宗尊親王 むねたかしんのう 仁治三〜文永十一(1242〜1274) 通称:中書王・鎌倉宮

後嵯峨天皇の皇子。母は蔵人木工頭平棟基の娘、棟子。後深草天皇・亀山天皇ほかの異母兄。
承明門院在子(土御門院の生母)のもとで養われ、その後、後高倉院の皇女式乾門院利子の猶子となる。寛元二年(1244)正月、親王宣下。建長四年(1252)三月、幕府の懇請により第六代将軍として鎌倉に下る。初めての皇族将軍であった。時の執権は辣腕の政治家北条時頼。文応元年(1260)三月、近衛兼経女、宰子(北条時頼の猶子)を妻に迎える。また同年、真観を歌の師として鎌倉に招き、この頃から和歌の創作に本格的に打ち込んだ。弘長元年(1261)正月、藤原顕氏・真観・北条長時等を集めて和歌会始をおこない、同年七月には自邸で百五十番歌合を催す(判者は在京の藤原基家)。真観らが撰者に加わった文永二年(1265)奏覧の『続古今集』では最多入集歌人となった。同年九月、中務卿に任ぜられ、一品に叙せられる。ところが翌年の文永三年(1266)、謀反を企てたとの嫌疑をかけられ、七月、京に送還された。将軍には嗣子の惟康王が就く。やがて故承明門院の万里小路邸に落ち着いた。幕府を憚った父後嵯峨院からは義絶され、帰京直後は面会もかなわなかったが、文永五年、院の五十賀試楽には内々に臨席するなどしている。同九年二月、院の崩を機に出家、法名は覚恵(行証とも)。文永十一年(1274)八月一日、薨去。三十三歳。
続古今集初出。以下勅撰集入集百九十首。家集には、文応元年(1260)以前に自撰して為家・基家等の加点・加評を付した『文応三百首』、弘長元年(1261)から文永二年(1265)までの定数歌を集成した『柳葉和歌集』、文永四年自撰して為家に加点・加判を乞うた『中書王御詠』、帰京後の文永三年から同九年頃までの定数歌と自歌合から成る『竹風和歌抄』、真観撰『瓊玉(けいぎょく)和歌集』がある。新三十六歌仙。『新時代不同歌合』歌仙。

「文応三百首」 群書類従179・新編国歌大観10・新日本古典文学大系46「中世和歌集鎌倉篇」
「柳葉和歌集」 桂宮本叢書7・私家集大成4・新編国歌大観7
「中書王御詠」 桂宮本叢書7・私家集大成4・新編国歌大観7
「竹風和歌抄」 私家集大成4・新編国歌大観7
「瓊玉和歌集」 群書類従230・私家集大成4・新編国歌大観7

  11首  6首  12首  6首  4首 羇旅 6首  8首 計53首

弘長三年六月当座百首歌、春

いかにせむ霞める空をあはれとも言はばなべての春のあけぼの(柳葉集)

【通釈】どうしよう。この霞んでいる空を「あはれ」とも言おうか。しかしそう言ったなら、いかにも通り一遍になってしまう、春の曙よ。

【補記】弘長三年(1263)は作者二十二歳。鎌倉将軍の地位にあり、歌作りに本格的に取り組み始めて間もない頃の作である。春の曙の空を「あはれ」と言ってしまえば、通り一遍だが、ほかに何と言い表せばよいのか。初句切れ「いかにせむ」は頻用句であるが、掲出歌では溢れ出る情感を持て余すかのような切実さが感じられる。

【参考歌】和泉式部「千載集」
ともかくも言はばなべてになりぬべしねに泣きてこそ見すべかりけれ

春曙

霞めるをあはれとばかり見し世だに物は思ひき春のあけぼの(竹風抄)

【通釈】霞んでいる空をただ「あはれ」と眺めた時でさえ、何かしら思うことはあった。しかし今見る春の曙には、物を考えることもできない。

【補記】文永三年(1266)十月の五百首歌。幕府より謀反の嫌疑をかけられて、京に送還された直後の作である。さまざまに辛い経験を経て眺める春の曙に、物思いも消えたのだろうか。

【参考歌】四条中宮(藤原遵子)「詞花集」
くやしくも見そめけるかななべて世のあはれとばかり聞かましものを

人待たで寝なましものを梅の花うたて匂ひの夜はの春風(竹風抄)

【通釈】人を待たずに寝てしまえばよかった。梅の花の匂いをますます濃くする、夜の春風よ。

【語釈】◇うたて ますますひどく。いよいよ甚だしく。事態の進行を止められずに歎く気持をあらわすことが多い。

【補記】梅の香のために寝付けなくなってしまった夜。本歌取り、妖艷の風は新古今を引き継ぐ。

【本歌】素性法師「古今集」
散ると見てあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる
  赤染衛門「後拾遺集」「百人一首」
やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶくまでの月を見しかな

三十首歌の中に

梅が枝のしぼめる花に露おちて匂ひ残れる春雨の頃(玉葉82)

