通信技術の発達史
通信社は通信技術で支えられている <2>
電話開通と速記術
米国でグラハム・ベルが電話機を発明したのは1876年、一年後にはわが国にも電話が渡来している。1889年に東京〜熱海間で始めての一般公衆電話の通話実験に成功、翌年の12月には東京〜横浜間で電話交換業務を開始した。1899年には東京〜大阪間に長距離電話回線が開通し、全国的に電話網が広がっていく。
帝通が誕生したのは1892年、電報はもちろん、大都市では記事の送信に電話も活用されていた。
電通は1921年末に編集局と出先記者との間に専用電話を導入したり、顧客に対して一斉に同時送信できるループ式同報電話を開設した。プリントの配信から同報電話へと速報態勢が進んだ。
通信ケーブルの多対化技術が進むと、遠く離れた都市間でも専用線としての利用が可能になる。1924年に電通は東京〜大阪間に長距離専用電話回線を開設、株式や商品署場の速報に効果を表す。聯合も1924年に東京〜神戸間に開通させた。
地名や人名などの難解な文字を伝えるのには「○○偏につくりは××」というように字解して送らねばならない。字解を含めた長文の電報では、電報料金が高額になる。不明瞭な部分の聞き返しができる電話は便利だった。しかし、通話品質が悪くて雑音交じりの電話をロングで聞き取るのでは、電話料も馬鹿にできない。そこで、速記が登場する。
新聞社では、講演や講談の記事化のために早くから速記を使っていた。日本における速記術は、欧米のステノグラフィー(Stenography)に刺激を受けた田鎖綱紀によって1880年代に開発された。その弟子たちによって改良が加えられ、現代では衆参両院の速記養成所や早稲田式が主流となっている。
東京〜大阪間に電話が開通すると、新聞社では素早く電話速記が登場、帝通でも採用された。定時通話の限られた時間内の記事送稿に、速記は大きな武器となった。長く続いた専用線の全盛時代を通して、通信社での速記は花形職場であり、そこに働く速記者たちは特に優遇されたと言う。
1932年に松前重義、篠原登らが無装荷ケーブル方式の論文を発表、これを基にしてエコーや遅延が少ない長距離通信ケーブルの搬送電話回線が実用化された。1940年には対馬海峡を渡って日満無装荷ケーブルが大陸へ延びた。同盟の専用線は、幹線だけでも札幌から満州のハルピン(当時)まで、7千キロメートルの長さに及んだ。
伝書鳩と航空機
陸軍は第1次大戦で経験を積んだフランスから教官を招き、中野にあった電信隊に「陸軍軍用鳩調査委員会」を置いて、海軍と共同で伝書鳩の研究を始めた。1922年に昭和天皇が富士山に登山した際の報道合戦で、新聞各社は陸軍の軍用鳩調査委員会から借りた軍鳩で五合目の山小屋から記事とフィルムを中野の鳩舎へ運ばせた。鳩が運んだ新聞写真の最初だと言われている。
通信社としては、電通が1928(昭和3)年に伝書鳩の訓練を始めた。特に島や洋上を航行する船の上からの速報合戦に良く働いた。特に太平洋戦争直後、通信線の復旧が遅れていた時代に、伝書鳩の全盛期を迎える。しかし、取材送稿にVHF(超短波)移動無線機の利用が定着すると、新聞、通信社の伝書鳩は姿を消していく。共同が1959(昭和34)年3月、最後まで残っていた毎日新聞は、本社の移転を機に1966(昭和41)年に廃止した。
*黒岩比佐子著「伝書鳩・もうひとつのIT」(文集文庫142)を参考としました。
東京港区の汐サイトにある共同通信本社2階受付わきに、1羽の伝書バトの標本が飾ってある。(左の写真) 「共同331号」と呼ばれていたハト君である。後ろの説明をここに書き写す。
伝書バト 「共同331号」
1947(昭和22)年10月30日、金沢で行われた第2回国民体育大会の開会式を撮影したフィルムを、共同通信社の5羽の伝書バトが東京へ運んだ。共同331号はそのうちの1羽。金沢出発時間は午前10時5分、東京到着時間は午後4時25分、銀座・電通ビルまでの350kmを飛んだ。運んだ写真は31日付朝刊に掲載された。
戦前、ハトは通信業務で重要な役割を果たしており、日本電報通信社(電通)のニュース業務部門(通信部)では、陸軍から買い入れた20羽のハトが活躍していた。ハトは5羽1組で出動、通信筒を脚にくくりつけて時速60kmで飛び続け、船でのインタビュー記事やスポーツ競技の写真を運んだりしていた。
電通・通信部は1936(昭和11)年1月1日、国策により新聞聯合社と合併し、共同通信の前身・同盟通信社が誕生した。その際、ハトは電通ビル屋上の鳩舎とともに同盟通信に引き継がれた。戦後同盟通信が解散し、1945(昭和20)年11月1日、共同通信社と時事通信社に分かれて再出発、ハトは共同通信に譲られた。
しかし、電信電話の発達で次第に出番が少なくなり、1959(昭和43)年3月に役目を終了、ニュース活動から姿を消した。
一方、電通は1926(大正15)年に国産の三菱十年式艦上機を購入して航空部を設け、翌年京都で行われた大正天皇の大葬では、関西や九州の契約各社へ写真原稿と映画フィルムを空輸した。新聞社でも自社航空機の利用が進み、1931(昭和6)年の満州国建国式典の写真速報では、事故機を出しながらも激烈な速報合戦を繰り広げた。
電通が使用した航空機
10式艦上偵察機(三菱R-12) 大正15年 昭和3年に奈良県黒石山に墜落。
サムソン2A2 昭和3年 昭和3年に伊勢湾に墜落。
サムソン2A2 昭和3年 2機購入、昭和7年に老朽化のため廃棄。
サムソン2A2 昭和4年 2機購入。
サムソン2A2 昭和7年
トラベルエア4000 昭和7年 昭和?年、満州から福岡への途上、朝鮮半島で大破。
フェアチャイルド22C J-BIWS 昭和10年
同盟が航空機を導入したのは、日中戦争が始まった後の1938(昭和13)年に1号機を購入したのが最初だった。しかし、年末には羽田飛行場で機体点検中に焼失してしまう。翌年に2号機を、続いて3号機として大型機を導入した。太平洋戦争では南方にも活動範囲を広げ、原稿運びだけではなく、機材や要員の輸送にも活躍した。戦後の共同は自社機を持たず、もっぱらチャーター機に頼っている。
同盟が使用した航空機
97式司令部偵察機(三菱雁2型) J-BACL 昭和13年 同年10月、羽田飛行場で焼失。
中島試作重爆撃機(キ-19) J-BACN 昭和14年 魁(さきがけ)号。
97式司令部偵察機(三菱雁2型) J-BACR 昭和15年
96式陸上攻撃機(三菱G3M) 不明
97式重爆撃機(三菱キ-21)
不明
三菱MC−20(国産の本格的旅客機) 不明 雁ノ巣飛行場で離陸に失敗、大破。
中島ダグラスDC−3 不明 昭和20年、台湾沖にて撃墜された。
機上作業練習機(白菊) 不明
*各社使用の機種は、日本昭和航空史「新聞報道通信機編」(モデルアート平成5年12月号臨時増刊)を参考にしました。
= 続く =