アンベルクの戦い 1796年8月24日



(以下の文章はGallicaに保存されているカール大公の"Les Principes de la Stratégie Développés par la Relation de la Campagne de 1796 en Allemagne"第3巻第2章を機械翻訳で英訳したうえで、さらに日本語訳したものである。はっきり言って内容には全然自信がないので、おかしな点があれば是非ともご指摘願いたい。なお、勝手翻訳なので隠しページ扱いにしようかと思ったが面倒なので普通に掲載する)


 大公はノイマルクトのベルナドットに対してかなりの大軍を送り込もうとしており、その優位によって勝利は確実だと思われていた。ジュールダンにとっては不利だったが、しかしこの優勢は一時的なものであり、そこから偉大な結果を得るためには巧遅より拙速が必要だった。というのも戦いの結果は決定的な勝利かオーストリアへの名誉ある退却のどちらかしかなく、前者は不確かで可能性が高いとは言えず、後者は戦うのに十分な兵力を持って公がドナウ右岸にたどり着けるかどうかにかかっていた。ヴァルテンスレーベンが部隊をボヘミアへ下げたがる傾向があったため、敗北は不可避に見えた。

 兵力を確立し敵の位置を知るため、大公は8月22日朝に歩兵3個大隊と騎兵6個大隊をもって彼の前哨線をタイニングへの街道へ振り向けた。オーストリア軍前衛部隊はザイベルスドルフを占領しバツェンハウゼンへ進んだ。タイニング周辺は高地と森によって分断されていたが、道路からは離れていたため部隊の行軍を遮ることはなかった。町の全面は高地になっており、レーゲンスブルク方面にいくつもの小さな急斜面を形成していた。反対側には険しい深い森があった。町の背後にはさして大きくないラーベル川が小さなじめじめした谷間を流れていた。その左岸には一段と高く斜面の急な立ち木のある高地が迫っていた。レーゲンスブルクの側にはタイニンガーベルクと呼ばれる丘があり、その斜面は開けた地に伸びていた。道路は右へ曲がり、丘の麓にある大きな町を横切り、狭い谷間でラーベル川のへりを通り、溝を渡ってその小川から、盆地に位置して周囲を森に覆われた山に囲まれインゴルシュタット、レーゲンスブルク、アンベルク、ラウフ、ニュルンベルクへの道路が集まっているノイマルクト市へと延びている。この盆地とラーベル川を隔てる山系はほとんどあらゆる場所を森に覆われ、ノイマルクトの平地へ急速に下がっており、レーゲンスブルク街道が横切っている。ベルナドット師団は大半がその地に暴露して、タウエルンフェルトとライテンバッハの背後に陣を敷いていた。左翼は一段と高い場所にある道路に騎兵を置いていた。前衛部隊はタイニンガーベルクに、前哨線はバツェンハウゼン近くにあった。右翼を守る分遣隊はインゴルシュタット街道上にいた。

 8月22日午前10時、オーストリア軍は偵察を実施した。フランス軍前哨線は抵抗することなく追い出され、タイニンガーベルクとミッテルシュタールも奪取された。帝国軍は同様にタイニングにも突入しその一部を占拠した。大公はこの戦闘開始時点の動向を見て、敵は激しい抵抗をするだけの戦力を持たないと判断した。彼はそこで全面攻撃を決断し、ホッツェは協力するようにとの命令を受けた。宿営地に残っていた部隊も道路上を動き出した。ベルナドットはラーベルの水路を守ろうとして、その全軍をライテンバッハとタイニングの丘へ前進させ列を組んでその地へ兵を投じた。前進しすぎていたオーストリア軍は押し返されたが、増援を得て再び3つの縦隊で攻撃した。タイニンガーベルクに配置された砲兵隊に守られつつ、歩兵3個大隊が街道を通ってタイニングに突入した。他の歩兵2個大隊と騎兵6個大隊はジングホーフェンに陽動をかけて右翼を守り、最後に隊列を組んで歩兵2個大隊が左翼へ向かった。夕方には敵は後退を強いられた。ヘレンリートとフィルスホーフェンに宿営していた帝国軍部隊がアファルターバッハに到着するのが余りに遅れ戦いに参加することができなかったために、この地域の戦闘はなおさら執拗であった。間に合う時間に命令を受け取ることができなかったホッツェは、前衛部隊のいくつかの分遣隊にインゴルシュタット街道上にある敵陣地を攻撃させ、敵をノイマルクトの入り口まで追撃した。

