1796年―ナポレオンの解説



1796年におけるドイツでのサンブル=エ=ムーズ軍及びライン軍の作戦概要

I.


 プロイセンは1795年4月に共和国と和平を結んだ。続いて5月17日に署名された協定で、交戦国の軍が通過を強いられる地方において追求する行動に関する規則が作られた。しかしこの協定は多くの議論を引き起こしたため、8月20日にベルリンで、交戦国のどの軍も通過できない線をヴェーゼルからラインへとチューリンゲン山地の境界線に沿って敷くべきだと規定された。プロイセン王と、このプロイセン同盟に忠実なドイツ諸侯の領土のうち線の南側にある部分は、中立となる。にもかかわらず交戦国の軍は、彼らが必要とする補給に対する支払いをすれば自由にこの線を越えられる。ただし、その内部に何らかの陣地を構築することは認められない。

 1795年の夏の間、オーストリア軍はライン河で活動する2つの軍を持っていた。一つはクレアファイト元帥麾下の下ライン軍であり、他方はヴルムゼル元帥麾下の上ライン軍だ。前者に対しフランスはジュールダン将軍麾下のサンブル=エ=ムーズ軍を、2番目の相手にはメンツ[マインツ]の対城壁線を占拠しているピシュグリュ麾下のライン軍を対峙させた。プロイセンの離脱にもかかわらず、この戦役はオーストリア軍にとって有利に終わった。10月には彼らはメンツの対城壁線を突破し、多くの大砲を奪い、ピシュグリュをヴィサンブール線へと撃退していた。敵対行為は1795年12月23日に署名された休戦協定によって終わったが、そこでは以下のようなことが規定された。1つ、サンブル=エ=ムーズ軍は、デュッセルドルフの要塞とヴィッパー川左岸の前方3リーグの距離にある前哨線と、そこからライン左岸に沿ってビンゲン近くのナーエ河口付近まで、さらにそこからナーエ左岸を山岳部まで遡り、アルザスの国境まで到達し、ヴィサンブール線に沿ってそこからライン河をバーゼルまで通る線を占領する。2つ、オーストリア軍はボンの対岸でライン河に注ぐジーク川の左岸に前哨線を置く。ヴィッパー川とジーク川の間は中立地帯とする。オーストリア軍戦線はジーク河口からライン右岸に沿ってナーエ河口まで延び、そこからビンゲン近くでライン河を渡ってナーエ左岸を山岳部まで遡る。かくしてオーストリア軍はメンツとライン左岸のヴィサンブールまでの地域を占領し、そこから戦線はライン右岸へ戻り、バーゼルまで到達する。以上の取り決めが結ばれ、ジュールダンは彼の司令部をフンズリュックに、ピシュグリュはストラスブールに、クレアファイトはメンツに、ヴルムゼルはマンハイムに置いた。

 冬の間、フランスとオーストリアは徴兵と軍への衣服供給に必要なことを何一つ怠らず、彼らを最良の状態に仕立てた。過去の戦役の成功はウィーンの政府に大いに希望をかき立てた。クレアファイトは呼び戻され、カール公が彼の代わりに指揮官に任命された。フランス政府はピシュグリュ将軍に懸念を抱いていた。戦役を終結させる不運を招いた彼の作戦はあまりに説明不能なものだったので、彼らは裏切りによるものと見なしていたが、しかしながら総裁政府は何の証拠も持たず、それゆえに彼らはあえてあまりに苦しい不審を抱こうとはしなかった。にもかかわらず彼らは最初の機会を捕らえてこの将軍を軍から取り除き、彼をスウェーデン大使に任命した。ピシュグリュはこの外交的な任務を拒否し、引退して自らの地所へ戻った。モローがライン軍の指揮官に任命され、1796年5月23日に彼は指揮権を執った。

II.

 その間、イタリアでは4月に戦役が始まった。モンテノッテ、ミレシモ、及びモンドヴィの戦いはサルディニア王にケラスコで休戦協定に署名させ、彼を連合国から脱落させた。オーストリア最高軍事会議がボーリュー将軍の才能と評判に頼っていただけに、彼らはこの知らせを聞いて驚きを募らせた。大公はすぐ戦闘状態の再開を通知すること、そしてフランス軍がアルプスの彼方にある軍を増援するのを妨害するためか、あるいはイタリアの惨事から人々の関心を引き離す陽動効果を狙ってライン河での作戦を始めるよう命じられた。ナポレオンが2月にパリを出発した時、サンブル=エ=ムーズ軍が4月中に戦役を始めるとの約束を得ていたが、この軍は5月末になっても冬営地にとどまっていた。イタリア方面軍が得た全ての勝利、全ての前進は、ライン河沿いのフランス軍による作戦開始の必要性をより緊急かつ賢明なものにしていた。その時は様々な口実によって延期されていたが、とうとう敵の軽率な行為が、フランス政府が命じる叡智を持ち得なかったことを成した。パリにいたモローはぎりぎりでストラスブールにたどり着くことができた。モーゼル川、ザール川、ムーズ川に宿営していた全ての兵たちは活動を始め、戦闘状態は6月1日に再開された。その間にロディの戦い、ボルゲットーの戦い、マントヴァの包囲、ヴェローナへフランス軍司令部が、そして彼らの前哨線がティロルの山々へ到着したという知らせが届き、ウィーンの宮廷による手配に変化を生ぜしめた。この全速力で前進している[イタリア方面]軍は、その進軍を妨げる何の障碍もなかったと言われていた。彼らの大胆な行動を阻止することが重要だった。ヴルムゼルは上ライン軍から引き抜いた3万人の兵と伴にイタリアへ進み、ティロル、カリンティア、カルニオラで再編中であるボーリュー軍の生き残りの予備として行動するように、そしてマントヴァが落ちる前に要塞解放のため行軍し、その地の維持が危険に満ちたフランス征服よりも重要なロンバルディア世襲領を再征服するようにとの命令を受け取った。皇帝はライン河沿いの2つの軍を大公の指揮下にまとめ、彼に戦闘を再開せず休戦を続けるよう命じた。しかしこの命令は遅すぎた。即ち、戦闘が再開されて僅か2時間後に命令が到達したのだ。

 ヴルムゼルの分遣によって弱体化した大公は征服のために思い描いていたあらゆる計画を捨て、ライン渡河を防ぎドイツを守ることに彼の野心を限定した。彼の麾下には以下の部隊があった。1つ目は、砲兵将軍ヴァルテンスレーベンと、クライ、ヴェルネック、ホッツェ、グラバー、コロレード=メルス、シュターデル、そしてリント中将麾下の下ライン軍。この部隊は101個歩兵大隊の7万1000人と、139個騎兵大隊の2万2700騎、計9万3700人から成っており、その中から彼はエーレンブライトシュタイン、メンツ、マンハイムの守備隊を供給した。2つ目は上ライン軍で、ヴルムゼルの出立後は砲兵将軍ラトゥールと、シュタライ、フレーリッヒ、フュルステンベルク公、ロイス、リーシュ、そしてコンデ公の麾下にあった。この部隊は58個歩兵大隊の6万5000人と、120個騎兵大隊の1万8000騎、計8万3000人から成っていた。かくして5月時点でライン河沿いにあったオーストリア軍の合計は17万6700人に達していた。しかし、最初に分遣された6000人を計算にいれなくても、3万人をイタリアの軍に送り出したことは大公の軍を15万人にまで減らしていた。

 2つのフランス軍は双方合わせて15万人以上の兵力があった。サンブル=エ=ムーズ軍は歩兵6万5000人、騎兵1万1000騎、計7万6000人。ラン=エ=モーゼル軍は歩兵7万1000人、騎兵6500騎、計7万7500人だった。前者は3つの軍団に分けられていた。コローとルフェーブル師団から成る左翼はクレベール麾下にあり、ライン右岸のデュッセルドルフにいた。指揮官ジュールダンは、シャンピオネ、グルニエ、ベルナドット師団から成る中央と伴にフンズリュックにいた。マルソー麾下の右翼は、彼の師団とポンス師団から成っていた。ボノー将軍が予備を指揮した。ラン=エ=モーゼル軍は3つの軍団から成っていた。ボーピュイとデルマ師団で構成される左翼はドゼーが、デュエームとタポニエ師団から成る中央は[グーヴィオン=]サン=シールが、ラボルドとタロー師団から成る右翼はフェリーノが指揮を執った。ブールシエは予備騎兵を率いた。

III.

 6月1日、クレベールは24個歩兵師団と20個騎兵師団から成る彼の軍団を率いてデュッセルドルフから進軍した。2日に彼はジーク川に到達し、前衛と伴に交戦した後で川を渡りウケラトの陣地を攻略した。4日、彼は1万5000人の兵と伴にアルテンキルヒェンの丘に布陣したヴュルテンベルク公を攻撃し、彼を打ち破って2000人の捕虜、4旒の軍旗、12門の大砲を奪った。その後で彼はラーン川へ進軍した。指揮官ジュールダンはノイヴィートでライン河を渡り、ラーン川沿いで左翼と合流した。マルソーはベルゲルフィールドの陣地を出立し、メンツ前面へ前進した。カール公は上ライン軍から8000人の分遣隊を引き抜き、サンブル=エ=ムーズ軍へと行軍した。6月15日、彼はヴェッツラーでルフェーブル師団を攻撃し、これを破って軍旗1旒、大砲7門を奪った。ジュールダンは宣言していた6月17日に会戦を行う計画を捨て、彼の全軍を退却させた。彼はケルンとノイヴィートの橋で軍の一部と伴にライン河を再渡河し、クレベールをデュッセルドルフへ向かわせた。敵から厳しい圧力を受けたクレベールは、6月19日にアルテンキルヒェンで会戦を強いられた。彼はこの戦闘から名誉を保って自らを救い出し、何らの物質的損害も蒙らずにデュッセルドルフに再度布陣した。

 ヴルムゼルは分遣隊をイタリアへ進軍させた後で、彼の戦線を縮小し、左翼をライン河沿いの陣地を築いたフランケンタールという小さな町に置き、右翼は山岳部に拠った。モローはドゼーとサン=シールに彼を攻撃するよう命じた。前者はラインと山岳部の間で、後者はホンブルクとドゥー=ポン[ツヴァイブリュッケン]の間で機動した。6月15日、随分と激しい戦闘の後でオーストリア軍の後衛は撃退され、1000人を失いマンハイム橋頭堡への退却を強いられた。しかしこの僅かな成功は同時期にサンブル=エ=ムーズ軍が阻止されたことを補うものではなかった。

IV.