【通釈】花は萎んでしまった梅の枝から露が落ちて、匂いはなお残っている、春雨の降る頃よ。

【補記】詞書の「三十首歌」は不詳。伝存する宗尊親王の家集にも見えない出典不明歌。

【参考】「古今集仮名序」
ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。

春月を

山の端はそこともわかぬ夕暮に霞をいづる春の夜の月(玉葉121)

【通釈】山の端(は)はどことも見分けがつかないほど朧な夕暮に、霞の中から現われ出る春の夜の月よ。

【補記】出典は文応三百首(宗尊親王三百首)。但し第二句「そことも見えぬ」。

【参考歌】小式部内侍「続後撰集」
見ても猶おぼつかなきは春の夜のかすみをわけていづる月かげ

文永六年四月廿八日、柿本影前にて講じ侍りし百首歌 春 二首

春の夜の有明の月に棹さして河よりをちの宿やからまし(竹風抄)

【通釈】春の夜、有明の月に照らされた川に漕ぎ出す――水面に映じた月に棹さして。今宵は川の向うに宿を借りよう。

【語釈】◇柿本影前… 和歌の神として人麿像を祭り、その前で歌を講じた。

春夜月をよめる

あすか風かは音ふけてたをやめの袖にかすめる春の夜の月(続古今79)

【通釈】夜が更けるにつれて明日香風が吹きまさり、川音も勢いを増す中、「袖吹き返す」と詠まれた手弱女の袖に、霞んだ春の月が映っている。

【補記】飛鳥京の昔を偲ぶ。宗尊親王は、同じ鎌倉将軍としてしばしば比較される源実朝とは異なり、いわゆる万葉調の歌は殆ど詠まなかった。しかし万葉への憧憬は家集の随所に見られる。

【本歌】志貴皇子「万葉集」「続古今集」
たをやめの袖吹き返す明日香風都を遠みいたづらに吹く

【主な派生歌】
ひびきくる河音ふけて明日香風そでふく夜はの月ぞ身にしむ(伏見院)

文永二年の春、伊豆山にまうでて侍りし夜、くもりもはてぬ月いとのどかにて、浦々島々かすめるをみて

さびしさのかぎりとぞ見るわたつ海のとほ島かすむ春の夜の月(中書王御詠)

【通釈】これ以上はない寂しさの極みと眺めるのだ。海上の遠島も霞む、春の夜の月よ。

【補記】桜が散るのでもない、季節が去りゆくのでもない、ただ春の盛りののどかな眺めにこそ「さびしさのかぎり」を見てしまう資質。春愁の歌人として、親王は遠く大伴家持の系譜を引き継ぐと言えよう。詞書の「伊豆山」は熱海の東、頼朝が源氏再興を祈願して以来、鎌倉幕府の一聖地となった伊豆山神社がある。ここに将軍として参詣した時の詠である。

花の歌の中に

見わたせば白木綿かけて咲きにけり神をか山の初ざくら花(玉葉138)

【通釈】見渡すと、白木綿をかけて咲いているのだった。神岳山の今年初めての桜花は。

【語釈】◇白木綿(しらゆふ) 楮(こうぞ)の樹皮をはぎ、その繊維を裂いて糸状にしたもの(のち紙で代用されることが多くなる)。榊などに垂らす。山桜の花をこれに譬えている。◇神をか山 神岳山。万葉集の山部赤人詠に見える。もとは飛鳥の雷丘(いかずちのおか)を指したらしいが、中世の歌学書等では三輪山と同一としている。

【補記】『夫木和歌抄』に詞書「花の御歌の中に」として見え、玉葉集はこれから採ったものらしい。親王の家集には見えない。但し『柳葉集』には初二句が同一の歌「見わたせばしらゆふかけてちはやぶる神がきやまに雪ふりにけり」がある。

三月

あはれことし我が身の春も末ぞとはしらで弥生の花を見しかな(竹風抄)

【通釈】ああ、今年、我が身の春も終りだとは知りもせず、弥生の花を眺めたのだな。

【補記】文永三年(1266)十月の五百首歌。帰京直後、将軍として鎌倉で過ごした最後の春を思っての作。

【参考歌】藤原基俊「千載集」
契りおきしさせもが露を命にてあはれことしの秋もいぬめり

 

うぐひすは物うかるねにうらぶれて野上のかたに春ぞ暮れゆく(文応三百首)

【通釈】鶯は物憂げな声でうち萎れたように鳴いていて――野の高い方で春は暮れてゆくのだ。

【語釈】◇野上(のがみ) 万葉集の本歌(下記参照)の第二句の旧訓は「のかみのかたに」なので、これを踏まえたものであろう(現在では「ののうへのかたに」と訓まれることが多い)。参考歌として掲げた隆信詠では美濃国関ヶ原付近の地名として用いているが、宗尊親王の歌では地名を用いる必然性がなく、「野の高いところ」の意で用いているに違いない。鶯は冬の間谷に籠っているが、春になると里に出て来て、夏には山の高いところへ移るものとされた。ゆえに「野上のかたに春ぞ暮れゆく」と言うのであろう。「野上のかたに」の句を、本歌や参考歌とは違った意味で新たに生かしているのである。

