1997年本州最北端の旅

  乗った鉄道: 私鉄 十和田観光電鉄  南部縦貫鉄道  下北交通(第3セクター)
          JR  大湊線 東北本線(盛岡=野辺地)

 「南部縦貫鉄道」がその年のGWを最後に運転休止(実質的に廃止?)になるとの話。鉄道ファンの間ではレールバスと慕われた車輌を見たくて、青森県東部、上北・下北地方のローカル線の旅に夫婦で出掛けた。これが旅行貯金と、意識してローカル線に乗り歩くきっかけとなった記念すべき旅となる。長文になるが旅の記録を書いてみる。

4月23日                                   【写真:十和田市駅にて】

 盛岡で乗り継いだ東北本線特急「はつかり」から三沢駅に降り立つ。西口に出ると目の前に三沢駅前郵便局が。旅行貯金を目的に最初に訪れた記念すべき局となる。人間の倍ほどの大きなこけしを前に、駅前で記念撮影。十和田観光電鉄で終点の十和田市駅まで乗る。ホームからは道路をまたぐ跨線橋を渡って駅ビルへ。ビルを出ても駐車場があるだけ。
 新渡戸一族らが中心となって開発した人工河川・稲生川の対岸に、電鉄の本社と車輌基地がある。十観電鉄の線路はこの川に沿って走っているが、土手の蕗のとうが印象的であった。
 振り向くと駅ビルの一角に十和田東一番町郵便局が。次に折り返す電車で三沢へ戻る。予約しておいたパークホテルまでタクシーで乗り付けたが、なんとホテルの入口が当のタクシー会社の本社。ホテルの階段や廊下の窓から三沢基地が良く見え、戦闘機の発着のたびにジェットエンジンの騒音は相当なもの。

4月24日
 市役所近くの「三沢中央」バス停から七戸行きに乗車、東北線の線路に沿って北上するが、右手には米軍の通信傍受アンテナ「象の檻」が遠望できる。上北駅から左折するが、乗客は医者通いと見受ける老人が数人乗り降りするだけ。「駅前」との案内で飛び降りると、そこが南部縦貫鉄道の2階建て本社と終着駅。「さよならレールバス/ご声援ありがとうございました」との看板が掲げてあるが、広場には数台の車が駐車しているだけ。人影は見えない。駅員に聞くと次の便が到着するまで2時間ほど間があるとのこと。ファンもどこかで時間待ちか。
 許可を頂いて構内に入り、のんびりと車庫に眠るキハ101号車と旧国鉄からの気動車、もの寂しく留置線に置かれたはジーゼル機関車2台とラッセル車を撮影する。今年の冬の除雪作業が最後のお勤めになったのかと思うと「長い間、ご苦労様でした」と声を掛けたくなる。小雪が舞う天候だったが、枕木の間にはタンポポの花が咲いていた。

 時間があるので、七戸市街を散策。新しいが白壁造りの青森県七戸郵便局で貯金、故郷名産のワイン詰め合わせを記念のために自宅宛に発送する。レールバスの絵が描かれているラベルが貼られていたので。身障者が運営するパン屋さんでコーヒーを飲んだり、川の中に噴水がある公園を眺めながらの散歩で時間を潰して駅へ戻る。

       【写真:七戸駅構内にて給油中のキハ102】
 下り到着の時間になると、数人のファンが構内に散る。遠くの林の影からカーブを曲がって小さいレールバスが近づいてくる。キハ102号車は駅舎寄りのホームに到着、相当数のお客さんが降りてくる。いつもこれくらいの利用者があれば「休止」という状態にはならなかったろうにと。
 客扱いが済むと、バスは一旦本線に戻り、留置線の方へ再入場、給油作業である。これらの作業は運転手が全て一人で行っていた。
 ホームに戻り、いざ出発時刻が迫るとカメラを抱えたファンだけでなく、生活の中に溶け込んで利用していた地元の方々も混じっているようだ。私たちのような、初めてで最後という利用者も含めて満員、途中での乗車は不可能な状態である。都内の通勤ラッシュと変わらない。車掌さん(ワンマン運転ではない)も動けない。途中の踏切を通過した直後の、レールと車輪とのきしむ音は特別に高くなる。一種の踏切自動制御装置なのか、線路になにか仕掛けがあるみたい。
 野辺地のホームには、防雪原林(鉄道記念物)の脇に小さな無人の待合室が。ここからは出入り出来ない。JR待合室から長い跨線橋を渡ってこの線のホームに至る。折り返し運行では、積み残し(乗り残し)が大勢いたみたい。