 この日、大公はもっとうまくやることができただろう。偵察の目的は攻撃の準備にあったのだから、彼は残る兵も敵と無理に交戦しないようにしながら適当なところまで前衛部隊について行かせ、そして必要な時にすぐ彼らを戦闘に投じられるようにするべきだった。もしホッツェがこの作戦を前もって知らされており、同様に行動するよう命令を受けていれば、彼らは間違いなく22日のうちにノイマルクトまでたどり着き、ベルナドットを完全に打ち破っていたであろう。そうすれば危機に陥りつつあることに対する注意を2日間に及ぶ戦闘が呼び起こすこともなく、オーストリア軍はジュールダンを妨害することでなおさら大きな優位を引き出していただろう。

 22日、優勢な敵を相手に退かざるを得ないことにはベルナドットにとってもはや疑いなかった。彼は夜の間にノイマルクトを退き、市の背後でニュルンベルクとアルトドルフ街道の間にある木立に覆われた高地へ陣を敷いた。右翼はペルティングの背後に、左翼はブラウホーフの背後に、前衛はノイマルクト市内に展開した。

 8月23日朝、オーストリア軍は全面で前進した。ホッツェは真夜中にポランデンとベルヒングを出立した。歩兵7個大隊と騎兵9個大隊はノイマルクトへの主要街道を進んだ。歩兵1個大隊と騎兵2個大隊はヴァペルスドルフの丘を通って右翼へ向かい、右側面を守るとともに大公との連絡を保つ役目を負った。歩兵10個大隊はグリースバッハからフライシュタットを通ってポストバウエルへと分遣され、ニュルンベルク街道を通ってかの地へ警鐘を鳴らした。カール公は歩兵10個大隊と騎兵24個大隊と伴にタイニングからノイマルクトへの道路を前進した。ホッツェの縦隊が最初にこの小さな市の前に姿を現し、彼の前衛部隊が左翼側のニュルンベルクへの道路へ動いて敵を遮断しようとするや否やフランス軍は市から撤収した。ホッツェはその部隊を敵軍の右翼にたどり着くまで道路上を行進させ、それから市に投入した。湿地が多いために行列を作ることが避けられなかった大公の縦隊も合流した。双方が砲撃を始め、既に帝国軍が攻撃を始めようとした時に、フランス軍は高地の背後にある森へと後退した。彼らの騎兵は前面に残って退却を掩護しようとしたが、砲兵の砲撃ですぐに追い払われた。ベルナドットはアルトドルフを通ってラウフの背後まで下がり、ホッツェはそれを歩兵6個大隊と騎兵11個大隊で追撃してホッホドルフに陣を敷いた。その前衛部隊はベルクでフランス軍後衛部隊と1時間にわたって戦い、夕方にはアルトドルフへと後退させた。リヒテンシュタイン公は歩兵2個大隊と騎兵16個大隊を率いてポストバウエルへ到着し、分遣隊をニュルンベルクまで送り出した。大公はノイマルクトに残り、これまでの作戦がただの序曲に過ぎない決定的な作戦の準備を行った。

 彼はヴァルテンスレーベンに敵を注意深く見張り、敵が動いた際には素早くナープ河を渡り攻撃するよう命じた。大公は彼に22日と23日の成功を教え、翌朝には敵の側面と背後を突くべくカステルを通ってアンベルクへ向かい、同時にいくつかの分遣隊がペーグニッツへの進路を阻止するという計画を伝えた。彼は躊躇うことなく同時に攻撃するよう命じた。

 ベルナドットからの報告で状況を知らされたジュールダンは、8月23日朝にペーグニッツへの後退を決意し、この日を物資や車両の移動にあてた。ベルナドットを増援するためか、あるいは翌日に軍が後退する際に側面を守るための当座の部隊として、騎兵師団がフィルスホーフェンを通ってノイマルクト方面へ分遣された。軍はその移動を守るために後衛と前哨線をしばらくナープ河に残したうえで、夜の間に出発するよう命令を受けた。