 とうとうフランス政府は、モローによるライン左岸での機動がサンブル=エ=ムーズ軍に対する支援になっていないことに気づいた。かくして彼はライン河を渡るよう命じられた。6月24日午前2時、ドゼーは2500人と伴にエーレン=ラインの中州を確保し、午前中にケールを奪取して捕虜800人と大砲12門を奪った。夕方に彼は船橋の建設を始め、25日正午に完成した。その日のうちに彼の2個師団、予備騎兵、司令部とフェリーノの師団、計4万人が右岸へ渡った。サン=シール将軍は麾下の2個師団と伴にマンハイム橋頭堡対岸の右岸にとどまり、フェリーノの1個師団は上ラインにいた。コンデ軍とシュヴァーベン派遣部隊を含む26個歩兵大隊を率いるシュタライ将軍は、スイスからラシュタットに至るライン河の防衛を任された。ラトゥールは22個歩兵大隊と伴にマンハイムにいた。彼はラシュタットからマイン川までの線を守り、左岸のマンハイム橋頭堡を占拠していた。シュタライの兵は右岸に散らばっていた。彼はケールからほとんど2リーグの距離に1つはヴィルシュテート、他方はオフェンブルク近くに2つの小さな幕営地を持っており、それぞれ6000人の兵がいた。26日、フェリーノはライン河へ進み、ヴィルシュテートへ前進した。28日にはオフェンブルクへも進んだ。敵は双方から撤収した。同時にドゼーは、彼の軍団と軍の予備と伴に、シュタライ将軍が1万人を率いて布陣しているレンヒェンに前進した。彼は勢いよく攻撃し、敵を追い払い、大砲10門と捕虜1200人を得て敵をラシュタットまで追撃した。そこにはマンハイムからラトゥール将軍が2万5000人を率いて到着し、ムルク川の背後に布陣したばかりだった。しかしサン=シールは敵がマンハイムから上ラインへ移動したと知るや否や左岸を通って彼らを追撃し、ケールの橋を渡り、フロイデンシュタットへ前進してクニービスの山にあった堡塁を制して、終日続いた激しい戦闘の後でムルク川を強行渡河した。7月15日、ラトゥール将軍は約1000人を失ってアルプへと後退した。フランス軍司令部はラシュタットへ移った。その間、フェリーノはケンツィヒを確保し、ライン河を遡り、そして彼が急ぎ前進している間に左岸にいた各旅団が河を渡り、彼の兵力を増やした。

 6月24日、ケールでのライン渡河を知った大公は、ジュールダンを見張るためヴァルテンスレーベン麾下に3万6000人と、メンツを守るためヘヒツハイムの防御陣地に2万6000人を残し、上ライン軍を支援するため24個歩兵大隊及び2個騎兵大隊の先頭に立って行軍した。アルプの背後でラトゥール将軍の部隊を再編したことにより、彼は45個歩兵大隊と80個騎兵大隊を麾下に収めた。即ち、左翼の山岳部にはカイム将軍麾下の19個歩兵大隊と19個騎兵大隊が、中央のエトリンゲン前面には13個歩兵大隊と28個騎兵大隊が、ラトゥール将軍麾下の右翼には10個歩兵大隊と29個騎兵大隊があった。3個歩兵大隊と24個騎兵大隊は監視用だった。この大量の部隊と伴に彼は10日にフランス軍を攻撃して彼らをライン河へ追い落とすつもりだったが、モロー将軍はこれを予想していた。9日、サン=シールはローテンゾールを突破してカイムを破り、ザクセン兵をネッカー川へ追いやった。先手を打たれたカール大公は中央と右翼をドゼーに向かって行軍させた。後者は大公の攻撃を持ちこたえ、勇気を奮って一日の大半の時間、その場を維持し、夕方に少し後方の陣地へ退却した。この精力的な抵抗は敵を威圧し、既にナウエンブルクに到達していたサン=シール将軍に退路を断たれることを恐れた彼らは、フィリップスブルクとマンハイムの守備を完全にするために10個歩兵大隊を分遣した後で10日にプフォルツハイムへ退却した。翌日、彼らはサン=シール将軍に追撃されながらシュトゥットガルトへの行軍を続け、そこでネッカー川を渡った。その間、フェリーノ将軍はキンツィヒ川沿いのビベラッハの陣を突破し、シュヴァルツヴァルトを越え、ヴィリンゲンに到達した。敵はライン河とシュヴァルツヴァルト間の全ての土地から完全に撤収した。森林内の町々はフランス軍の守備隊を受け入れた。

V.

 サンブル=エ=ムーズ軍司令部においてライン軍の渡河成功が知られるや否や、クレベール将軍は再び6月29日にデュッセルドルフを出立した。彼はケルンでライン河を渡ったグルニエと合流。リンブルクで交戦し、7月8日にはラーン川を渡った。指揮官ジュールダンは他の部隊と伴にノイヴィートの橋で彼と合流し、ヴァルテンスレーベン将軍に圧力をかけ、いくつかの平凡な前衛戦闘を行い、3つの縦隊でラーン川をギーセン、ヴェッツラー、そしてロインの橋で渡った。彼はフリートベルクで非常に激しい交戦を行い、敵を破り、ニッダ川を渡り、マイン平野へ進出し、フランクフルト前面に陣を敷き、フランクフルトの降伏を取り扱うための数日間の休戦をヴァルテンスレーベンに認め、フランクフルトは門を開いた。しかしそれは敵に2日間の余裕を与え、彼らを上マインに到達させた。フランクフルトはよく要塞化され、食糧を備蓄し、大砲と軍需物資を備えていた。フランクフルトからケルンへの街道上1日の距離にあったケーニヒシュタイン要塞は7月21日に大砲93門、守備隊500人と伴に降伏した。

VI.

 政府からの命令を受けたジュールダンは要塞群の前にマルソーと3万人の兵力を残し、5万人の兵力を構成する僅か6個師団でドイツの心臓部へと前進した。彼はザクセンの国境にあるチューリンゲン山地の端を通ることで、ドナウを彼の背後に置き去りにした。7月21日、彼の前衛はシュヴァインフルトに入り、26日にはそこに司令部を置いた。司教領の兵が占拠していたヴュルツブルクとその要塞は8月3日に降伏。3万1000人の兵を率いるヴァルテンスレーベンは、全く抵抗することなくバンベルクへ退却した。サンブル=エ=ムーズ軍は彼を追撃し、バンベルクでレードニッツ川を渡り、8月6日のフォルスハイム[フォルヒハイム]の戦闘で彼を打ち破り、それによって彼はヴィルス川の背後へ退くことを決意した。8月11日、フランス軍の司令部はラウフに定められた。バイロイトとアンベルクをつなぐ大街道上にあるローテンベルク要塞は降伏した。この要塞には43門の大砲があった。8月15日、フランス軍はスルツバッハとアンベルクへ行軍。彼らは終日、戦闘を行った。4個師団が交戦し、敵はヴィルス川沿いの戦線から撤収し、ナープ川の背後をシュヴァルツェンフェルトへ退却してなお大公の軍から遠くへ移動していった。19日、フランス軍はヴィルス川の彼方にいた。ベルナドットはラティスボン[レーゲンスブルク]から10リーグの距離にあり、ラティスボンとニュルムベルク間の道路上にあるノイマルク[ノイマルクト]へ分遣された。2つの軍[サンブル=エ=ムーズとラン=エ=モーゼル]はドナウ左岸を支配し、合流しつつあると考えられていた。20日、指揮官は5個師団と伴にナープ川へ前進した。敵はヴォルフェリングの高地で極めて激しい抵抗を続けたが、夜間にそこを撤収した。8月21日、サンブル=エ=ムーズ軍の布陣は以下のようになっていた。司令部はアンベルク。5個師団計4万人はナープの川岸に戦線を敷き、ヴァルテンスレーベンの軍が彼らに対峙していた。右翼では10リーグ離れた場所に7000人から成るベルナドット師団が分遣され、ラティスボン街道を監視していた。3個師団3万人と伴にマルソーはメンツ[マインツ]とエーレンブライトシュタインを封鎖し、マイン河を守っていた。ナープは小さな川で、ラティスボンの上流1リーグでドナウ河に注いでいた。サンブル=エ=ムーズ軍の作戦連絡線はラウフ、ニュルムベルク、バンベルク及びヴュルツブルクを経由していた。2つの軍がドナウ左岸を支配しているにもかかわらずライン[ラン=エ=モーゼル]軍とは何の連絡も取れておらず、[サンブル=エ=ムーズ軍は]大公の軍とヴァルテンスレーベンの軍の間に位置していた。ボヘミアの国境までは1日の行軍距離だった。アンベルクとヴォルフェリングの戦闘はとても血腥いものだった。実際フランス軍は戦場の支配者としてとどまったが、両軍の損失はほぼ同じだった。双方が得た捕虜の数は200か300人を越えなかった。フランクフォルト[フランクフルト]を出発して以来、生じた出来事はこれだけで、これらはそれ自体では重要ではなかった。

VII.