 野辺地町の郵便局は駅から遠い。あきらめて予約した旅館を探すと、隣が野辺地駅前簡易郵便局。始めての「簡易郵便局」である。窓口は複数あるがご婦人が一人、客待ち顔で座っている。宿(コマイ)では鉄道ファンとお見受けする数組の同宿者も。

4月25日
 バスで海岸を往復、常夜灯を見物、漁港周辺を散策する。
 青森発大湊行きの快速「しもきた」に乗る。キハ100形単車運行が青森方面から進入、(はまなすペイライン)大湊線は野辺地10:27発で折り返し方向に出発する。途中は陸奥湾の波打ち際をどこまでも真っ直ぐに走る。陸奥横浜周辺の菜の花には季節的に早すぎ、菜畑も確認できず。JR本州最北端の駅「下北」に11:12着、隣のホームから第3セクター下北交通線11:17発に乗る。キハ85−3のこれも単車ワンマン運転だが、先頭に「火の用心いか丸くん」と大きなマンガの看板が取り付けてある。

                                         【写真:下北駅にて】
 終点大畑は本州最北端の鉄道駅、乗車証明書を発行している。あなたは「みらい海峡ライン」に乗車されたことを証明します・・。次のバスを待って駅前を散策、「薬研温泉郷大畑郵便局」へ。スーパーで弁当を買ってバスに乗る。海岸線を走って大間崎で下車。「ここが本州最北端の地」なる碑や展望台から、説明板に従って遙か海上を眺めたが、天候のせいかうっすらと北海道の陸地が見えた感じがするだけ。強風の中を付近散策。昭和20年7月、終戦の1ヶ月前に沈没した日本海軍特務艦「豊国丸」や大間崎灯台の説明板には、いずれも「大間崎観光最北端協同組合」とあるが、どんな協同組合なのだろうか。
 戻りのバスまで2時間以上も待ち時間があったのに、来るときに大間の町までバスに乗っていれば「本州の最北端の?郵便局」に寄れたのにと残念。帰りは下風呂下車、バス停前の旅館(長谷旅館)に泊まる。ここは小説「海峡」を書いた井上靖が泊まったところ、彼と同じ部屋に泊めてくれた。新道を挟んで港が見下ろせる部屋だった。

4月26日
 太平洋の水平線から登る朝日は奇麗だった。大畑から大間崎へ向けて作りかけの軍用鉄道・夢の海峡線「大間線」のトンネルや高架路床などを散策、この工事に使役された朝鮮人労務者の帰国悲話もあった場所。
 バスで大畑へ、下北交通線終点から大湊へ一駅。海岸を散策していたら、「斗南藩士上陸之地」なる小さな公園がある。幕末、戊申戦争に敗れた会津藩が最後に移された土地とか。初めて知る歴史の一こまである。更に歩くと立派な建物が、市民会館で図書室などあり、事務室でお茶を頂きながらお話を伺う。窓から海上自衛隊大湊基地とおぼしきものが遠望できる。駅への途上寄った喫茶店では、丁度鉄道写真展を催していた。

 野辺地で485系特急「はつかり22号」North East Expressに乗るところまでは、予定通りの順調な旅だったが、どこかで事故があり、八戸駅ホームに停車したまま動かない。八戸線のキハ48系の写真を撮りながら1時間以上も待たされ、予約した新幹線には到底間に合わない。幸い仙台からは臨時(事故のためでなく、季節的な)の新幹線に乗ることができ、どこかの駅の待合室での臨時仮泊は免れた。

2001年6月記


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