敗れ後退した。400の騎兵を集めたリヒテンシュタインはさらにオイエルフェルトとゼーリゲンシュタットの間でフランス軍左翼を回りこみ、これを背後の樹木に覆われた斜面へ退却させた。しかし、そこで彼はボノー指揮下の部隊と接触し、今度は撃退された。

 この最初の白兵戦が行われている間にスタライの右翼は平坦な土地を横切って西方へ移動した。ヴェルネック准将麾下の擲弾兵12個大隊が午後3時少し前にビベルガウに到着したため、それまでスタライの右翼に配置していた騎兵(リーシュ及びシュピーゲルベルクの17個スコードロン)が動けるようになった。

 午後3時ごろ、ボノーのフランス騎兵がシュパーレホルツ森の隙間を通って前進し、カール大公は重騎兵部隊に攻撃に出るよう命じた。竜騎兵連隊(アンゲリはカイゼル・カラビニエとしているが、おそらくはコーブルク連隊)がリヒテンシュタインの迂回移動を支援するため前進したが、激しいマスケット銃の銃撃とボノーの部隊と接敵し、前進することができずに退がった。同様に主戦線ではオーストリア騎兵がマック胸甲騎兵連隊に支援を受けながらフランス軍右翼を回り込もうとした。しかし、今やボノーは彼のまだ戦闘に投入されていない騎兵の大半(彼の胸甲騎兵とベルナドット師団から移管された騎兵)を保有しており、フランス軍の戦線は持ちこたえた。

 クライはグルニエをシュヴァインフルト街道へと押し続けており、カール大公は残されたオーストリア騎兵を中央へ集めた。ボノーには部隊を再編する時間がなかった――大公が予備を前進させるのを見て危険に気づいたジュールダンはラッパ手に再編の合図を鳴らすよう必死に命じた。土ぼこりを舞い上げて胸甲騎兵2個連隊(ナッサウとツェシュヴィッツ)が前進を始め、すぐに速歩へ移った。彼らはおそらくカラビニエ騎兵2個連隊に支援されていた――決定的な瞬間が到来し、ジュールダンにはもはや予備が残されていなかった。

 ボノーの疲れきった騎兵に殴りこんだオーストリア騎兵第三波はフランス軍騎兵部隊を散り散りに追い払い、フランス軍は歩兵の方陣の背後に逃げ込んだ。恐怖とパニックがフランス軍の戦線に広がり、いくつかの歩兵も一掃された。

 南方ではこの局面までにベルナドット師団がレングフェルトを通って前進し近くの丘に布陣するオーストリア軍を追い払う準備ができていた。しかし、ジュールダンは既にこの戦いは敗北だと知っていた。グルニエは今や他の師団と切り離されていた。彼は軍に、全面後退してヴュルツブルク北方20キロメートルのところにあるアルンシュタインに集結するよう命じた。

・全軍前進

 敵が何をしようとしているかに気づいたカール大公は全戦線に渡って北西へ前進するよう命じた。午後4時ごろ、ヴェルネックの擲弾兵部隊はローテンホーフ地域を一掃してスタライの師団とヴァルテンスレーベンの再編した予備騎兵の間を埋めるよう命じられた。ヴァルテンスレーベンの部隊はヴェルネックの右翼を支援するため前進した。擲弾兵3個大隊は激しい散弾砲撃を受けながらローテンホーフを攻撃し、第2スラヴォニア国境大隊とオドネル・フライコープスが背後の樹木に覆われた丘へ移動するのを助けた。北方ではクライがウンター=ブライフェルトに到着したが、そこで彼の騎兵はグルニエの後衛部隊によって大きな損害を蒙った。

 フランス軍の指揮官たちはどうにか部隊の秩序を回復し、ブライフェルト村周辺の険しい地形を利用して激しく戦闘を繰り広げながら秩序だった退却を始めた。困難な地形により重騎兵が後方に遅れてしまったため、追撃するオーストリア軍はしばしば勢いを維持するのが難しいことに気づいた。しかし、通り抜けるには狭い小道しかないグラムシャッツァー森の周辺では、3つのフランス軍方陣がオーストリア軍胸甲騎兵に切り崩され、生存者は捕虜となった。バルコ・ユサールは12ポンド砲を奪い、ハディックはユサールと軽騎兵計8個スコードロンを率いて歩兵2個大隊の大半を捕虜にした。クライは北方への前進を続け、グルニエをジュールダンの他の部隊から切り離して勝利を確定した。

 クルナッハ谷を渡った後、カール大公はリンパー付近で再編のために兵に休息を与えた。黄昏が訪れたため追撃は午後7時ごろには終わり、戦いは砲撃戦に移った。フランス軍は損害2000人に加えて3800人(要塞の守備隊含む)が捕虜となり、大砲7門、軍旗1つ、多くの弾薬車と気球一つが奪われた。オーストリア軍の損害は1469人だった。

 カール大公は、彼の有名な著作である"Grundsatze der Strategie erlautert durch die Darstellung des Feldzuges in Deutschland 1796"(1796年戦役に見る戦略の要点)の中で、両軍の戦略について分析している。彼は「ジュールダンは複数の目的を同時に追求し、彼の全戦力を主な目的達成のために活用しなかったためにヴュルツブルクで敗北した」と結論付けている。カール大公はまた自分自身の移動についても批判している。「2日の(オーベル=)シュヴァルツァッハでの休息で大公はスタライからあまりに遠くに止まってしまい、彼の軍の半分で構成されている分遣隊を危険に晒した…ヴュルツブルクの戦いは、18世紀最後の戦争の中では数少ない騎兵によって戦闘の行方が決まった事例だった」。

・カール大公とジュールダン

 カール大公とジュールダンは1799年3月下旬に再び衝突し、大公が敵をオストラッハとシュトックアッハで打ち破った。後者の戦いの後の大公の移動は今でも議論を呼んでいる。しかし、1805年に大公がイタリアにいたことは、ナポレオンが副王の軍事顧問としてジュールダンに代えてマセナを送り込む十分な理由になった。

 カール大公は1813年の軍事戦略を検討するうえでの参考とするために彼の戦役に対する考えを記し、その文章は後に多くの言語に翻訳された。この本こそ、後にウェリントンがカール大公の軍事的能力について触れる際にしばしば引き合いにだしたが、元ネタについて触れなかったものである。クローカーは1826年に書いた"Conversations with the Duke of Wellington"の中で、ウェリントン公はカール大公の本からの引用を行い、それに対しクローカーは『大公は偉大な兵士であると思うか』と尋ねた。

 ウェリントンは答えた。「偉大な士官か、だって? 彼は戦争について我々全員よりはるかに多くのことを知っていたんだぞ…ボナパルトや我々の誰よりも。彼の本と彼の戦役計画から判断する限り、我々の誰も彼の靴紐を結ぶ資格すらないね」

 第一次世界大戦の前には、この戦役は多くのイギリス人歴史家の手によって書かれたが、その後はナポレオンのイタリア戦役のために、ずっと規模の大きな戦いであったにもかかわらず無視された。



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