 ライン軍は7月22日にネッカー河を渡河し、左翼はグムント街道を、右翼はゴッピンゲン街道を通りカール公を追跡した。この2つの街道のうち、前者はレンプ川峡谷に沿っており、後者はヴィルス川峡谷からヴュルテンベルク・アルプスと呼ばれるアルプ山地を越えていた。ライン軍の移動の遅さが、まだネッカー河の彼方で熱心に行動するようには運命づけられていないと思うようにカール公を仕向け、ヴァイセンシュタインの線に布陣させた。しかし7月23日、グムントに到着したドゼーが敵の後衛をしっかりと追撃し、アーレンで戦闘を行ってそこで500人の捕虜を得た。同日、右側の道路から進出したサン=シールがブレンツ川沿いのハイデンハイムに到達。8月5日と8日には前衛部隊が交戦し、数百人の損害で様々な成功を収めた。ザクセンの派遣部隊はオーストリア軍を見捨て、ザクセンへ帰った。

 しかし、フランス軍は互いに3日の距離しか離れておらず、まさにアルトミュールで合流を達成しようとしていると考えたカール公は、それを妨げるために会戦のリスクを冒すことを決断した。彼の後衛部隊が前衛となった。その部隊はエグリンゲンまで押し出したが、そこでフランス軍に攻撃され、屈服し、300から400人の捕虜を取られた。しかし11日の夜明けには、全オーストリア軍が8個縦隊を組んで進出してきた。フランス軍は前もってネレスハイムにおり、そこで8リーグの長さの戦線を占拠していた。部隊は48個歩兵大隊と66個騎兵大隊で構成されており、合計4万5000人だった。ドナウ河から2リーグはなれたブレンツ川に拠るデュエームの6000人が右翼を構成。中央のタポニエはドゥンシュテルキンゲンの高地に9個歩兵大隊を、少し後方のディッシンゲンに3個歩兵大隊を配置した。シュヴァインドルフの前でボーピュイが左翼を形成。前衛のデルマと8000人はボップフィンゲンに布陣した。大公左翼の3個縦隊のうち2個はディッシンゲンとディリンゲンから進出し、デュエームを正面と背後から攻撃して彼を中央部隊から分断し、1日分の行軍距離退却させた。その間、フレーリッヒ将軍麾下の3番目の縦隊はウルムでドナウ河を渡り、フランス軍の背後を取った。フランス軍司令部、兵站部門や文官などはハイデンハイムから駆逐され、アーレンへ逃亡した。かくして会戦が始まるや否やフランス軍は迂回され分断され、作戦連絡線を奪われて兵站と予備が混乱に陥った。この結果にはいくらかの重要性があった。しかしこれを引き起こした3つの縦隊は戦場から3リーグ離れた場所にあって、戦闘に参加することができなかった。右翼の2個縦隊はノルトリンゲン街道から進出し、前衛部隊と左翼の間を通ってガザン将軍が指揮する戦線の最末端を攻撃した。主要攻撃を担う中央の3個縦隊は大公個人が率いており、19個歩兵大隊と24個騎兵大隊で構成されていた。彼らはアウフハウゼンから進出し、前日夕方エグリンゲンの戦闘後に占めた陣地にいまだにいて、あまりに急だったため攻撃を予想していなかったサン=シールの哨戒線を崩壊させた。サン=シールは部隊をドゥンシュテルキンゲンの高地で再編。その後この陣地を突破しようとした大公の努力は終日実らなかった。双方の損害は6000人以上に達した。夜になると大公は右翼をノルトリンゲンとドナウェルト[ドナルヴェルト]間の道路を通ってメルディンゲンの野営地まで、左翼をドナウ河沿いのディリンゲンまで下げた。中央は戦場で夜を過ごした。小規模なフランス軍部隊がハイデンハイムを奪回し軍の連絡線を回復したのを受け、モローは戦場にとどまって負傷者を集め、受け取る情報に応じて退却を手配するか前進するかを決めようとした。彼は勝利を得た。サンブル=エ=ムーズ軍は既にレードニッツ川を渡り、アンベルクからラティスボンへ行軍を振り向けるように見えた。彼らはカール公より数日先行しており、そのカールは11日の交戦でフランス軍を屈服して彼らをアルプ山地の隘路へ追い払うことができず、今や包囲されるのを避けるために一時も無駄にすることができなくなっていた。既に2つの軍の合流は成し遂げられたと考えた彼は夜の間に退却し、合流に抵抗するあらゆる考えを捨てた。というのも彼はフランス軍にドナウ河左岸とヴァルニッツ、そしてアルトミュールを明け渡し、ドナウとレッヒ川を再渡河したためだ。オーストリア軍は戦役に敗れたように見えた。  その間、[ライン]軍の3分の1に当たる23個歩兵大隊と17個騎兵大隊を率いるフェリーノ将軍は、シュヴァルツヴァルトの山を越えた後にコンスタンス湖畔のリンダンとブレゲンツを確保し、そこにティロルからの進出路を見張るためにラボルド将軍麾下の7個歩兵大隊と3個騎兵大隊を残し、16個歩兵大隊と14個騎兵大隊と伴にシュトックアッハ経由でメミンゲンへ前進した。13日、前衛部隊を率いるアバトゥッチ将軍はミンデルハイムの部隊を攻撃し、そのうちいくつかの連隊を叩きのめした。その後彼はライン軍に合流し、レッヒ川でその右翼を形成した。

VIII.

 モロー将軍はネレスハイムの戦い後、何日か戦場にとどまった。とうとう彼はドナウェルトへと行軍した。しかし彼はサンブル=エ=ムーズ軍との合流を試みるために騎兵部隊をアルトミュールへ送り出すことすらせず、ホッホシュテットへと後退した。この躊躇と誤った機動が大公を勇気づけた。彼はほぼ不可能だと絶望していた2つの軍の合流をまだ阻止できるに違いないと見た。彼はライン軍を牽制しその動きを遅延させるため30個歩兵大隊とともにラトゥール将軍をレッヒ川の背後に残し、その間に歩兵、騎兵、砲兵からなる3万人の分遣隊と伴にドナウ河を渡りニュレムベルク街道へと前進した。8月22日、彼はノイマルク前面に布陣するベルナドットを攻撃し、彼をラウフとニュレムベルクまで追撃してフォルスハイムへ後退を強いた。ヴァルテンスレーベン将軍はすぐに兵を動かしナープ川を再び渡河。サンブル=エ=ムーズ軍はアンベルクとスルツバッハへ退却した。しかしその場で正面をヴァルテンスレーベンに、側面と背後をカール公の部隊からの分遣隊に攻撃され、その将軍[ジュールダン]は本格的な戦闘のリスクを冒すのが得策だとは考えなかった。退却は非常に困難になった。彼はラウフからニュレムベルクへ至る街道を通る連絡線を失っていた。彼は車両にとってはほとんど使用不可能な道路と山地を越えて移動した。砲兵と車両は多くのダメージを受け混乱に陥った。この大急ぎの混乱した行軍は軍の規律に影響した。軍は26日にフォルスハイムに到着し、その左翼はエベルメンシュタットで28日に停止した。将軍はいくつかの攻撃作戦を企図したが、しかしカール公の素早い行軍とフランス軍の背後に向かって演じた攻勢とが、実行に移すことを許さなかった。敵は既にバンベルクへ1個師団を派出しており、それが司令部に懸念をもたらし、兵站と文官を混乱に陥れた。さらに軍がたとえ強行軍で移動しても31日にならなければ到着しないバンベルクからシュヴァインフルトへの道路が遮断され、軍は銃剣で道を切り開かなければならなかった。休息が必要だったため、兵たちはこの町で足を止めた。ヴュルツブルクはホッツェ将軍により占領された。彼は自分の師団と伴に要塞を封鎖し、その中には砲兵指揮官のベルモント将軍が800人の兵と伴に閉じ込められた。彼はシュタライ師団に支援されていた。大公と軍の残りは1日分後ろにいた。ジュールダンはこの敵の分散に乗じ、ヴュルツブルクへの道を自分で切り開くことを決断した。9月2日午前、彼は行軍を始め、翌3日にカール公を攻撃した。戦いの最中にクライとヴァルテンスレーベンが到着。彼らは歩兵4万人、騎兵1万2000騎でジュールダンに対峙した。しかしフランス軍は3万人しかなかった。彼らは会戦に敗れた。彼らはルフェーブル師団をシュヴァインフルトに残していた。ジュールダンはアルンシュタインとラーン川へ退却し、そこへ9月10日に到着した。兵たちは疲労に苦しみ、酷く落胆していた。彼はヴェッツラーに司令部を定めた。8月22日以降、彼は4万4000人で、ヴァルテンスレーベンと大公の軍、兵力計6万8000人と争わなければならなかった。ラーン川に到達したところで彼はマルソーと、オランダから到着した1万人の師団と合流した。これらの増援によって彼は敵より優勢になった。敵の機動とヴュルツブルクの戦いでの敗北だけにより、彼は15日間でドイツにおける全ての征服地を失った。しかしまだ全ては取り戻すべきだったし、戦役における運勢が変わりフランス軍にとって望ましい形で終わる可能性は大いにあった。将軍は目的にかなった計画を立てることだけはできたが、活動力と決意に欠けていた。彼は予想された通りラーン川で自滅し、ラインの此岸へ追い返された。勇敢なマルソーはアルテンキルヒェンの戦闘で死去した。クレベールとコローは不服従により軍から解任された。軍は広く散開し、一部はライン河を渡り、ルフェーブル師団はデュッセルドルフの宿営地を占めた。少し後になってジュールダンは指揮権を失った。しかし奇妙で説明不能なやり方により、総裁政府は1個大隊を機動させる能力すらほとんどないブールノンヴィルを彼の後継者として指名した。大公はサンブル=エ=ムーズ軍を見張るためにヴェルネック将軍と5万人の軍勢を残し、1万2000人を率いていまだにバイエルンにいるラン=エ=モーゼル軍に向かって前進するべくラーンの川岸を離れた。

IX.

