大伴宿禰安麻呂
おおとものすくねやすまろ
- 生没年 ?〜714(和銅7)
- 系譜など 孝徳朝の右大臣長徳の第六子(02/0101題脚)。旅人・田主・宿奈麻呂の父、家持の祖父。万葉集には佐保大納言大伴卿・大納言大将軍大伴卿などの名で見える。
- 略伝 天智年間、巨勢郎女を娉う歌が万葉に見える(02/0101・0102)。672(天武1)年、壬申の乱に吉野方として参戦。同年6.29叔父の大伴吹負が坂上熊毛らと謀って奇襲作戦に成功し、倭古京を制圧した時、安麻呂は不破宮の大海人皇子にこれを報告。天武政権確立後は壬申の功臣として重んぜられ、684(天武13)年1.28、広瀬王らと共に新都のための適地視察の使に派遣される。686(天武15)年1月、川内王らと共に新羅の使者接待のため筑紫に派遣される。688(持統2)年8.10、天武の殯宮に際し、誄を奉る。文武即位後の701(大宝1)年3.21、直大壱より「正従三位」に昇叙される。『公卿補任』にはこの年3.19、中納言に任じられ、同年3.21停中納言(中納言廃止は続紀にも見える)、散位と為る、とある。702(大宝2)年1.17、式部卿に就任。同年5月、前年廃された中納言に代わって新設された参議に就任する。同年6.24、兵部卿を兼ねる。705(慶雲2)年4.17、大納言の定員が4人から2人に減り、中納言(3人)が復活する。これに伴い粟田真人らが中納言となるが、『公卿補任』によれば安麻呂もこの時中納言となる。同年7月、大納言紀麻呂が薨じ、代わって安麻呂が大納言に昇進。この時点では右大臣石上麻呂・大納言藤原不比等に次ぐ第三位の地位であった。同年11.28、大宰帥を兼ねる(遥任か)。708(和銅1)年3.13、石上麻呂が左大臣に、不比等が右大臣に昇進するが、安麻呂は大納言に留められ、帥は解任される。710(和銅3)年3.10、平城京遷都に際し、佐保に宅地を賜わる。714(和銅7)年5.1、薨ず。時に大納言兼大将軍正三位。「不受葬礼。遣大膳大夫鈴鹿王等」(補任)。元明天皇より従二位を追贈される。万葉に3首、02/0101、03/0299(一説に旅人作)、04/0517。
関連サイト:大伴安麻呂の歌(やまとうた)
大伴氏の歴史へ|系図へ