源順 みなもとのしたごう 延喜十一〜永観元(911-983)

嵯峨源氏。左馬助擧(こぞる)の次男。
若くして博学を知られ、二十代の頃、醍醐天皇第四皇女勤子内親王に『和名類聚抄』を撰進した。天暦五年(951)、梨壺の和歌所寄人となり、清原元輔大中臣能宣・紀時文・坂上望城と共に万葉集の訓点作業と後撰集の撰集に携わる。家集によればこの時の身分は学生。天暦七年(953)、文章生。同十年、勘解由判官。天徳四年(960)三月三十日、内裏歌合に出詠。応和二年(962)、民部少丞、東宮蔵人。康保三年(966)、従五位下、下総権守。同年、「源順馬名合(馬毛名合とも)」主催。同四年、和泉守。中務斎宮女御徽子女王のサロンに出入りし、天禄三年(972)には徽子女王の娘規子内親王家での前栽歌合で判者を務めた。貞元二年(977)、規子内親王の群行に従い、伊勢に下る。天元二年(979)、能登守。
家集『源順集』がある。漢詩文にも優れた。『宇津保物語』『落窪物語』の作者にも擬せられる。三十六歌仙の一人。拾遺集初出。勅撰入集五十一首(金葉集三奏本を除く)。

  2首  3首  3首  5首  1首 計14首

天暦御時歌合に

氷だにとまらぬ春の谷風にまだうちとけぬ鶯の声(拾遺6)

【通釈】氷さえそのまま留まってはいない春の谷風が吹くのに、鶯はまだ心が緩まず、声を聞かせてくれない。

【語釈】◇氷だにとまらぬ 谷川に張った氷さえ、そのままの状態ではいられない(つまり融けてしまう)。◇まだうちとけぬ まだ心が緩まない。人を警戒してまだ鳴かない、の意にも解せる。「うちとけ」は氷の縁語。

【補記】天徳四年(960)三月三十日、村上天皇主催の内裏歌合に出詠された歌。二番、題「鶯」、左勝。藤原実頼の判詞は「こころばへいとをかし」。

【他出】天徳内裏歌合、源順集、金葉集(重出)、新撰朗詠集、後葉集、袋草紙、和歌色葉、八雲御抄

【参考歌】源当純「古今集」
谷風にとくる氷のひまごとに打ち出づる波や春のはつ花

天暦御時歌合に

春ふかみ井手の川波たちかへり見てこそゆかめ山吹の花(拾遺68)

【通釈】春が深まり日数も残り少ないので、井手の川波が立ち返るように、何度も立ち戻って見て行こう、山吹の花を。

【語釈】◇井手 山城国の歌枕。歌枕紀行参照。◇たちかへり 「川波」「見て」両方に掛かる。

【補記】同じく天徳四年の内裏歌合、八番「款冬(やまぶき)」左勝。判詞は「左歌、いとをかし。さることなりときこゆ」。

【他出】天徳内裏歌合、源順集、拾遺抄、新撰朗詠集、俊成三十六人歌合、時代不同歌合

【主な派生歌】
山吹よ井手の川浪たちかへる春のかたみにしばしとどまれ(慈円)
春ふかみ井手の川浪をりをえて盛りににほふ山吹の花(宜秋門院丹後)
たちかへり又はみずとも山吹の花になかけそ井手の川波(二条為重)

屏風に

我が宿の垣根や春をへだつらむ夏来にけりと見ゆる卯の花(拾遺80)

【通釈】我が家の垣根が春との境目になっているのだろうか。夏がやって来たと見える卯の花が咲いているよ。

【補記】隣家との境を「へだつ」垣根に言寄せて、卯の花が春と夏の境目をなしているとした。卯の花を描いた屏風絵に添えた歌。『順集』では詞書「四月、卯花さけるところ」。

【他出】順集、三十人撰、和漢朗詠集、三十六人撰、古来風躰抄、定家八代抄、和漢兼作集

【主な派生歌】
卯の花の垣根ばかりぞもろ友にかよふ心はへだてなければ(源俊頼)
散りねただあなうの花や咲くからに春をへだつる垣根なりけり(藤原定家)
あたらしやしづが垣根をかりそめにへだつばかりの八重の卯の花(藤原定家)
卯の花や春をへだつる垣根まで残りはてたる雪のむら消え(飛鳥井雅経)
あかざりし春の隔てと見るからに垣根もつらき宿の卯の花(宗尊親王[続古今])

五日、菖蒲につけて、ある所に奉らせける

進上  こころざし
  深  ふかき
   右葉之菖草  みぎはのあやめぐさ
    千年五月五日可苅  ちとせのさつきいつかかるべき(順集)

【通釈】志深く進上いたす右の葉は、汀に生える菖蒲草。永遠に巡り来る五月五日に刈るべきこの草、いつの日か枯れることがございましょう。

【語釈】◇ふかき 「志」「汀」の両方に掛かる。◇みぎは 「右葉」と書いて、歌をつけた菖蒲草を指す。「汀」との掛詞。◇ちとせのさつき 千年、毎年巡り来る五月。◇いつかかるべき 「五日刈るべき」「いつか枯るべき」の掛詞。「私のあなたへの深い思いが失われることはありませんと」の意を籠めている。

【参考歌】道綱母「拾遺集」
心ざしふかきみぎはにかる菰はちとせのさ月いつかわすれむ

ある人、あづまにて、五月五日つれづれなるに、馬(むま)の名あはせたる歌
左 やまのはのあけ

ほのぼのと山のはのあけ走りいでて()の下陰をすぎてゆくかな(馬名歌合)