 しかしフランス軍は、相手に見られずには何もできないような場所に展開していた。車両の移動を見たオーストリア軍は即座に追撃の準備に入った。ヴァルテンスレーベンは午後にフローンベルクの右翼側で騎兵4個連隊と伴にナープ河を渡り、対岸の草原にあった前哨線を駆逐した。彼は同時に全戦線で敵を脅かし、エンジーデルベルクにある大口径の砲兵隊でどんどん砲撃を行った。フランス軍は武器を取った。しかし、その前哨線が河を渡ったオーストリア軍だけを相手にするよう制限されており、しかも敵を追い返そうと真剣に試みなかったため、彼らがその陣地を確保しようと考えていないことはすぐに分かった。

 夕方11時、フランス軍縦隊は移動を始めた。ルフェーブル師団はナープブルクからスルツバッハ街道をハンバッハまで後退し、そこで陣を敷いた。コロー、グルニエ、シャンピオネの各師団はアンベルクへ行った。うち前2者は主要街道を通り、後者はハーゼルミュールを通った。オーストリア軍前哨線が十分な土地を確保したため彼らに続いた部隊は真夜中にナープ河をシュヴァルツェンフェルトへと渡ることができ、夜が明ける前に右岸に陣を築いた。ヴァルテンスレーベンは敵の陣を攻撃するために全ての準備をした。前哨線は3時間持ちこたえ、そしてフランス軍はアンベルクへと下がった。

 夜明け間際にオーストリア軍は移動を始めた。ヴァルテンスレーベンは当初の意図に反し、右翼を守るために歩兵1個大隊と騎兵3個大隊をエツドフルとペニングタンを通ってアシャッハへ送り出す必要に迫られた。クライ率いる歩兵9個大隊と騎兵24個大隊の縦隊は最初はグラーフェンリートを攻撃するべく、フェルフェリング、ヒトリング、ヒルタースドルフを経由してエンゲルシュタットへ向かった。指揮官自身が率いる他の歩兵13個大隊と騎兵22個大隊はゲルマースドルフへと街道を進んだ。フランス軍が抵抗した際には第3縦隊がシュヴァンドルフとクライトに対して実施する攻撃を支援するため、左翼のイルローエへと騎兵の分遣隊が向かった。しかし、この部隊はシュヴァンドルフの橋を修理する時間が必要だとの口実でナープの渡河が遅れ、戦闘の終了時にやっとアンベルクへ到着した。

 ヴァルテンスレーベンがアンベルク方面へ地面が傾斜している場所に到着し広い地平線を見たとたん、彼はフランス軍の配置を一目で見て取り、そして彼の部隊を2列に並べた。右翼はクルムバッハの森に覆われた高地に、左翼はレングフェルト近くのフィルス川に置いた。中央はクルムバッハ、ゲルマースドルフ、キネルスブリュックの背後にある高地にあった。彼はそこでアンベルクに対する攻撃の準備をした。

 この市は、ほぼ全ての流域で高い土手と湿地の多い地域に囲まれたフィルス川によって分断されている。左岸に建てられた部分は、この川と平行にラーヘリング方面へ延びている細くて急な斜面を持ち木立に覆われた高地によって限られた地域にある。この高地には多くの丘があり、その中で最も目立つマリアヒルフスベルクは向かいにあるアンベルクとハンバッハ街道だけでなく、フィルス川の対岸にあるスルツバッハ街道と市の背後の丘までも制圧できる場所だった。より低い高地がラーヘリングからアンベルクを迂回して最初の場所からそれほど遠くないフィルス川の下流まで延びている。この高地には小さな川が流れる谷間が刻まれており、その川はクルムバッハ前面を通った後でモーズ、ゲルマースドルフ、キネルスブリュックと流れ、ハーゼルミュールの風車を過ぎてフィルス川に注いでいる。

 川の右岸では、ペーグニッツへと延びている山の反対側の斜面からいくつかの川が湧き出しており、狭い岩壁を落ちていた。中でも高いところはジーベンアイヒェンの森から弧を描いてアンベルクの近くのインゲルゼーまで伸びており、市の背後では高台となって麓を流れる小川まで緩やかな斜面を形成している。フィルス川右岸に位置するアンベルクの一部はこの斜面に築かれていた。ただし斜面全部を覆っている訳ではなく、斜面から見下ろされる位置にあった。高台の上にはノイリヒトとアルツトハウスという岩に覆われた頂上があった。その背後はフィルスの川岸のように岩に覆われた急斜面になっていた。スルツバッハ街道はこの岩の塊とフィルス川の間の小さな平地を通り、山を回りこんだうえで平行に伸びていた。岩壁のある高台を廻る小川は他の小さな川も合わせて流れ、アマータールの岩の多い渓谷から流れ出た川と病院の近くで合流し、アンベルクがある丘の一部を取り囲んでいる。