【補記】『文応三百首』は『中務卿親王三百首和歌』『宗尊親王三百首』などとも言う。文応元年(1260)十月以前の成立と推定されており、宗尊親王十九歳以前の作。藤原為家の合点・評語、西園寺実氏衣笠家良藤原基家同光俊阿仏尼らの合点などが付されている。掲出歌に付した為家の評語は「第四句不優候歟」、すなわち「野上のかたに」の句を「優ならず」と批判している。これ以前に反御子左派の藤原知家が『新撰和歌六帖』で同じ句を用いているのが面白い(下記参考歌)。

【本歌】丹比乙麻呂「万葉集」巻八
霞立 野上乃方尓 行之可波 鶯鳴都 春尓成良思
(霞立つ野上の方に行きしかば鶯鳴きつ春になるらし)

【参考歌】在原棟梁「古今集」
春たてど花もにほはぬ山里はものうかるねに鶯ぞなく
  藤原隆信「万代集」
不破の関朝こえゆけば霞たつ野上のかたに鶯ぞなく
  藤原知家「新撰和歌六帖」
あらたまる春になるらし冬枯の野上のかたに鶯のなく

三百首歌中に

雲のゐる遠山鳥のおそ桜心ながくものこる色かな(続古今185)

【通釈】雲が居座っている遠山の遅桜よ。そこに住む山鳥の長い垂れ尾ではないが、春が過ぎてものんびりと気長に残っている花の色であることよ。

【語釈】◇遠山鳥の 山鳥の「尾」から「そ桜」を導くはたらきをしている(尾の歴史的仮名遣は「を」なので仮名違いであるが、当時「遅し」は「をそし」と書くのが普通だった)。また、山鳥の尾は長いことから、「ながく」を導くはたらきもしている。◇心ながくも 遅桜の心がのんびりしていることを言うと同時に、眺める人の心に花の色が長く残るとの意も響く。

【補記】古歌の詞を巧みに摂取して、夏にまで残るのどかな春情を歌い上げている。宗尊親王若き日の代表作。

【他出】文応三百首、瓊玉集、三百六十首和歌、井蛙抄、六華集、題林愚抄
(結句は「のこる春かな」「のこる花かな」「のこる比かな」など本によって異なる。)

【本歌】よみ人しらず「古今和歌六帖」「新古今集」
雲のゐる遠山鳥のよそにてもありとし聞けば侘びつつぞぬる
  後鳥羽院「新古今集」
桜さく遠山鳥のしだり尾のながながし日もあかぬ色かな

【参考歌】善滋為政「後拾遺集」
年ふれば荒れのみまさる宿のうちに心ながくもすめる月かな

題しらず

明けぬともなほ影のこせ白妙の卯の花山のみじか夜の月(新千載201)

【通釈】夜が明けてしまっても、なお姿を残してくれ。真っ白な卯の花に被われた山にかかる短か夜の月よ。

【語釈】◇卯の花山 卯の花が咲く山。万葉集に由来する語。『歌枕名寄』などは越中国の歌枕とする。

【補記】『文応三百首』。卯の花の咲く山にかかる有明の月の美しさ、名残惜しさ。夏の短か夜と卯の花の情趣をみごとに融合させた。

 

いとどまた夢てふものをたのめとや思ひねになくほととぎすかな(文応三百首)

【通釈】いっそうまた夢というものを当てにしろと言うつもりで、ほととぎすは思い寝の夢の中で鳴くのだろうか。

【語釈】◇思ひねになく その声を聞きたいと思いながら寝入った夢で、ほととぎすが鳴く。「ね」には「寝」「音」両意が掛かる。

【補記】古今集の恋の歌を、時鳥を待ちわびる歌に本歌取りした。『瓊玉集』にも所載。但し第四句「思ひねにきく」。

【本歌】小野小町「古今集」
うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
  凡河内躬恒「古今集」
君をのみ思ひ寝にねし夢なれば我が心から見つるなりけり

 

なげきわび物思ふ頃はほととぎす我がためにのみ鳴くかとぞ聞く(柳葉集)

【通釈】悲嘆して物思いに沈む頃は、ほととぎすの声を私のためにだけ鳴くかと聞くのだ。

【補記】『柳葉集』は自撰と推測される宗尊親王の家集。弘長元年(1261)から、文永二年(1265)までの百首歌などを収めている。

【参考歌】和泉式部「和泉式部続集」
時鳥ものおもふ頃はおのづから待たねど聞きつ夜はのひとこゑ

山路郭公といふことを

ゆきやらで暮らせる山のほととぎす今ひとこゑは月に鳴くなり(続古今211)

【通釈】時鳥の声を聞きたさに行き過ぎることができず、山中で日を暮らしてしまった――もう一声と待てば、月影に鳴くよ。

【補記】『瓊玉集』にも所載。

【本歌】源公忠「拾遺集」
ゆきやらで山路くらしつ時鳥今ひと声のきかまほしさに

百首歌の中に

五月雨は晴れぬと見ゆる雲間より山の色こき夕暮の空(玉葉354)

