特殊潜航艇  海 

 

「海龍」は海軍工作学校教官・浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された、二人乗りの

有翼潜水艦である。局地防禦用の特殊潜航艇であり、その構造は従来の潜水艦や「甲標的

等とはかなりの部分で相違があった。頭部に600キロの炸薬を持ち「回天」と同様に死を前提

とする特攻兵器だった。

 

開発

海龍の設計は昭和18年から始められ「SS金物」の秘匿名称で呼ばれた。昭和18年 3月、

甲標的甲型(蛟龍)に翼を付け改造した小型潜水艦(S金物)を考案、実海域で航走実験が行

われたが実験委員会では認められなかった。

19年 5月、横須賀鎮守府指令長官は「海軍工作学校長をしてSS金物一基建造せしむべし。

横須賀海軍工厰長、海軍航空技術厰長をしてこれを援助せしむべし」との訓令により作業が

進められ、6月27日にSS金物の試作艇が完成した。

6月19日付で横須賀海軍工廠長宛に「仮称SS金物実験の件の通帳」が出され、 6月28日に

は横須賀鎮守府、呉鎮守府、第六艦隊、それぞれの司令長官宛に、官房艦機密第四〇七五号

「仮称SS金物の実験訓令」が発令され、呉鎮は潜水学校第一特別基地及び呉工廠に施工さ

せ、横鎮は水雷学校と協力することとなり、大浦の甲標的部隊(一特基)から前田冬樹大尉、久

良知滋大尉(ともに海兵71期) が横須賀に派遣された。

技術陣と搭乗員との間に激論が交わされ、SS金物は逐次実用可能な艇に変わっていき、両大

尉はSS金物の戦略.戦術的用途について「SS金物は局地防禦用兵器として活用し、本土防衛

用として大量に整備すべきである」との書を、連名で軍令部.軍務部.艦本のほかに提出、訓練

教育要員の育成、基地の展開等について説き回り 、12月 3日付訓令では12月で3隻、1〜3

月で各5隻、計18隻の製造が認められた。

 昭和20年 2月中旬、SS金物は「海龍」と命名されて兵器として正式に採用され、その量産につ

いて海軍大臣訓令が発せられた。

 

突撃隊の展開

昭和19年11月、神奈川県三浦半島の油壷にある東京帝國大学臨海実験場に訓練基地が開

設され、海兵士官、予備学生、甲飛十三・十四期生らが続々と着任した。

昭和20年 3月には第一特攻戦隊が編成され、その下に横須賀突撃隊、第十一突撃隊が編

成された。

油壷湾/神奈川県三浦市

 

昭和20年 5月29日付「水上水中特攻作戦指導要領腹案」の第二作戦要領では、水上水中

特攻兵器の攻撃目標選定標準を次のように定めていた。

  第一目標 第二目標 第三目標

蛟 龍

空母、輸送船 巡洋艦、駆逐艦 戦艦

海 龍

輸送船 空母、巡洋艦、駆逐艦 戦艦

回 天

空母、戦艦、輸送船 巡洋艦 其の他

震 洋

輸送船、大型上陸用舟艇 駆逐 其の他

海龍は、鳥羽・江之浦・下田・油壷・勝山・小名浜に前線基地を設営し、逐次展開する予定で、

6月中旬に第十一突撃隊の36隻が油壷に展開、同月下旬には震洋隊等との総合夜間訓練が

実施された。

戦後、三浦半島の洞窟陣地で米軍に接収された海龍

 

幻の出撃

8月上旬、八丈島の観測所から「敵大艦隊発見」の一報が入り、油壷基地に「決号作戦発動」の

指令が届き、「全艇出動用意」「雷装」「九十九里浜沖で沈座待機」と矢継ぎ早に指示が出され、

各艇が出撃し城ヶ島を回ったところで「誤報」が判明、かくて海龍突撃隊は実戦に参加すること

なく終戦を迎えた。

  

横須賀海軍工廠                           横須賀突撃隊

 

昭和53年 5月27日、静岡県熱海市網代港の北北東300メートルの海域から引き揚げられた海龍

 

海龍特攻隊

更新日:2001/12/16