 フランス軍の中央及び右翼はこの様々な高地に布陣した。シャンピオネ師団は森とウンター=アマータールの渓谷に拠って、その左翼を病院まで伸ばしていた。グルニエはこの戦線の延長部に位置して市の背後にある高台を占領しており、その前哨線はそれぞれの師団の前面にあった。後者の騎兵と砲兵はアンベルクからケフェリングまで伸びる露出した場所にいた。ヒルシュヴァルトとハーゼルミュールの森とそこの橋及び風車を占領している部隊は孤立した陣を形成しており、アンベルクからカステルへの街道とほぼ平行に右翼を晒し左翼を隠していた。コロー師団はフィルス川の左岸に位置しており、シュヴァルツェンフェルトとシュヴァンドルフに対する防御を固めていた。右翼はこの小川に接しており、中央はアンベルクに最も近いところからラーヘリングへ至る高地を占め、そこから左翼がアシャッハ方面から流れてくる小川まで伸びていた。このフランス軍の配置には欠陥があった。アンベルク背後の高地は有利な場所のように見えるが、コロー師団は広く展開しすぎており、左翼が守られていないうえに背後に接近しすぎたアンベルクの町並みによって他の部隊とは分断されていた。わけても退却は極めて困難だった。部隊が布陣した市とハンバッハ及びスルツバッハへの道路は、マリアヒルフスベルクの丘と放棄しなければならない右岸の高地からの砲撃に晒される場所にあったためだ。グルニエ師団とシャンピオネ師団の背後には岩場があり、そこを通り抜ける通路は彼らの戦線の両端にのみ存在した。最初の道はアンベルクを通過したところでコローと同様の混乱を強いられるものだった。左翼の道は山岳を通る悪い道でしかなかった。退却用に考えられていたスルツバッハへの道路は最も好ましくない方角、つまり陣地と平行に右翼の背後を通っていた。しかし、ジュールダンは敵が来るまでそこで待った。彼が左翼の方が大軍の攻撃に晒されやすいことについてきちんと考慮せず右翼を増援したことは確かに非難に値するだろう。しかしより根本的な問題は、総指揮官のいる方角こそ主攻軸になるという通常の戦争に関する原則によれば彼にとってより重要なのはその退路が通っている地点を確保することにあったであろうということだ。疑いなくこの理由から彼はその騎兵を、アンベルクへと後退した後のシャンピオネ師団に合流させた。

 ボノーは近道を通って実際に8月23日にフィルスホーフェンに到着したが、そこですぐにオーストリア軍は彼を包囲した。彼は偵察隊をノイマルクトとフェルブルクへ派遣したがどこにも脱出路は見つからず、彼はベルナドットが退却しノイマルクトを放棄したことをもはや疑わなかった。オーストリアのユサールが彼とジュールダンの間に潜り込み、その報告を全て途中で奪ったため、彼の困難は増した。

 彼は軍がこの方面に退却するのを掩護するためカステルからアンベルクへの通路を確保するにはこの場所は適当でないと信じた。彼が14日[訳註:24日の間違いと思われる]朝にカステルへ到着した時、大公の前衛部隊もプファッフェンホーフェンの高地に到着したため、部隊が通過できるよう可能な限り敵を食い止めるべく斜面の背後に陣を敷いた。

 ノイマルクトを通ってカステルに至るアンベルク街道は真ん中をラウテルバッハ川が流れる岩の斜面に区切られた渓谷を通っており、そこにプファッフェンホーフェンとノイマルクトもあった。プファッフェンホーフェンとカステルはともに谷間の中にあり、いずれも岩の上にあるいくつかの家を含んでいた。

 大公自身は夜が明ける前、ホッツェの支援を受けてアルトドルフに部隊を派遣したうえで、スタライが指揮する残り6個歩兵大隊と16個騎兵大隊と伴に出発した。9個騎兵大隊を哨戒に出し、彼は前進を続けてカステルへ接近したところで、谷の終端でフランス騎兵がオーストリアのユサールが争っているのを見た。