【通釈】さみだれは晴れたと見えて雲が切れてゆく――その間から、山の色がいっそう濃く眺められる、夕暮の空よ。

【補記】雨に濡れて色を増した新緑の山。『竹風抄』所載の文永六年八月百首歌。玉葉集に採られたのも尤もと思われる印象鮮明の叙景歌。と言うより、宗尊親王のこうした作風が京極派和歌の一淵源をなしたのである。

【主な派生歌】
今朝のまの霧より奥やしぐれつる晴れゆくあとの山ぞ色濃き(*仲覚[玉葉])

秋の歌の中に (二首)

花すすきおほかる野辺は唐衣(からころも)たもとゆたかに秋風ぞ吹く(続古今346)

【通釈】穂の出た薄が多い野辺では、衣の袂を豊かにふくらませて秋風が吹くのだ。

花薄 鎌倉市二階堂にて
花すすき 穂の出た薄

【語釈】◇唐衣 衣の美称。ここでは「たもと」の枕詞のようにして用いている。◇たもと 袖の下の袋のようになった部分。

【補記】風になびく薄の穂はしばしば人が袖を振るさまに譬えられた。『柳葉和歌集』によれば「文永元年六月十七日庚申に、身づからの歌を百つがひにあはせ侍るとて」、すなわち百番自歌合のために抜粋した一首として載る。『瓊玉集』には詞書「御歌ばかり百番あはさせ給ふとて、薄」とある。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
うれしきをなににつつまむ唐衣たもとゆたかにたてといはましを

 

夢路にぞ咲くべかりける起きて見むと思ふを待たぬ朝がほの花(続古今347)

【通釈】いっそ夢の中で開いてくれればよかった。起きて見ようと思っていたのを待たずに咲いた朝顔の花よ。

【補記】『柳葉和歌集』によれば弘長三年(1263)六月二十四日の当座百首歌。『瓊玉集』にも所載。

【本歌】曾禰好忠「好忠集」「新古今集」
おきて見むとおもひしほどに枯れにけり露よりけなる朝顔の花

百首歌の中に

下葉ちる柳の梢うちなびき秋風たかし初雁のこゑ(玉葉581)

【通釈】下のほうの葉から散ってゆく柳――その梢を靡かせて秋風が高々と吹いている――そして初雁の声が高く響いてくる。

【補記】「たかし」は前後の句に掛かり、秋風が空の高いところを吹く意、初雁の声が高く響く意の両方を兼ねる。『竹風和歌抄』に「文永六年四月廿八日、柿本影前にて講じ侍りし百首歌」の一首として載せる。

【他出】竹風抄、拾遺風体抄、夫木和歌抄、三百六十首和歌、六華集

文永六年四月廿八日、柿本影前にて講じ侍りし百首歌 秋(三首)

夕さればみどりの苔に鳥降りてしづかになりぬ苑の秋風(竹風抄)

【通釈】夕方になると、緑の苔の上に鳥が舞い降りて、庭園を吹く秋風は静かになった。

【補記】柿本人麻呂影供の歌会で詠み上げた歌。秋の夕べの庭園の景を詠む。鳥が地面に降りるということは、その周囲がのどかである証拠。それを合図としたように風も静かになった。『六華集』『夫木和歌抄』にも見える。

【本説】「和漢朗詠集・蝉」(原詩は許渾「咸陽城東楼」→資料編
鳥下緑蕪秦苑寂(鳥緑蕪に下りて秦苑(しづ)かなり)

 

あればこそ物をも思へいづかたに行き隠れなむ秋の夕暮(竹風抄)

【通釈】生きていればこそ悩みもするのだ。どちらの方へと姿を隠してしまえばよいのか、この秋の夕暮れ。

【語釈】◇あればこそ 生きているからこそ。我が身が現世にあるからこそ。

【補記】どこに隠棲しようと、生きている限りは物思いから逃れられない。ことに秋の夕暮は――。

【本歌】よみ人しらず「拾遺集」「新古今集」(重出)
いづ方にゆきかくれなむ世の中に身のあればこそ人もつらけれ

 

舟出して今こそ見つれ玉の浦のはなれ小島の秋の夜の月(文応三百首)

【通釈】船出して、今とうとう見ることができた。玉の浦の離れ小島の上に照る、秋の夜の月を。

【語釈】◇玉の浦 紀伊国の歌枕。和歌山県の那智勝浦町に玉ノ浦の地名が残る。

【参考歌】作者未詳「万葉集」巻七
荒磯にもまして思へや玉の浦の離れ小島の夢にしみゆる

 

秋の夜は月にぞながる桜川花はむかしのあとの白波(新三十六人撰)

【通釈】秋の夜は、月の光を映して流れる、桜川――花と見えるのは、昔の春の跡を偲ばせて立つ白波である。

【語釈】◇桜川 『歌枕名寄』などは常陸国の歌枕とする。後撰集の紀貫之作に「常よりも春べになればさくら河花の浪こそまなくよすらめ」とあるのが、知られ得る最初の用例である。