 ネレスハイムの戦いから12日後の8月23日、フランスのラン=エ=モーゼル軍はドナウ河を渡り、レッヒ川へと進軍した。ドゼー将軍が左翼を構成し、レッヒ河口にあるラインの対岸に到着した。サン=シール麾下の中央はアウグスブルクに、フェリーノ麾下の右翼はランズベルクの対岸にいた。レッヒ川の渡河点防衛を命じられていたラトゥール中将は、3個歩兵大隊をインゴルシュタットに、8個歩兵大隊と20騎兵大隊からなる1個師団をラインの対岸に配備してレッヒ下流を守り、彼自身は15歩兵大隊と伴にアウグスブルク対岸のフリートベルクの丘に布陣した。コンデ公の部隊はランズベルク対岸で左翼を形成した。24日、フェリーノ将軍はハンシュテッテンの浅瀬を強行渡河した。サン=シールはアウグスブルク全面のレッヒ=ハウゼンの浅瀬を渡り、ドゼーはラングヴィートで渡河した。アウグスブルクの橋はすぐに補修され、そしてラトゥール将軍は勇敢な抵抗の後で、勝者の手に17門の大砲と1500人の捕虜を残してフリートベルクのよい陣地から追われた。レッヒ渡河の後でフランス軍はミュンヘンから3リーグの場所にあるダッヒャウへ前進し、前衛部隊はミュンヘンの城壁に迫った。中央はプファッフェンホーフェンとガイセンフェルトに、監視用の部隊がインゴルシュタットに進んだ。オーストリア軍の将軍はイゼル川沿いのランズフートに司令部を移し、そこに主力軍団を集めた。大公がアンベルクの戦い後にドナウ河を見張るため派出したナウエンドルフ将軍の師団、戦力8000人はアーベンスベルクを占拠し、ラティスボンを守った。コンデ軍団はミュンヘンを占めた。この布陣で彼は数日間、フランス軍の将軍が行う移動を見定めようとした。しかし彼[モロー]が何もしないのに気づくと、彼[ラトゥール]はモローがカール公を追撃するためドナウ左岸へ渡ったのではないかと疑った。結果、9月1日にラトゥールは全軍をいくつかの縦隊に分けてガイセンフェルトへ前進し、フランス軍の左翼を攻撃してパールまで侵入したが素早く撃退され、捕虜から軍は動いておらずドナウ右岸に完全に集結していることを知らされた。かくして彼は元の陣地へ戻った。この戦闘における双方の損害は同数だった。敵は曲射砲1門をフランス軍の手に残した。9月7日、モロー将軍は明確な計画を視野に入れないまま前進した。9日、左翼はアーベンスベルク対岸でドナウ河に拠りながらノイシュタットに、中央はメンブルクに、そして右翼はモスブルクに到着した。ミュンヘンとフライシングはフランス軍の勢力下に落ちた。しかし敵はイゼル川左岸に布陣していた。この移動でモローは僅かな障碍に会っただけで、500人以上の捕虜を得た。敵は彼がラティスボンへ前進するものと予想していたが、彼は8日と9日は動かず、10日に元の陣へ戻るため退却し、ドゼー将軍と1万2000人をサンブル=エ=ムーズ軍を探すために派出した。しかしその軍は既に彼から80リーグ以上も離れていた。ドゼーは10日夜にノイブルクでドナウ河を渡り、12日にアッハシュテットに到着した。14日、彼はニュレムベルク途上にあるハイデックまで押し出し、そこで随分前に起きた事件についての詳細と、サンブル=エ=ムーズ軍が既にラインへと撃退されていたことを聞いた。彼は後退し、16日にドナウ河で軍と再合流した。この間ラトゥール将軍はドゼーの動きを知らされて前進した。彼はあらゆる方角で大した重要性のない戦闘を行ったが、ドゼーの分遣隊の弱さと、ドナウ右岸における[フランス]軍の強さが彼自身より優勢であるとの情報を得て、慎重に行動した。

 大公がラインを諦めた時、彼は以下の守備隊を残していた。メンツに歩兵1万5000人と騎兵1200騎。エーレンブライトシュタインに歩兵300人。マンハイムに歩兵8800人と騎兵300騎。フィリップスブルクに歩兵2500人と騎兵300騎。ジュールダンはマルソー、ポンス、ボノー師団、戦力2万6000人をマイン河に残し、メンツとエーレンブライトシュタインを封鎖した。しかしマンハイムとフィリップスブルクに対してモローは、ランダウの守備隊から連れてきたシェルプ准将麾下の歩兵、騎兵、砲兵からなる移動縦隊2800人のみを残した。ラーン川へ到着した大公はすぐペトラッシュ将軍に、マンハイムとフィリップスブルクから9個大隊を引き抜き、シェルプ将軍を攻撃し、ケールとフンニンゲンの橋頭堡を奪うよう命じた。シェルプ将軍はいまだブルフザルにいた。ちょうど逃亡兵から知らせを受けた彼は9月13日に撤退し、まだ修繕が完全には終わっていないケールへと退却した。ペトラッシュは彼を追撃し、4倍の戦力で18日に彼を攻撃したが、試みは失敗し大勢の兵を失った。フランス軍はこの勝利の一部を、ストラスブールの国民衛兵が示した熱意に負っていた。モローは彼の退路をほとんど断とうとしたこの戦闘に危険を感じた。彼はライン河へ接近する必要を感じ、退却を始めた。ジュールダンがラインを再渡河した同じ日に彼はレッヒ川を再渡河し、20日にシュムッター背後に、21日にミンデルの背後に、22日にグンツの背後に陣を敷いた。彼は3つの縦隊で行軍した。左翼はフェリーノが、中央はサン=シールが、右翼はドゼーが指揮した(退却の方向を前方とした場合)。フレーリッヒ将軍はフェリーノを、ラトゥールはサン=シールを追跡し、ナウエンドルフ将軍はドナウ左岸に沿ってドゼーと並んで進んだ。守備隊のいなかったウルムの要塞は、幸運なことにナウエンドルフ将軍が入城する24時間前にモンリシャール麾下の分遣隊が占拠した。24日、フランス軍はイゼル川沿いに布陣し、フェリーのはメミンゲンに、ドゼーはウルムに拠った。25、26、27日と退却は続いた。ドゼーはドナウ左岸に沿って進み、エヒンゲンへ達した。オーストリア軍は彼の出発6時間後にウルムへ入城した。27日、軍はフェデル=ゼーに到着し、そこでペトラッシュ将軍がシュヴァルツヴァルトの隘路を占拠していることと、国境の町々が多数の暴動を起こした農民に占領されているとの情報を得た。28日、ラトゥール将軍はあらゆる場所で攻撃に出て、その全てで撃退された。この時までオーストリア軍の右翼を攻勢していたナウエンドルフ将軍の部隊は、そこを離れ、トゥビンゲンへ前進しロトヴァイルにいるペトラッシュと合流してその戦力でキンツィヒ川とレンヒェン川の谷間を守り、その間にカール公は1万2000人の部隊と伴にレンヒェン村に到着し、ケール近くのキンツィヒ川沿いに軽騎兵を送り出した。かくして弱められたラトゥール将軍の麾下には2万5000人しか残らなかった。彼は危険に晒されていた。彼はシュタインハウゼンに幕営して何の疑問も抱いていないように見えていたが、モローは強行突破する機会を得るために彼の部隊を取り除く必要性を感じていた。10月2日、彼はビベラッハでラトゥールを積極的に攻撃した。できる限り抵抗したにもかかわらず、オーストリア軍は数に圧倒されて完全に壊走し、勝者の手に軍旗2旒、いくつかの大砲、そして4000から5000人の捕虜を残した。

 この戦いの後でモローは退却を続けた。荷物、木材、負傷者は国境の町を経由してフンニンゲンへ送られた。モローは峠を攻撃し、10月10日にロトヴァイルとヴィリンゲンの村を確保した。軍はヴァル=ダンフェルの峠へ回れ右した。サン=シールは12日にライン峡谷のフライブルクに到着。軍は13、14、15日にこの危険な隘路を通り抜け、フライブルクを守って小さなエルツ川の背後に布陣した。この間、カール公はエタインハイムに到着し、そこで彼は10月15日にペトラッシュと、18日にナウエンドルフと、20日にラトゥールと合流した。コンデとフレーリッヒの軍団はフランス軍の後衛をヴァル=ダンヴェルの峡谷内と国境の町へと追った。かくしてフランス軍は15日以降集結し、ヴュー=ブリザッハとフンニンゲンの橋を通じてフランスとの連絡線を確立していた。兵の士気と物資は向上したが、まだ彼らは行動を起こさなかった。18日、敵は3万6000人を率いて彼らに行軍してきた。敵の左翼[右翼の間違いか]はライン河に拠り、ペトラッシュが率いていた。中央はヴァルテンスレーベンが、左翼はラトゥールが指揮した。執拗な紛争が続いて起こり、双方に同様の利点と損害を与えた。フレーリッヒとコンデはシュヴァルツヴァルトの谷間を経由してヴァルトキルヒに入った。指揮官は右翼を守ってフライブルクに接近するのが得策だと考えていたが、いまだにその町とヌフ=ブリザッハを守っていた。21日、ドゼーがヌフ=ブリザッハでライン河を渡り左岸をストラスブールへと下った。軍はフライブルクを撤収し、右翼をカウデルンに、左翼をシュリーンゲンでライン河に拠る陣地を占めた。彼らは23日に攻撃を受けたが、ドゼーの兵力を派出していたため数でかなり劣っていた。しかしよい陣地を占めていたためその地を守ることができ、10月26日に少しばかり混乱しながらフンニンゲンの橋でライン河を再渡河した。フェリーのはライン上流にとどまり、他の軍はストラスブールへ進んだ。かくしてドイツで4ヶ月に渡って戦争を行い、皇帝の陣営からバーデン辺境伯、ヴュルテンベルク公、バイエルン選帝侯を引き剥がして武装解除させ、彼らに休戦を認め、集める時間がなかった分担金を課し、いくつかの勝利を得た後で、何ら重要な敗北を蒙ることなく、フランス軍はライン河を再び渡り、右岸にはデュッセルドルフの要塞とケール及びフンニンゲンの橋頭堡以外は何も保持できなかった。

X.