 敵の戦力がはっきりしない中、彼は双方が砲兵を配置している稜線の背後で兵に戦闘隊形を組ませた。フランス軍の数と意図を確認しようと欲した帝国軍はラウテルバッハ川を渡河できるカステルの右側へ軽騎兵を派遣した。この試みはボノーにとって敵の優勢を示すものであり、彼は背後にこの部隊が現れたと知らされた時に後退した。その間、カステル街道からのこの部隊の到着を防いでいたジュールダンは、騎兵2個連隊と3個歩兵大隊を合流に向かわせた。歩兵は周囲から軽歩兵に攻撃を受けても師団が陣を失うことなく集結できるようウルゼヌルムの森を占拠した。

 カステル後方の丘から敵が引き払うや否や、大公はラウテルバッハからフィルス川の間をシュミットミュールまで覆っている森につながっているウルゼヌルムの森へと前進し、ヴァイエルツァントからハーグまで裾野が広がる丘に陣を敷いた。

 森を偵察し、ヴァルテンスレーベンと行動を伴にできるようになるまで、この場所を攻撃し森に入り込むのは望ましくなかった。しかしすぐに大公の移動に気付いたヴァルテンスレーベンが攻撃をするのが見えた。この状況はオーストリア兵の勇気を火をつけ、指揮官に対する信頼が増した。それは反対の影響をジュールダンに及ぼし、敵縦隊の合流を阻止できないのに加えてこの悪い場所ではこうした状況下で抵抗することは不可能だと感じさせた。

 ヴァルテンスレーベンは3つの攻撃を仕掛けた。第1縦隊を率いるクライはコロー師団の左翼をラーヘリングからアシャッハの背後へ押しやり、敵の陣を迂回しスルツバッハ街道を脅かしてハンバッハへの道を遮断するべくマリアヒルフスベルクを自らのものとした。ヴァルテンスレーベンはコローの中央に対する激しい砲撃に守られながら前進し、その間に2個歩兵大隊と20個騎兵大隊で構成される縦隊は大公に合流した。ハディック将軍はこの部隊と伴に敵をハーゼルミュールの風車から追い出し、そこでフィルス川を渡ってレングフェルトに達した。グルニエとシャンピオネの前衛部隊の騎兵は軍の場所を包むように展開し、歩兵はアンベルクの渓谷を占拠していた。オーストリア軍がケフェリングで隊列を整えて砲撃をしている間に大公がウルゼヌルムの森から現れた。すぐに彼はハディックの戦列に加わり、敵をラメルトショフとアンベルクの前面にあるザンクト=セバスチャンの間まで追撃した。

 スルツバッハへの退却を決断したジュールダンは、オーストリア軍が部隊の中央までたどり着いて攻撃する前に後退を始めた。砲兵の掩護の元で彼は退却を続け、その間に後衛部隊は帝国軽歩兵と競り合った。ボノー師団と、オーストリア軍が激しく攻撃していなかったシャンピオネとグルニエは大きな困難もなくその陣を引き払った。にもかかわらずクライン将軍率いるその後衛部隊は山の中でその左翼を退けられ、そこからヘルスブリュックへの道を探さなければならなかった。コローはより深刻な場所にあった。大軍に押されていた彼は後退するに当たって戦闘を避けることができず、アンベルクとその上流の橋で混乱に巻き込まれた。その後衛部隊は多くの戦闘を強いられ退却が遅れた。彼らはアンベルクの背後の丘にいくつかの兵と大砲を配置したが、6個擲弾兵大隊が市内を突破し激しく攻撃をしてきたためすぐにそこを諦めなければならなかった。そして帝国軍騎兵が街道上を先頭にたって、エルツベルゲまで下がりヴィーゼルホーフ農場近くの小さな平地まで到達した敵の後衛部隊を追撃した。弱体なフランス軍騎兵部隊はすぐ追い散らされ、第20軽歩兵半旅団は方陣を組んで何度も突撃を押し返した後で降伏した。

 大公は目的を達成した。その兵は疲れきっており、夜が近づいていた。彼は兵がいる場所、つまり右翼はアンベルク前面、左翼はファールシュタインの線で動きを止めた。その軽歩兵部隊は敵をポッペンリヒト、アルトマンショーフェン、ローゼンベルク、クロップフェルスリヒト、ディーデルスベルクまで追撃した。ただローゼンベルク背後の森は敵の手に残った。ジュールダンはスルツバッハに陣を敷き直した。グルニエ師団は市の右翼及び背後にありラウフへ至る丘を占めた。コローはスルツバッハ前面に位置し、その前はフィルス川に守られていた。シャンピオネはパッヒェルスフェルトにあり右翼を守っていた。