【補記】春の夜は、その名の通り散った花を浮べて流れていた桜川。秋の夜の今は、花の思い出を偲ばせるように白波が立つ。「春は花、秋は月」という美意識を前提に、「桜川」を秋の夜に移して詠じた趣向は艶のきわみだが、作り過ぎを嫌う人もあろう。『夫木和歌抄』にも載るが、親王の家集には見当たらない歌。

【参考歌】沙弥満誓「拾遺集」「古今和歌六帖」
世の中をなににたとへむ朝ぼらけこぎ行く舟のあとのしらなみ
  藤原公相「宝治百首」
桜川ながるる花をせきとめてとまらぬ春の思ひ出にせむ

弘長元年九月、人々によませ侍りし百首歌 秋

秋の夜はうつつのうさの数そへてぬる夢もなき荻のうは風(柳葉集)

【通釈】秋の夜は、荻の上葉を鳴らす風の音がつのり、現実の辛いことの数ばかりが添わって、寝て見る夢もありはしない。

【補記】弘長元年(1261)、二十歳の作。『瓊玉集』にも所載。

秋神祇

鶴の岡や秋のなかばの神祭ことしは余所に思ひこそやれ(竹風抄)

【通釈】秋の半ばに催される鶴の岡の神祭――それを今年は遠くから思いやるのだ。

鎌倉 鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮

【語釈】◇鶴の岡 鶴岡八幡宮。神奈川県鎌倉市。源氏の氏神として東国武士の崇拝を集めた。◇秋のなかばの神祭 八月十五日の例大祭。流鏑馬(やぶさめ)などが行われた。『吾妻鏡』によれば文治三年(1187)が初例。現在は新暦九月十四日から十六日まで行われる。

【補記】文永三年八月の百五十首歌。鎌倉から京へ送還された翌月の作である。

秋雨を

雲かかる高嶺の檜原(ひばら)おとたてて村雨わたる秋の山もと(玉葉726)

【通釈】頂に雲がかかっている高山――その檜林が音を立てて、ひとしきり雨が通り過ぎてゆく、秋の山もとの眺めよ。

【語釈】◇檜原(ひばら) 山の斜面を覆う檜林のこと。この「はら」は或る植物が群生している場所を意味し、平原や野原と言う時の「原」の意は無い。

【補記】「高嶺」にかかっている雲が秋雨を降らせ、檜原を鳴らしてゆく。「山もと」で眺める人にその音が聞こえるのである。秋雨の情趣を生かすことより、自然の動態を生き生きと捉えることに主眼が置かれており、やはり京極派の歌風の先駆をなしている。『夫木和歌抄』に詞書「御集、秋雨」として載るが、親王の現存家集には未見の歌。

秋歌中に

しぐれぬと見ゆる空かな雁なきて色づく山の秋のむら雲(続古今507)

【通釈】時雨てきたと見える空であるな。雁が鳴いて、色づく山には秋の一むらの雲がかかっている。

【補記】時雨・雁・紅葉と、秋の代表的な風物を取り込んで、少しも重くならず、すっきりとまとめている。親王の家集には見えない歌。

秋霧

世を憂しと厭ひはてぬる秋もなほ心にのこる峰の朝霧(竹風抄)

【通釈】この世は憂鬱だとすっかり引き籠ってしまった秋でも、なお心に残っていて、ありありと想い浮かべられる峰の朝霧よ。

【補記】詞書に「文永九年十一月比、なにとなくよみおきたる歌どもを取りあつめて、百番にあはせて侍りし」とある。死の二年前の百番自歌合である。

【参考歌】藤原時平「後撰集」
ひたすらに厭ひはてぬる物ならば吉野の山にゆくへ知られじ

時雨といふことを

風はやみ浮きたる雲の行きかへり空にのみしてふる時雨かな(続古今587)

【通釈】風が強いので、浮雲が来ては去ってゆく中、空にばかりあって降る時雨であるよ。

【補記】地上に届かぬまま風に運ばれてしまう雨。時雨以外には決してあり得ない雨の降り方を捉えている。想像力の豊かさと観察力の確かさと、親王は両方を兼ね備えていた。『瓊玉集』『柳葉集』に所載。

【本歌】在原業平「古今集」
ゆきかへり空にのみしてふることはわがゐる山の風はやみなり

冬歌の中に

ひかげさす枯野の真葛霜とけてすぎにし秋にかへる露かな(続古今593)

【通釈】冬の日が射す枯野の真葛――その葉に付いていた霜が融けて、それだけは過ぎ去った秋に戻ったかのような露であるよ。

【語釈】◇真葛(まくず) 葛の美称。マメ科のつる性多年草。葉は大きく、裏が白い。

【補記】冬枯れの野にあって、葛の枯れ葉の上、霜の解けた露だけが秋に帰ったと見た。『文応三百首』に初出、『瓊玉集』にも所載。

冬歌の中に

今朝みれば遠山しろし都まで風のおくらぬ夜はの初雪(玉葉950)