【通釈】ほのかに明るくなってゆく山の端の曙、馬を走らせて家を出、葉繁みに覆われた暗い木陰を過ぎてゆくことだよ。

【補記】康保三年(966)五月五日の一人歌合。作者名は記されていないが、歌合目録など各種文献に源順の名が冠せられているという。「かはらげ」「つきげ」など、毛色別の馬の名を歌題として合せた異色の歌合である。上の歌はその巻頭歌で、「やまのはのあけ(山の葉の朱)」という馬の名を、「山の端の明け」という題に読み換えて歌を詠んだもの。因みに右歌は題「このしたかげ」、「山のはのあけて朝日のいづるにはまづ木の下のかげぞさきだつ」。

屏風に、八月十五夜、池ある家に人あそびしたる所

水のおもに照る月なみをかぞふれば今宵ぞ秋のも中なりける(拾遺171)

【通釈】水面に輝く月光の波――月次(つきなみ)をかぞえれば、今宵こそが仲秋の真ん中の夜であったよ。

【語釈】◇月なみ 「波に映る月光」「月次(月の数。月齢)」の両義。◇秋のも中 八月十五日は陰暦では秋の真ん中にあたる。「も中」のモはマの母音交替形。

【補記】屏風絵に添えた歌。順集、初句は「池の面に」。

【他出】源順集、拾遺抄、前十五番歌合、三十人撰、深窓秘抄、和漢朗詠集、三十六人撰、和歌童蒙抄、古来風躰抄、俊成三十六人歌合、時代不同歌合、和漢兼作集

【主な派生歌】
かぞへこし秋の半ばを今宵ぞとさやかに見する望月の駒(藤原定家)

西宮左大臣家の屏風に、志賀の山越えに、つぼさうぞくしたる女ども紅葉などある所に

名をきけば昔ながらの山なれどしぐるる秋は色まさりけり(拾遺198)

【通釈】名を聞けば昔ながらの長等(ながら)山だけれど、時雨の降る秋は、色が以前よりまさっているのだなあ。

【語釈】◇西宮左大臣 源高明◇つぼさうぞく 壺装束。髪を袿の中に入れ、市女笠を被った旅装束。中流以下の女子が徒歩で出掛ける時このようにした。◇ながらの山 近江国の長等山。「昔ながら」を言い掛ける。

【他出】俊成三十六人歌合、時代不同歌合、歌枕名寄

秋の野に色々の花もみぢ散りまがふ、はやしのもとにあそぶ人々あり、鷹すゑたるもあり

紅葉ゆゑ家もわすれて暮らすかな帰らば色やうすくなるとて(順集)

【通釈】紅葉のために、家も忘れて日を暮らすことだ。立ち去れば、色が薄くなるかと思って。

【補記】これも屏風歌。

根をふかみまだあらはれぬあやめ草人をこひぢにえこそはなれね(順集)

【通釈】根が深いのでいくら掘っても全体が顕れない菖蒲草は、泥沼に深くはまっている。そのように、私は人を恋する恋路に深くはまって、離れることができないよ。

【語釈】◇こひぢ 「恋路」「泥」の掛詞。

【補記】以下四首は、「あめつちの歌」四十八音を沓冠(歌の頭と末尾)に置いた連作四十八首より。この歌では沓冠にそれぞれ「ね」を詠み込んでいる。言語遊戯の驚異的な技巧ばかりでなく、異色の趣向が目を瞠らせる。

思ひ (二首)

夕さればいとどわびしき大井川かがり火なれや消えかへりもゆ(順集)

【通釈】夕暮になって一層侘びしさの増す大堰川――篝火だろうか、何度も消えそうになっては燃えている。

【補記】大堰川(京都嵐山付近の桂川をこう呼ぶ)の鵜飼の情景に恋心を託して詠む。

 

るり(くさ)の葉におく露の玉をさへ物思ふときは涙とぞみる(順集)

【通釈】瑠璃草の葉に置いた露の玉さえも、恋に思い悩む時は涙と見てしまうのだ。

【補記】「るり草」はムラサキ科の多年草。春、薄紫の花をつける。王朝和歌ではこの歌以外全く用例がない。なお、末句「涙とぞなる」とする本も。

ゐても恋ひふしても恋ふるかひもなくかく浅ましくみゆる山の井(順集)

【通釈】座っていても恋しがり、寝ていても恋しがる――それほどの思いをしている甲斐もなく、山の清水に映るあの人の姿はこんなに薄くて、私への思いは浅いらしい。

【補記】思ってくれる人の姿が水面に映るとの俗信を背景にしている。第三句を「かひもなみ」とする本もある。

【本歌】陸奥国前采女「万葉集」
あさか山かげさへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに

天暦御時歌合に

誰がために君をこふらむ恋ひわびて我はわれにもあらずなりゆく(続後拾遺745)

【通釈】いったい誰のせいでこれ程あなたへの恋に苦しんでいるのだろう。恋しさに憔悴して、私は自分でなくなってゆく。

【補記】「誰がために」は、結局の所自分の心からの苦悩であることを言っている。天徳四年内裏歌合の選外歌。

世の中を何にたとへむといふ古言(ふること)を上(かみ)におきて、あまたよみ侍りけるに

世の中をなににたとへむ秋の田をほのかにてらす宵の稲妻(後拾遺1013)

【通釈】現世を何に譬えようか。たとえば、秋の田をほのかに照らし出す、宵の稲妻。

【補記】万葉集の沙彌満誓の歌「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎいにし舟の跡なきごとし」の初二句を用いた歌。家集によれば、応和元年(961)七月から八月にかけて、四歳の娘と五歳の息子を続けて亡くした後の作。


更新日:平成16年04月17日
最終更新日:平成19年10月12日