 アンベルクの戦いは実際に軍が配置につく前に勝敗が決まったいくつもの戦いの一つで、その成功は機動によってもたらされ、確実にされた。アンベルクは戦略的な地点で、そこではシュヴァルツェンフェルトからシュヴァンドルフを経てレーゲンスブルクへ至る街道と、ノイマルクトからスルツバッハを経てニュルンベルク至る街道と、ハンバッハを経てバイロイトへ至る街道とが交叉していた。この地域の地形ではこの五つの街道を横切る道路を攻撃縦隊の移動に使うことはできなかった。一つの街道から別の街道に行くためにはアンベルクを通る必要があった。ニュルンベルクからノイマルクトを経てドナウ河へ至る街道は、そこからシュヴァルツェンフェルトを経てアンベルクへ至る街道から逸れており、後者の道とラウフとアルトドルフの横道あるいはノイマルクトへの道路によってのみつながっていた。この市はアンベルクよりレークニッツに近く、後者とノイマルクトの距離はアンベルクとシュヴァルツェンフェルトの間より大きかった。また、ジュールダンがこの最後に述べた場所に到着するや否や、別の部隊が前進するかあるいは自身がアンベルクへ後退するしか彼に道は残されていなかった。というのもアンベルクからでなければ退却を続けることも横へと移動することもできなかったからだ。しかしノイマルクトを経てアンベルクへ移動する間にこの機動を実行するためにはその目的を達成することが必要であり、さらに良好な退却路を確保するか少なくともアンベルクを失わないようにしなければならなかった。もしそうしなければ、山岳部へ追い出されてそこで粉砕されかねなかった。しかし、大公が多くの兵をノイマルクトで合流させた時、そして同時にヴァルテンスレーベンが、フランス軍が移動すればすぐに追随できるよう攻撃位置についてアンベルクを奪った時、ノイマルクトにいる彼らに目的を達成する確信があったのだろうか?

 かくしてジュールダンは後退したが、私は彼を批判する立場に与するものではない。少なくともスルツバッハに到着するまで、彼がやらなかったことだけが彼の失敗の要因となっており、彼は陣を維持するだけでは合流した敵に対抗することができなかった。彼が陣を守ろうと思ったのなら、ハンバッハにいたルフェーブル師団を明確な目的地を決めずに引きつけることが必要だった。そうすることで左翼をかなり強化し、打ち負かされないようにすることができた。彼の敵にはそれほど優位があった訳ではなく、粛々とした行軍と移動の自由を生かし、物理的な力と士気を維持して、失ったものを回復するべくあらゆる機会を活用する可能性を残しておけばその退却を確実にできただろう。敵が味方の連絡線に対してより短い経路を取れるような行軍線上で動きを止め、機動を制限するようなことをしてはならないのが原則だ。ノイマルクトではなくアンベルクへの道を取るという失敗を犯した後では、ジュールダンは彼の正面とドナウ渓谷で何が起きているかを知るまではアンベルクにとどまっていた方が良かった。あるいは少なくとも、ナープ川に到着したところで敵の陣を攻撃しエンジーデルベルク前面から全て追い払い、レーゲンスブルクへの道を開いておくべきだった。

 大公は、成功は部隊によって構成される三角形に成功は依拠しているという原則に背くような機動ではあったものの、巧妙な作戦を実施した。戦争の科学についてより深い理解をしている指揮官は、その規則の理由を知っており、結果としていつ例外が求められるかも知っている。一部の攻撃に晒されることがないと確信しており、より高次の重要性によって不利な点を補えるのであれば、そうした作戦も許される。実際、共同作戦では各部隊の連携は多くの事故に見舞われがちで、敵に作戦実行を阻害する機会を与え各個撃破されることでしばしば目的を達成できなくなる。同時にジュールダンが戦略と戦術について大きな失敗、つまりオーストリア軍部隊の合流を防ぐためだけに退却路を確保した際に、恐れてはならない。そして大公は、こうした状況を踏まえたうえで上に述べた原則を外れることが十分に認められると見たようである。



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