【通釈】今朝見れば、遠くの山並が白い。夜の間に降った初雪を、風は都まで送り届けてくれなかったのだな。

【補記】宗尊親王の歌には意外と二句切れ、すなわち五七調が多い。流麗甘滑な三句切れ或は三句小休止、すなわち七五調を専らにした当時の歌壇の風潮とは異色の点である。掲出歌も「遠山しろし」とすっぱり切ったことで、調べ・イメージが鮮明に立ち上がった。『竹風抄』によれば文永六年八月の百首歌。鎌倉から京に帰って三年目の冬の作。

題しらず

大井河すさきの葦はうづもれて波にうきたる雪の一むら(玉葉971)

【通釈】大堰川の洲崎に生えている葦のひとむらは雪に埋もれて、あたかも波に浮いている一塊の雪のようである。

【語釈】◇大井河 大堰川。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。◇すさき 洲崎。洲が長く川などに突き出し、崎となった所を言う。

【補記】『竹風抄』、文永六年八月百首歌。

 

吹きおろす安蘇(あそ)山嵐けさ冴えて冬野をひろみ雪ぞつもれる(文応三百首)

【通釈】安蘇山から吹き降ろす嵐が今朝冷えて、広い冬野に雪が積もっている。

【語釈】◇安蘇山 万葉集東歌に上野国の山として見える(下記本歌参照)。『歌枕名寄』なども上野国の歌枕とする。一説に下野国安蘇郡の山とも。

【補記】若き日の定数歌。「安蘇山」「冬野をひろみ」いずれも下記万葉東歌の影響が明らか。宗尊親王には万葉集の語句を採り入れた歌が少なくないが、師範とした真観も万葉を好んだので、異とするに足るまい。

【本歌】「万葉集」巻十四(東歌)
かみつけの安蘇山つづら野を広み這ひにしものをあぜか絶えせむ

 

阿倍(あべ)の島岩うつ波のよるさえて住むとも聞かぬ千鳥鳴くなり(文応三百首)

【通釈】阿倍の島の岩を打つ波音が、冷え込む夜に冴えて響き、住むとも聞かない千鳥が鳴いている。

【語釈】◇阿倍の島 万葉集に由来する歌枕。比定地は諸説あるが、中世の『歌枕名寄』は摂津国の歌枕とする。◇よるさへて 「よる」には前句からのつながりとして「寄る」の意が掛かる。

【補記】万葉集の本歌では阿倍の島は鵜の住む島。ゆえに「住むとも聞かぬ千鳥」と言う。

【本歌】山部赤人「万葉集」巻三
阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこの頃大和し思ほゆ

忍恋のこころを

いはでおもふ心の色を人とはば折りてや見せむ山吹の花(続古今964)

【通釈】言葉には出さずに恋い慕う心――その色を人が問うたなら、折って見せようか、山吹の花を。

八重山吹
山吹の花 春の終り頃に咲く。和歌では一重の山吹よりも八重を好んで詠んだ。

【補記】山吹の花の色は「くちなし色」と言ったので、「いはでおもふ」の句と言葉遊びの上でも関係するが、それよりも八重山吹の濃艶な花色を想い浮かべつつ味わいたい一首である。『柳葉集』、文永元年六月の百番自歌合、題は「春恋」。『瓊玉集』にも所載。

【参考歌】河内「千載集」
わりなしや思ふ心の色ならばこれぞそれとも言はましものを
  慈円「新古今集」
君を祈る心の色を人とはばただすの宮のあけの玉垣
  藤原良教「建長八年百首歌合」
いはでおもふ心はさぞないとどしく恋ひまさるてふ山吹の花

題しらず

思ふにもよらぬ命のつれなさは猶ながらへて恋ひやわたらむ(続拾遺876)

【通釈】いくら思っても、思うに任せない私の命――そのつれなさのままに生きながらえて、無情な人を更に恋し続けるのだろうか。

【語釈】◇思ふにもよらぬ 「よらぬ」は「(恋しく思っても恋人が)心を寄せてくれない」「(死にたいと思っても命が)服従してくれない」の両義。◇命のつれなさ 恋の苦しさに死にたいと思っても、応じてくれない命の無情さ。

【補記】『柳葉集』の詞書に「弘長二年院より人々にめされし百首歌の題にて、読みてたてまつりし」とあり、鎌倉から後嵯峨院に提出した弘長百首題の百首歌。題は「不逢恋」。『瓊玉集』にも所載。

【参考歌】俊恵「林葉和歌集」
思ふにもよらぬ命をしばしとてあはれつれなき君にやあるらむ

 

ながしとぞ思ひはてぬる逢はでのみひとり月見る秋の夜な夜な(文応三百首)

