通信技術の発達史
通信社は通信技術で支えられている<1>
はじめに
ニュースを取材して集め(集信)、編集整理してそれを新聞社・放送局に届ける(配信)のが、通信社の仕事である。いずれにも通信手段が必要となる。
通信社の歴史に関する研究は若干見受けられるが、その通信社を支えてきた通信技術の発達史の面で論じられた資料は少ない。
日本新聞聯合社(聯合)と日本電報通信社(電通)の通信部が合体して、同盟通信社(同盟)が誕生したのが1936(昭和11)年。その少し前、中国東北部に満州国通信社(満通)が生まれたのが1932(昭和7)年だ。この辺りから近代的な通信技術を積極的に取り入れてくる。
その全段として、わが国に電信電話などの通信技術がどのように入り、どのように発展してきたかを振り返ってみよう。続いて、通信社がそれらの技術をどのように取り込み、自らの仕事を展開してきたかを、遡って見たい。
ニュース通信社を英語でニュースエージェンシー(News
Agency)、またはニュースサービス(News Service)とも表現する。ワイヤサービス(Wire
Service)とも呼ぶことがある。前者を「通信社」と訳したのは名訳だと思うが、後者は文字通り「通信線によるニュースサービス」を業とする組織であることを表している。
電信線の開通
通信技術の歴史をさかのぼる場合、古い狼煙(のろし)や腕木式の通信は置くとして、ここでは電気通信の歴史から見てみたい。「通信社はケーブルとともに延びる」と言われ、近代的通信社の発展は通信線(術)の発達に大きく依存してきた。
日本に始めて電信線が引かれたのは1869年、横浜の弁天灯台役所と裁判所の間だと言われている。同じ年に東京〜横浜間に電信線を敷設、両端に伝信機役所を置いて電信事業を開始した。そのときは、両端に「ブレゲー式指示電信機」を置いて文字の送受信をしていた。
2年後の1871年12月、デンマーク系の大北電信会社(GNTC)が上海から東支那海を渡って長崎へ、翌年1月にはウラジオストックから日本海を渡って海底電信線を敷設した。これで海外とは電信がつながったが、1873年には東京〜長崎間に電信線が開通、1879年までには国内の電信線の骨格が完成する。東京〜横浜間の電信開通から約4年後である。
本州と九州、四国、北海道を結ぶ海底電信線の敷設には、前記の大北電信会社に依頼する。陸上部分は自前の技術でなんとか電信線を張っていたが、工事を急いだので、電信線を街道の松並木に架けたりもしたらしい。
西南戦争(1877年)当時には九州各地へも電信線が引かれていて、熊本城救援の政府軍は、その作戦遂行に電信を駆使したらしい。わが国最初の従軍記者といわれる郵便報知新聞の犬養毅(後の首相)が「戦地探偵人」として政府軍に従軍したが、記事を送るのに電信を利用したかは不明である。
1887年に商況通信の元祖と言われる東京急報社が設立されたが、手旗信号で相場を送っていた。
長崎を起点に、ウラジオストックからロシア大陸を縦断して北回りロンドンへ、上海から英国系の大東延長線(Eastern
extenshion line)、大東線(Great eastern line)を経由して南回りでロンドンへと、対欧通信路が開けた。それまで上海からの船便に頼っていた英国ロイター通信社も、横浜まで直接電報でニュースを送ってきた。
太平洋方面では、遅れて1906年に日米海底電信線が開通した。当時の海底電信ケーブルは、1本の銅線の回りに保護材を巻き付けた、単芯ケーブルである。わが国は国内電信網の整備を進めると同時に、こうして国際電信網の一角にも組み込まれていった。
無線電信
1888年、ドイツの物理学者ヘルツが電波を発見し、1895年にマルコーニが無線電信を発明した。日本海軍は洋上を航海する艦艇相互や、陸上基地との間の連絡が必要であったので、無線電信の実用化に積極的であった。日露戦争で哨戒艦信濃丸がバルチック艦隊を発見して発信した「敵艦見ユ」の電報は有名。このとき使用した送信機は国産で、安中電機製作所(現アンリツの前身)製であった。送信機は火花式、受信機は鉱石検波機を使っていた。
三極真空管が発明されたのは1907年のこと。1908年に銚子無線局が開局しているが、真空管を使った無線送信機を採用したのは1923年になってからだった。
1916年に太平洋を横断して日米間に無線電信が開通する。初期の無線は長波の電波を用いたが、1928年頃から短波の利用に切り替わる。航海中の船舶向けのニュース放送を目的とした「無線時事通信社」が1929年に設立されている。この辺から主題である「通信社」との関連で話を進めよう。
当時、個人で短波無線を傍受することは法律で禁じられていた。1924年に帝国通信社(帝通)がフランスのボルドー無線の受信を開始したのが、無線による外国ニュース電報(外電)受信の最初だが、これも逓信省への委託による受信だった。国際通信社(国通)大阪支社にいた技術者が、海外の無線新聞放送を受信しようと試みたが、当局はこれを許可しなかった。
後になって電話の実用期、専用線と予約電話を併用してニュースを配信するようになったが、多くの顧客に対して同時性が保てない。そこで無線同報によるニュース放送が望まれた。聯合が逓信省に強く要望を出したが、電通と競合している状況のため許可されなかった。実現したのは、同盟になってからの1940年のこと。
同盟本社と同じビル内に開設された東京中央電信局分室からモールス信号で送られたニュースは、千葉県検見川送信所から3波同時発射で送り出され、支社局内の電信局分室で電信局員が受信していた。
対外無線放送は、これも中央電信局分室から栃木県小山送信所に送られ、6台の短波送信機で各方面向けに発信された。
海外からの無線放送受信は、逓信省電信局に依頼するしかなかった。太平洋戦争が始まると、旧愛宕山放送局の施設を利用して逓信省、内閣情報局が外国からの情報を受信していた。NHKと同盟のオペレーターが嘱託の身分で参加している。
国内での無線通信は規制されていたが、国外へ活動範囲を広げた国通や同盟は、自前の無線通信網を活用していた。大連〜ハルピン間しか専用線を持たない国通は、独自に携帯型の小型無線送受信機を開発、広大な中国東北部での移動無線通信網を展開した。
中国戦線でも、太平洋戦争でも、その広い地域に展開した取材、配信網は無線に頼り、従軍する報道班は自作の送信機を携帯した。基地局は現地の通信会社と専用保守契約を結んでいた。
= 続く =
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