 遥か北方のデュッセルドルフはオーストリア軍の注意をひきつけなかったが、ケール要塞とフンニンゲンの橋頭堡はフランス軍の一部を左岸[右岸の誤りか]に冬営させることも、ドイツを騒がせることも可能だった。そこで彼らはこの2ヶ所を奪うことを決断した。10月28日、4万の兵力が取り巻き、ケールの前に右翼と左翼をライン河に拠り、長さ3500トワーズの塹壕で互いに繋いだ15個の堡塁から成る対城壁線を築き、右岸のケール要塞を完全に取り囲んだ。フランス軍も同様に活動して要塞とライン上流及び下流の突出部に柵を作り武装し、左岸全てに砲列を強いた。彼らは中州、特にエーレン=ラインとトゥフューにも頑強な拠点を作り、後者の前面、ケールから1500トワーズの場所には橋頭堡も築いた。この橋頭堡からキンツィヒまでの距離は1000トワーズ。彼らはライン河から垂直に距離1000トワーズの場所に塹壕で守られた陣地を、またエーレン=ライン中州の橋頭堡を築いた。それはケールからキンツィヒ河口に向けてライン河を500トワーズ下った場所にあった。これらの陣地は24時間ごとに交代する16個歩兵大隊によって守られていた。

 これらの手ごわい防御の準備にもかかわらず、カール公は一方の岸から封鎖することしかできず、ストラスブールとフランス全土から切り離すことができないこの場所を攻囲することを主張した。11月21日、彼はキンツィヒの陣地を攻撃するための塹壕を掘り始めた。11月22日夜明け、ドゼーはケールの塹壕で守られた陣地から歩兵1万6000人、騎兵3000騎の戦闘に立って出撃し、対城壁線を突破し、ライン河から1リーグの場所にあるスンハイムの村と敵の幕営地の背後を占拠した。しかし彼が指揮している兵力はあまりに取るに足らないものだった。いくつかの対城壁線の堡塁を破壊し、15門の大砲に釘を打ち込み、6門を奪い、1500人の捕虜を得た後で、彼は自分の陣地へ戻ることを余儀なくされた。11月28日、敵はすぐに全砲兵隊の姿を見せた。キンツィヒの陣地に対する接近は単なる陽動に過ぎず、主な攻撃はトゥフュー中州の前面にある橋頭堡とエーレン=ラインの中洲に向けられていた。敵はライン河にかかる橋を破壊する計画だった。12月6日、彼はトゥフュー中州とその橋頭堡を奪った。9日には塹壕線の外部を支配し、自身ケールの古い教会に腰を据えた。18日、彼はフランス軍塹壕線右側全てとトゥル=ド=ルーの堡塁を奪った。1月3日、彼はエーレン=ライン中州全てを支配した。6日、彼はライン上流の突出部を攻撃し、橋を破壊した。そして10日には降伏したケールに入城した。フランス軍はこの要塞を放棄し、彼らに属するものを全て河のストラスブール側に運んだ。双方の損害は非常に多く、弾薬の消費量は膨大だった。左岸に築いた多数の砲列のお蔭でフランス軍の砲兵は優位にあった。両軍とも11月、12月、1月の寒気のために大いに損害を蒙った。

 その間フュルステンベルク公はフンニンゲンの対岸に13個歩兵大隊と伴にとどまっていた。フェリーの麾下のライン軍右翼はその場に残っていた。アバトゥッチ将軍が橋頭堡の指揮を執っており、敵が準備を進め橋頭堡を攻囲する意図を示すや否や、この若い士官は最も精力的な防衛のために必要なあらゆる手順を踏んだ。敵砲兵は11月25日には攻撃の準備ができていた。彼らは橋頭堡を活発な砲撃によって攻撃してきた。29日には橋が破壊された。11月30日、オーストリア軍は6000人で強襲を行った。この戦闘は激しく、しつこく続けられた。敵は兵力の3分の1を戦場またはフランス軍の手に残して撃退された。24歳の将軍である若きアバトゥッチは、敵が宿営しようと試みた三日月堡塁からオーストリア軍を追い払うため、守備隊の戦闘に立って出撃した。彼は成功したが、致命傷を負った。この襲撃は結果として攻囲の中断をもたらした。しかし1月19日、ケール奪回の後で、敵は再び塹壕を掘り始めた。そして2月19日、守備隊は降伏し、ライン河を再び渡った。この2つの作戦の成功によってカール公は左岸[右岸の間違いか]沿いのブリスガウとバーデン領内に冬営することが可能になり、強力な増援をピアーヴェ川背後に集結している軍へ派遣し、2月にはその部隊の指揮官となった。この軍はボーリュー、ヴルムゼル、そしてアルヴィンツィの復讐と、マントヴァ、ロンバルディア、イタリアの再征服を目論んでいた。

XI.

 所見1――この戦役の不幸な結果は政府が採用した作戦計画に帰せられる。このドイツへの侵攻目的は以下の通り。第1にウィーンの政府がイタリアの軍を増援するためラインの軍から新たな分遣隊を引き抜くのを妨げるための陽動をする。第2にドイツ帝国諸侯の部隊を皇帝から引き離し、バーデン、ヴュルテンベルク及びバイエルン公を征服し、さらにプロイセンの中立と、ザクセン及びまだ加盟していない北方諸侯との協力によって同盟を強化する。第3にドイツでの戦争を支援し、歩兵、騎兵、及び砲兵の必要とするあらゆるものを供給するためそこから分担金と馬匹を引き出し、さらに共和国自身の資源を使って予備軍を創設する。第4にライン国境を守るためエーレンブライトシュタイン、メンツ[マインツ]、マンハイム、及びフィリップスブルクの要塞を奪い、これらの場所を封鎖している兵を戦役の終結と次の戦役に使えるようにする。第5にフランス兵のドイツでの冬営地と陣地を守るためインゴルシュタットとウルムを奪い、1797年春にマントヴァを奪った後にイタリアとドイツから[オーストリア]世襲領を連携して攻撃できるようにする。

 これらの目的のためには2つのことが必要だった。第1にエーレンブライトシュタインとフィリップスブルクを完全に封鎖し、メンツとマンハイムを包囲する。第2に包囲及び封鎖軍を守るため、強力な野戦軍が戦場をドイツの真ん中まで進め、そして世襲領を脅かす。この軍はそれぞれ歩兵3個師団といくつかの猟騎兵及びユサール旅団から成る4個軍団と、重騎兵予備によって編成され、全部で14万から15万人になる。

 ライン監視軍は、合計で歩兵7個師団といくつかの騎兵旅団の全体で6万人になる3個軍団で構成されるべきだ。2個師団から成る第1軍団はオランダとデュッセルドルフを守り、エーレンブライトシュタインを封鎖する。3個師団から成る第2軍団はメンツを包囲する。2個師団から成る第3軍団はフィリップスブルクとマンハイムを封鎖し、ケールとユナング橋頭堡を守る。2個軍の全兵力は従って20万から21万人になるだろう。これだけの兵力は存在した。ライン方面軍とサンブル=エ=ムーズ軍は戦役開始時点で兵力16万人、オランダ方面軍は3万人、ラ=ヴァンデとフランス国内からもはやその地で不要になっていた兵2万人を引き出せば、合計21万人になる。

 メンツでは封鎖開始後に攻囲用の塹壕を掘るべきである。6、7、8月及び9月の期間があればそこを奪うには十分だっただろうし、同じ攻囲用装備を使ってマンハイムを奪うのに十分な時間すらあった。エーレンブライトシュタインとフィリップスブルクの要塞は9ヶ月の封鎖には抵抗しきれなかっただろうし、冬の間には降伏しただろう。大陸軍の合流は2、3及び4月の間にその移動を隠しながらライン左岸のストラスブール城下で達成すべきである。これほどの規模の軍が突然にラインを渡り、あらゆる方向に素早く前進し、河を守るため散らばった兵を押しつぶすことを考えれば、かなりの成果が期待できただろう。敵の軍はおそらくラインを放棄し、ドナウ河畔に集結しただろう。フランス軍はおそらくウルムを占拠し、作戦の中心となるその地点から、ケール、ノイ=ブリザッハ及びユナングへ通じる唯一の作戦線を使いながら、ヴュルテンベルク領内へ、ヴァルニッツやレッヒへ、またバイエルンへ機動できた。軍はその大集団によってあらゆるものを圧倒し、ドイツ帝国諸侯を武装解除し征服した後にオーストリア君主領の国境で冬営を張ることができただろう。

 パリで採用された計画は異なる精神に着想を得ていた。第1に各拠点は封鎖も包囲もされず、遠方から監視されただけだった。第2にそれぞれ全く反する2つの作戦線を持つ2人の将軍に率いられた2つの互いに独立した軍がドイツに侵入した。彼らは連携も連絡も取ることなく行き当たりばったりに行軍した。彼らは本格的会戦での敗北を経験しないまま撃退された。これらは全て流行していた誤った軍事原則から生じた。敵がコンデ、ヴァランシエンヌ、ランドレシー、及びケノワを支配していた1794年戦役で、フランス軍が中央への直接攻撃に何回か失敗する一方、軍を北方軍とサンブル=エ=ムーズ軍に分けて前者をピシュグリュが敵の右翼へメナンを通って海岸沿いに、もう一つをジュールダンが敵左翼へサンブルを通って進めた時に成功した際にも、この過ちは見られた。この作戦計画の結果はベルギーの征服であり、敵はローエル及びラインの彼方へ追い払われ、少し後にフランドル地方の要塞は相次いで降伏した。

 しかしこれらの見解から引き出された原則は誤っている。この戦役の成功は決して作戦計画に帰せられるのではなく、むしろそれどころか計画の欠陥にもかかわらず、共和国が国境に展開した兵力の優勢のみによって実現した。従って、2つの軍に分割されたにもかかわらず、それぞれの共和国軍はオーストリア軍全体とほぼ同じ戦力を保有していた。フルーリュスの戦いでクレアファイト将軍はジュールダン将軍と同じくらいの数の軍を保有していたが、ジュールダンの軍がフランスが北方に配置していた兵の一部だったのに対し、クレアファイトは彼の戦力の大半を集めていた。彼が戦闘を最後まで持ちこたえて勝者になれば、彼は後にフランスの膨大な大隊数にもかかわらずピシュグリュを打ち破れただろうし、フランス軍は計画の欠陥ゆえに屈服していただろう。もし右翼と左翼に2つの軍を置くのではなく、フランス全軍がサンブル河畔のフルーリュスの戦場で合流し、ダンケルクには監視軍団のみを残していれば、クレアファイトの倍の兵力を持つジュールダンの軍は何の抵抗にもあわず、激流のように敵左翼を迂回し、ラインへの退路を断ったことだろう。勝利は確実かつ決定的だったに違いない。しかしこうした軍事原則からもたらされる不利は外国への侵略戦争の際にはより危険になる。1794年に2つのフランス軍の側面は以下のように守られていた。一方はシャルルモン、ギヴェ、及びフィリップヴィユに、もう一方の翼はダンケルク要塞と海に。そしてもう一方の側面は要塞またはフランス領の一部に拠っていた。2つの軍の連絡は中央の位置にある敵に邪魔されたが、もう少し後方を通じてつながれていた。1796年戦役では2つの軍の左翼、右翼及び後方はいずれも同様に守られてはいなかった。フランドルでは2つの軍は24時間ごとにパリからの命令で管理されていた。1796年には中央からの指示は不可能で、あらゆる作戦は1人の司令官から発せられるべきだった。しかし司令官は2人いた。従って、1794年には戦役計画の誤った原則によってフランスが決定的な優位を得るのが妨げられ、そして1796年にはサンブル=エ=ムーズ軍とラン=エ=モーゼル軍の敗北と災厄の原因になったと言って問題ないだろう。