【通釈】長いものだと思い知った。秋の夜が長いとは知っていたけれども、恋人と一度も逢うことなしに、独り月を眺める夜ごと夜ごと、いやという程思い知ったのだ。

【語釈】◇思ひはてぬる 「思ひはつ」は、最終的に判断を下す意。「ぬる」は完了の助動詞「ぬ」が、助詞「ぞ」との係り結びで連体形をとったもの。

【補記】逢えない恋人を思いつつ月見て過ごす秋の夜。その長さをつくづく思い知った、との感慨。本歌を反転させた初二句が意表を突く。

【本歌】凡河内躬恒「古今集」
ながしとも思ひぞはてぬ昔より逢ふ人からの秋の夜なれば

百首歌の中に、恋を

待つ人とともにぞ見ましいつはりのなき世なりせば山の端の月(続古今1143)

【通釈】待ち人と一緒に見たであろうに。もしこの世が偽りのない世であったならば、山の端にかかる月を。

【補記】『柳葉集』には詞書「弘長元年九月、人々によませ侍りし百首歌」とある。『瓊玉集』には「契空恋を」。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのは嬉しからまし
  順徳院「続千載集」
いつはりのなき世なりともいかがせむ契らでとはぬ夕暮の空

羇旅

旅歌とて(二首)

忘れめや鳥の初音に立ちわかれなくなく出でしふるさとの空(中書王御詠)

【通釈】忘れたりしようか。鳥の鳴き始める声に促され、人々と別れて、泣く泣く出て来た故郷、その時見上げた空を。

【補記】『竹風抄』によれば文永三年十月の五百首歌、題は「鶏」。鎌倉より帰洛した直後の詠と思われ、十一歳から二十五歳までの青春期を過ごした鎌倉への思いを籠めた歌であろう。題詠歌にひそかに個人的感慨を盛ることは珍しいことでなく、宗尊親王のような資質の歌人の場合は特にそうである。なお、親王には類似の趣向の旅歌が幾つか見える。「忘れめや宿たちわかれ今はとて出でし夕べの秋のむらさめ」(竹風抄)など。

【参考歌】藤原定家「新古今集」
こととへよ思ひおきつの浜千鳥なくなくいでし跡の月かげ

 

甲斐が嶺はかすかにだにも見えざりき涙にくれしさやの中山(中書王御詠)

【通釈】甲斐ヶ嶺はかすかにさえも見えなかった。小夜の中山を越える時、涙で視界が曇って。

【語釈】◇甲斐(かひ)が嶺(ね) 赤石山脈の白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)を指すという。北岳は富士に次ぐ日本第二の高峰。但し富士山の別称とする説もある。◇さやの中山 遠江国の歌枕。急崚な坂にはさまれた尾根づたいの峠で、街道の難所の一つ。

【補記】『竹風抄』によれば文永三年八月の百五十首歌で、題「雑山」。『中書王御詠』では「旅歌にて」の詞書で括った十二首の一つとして載る。鎌倉から京へ向かう道中詠の趣ある同歌群には佳詠多く、「年へたる杉の木陰に駒とめて夕立すぐす不破の中山」なども捨て難い。

【本歌】よみ人しらず「古今集」(甲斐歌)
かひがねをさやにも見しがけけれなくよこほりふせるさやの中山

志津久

山陰の木々の雫に袖ぬれて暁ごとに出でし旅かな(竹風抄)

【通釈】山陰の木々から落ちる雫に袖は濡れて、暁ごとに宿を出発した旅路であった。

【補記】文永三年十月五百首歌。やはり帰洛直後の詠。題は「しづく」を万葉仮名風に表記したもの。

羈中望といふことを

雲のゐる外山のすゑのひとつ松めにかけてゆく道ぞはるけき(続古今857)

【通釈】雲の居座っている外山の頂きの一つ松。目指してゆく道は遥かに遠いのだ。

【補記】『瓊玉集』には詞書「羈中野といふ事を」として掲載。

宇津の山にて

しげりあふ蔦も楓も紅葉(もみぢ)して木かげ秋なる宇津の山越え(玉葉1133)

【通釈】茂り合う蔦も楓も紅葉して、木陰はすっかり秋の風情である宇津の山越えの道よ。

【語釈】◇宇津の山 駿河国の歌枕。今の静岡市宇津ノ谷(うつのや)あたり。東海道の難所として名高く、伊勢物語第九段によって歌枕となる。

【補記】これも『中書王御詠』では「旅歌にて」十二首の一つ。文永三年秋、鎌倉から京へ向かう際、宇津の山を実際越えた経験に基づいての詠か。伊勢物語と良経の歌に多くを負っているものの、前例のない清新な表現「木かげ秋なる」に実情が感じられる。

【参考】「伊勢物語」
ゆきゆきて、駿河の国にいたりぬ。うつの山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、蔦、楓はしげり、もの心ぼそく…
  藤原良経「秋篠月清集」
しげりあふ蔦も楓もあとぞなき宇津の山べは道ほそくして

雑歌の中に

旅人のともしすてたる松の火のけぶりさびしき野路(のぢ)の明ぼの(玉葉1175)

