大伴連吹負
おおとものむらじふけい
- 生没年 ?〜683(天武12)
- 系譜など 名は小吹負・男吹負などにも作る。咋子の子。長徳・馬来田の弟。子に祖父麻呂・牛養がいる。
- 略伝 672(天武1)年6月、壬申の乱勃発の際、大和に留まって大海人皇子への帰順を決意、僅かに数十人の同志を得る。同月29日、坂上熊毛と謀り漢直らを吉野方に引き入れ、奇襲作戦により倭古京を制圧。大伴安麻呂らは不破宮にこれを報告し、大海人皇子は吹負を大和将軍に任命した。三輪高市麻呂・鴨君蝦夷らも大伴吹負の元に帰属。7月1日、乃楽(奈良)山に向かって進発。翌日、坂本臣財らを龍田道守備に派遣し、財は大友皇子率いる軍が守っていた高安城を占拠した。同日、大海人皇子は紀阿閉麻呂・多臣品治(太安万侶の祖父)らを遣わし数万の兵を率いて大和へ向かわせる。4日、吹負の吉野軍は奈良山で大野君果安率いる近江軍に敗れ、南に向け敗走。近江軍はこれを追ってさらに進撃するが、倭古京の手前、香具山付近で判断を誤り後退する。吹負は兵を立て直し、當麻の衢で壱伎史韓国の軍と衝突。勇士来目らの功により近江軍を大破し、22日、倭京を平定。さらに難波に進んで以西の国司を従わせるなど大功を立てた。683(天武12)年、卒去の際には、大錦中を贈位される。なお、続紀の古慈斐薨伝に、「常道頭」とあり、天武朝において常陸守を極官としたらしいことが窺える。
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