 共和国は平和を望み、ラインをその国境にしようとしていた。敵がメンツを占領している限り、この国境を得ることは適わない。従ってメンツを包囲する必要があったが、メンツは左岸にあるため包囲するのにより危険な場所だった。ある地域を征服するため行軍している軍は、その両翼を中立地帯か大きな自然の障害物、例えば大きな河や山脈に拠るか、もしくは片翼のみ、もしくはまったく翼側を守られない状態になる。第1のケースでは正面が破られないよう気をつけさえすればいい。第2の場合は片翼を支援できるように、第3のケースでは異なる部隊が中央をよく支援し、そこから離れないようにする必要がある。両翼が守られていないことで困難が発生するのなら、その不利は4つの翼側がある場合は2倍に、6つある場合は3倍、8つある場合は4倍になる。つまり、軍を2つ、3つ、あるいは4つに分けるとそうなる。軍の作戦線は第1のケースなら右翼でも左翼でも問題ないだろう。第2の場合は守られている翼側に置く必要がある。第3の場合は軍の中央の行軍線に垂直に置かなければならない。いずれにせよ5日か6日の行軍ごとに、弾薬と物資を集積し、輸送隊を組織して行動の拠点を作り、作戦線を短縮するための地点を決める砦あるいは塹壕を掘った陣地を作戦線上に置く必要がある。ドイツ侵攻においてはウルムが最初の自然な地点だ。ドナウに面するこの場所は、そこを占拠した軍に両岸を機動する便宜を提供する。ここはインゴルシュタット、ラティスボン[レーゲンスブルク]、パッサウ、及びウィーンの城下を洗う欧州最大の河沿いに多数の貯蔵所を収容できる比類のない場所だ。フランス側ではこの場所はシュヴァルツヴァルトの出口に当たる。

 所見2――(ジュールダン)――第1。戦役開始時点でサンブル=エ=ムーズ軍司令官はすぐライン両岸で作戦を行い、その左翼は中央と右翼から河によって分かたれた。もし6月7日にクレベールがアルテンキルヒェンで1万5000人ではなく3万人に攻撃されていたら、彼は危険な状況に置かれただろう。6月1日に全軍はデュッセルドルフで合流し、ジーク、ラーン、及びラインへと行軍し、すぐれた高地に陣を敷いてそこに塹壕を掘り、ライン方面軍がライン右岸へ渡るのを待つべきだった。

 第2。大公が分遣隊と伴にラインに到着したことは、ジュールダン将軍に軍の位置を変えることを強いるものではなかった。彼はまず戦線を縮小してラーン沿いの陣地を維持し、そしてもし補給拠点に接近することを決めたのなら、彼の全軍をライン右岸にまとめて保持しながらそうすべきだった。そうすれば彼の態度は敵を威圧し、敵はラン=エ=モーゼル軍に対抗するため24個大隊を派出することでその戦力を彼の前で敢えて弱体化させようとはしなかっただろう。

 第3。7月初頭、サンブル=エ=ムーズ軍は再度前進した。ライン軍による渡河は、大公に上ラインへ急ぐことを強いた。彼はヴァルテンスレーベンの3万6000人のみを残し、その部隊は全滅させられるべきだった。しかしこの時代の原則は、覆いをたたくかのようにあらゆる方向へ行軍するというものだった。敵の後衛は同じ戦力によってのみ追撃され、同時にその右翼や左翼を迂回されることも、中央を突破されることもなく、決して危険に晒されず、持ちこたえられる程度の損失をもたらされるだけだった。

 第4。サンブル=エ=ムーズ軍の司令官は、その左翼をザクセン(この国はちょうどプロイセンの中立に加わり、結果としてその派遣部隊はオーストリア軍から去った)の山地に拠り、右翼を守られないままマイン河からシュヴァインフルトとバンベルクへ移動した。この移動により彼はライン方面軍からの距離を広げた。彼がドナウから遠ざかる一方、後者の軍はその河の右岸へ渡ったからだ。それぞれの軍はすべきであった機動と正確に反対の行動を取った。コンパクトな密集にまとまるため後者が右翼に、前者が左翼に拠るべきだったのに、前者は右翼にそして後者は左翼に拠ったのだ[ママ]。

 第5。サンブル=エ=ムーズ軍は8月8日にバンベルクでレードニッツを渡り、ニュルンベルクとラウフへ行軍し、それから左へ曲がってスルツバッハとアンベルクを経てナープへ移動した。かくして30リューの行軍の間、その右翼[ママ]をボヘミアからの進出口に、いまだに敵がバイエルンとレッヒ右岸とヴァルニッツ左岸を占拠しているためその地域の支配者となっているドナウに左翼を晒した。かくして軍は、狭く細長い30リューの長さに及ぶ縦隊を組み、あらゆる方向を敵に囲まれていた。もしフランクフルトからバンベルクまでの30リューの行軍が、両軍の合流という視界に入れておくべき目的に反するものであったとしたら、バンベルクからアンベルクまでの行軍は性急で、明らかに軍の存在を危うくするものだった。バイエルンのこの地域、レードニッツ右岸は、ボヘミアに至る最初の丘による隘路で溢れ返った困難で不毛な土地であり、ニュルンベルクからアンベルクへの道を除いて何の連絡路も存在しない。この街道を守るためジュールダンはベルナドット師団を彼から10リュー離れたノイマルクトへ送り出し、ラティスボンを脅かそうとした。サンブル=エ=ムーズ軍はフランクフルトからマイン左岸に沿って進むべきであり、メルゲントハインまで前進してライン方面軍左翼と合流することでその右翼の安全を確保し、それから右に転じてその左翼をラティスボンへ持ってくるべきだった。ヴュルツブルクに到着してからもなおその右翼をニュルンベルクと並べる時間はあった。司令官はそこからノイマルクト街道を経てラティスボンへ接近するよう行軍すべきだった。いずれにせよ彼は退却が必要になった際には決してレードニッツを下るようにではなく、遡るようにしてラインの左岸へ機動すべきだった。

 第6。サンブル=エ=ムーズ軍司令官は公子カールが彼に向かって行軍してきた時、彼がベルナドットを打ち破った時、彼がラウフとニュルンベルクを支配した時、そして自軍のあらゆる連絡線が遮断された時に、それぞれ忠告を受け取った。これは彼の作戦線の置き方が悪かったためであり、彼が戦争のあらゆる原則に反した機動を行ったからだ。

 第7。しかしベルナドットが敗れた際に、なぜ司令官は誤った陣地を占めるようなまねをしたのだろう? 彼は大公がアンベルクに到着する前にナープを強行渡河し、そこから数リューの距離しかないラティスボンへ前進し、そこでライン方面軍との合流を果たすべきだった。最初の力強い移動は公子カールに彼の軍を集結させるよう強い、そして彼が全分遣隊を呼び戻すことでフランスの将軍が常に退いていた増大し続ける空想上の嵐を晴れ上がらせ消滅させただろう。オーストリア軍は誤った情報を広め、住民の間に間違った考えを宣伝するのに極めて長けていた。彼らは軍の背後に警報を発生させる技術の名人だった。しかし、リナルドの剣を鞘から抜いてしまえば、魔法はすぐに解ける。

 第8。――その1。ヴュルツブルクの戦いでジュールダンは無分別にも兵力の4分の1をシュヴァインフルトに残した。彼が保有していた兵力にルフェーブル師団を加えれば勝利を確保できただろう。その2。もしかれがこの町を9月2日の午前2時に出発していれば、彼は戦場に10時に到着していただろう。そして頭から敵に突っ込んでいけば、彼はホッツェとスタライの20個大隊を圧倒し、ヴュルツブルクを奪ってマルソーとそこで合流できただろう。大公は下手なやり方で彼の戦力を分散させており、3日のかなり遅い時間にならなければ合流させることはできなかった。しかし、2日の正午に到着しておきながら、ジュールダンは大公に軍を再編する18時間を与え、彼は3日午前9時には4万5000人を戦線に並べた。――その3。ジュールダンは戦場で必要な分の3倍の陣地を占めた。彼は兵を一線のみに並べることを余儀なくされ、そして彼らは勇敢だったものの、打ち破られるあらゆる可能性がそこにはあった。

 第9。コブレンツからギーセンへ至るラーンの流れは24リューに及ぶ。その川はデュッセルドルフから30リューの距離があった。もしジュールダンが彼の全師団を最左翼のヴェッツラーに集めていれば、彼は敵を破ってマインまで、そのすぐ後にはドナウまで撃退していただろう。マルソー軍団とオランダから来た師団との合流後、彼の兵力は大いに数で勝っていた。彼はこうした意図について言及していたが、実行に移すべきときに計画の立案によって時間をつぶしてしまった。彼の軍はラーン沿いに哨戒線を敷いたが、マルソー軍団の退却によってリンブルクで戦線は破られた。そこで彼は大急ぎでアルテンキルヒェンへ縦隊を退却させた。その2。その地点からもなお攻撃作戦を再開し、全てを取り戻すのには間に合ったが、彼には決断力が欠けていた。その3。退却を命じた時、それが不可避だと考えていたなら、彼は少なくともデュッセルドルフの防御宿営地まで全軍を集結させて退却を行うべきだった。ライン右岸に大軍が残っている限り、軍にとってこれほど重要な攻撃的移動を常に懸念していた大公は、彼の戦力を派出することができなかっただろうから。しかしジュールダンがアルテンキルヒェンで軍をバラバラにした時に全ては失われ、そして左翼のみがデュッセルドルフへの移動を続ける一方、残りはあたかも左岸とフンズリュックに何か脅威があるかのようにラインを再渡河した。かくしてドイツの中心部にはラン=エ=モーゼル軍が残り、大公はそれを狙った。ラン=エ=モーゼル軍は見捨てられたのだ。

 第10。オランダの兵の増援を受けたサンブル=エ=ムーズ軍の10、11、12、及び1月の行動は説明しがたい。

 所見3――(モロー)ライン渡河は6月24日に実施されたが、サンブル=エ=ムーズ軍が移動を始めた同月1日から4日の間に行われるべきだった。6月24日、渡河の日、最初の兵は午前3時に右岸に到達した。橋は正午には完成すべきだったし、25日夜明けまでに全軍が渡河を終えて戦線を構築しておくべきだった。実際には橋は25日正午まで完成せず、24時間ほど時間がかかりすぎだった。ラインのような河の渡河作戦は極めて繊細であり、兵を長期に渡って連絡の取れないまま晒しておくべきではなかった。

 第2。26日、ライン方面軍は右岸に4万人しかいなかった。サン=シールと2万人は左岸のファルツに、ラボルドと1万人は上ラインにとどまっていた。どんなに遅くとも全軍6万人を構成する3個軍団と予備は26日正午には右岸にいて、河に沿って分散した敵師団を奇襲し圧倒すべく行軍しているべきだった。6月27日にはラシュタットに入城し、30日にはフィリップスブルクとマンハイムを封鎖したうえでスフォルツハイムに入城し、7月1日から4日の間にはネッカー川に到着して敵をそこから切り離すべきだった。そうすれば司令官は15日分を手に入れ、重要でないいくつかの戦闘に兵を巻き込まずに済んだだろう。不要な戦闘の代わりに彼は、既にかなり兵力で劣っている敵を一段と弱体化させるいくつかの素晴らしい勝利を得られただろう。しかもそれは公子カールがラーン河畔から戻ってくる前に実現したはずだ。フランスの将軍の優柔不断さは敵の司令官に、ライン渡河の13日後にケールから3日行程にあるエトリンゲンに彼の軍を集める時間を与えた。7万人と伴に攻撃作戦を開始した時点で、フランスの将軍が共和国の領土について何を恐れる必要があったのだろうか?

 第3。ライン渡河後、そしてサンブル=エ=ムーズ軍との合流を果たす前に、この司令官は軍の3分の1近く(2万人)から成るフェリーノ麾下の右翼を派出した。彼はライン河畔を遡り、シュヴァルツヴァルトを越え、中央と左翼がネッカー川へ前進を続けている間、コンスタンス湖へ進んだ。かくして軍はヴュルテンベルクアルプスに、シュヴァルツヴァルトの山に、そしてドナウ河によって2つに切り離され、それに対しフェリーノに対峙していたスタライ将軍は、シュヴァルツヴァルトの出口で抵抗した後はその戦力をネッカー河畔に集中し公子カールの軍の左翼と合流した。ライン方面軍の3分の2は、敵兵の大半が現れる前に5万人の戦力でネッカーに到着した。マイン河畔のジュールダンとコンスタンス湖沿いのフェリーノの前には、極めて劣勢な敵しかいなかった。かくしてこの行軍でフランス軍は3つの部隊に分かれ、相互に共通点はなく、3つの作戦線を使い、6つの翼側を持ちそのうち5つは守られていなかった。翼側はは最も弱いところなので守られなければならず、それができないなら可能な限りその数を少なくすべきである。

 第4。ヴュルテンベルクアルプスを越えてシュトゥットガルトへ向かったライン方面軍の行軍は、この戦争の精神と一致したものだった。しかし司令官は極めて重要な場所であるウルムを占拠すべきだった。そこを確保することなく、ティロルとスイスの山からチューリンギアとザクセンの山まで広がるドナウ盆地での戦争を実行することは不可能だからだ。彼は右翼をドナウに拠るべきだったし、そうしていればネレスハイムに到着した時にそちらが守られていないような事態にはならなかった。しかしネレスハイムの戦いで右翼と左翼双方を迂回され、しかも中央の支援もなかったにもかかわらず、彼はフランス軍の名誉を保持し、冷静さと忍耐力を示した。

 第5。ネレスハイムの戦い後、彼はジュールダンと合流すべくヴァルニッツとアルトミュールへ強行軍で進み、ラティスボンに司令部を定め、ウルムの次に彼にとって最も重要な場所であるそこの防衛を強化し、そして両岸を機動すべきだった。両軍の合流は8月15日か16日には実現しただろう。この戦役の成功は決まっていたに違いない。だが、そうする代わりに彼は敵が望みうるあらゆることをした。彼は戦役の最も重大な時期に12日間も活動しないままだった。ついにはドナウとレッヒを渡ることを決断した。その後で彼は再び16日間も活動を止めた。彼は自分の左側にフランス軍がいることを知らなかったのではと思いたくなるほどだ。ネレスハイムの戦いの1ヶ月後、そしてサンブル=エ=ムーズ軍が既に彼から80リューも離れたラーン河畔にいた9月10日になって、彼はジュールダンの情報を得るためドゼーの師団をドナウ左岸に派出することを決意した。9月19日、彼は退却を始めレッヒを再渡河した。サンブル=エ=ムーズはライン左岸で戦闘能力を失っており、彼は敵の全軍と戦わなければならなかった。従って彼は、自らの半分を超えない戦力しか持たないラトゥール将軍の前に32日間とどまりながら、攻撃も、会戦も、敵を圧倒することもしなかった。それどころか彼は敵に何の害も与えなかった。この戦役における唯一の重要な出来事はビベラッハの戦いで、それは軍が退路を確保する必要から生じた。この戦いは、もし作戦が翌日も継続され、軍の一部でラトゥール将軍を追撃し、残りがシュヴァルツヴァルトの出口を開くべく機動していれば、もっと重要な結果を持ちえたであろう。ドナウの鍵であるウルムの重要性が実感されたのは、この退却においてだった。

 第6。10月14日にフライブルクとアルト=ブリザッハに到着した時点で、2つの選択肢があった。サンブル=エ=ムーズ軍と連携するため同日にラインを再渡河し、軍に休憩の機会を与えるか、あるいは公子カールがまだ十分な戦力を持たないのを利用すべくすぐ彼に向かって行軍し、彼をレンヒェンとムルクの対岸へ追い払い、ラトゥールとの合流を阻止する。フランス軍はバーデンとブリスガウに陣地を維持できただろう。そうする代わりにフランスの司令官はフライブルクの陣にとどまり、公子カールが分遣隊すべてを集めるのを許した。さらに異常なのは、軍の3分の1をドゼー将軍麾下でライン右岸[ママ]に送り出した後も、残る3分の2を完全な破滅の危機に晒しながらなお同じ優柔不断な状態を続けたことだ。この誤りは重要だ。20日より以前のビベラッハの勝利に鼻高々な時にはあり得なかった敗北し打ち負かされた態度で、軍は混乱したままフランスに再度入ることになったからだ。もしすぐ戻っていたなら、そのような見た目にはならなかっただろう。

 第7。この戦役の奇妙な特徴は、フランスの将軍たちが、自らの失敗にもかかわらず、実質的な敗北を蒙ることなく、常に全てを取り戻す機会を持っていたところにある。モローはビベラッハの戦い後、なお戦役の運命を支配していた。彼は単にロトヴァイルへ行軍し、あわせて1万5000人に満たなかったペトラッシュとナウエンドルフを押しつぶしさえすればよかった。その後、彼はレンヒ河口で9000人未満の戦力しか持たなかった大公へ行軍すべきだった。モローがライン渓谷に到着した10月15日になってさえ、彼は急ぎケールへ行軍することによって状況を取り戻すことができた。そうすることで彼は大公をレンヒから追い払い、ナウエンドルフとラトゥールの部隊との合流を妨げられた。そしてその時点でサンブル=エ=ムーズ軍と連絡が取れるため、彼は間違いなくその軍に前進するよう仕向けただろう。最後に彼は橋頭堡を包囲されている間においてすら過ちを修正することができた。もし彼がケールの防御陣地から5万人を率いて押し出していれば、多くとも3万5000人を超えなかったラトゥール将軍の包囲軍を圧倒し、そしてドナウ河畔で冬営することができただろう。

 所見4――第1。フランス軍とオーストリア軍は数では同じだったが、大公は敵より騎兵で2万人上回っていた。この利点は他の国であれば決定的だろうが、ドイツ人は騎兵をどう役立てるかを知らない。彼らはそれを危険に晒すのを恐れ、実態以上に評価し、あまりにも大切にしすぎる。騎馬砲兵は騎兵という兵科の補完物である。騎兵2万と軽砲兵120門は歩兵6万人と120門の大砲に匹敵する。例えばエジプトのような広大な平野から成る国、あるいはポーランドのように荒地だらけの国なら、どちらが最終的に優位を得るかを断言するのは難しい。従って騎兵2000と軽砲兵12門は歩兵6000人と大砲6門に匹敵する。これらの師団は戦線において500トワーズの長さを占め、1トワーズ当たりは歩兵12人あるいは騎兵4騎に相当する。従って地上に立つ正面1トワーズのあらゆる者を殺す砲撃は歩兵12人、あるいは4人の騎兵と4頭の馬匹を殺すことになる。歩兵12人の損失は4人の騎兵と4頭の馬匹の損失より大きい。なぜならそれは4頭の馬匹のうち1頭に対し8人の人を失うことになるからだ[ママ]。4人の騎兵とその馬匹の装備は、12人の歩兵の装備と等価ではない。従って財政的な面からも歩兵の損失は騎兵よりも高くつく。もし大公が騎兵を大胆に使うのに慣れていた国の兵を指揮していたなら、そして騎兵を勇気づけ彼らを勝利へ導くよう訓練された士官がいたなら、フランス軍が騎兵で2万も劣っていながらドイツへ侵入するのは不可能だっただろう。ナポレオンがヴォーシャンやナンジその他でロシアやプロイセンの歩兵相手に騎兵を使った時の効果を考えるなら、この点は明らかだろう。

 第2。6月、フランス軍がケールでラインを渡ったと聞いた時、大公はラトゥール将軍を助けるためラーン河畔から行軍した。彼は下ラインにヴァルテンスレーベン将軍と3万6000人を、メンツ前面のヘヒフスハインの防御陣地に2万6000人を残した。大公は数千人の回復期にある病人と一緒に8000人の守備隊のみをメンツに、そしてヴァルテンスレーベンには2万5000人のみを残し、上ラインの軍を救援するため6万人と伴に進むべきだった。そうすれば彼はアルプ河畔に9万から10万人を集めることができただろう。一体誰が彼に抵抗できただろうか? 7月9日には彼はドゼーを破り、ライン左岸に追いやってケールとラインの橋を奪っただろう。離れた場所にいたサンブル=エ=ムーズ軍は全く恐れる必要がなかった。たとえ彼らが攻撃作戦を再開し7月10日から15日の間にマイン河に到達したとしても、彼がケールを支配しモローの軍がアルザスへ追い払われていたのであれば、彼に何の影響を及ぼしただろうか?

 第3。彼がアルプ河畔に持つ5万人を右翼の一ヶ所に集め、7月9日に3つの縦隊でムルクへ押し出していれば、彼はドゼーを右翼と左翼で迂回し、中央を打ち破ることができただろう。彼は相手を取り巻き、アルザスへ追いやり、ケールの橋を奪っていたに相違ない。ラインから切り離されたサン=シールはネッカーへと、フェリーノはユナングへ撃退されただろう。両軍が互いに戦線を築き、一方がフランス軍のように橋を通じた退路のみを持ち、もう一方がオーストリア軍のように半円形のどこからも退却できる場合には、後者はあらゆる優位を持ち、大胆な試み、大いなる一撃、敵の側面への機動を行うあらゆる機会が与えられている。彼はあらゆるエースのカードを持っており、後はプレイするだけだ。

 第4。大公はドナウの鍵であるウルムを武装化し食料を蓄え、そしていい守備隊を配備しておくべきだった。

 第5。ネレスハイムの戦いはフランスの2つの軍がアルトミュールで合流するのを妨げる唯一残った手段だった。もし勝利していれば彼はラン=エ=モーゼル軍をヴュルテンベルクアルプスとネッカーへ追いやり、そして主力軍が敗れたため、補助的な軍に過ぎないサンブル=エ=ムーズ軍はマインへの退却を強いられたであろう。ネレスハイムの戦いでフランス軍は地形の困難な場所で側面に何の守りもなく8リュー以上の戦線に散らばっていた。大公はドナウの流れ全域を支配していた。彼の攻撃は全て左翼で行われるべきだった。彼は戦線をドナウと平行に敷くべきだった。彼の退路はウルムと、ギュンツブルク及びディリンゲンの橋によって確保されていた。もしこのように機動していれば、彼は偉大な勝利を得ていただろう。フランス軍はその右翼をドナウに拠らず、フェリーノにウルムを占領させないという愚行のツケを盛大に払ったことだろう。

 第6。ネレスハイムの戦いが失敗に終わったため、大公はフランス軍の合流に対抗することを全く放棄した。もしなおそれを妨げたいと望んでいたなら、彼はドナウの左岸にとどまりながらヴァルニッツとアルトミュールへの退却を実行しただろう。ヴァルニッツの背後にラトゥール将軍麾下の3万人を残し、彼はジュールダンに向かって前進するために必要な5日か6日を稼ぐことができた。そうする代わりに彼はドナウ、ヴァルニッツ、そしてアルトミュールを渡った。ヴァルテンスレーベンは8月の間ずっと、ドナウから遠ざかりボヘミアを守るよう機動していた。かくして2つのフランス軍の合流を妨げるものは何もなくなった。

 第7。ネレスハイムの戦い後にドナウとレッヒを渡った大公は、たとえ何と主張しようとも、バイエルンを守る以外の目的を視野に入れていなかった。彼の位置は微妙だった。ラン=エ=モーゼル軍は6万人、サンブル=エ=ムーズ軍は5万人おり、従って11万人がラティスボン前面に集結しドナウの両岸を占拠するものと考えるべきだった。それに対抗するうえで彼は9万人しか持っていなかった。ネレスハイムの戦いは彼の状況を悪化させた。それはフランス軍に優位をもたらした。モローが数日間、活動せずにとどまり、大いに躊躇し、ドナウヴェルトへ行軍し、アイヒシュテットへ戻り、そしてアルトミュールに偵察すら送らなかったのを知り、彼の自信は回復した。要するにフランスの司令官たちは、あたかもドイツに他のフランス軍が存在することを互いに知らなかったかのように機動したのだ。アルトミュールを見張っていた400騎のハンガリー・ユサール騎兵はなおそこにおり、ニュルンベルクの城門やヴァルニッツに偵察を送っていた。彼が優れた移動のアイデアを思いついたのはそれからで、8月17日に2万8000人と伴にドナウを渡り、サンブル=エ=ムーズ軍に向かって前進した。彼がレッヒ河畔に3万人と伴に残したラトゥール将軍にこの問題について語った際にこのことは説明されている。彼の小さな部隊が危険を蒙りそうなことに警告を受けた将軍は、彼に向かって見解を述べた。「一体どうして勝ち誇った2倍の戦力を持つフランス軍に向かって前進することができるんだ?」それに対し公子は答えた。「その間に私がジュールダンを打ち破れるのなら、モローがウィーン前面に到着したとしてどれほどの重要性がある?」彼は正しいが、彼は将軍をラティスボン前面に配置しドナウ左岸に位置するよう命令することで将軍を勇気づけるべきだった。その場合、モローは左岸でどのような攻撃も実行できなかっただろう。

 第8。大公は8月22日まで、つまりドナウ渡河の5日後まで、ノイマルクトのベルナドットを攻撃しなかった。彼は相手をあまり熱心に攻撃せず、何の害も与えなかった。考えは素晴らしかったが実行は不適切だった。ベルナドットはドナウ渡河の24時間後に包囲され攻撃されるべきだったし、優勢な戦力による猛烈な攻撃が行われればその結果は彼の完敗だったはずだ。

 第9。彼は8月24日にアンベルクへ行軍したが、ほんの僅かな兵力しか連れていなかった。彼は2万8000人の兵の大半を二次的目標に振り向けた。彼は僅かな騎兵大隊のみでベルナドットを追撃し、そして彼の全部隊をあげてジュールダンの部隊の背後に襲いかかるべきだった。そうしてナープ河畔で戦役の行方を決めるべきだった。

 第10。9月20日、ジュールダンが軍を離れ、ライン左岸へ再渡河した時、大公は4万人の兵と伴にウルムへ前進し、ラトゥールにはインゴルシュタットの橋でドナウ左岸へと渡り強行軍で彼に合流するよう命じるべきだった。彼はフランス軍と同時にウルムに到着しただろうし、相手は7万人に向かって前進することになっただろう。そしてその退却は本当に困難になっていたに違いない。だがそうする代わりに大公は1万2000人のみを率いて上ラインに向かい、多数の兵をヴェルネック将軍と伴に無駄に下ラインに残した。彼はまたこの1万2000人の一部も誤って二次的な目的に使い、結果としてケール前面にたった8000人から9000人で到着した。

 第11。彼はラトゥール、フレーリヒ、ナダスティに、ドナウ左岸を機動して退却する軍を側面から包囲するよう命じるべきだった。彼らはそこならペトラッシュ及び他の全分遣隊を受け取れる適切な場所にいた。

 第12。戦役において大公は優れた原則に従って、しかしこわごわと機動した。理解しながらもそれを学ばない人間のように。彼は決定的な一撃を与えることはなく、既に指摘したようにフランスの司令官たちは最後の時まで常に事態を取り戻せる状態にあった。一方、大公はムルクの戦闘で戦役を決めておくべきだった。

 所見5――12月末、フランス軍は2ヶ月の休息を取っていた。彼らは再編され、兵を補充され、完全に回復し、彼らと対峙している2つのオーストリア軍より勝っていた。にもかかわらず公子カールは彼らの目の前でケールとユナングの橋頭堡前面にすぐ塹壕を掘り始めた。もしサンブル=エ=ムーズからの分遣隊で増強されたライン方面軍全軍がケールまたはユナングから押し出していれば、彼らは夜明けに公子カールの宿営地を2倍の戦力で攻撃し、彼らの対抗城壁線を全て制し、その大砲、装備、弾薬を全て奪い、輝かしい勝利を収めていただろう。その勝利は戦役の大失敗を相殺し、フランス軍の名誉を回復し、ドイツを危険な状態にしてフランス軍がライン右岸で冬営することを可能にしただろう。もし、事実と正反対の仮定だが、フランス軍が新たに徴兵された兵、未熟で訓練を受けていない兵によって構成されていたならば、フランスの将軍は確かに敢えて会戦によって包囲を解く試みはできなかっただろう。しかしその場合、敵より多くの兵器、手段、及びより優位な陣地を占めていたのだから、彼は敵陣に対し自陣を、砲兵隊に対しては砲兵隊を積み上げたに違いなく、左岸及び中洲の陣地に支援されて反撃のための戦線に接近したに違いなく、そして敵の装備、軍事倉庫、及び兵の破壊を引き起こすことでこれらの攻囲が敵にとって破滅的であると証明し、そして敵の疲労を通じて彼らに冬営に入ることを余儀なくさせたに違いない。

 これら2つの攻囲は公子カールの慎重さを示すものではなかったが、彼の軍にとっては極めて名誉と成るもので、その勇気と優れた精神を証明した。これらはフランス軍にとってほとんど称賛に値しない出来事であると軍事関係者からは常に考えられてきた。実際には2つの橋頭堡の確保は、フランスにとって極めて重要だった。ライン河は巨大な障害物である。軍事的及び財政的な視点の双方でフランスが有利になるや否や、敵はシュヴァルツヴァルトにまで至るライン渓谷全体をフランス軍へ明け渡すのを余儀なくされただろう。ドイツに関する心配はオーストリアに多くの兵をイタリアへ送ることを許さなかった。フランスの士官たちは弁解の手段として、政府が彼らを大いなる欠乏に晒されるままにし、給与の支払いを滞納し、十分な供給を受けられず、工兵と砲兵は必需品を賄うだけの資金を持っていなかったと断言している。しかしこれらの理由は満足の行くものとは思われない。これらの欠乏はどちらかといえば、電撃的な一撃と、あらゆる可能性がフランスにとって有利だった決定的な会戦によって敵を混乱させる必要性があったことを単に証明するだけのものだ。プリースト・キャップからキンツィヒ川までの間を含む土地と中州には、5万人の軍を配置するのに十分以上の場所があった。

 これらの攻囲を始めた公子カールの軽率さと無分別を正当化しようと望むオーストリアの士官たちは、彼がフランス軍に存在していた落胆と、戦役の結末が指揮官たちに引き起こした驚愕に気づいており、意図していたイタリアでの戦役を成功させるために必要だと考えていたこれほど危険な試みを実行することが好都合であると計算したのは、主に彼ら[フランス軍]の優柔不断な行動に基づいている、と主張している。他の者は、これらの攻囲は彼の意見に反してウィーンの命令によって実行されたと言っており、おそらくそちらの方が可能性が高い。

Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. III p277-342


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