【通釈】旅人が明かりに用いて、そのあと捨てた松明(たいまつ)の煙がひとすじ立ちのぼっている――その風情がいかにも寂しい、野道の曙よ。

【他出】捨てられた松明の煙に、心に沁みる旅愁を捉えた。『中書王御詠』では「旅歌にて」十二首の一。他に『拾遺風体抄』『夫木和歌抄』にも採られている。

【参考歌】二条院讃岐「千五百番歌合」
夏虫のともしすてたる光さへのこりて明くるしののめの空

三百首歌の中に

見わたせば汐風荒らし姫島や小松がうれにかかる白波(続古今1657)

【通釈】見渡せば潮風が荒々しい。姫島の松の梢にまで飛沫がかかる白波よ。

【語釈】◇姫島 難波潟にあったとされる島。

【補記】この歌も二句で切り、「姫島や」と詠み継いで、調べにうねりを作ることに成功している。荒海の歌にしては優美に過ぎるとしても。出典は『文応三百首』。『瓊玉集』にも所載。

【本歌】河辺宮人「万葉集」巻二
妹が名は千代に流れむ姫島や小松のうれに苔むすまでに

水郷

何となき世のいとなみも哀れなり水のうへゆく宇治の柴舟(竹風抄)

【通釈】何ということもない世の営みも、しみじみとした趣があるものだ。水の上を行く宇治の柴舟よ。

【語釈】◇世のいとなみ 世間の仕事。世渡りの勤め。◇柴舟 柴(小さな雑木)を積んだ舟。中世以降、宇治の柴舟がしばしば歌に詠まれた。

【補記】文永三年十月五百首歌。水郷、すなわち水の景観美で知られた名所を主題に詠んだ歌。

【参考歌】慈円「拾玉集」「夫木和歌抄」
なにとなくかよふ兎もあはれなり片岡山の庵の垣根に

虎とのみ用ゐられしは昔にて今はねずみのあなう世の中(竹風抄)

【通釈】虎とばかりに畏れられる地位に置かれたのは昔のことで、今は鼠が穴に潜むように逼塞している――ああ無情な世の中よ。

【語釈】◇虎とのみ用ゐられし 鎌倉にあって将軍として重んじられたことを言う。『文選』の東方朔の言葉「之を用うれば則ち虎と為り、用ゐざれば則ち鼠と為る」に拠ると言う。◇あなう世の中 「あな」は「穴」と感嘆詞「あな」の掛詞。「う」は「憂し」の語幹。

【補記】文永三年十月の五百首歌。『増鏡』の「北野の雪」にも見え、文永三年七月、鎌倉から帰洛し、六波羅に建てた檜皮屋に移された時に詠んだ歌という。「いとしめやかに、ひきかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしうもの心細う思(おぼ)されけるにや」と『増鏡』の作者は親王の心境を忖度している。

【参考歌】小野篁「古今集」
しかりとてそむかれなくに事しあればまづなげかれぬあなう世の中
  藤原光俊「夫木和歌抄」(掲出歌との先後関係は不明)
いまは世にあるもまれなる奧布のもちゐられしは昔なりけり

旅にまかりける人に

さらぬ世のならひをつらきかぎりにて命のうちは別れずもがな(新後拾遺850)

【通釈】避けられぬ世のならいである旅立ち――これを辛い別れの最後として、命のある限りはあなたと別れたくないものだ。

【補記】今回の旅の別れを最後の辛い別れとして、友がこの世から先立つ別れには逢いたくない、との思い。『中書王御詠』には題「離別」として載る。鎌倉時代の選者不明の私撰集『閑月集』では詞書「人につかはしける」。

【参考歌】在原業平「古今集」
老いぬればさらぬ別れもありといへばいよいよ見まくほしき君かな
  藤原定家「拾遺愚草」「玉葉集」
惜しからぬ命も今はながらへておなじ世をだに別れずもがな

文永九年二月十七日、後嵯峨院かくれ給ひぬとききて、いそぎまゐる道にて思ひつづけ侍りける

かなしさは我がまだしらぬ別れにて心もまどふしののめの道(風雅1968)

【通釈】このような悲しみは、まだ経験したことのない別れの悲しみであって、明け方の道を惑乱して辿って行く。

【補記】詞書によれば、父帝崩御の報に急ぎ参る道中の思いを綴った歌。『増鏡』によれば後嵯峨院は文永九年(1272)二月十七日朝に容態が急変、同日酉の刻(夕方)に亡くなっている。掲出歌には「しののめの道」とあるので、崩時に報せを受けたのでなく、容態が急変した早朝に駆けつける時の歌であろうか。親王の現存家集には未見。

【本歌】光源氏「源氏物語・夕顔」
いにしへもかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしののめの道

山家

忘れずよあくがれそめし山里のその夜の雨の音のはげしさ(竹風抄)

【通釈】忘れはしないよ。心惹かれて住み始めた山里の、その夜の雨の音の激しさは。

【補記】文永三年十月の五百首歌。憧れの山家で暮らし始めた夜、激しい雨音に孤独の厳しさを思い知る。題詠であり、実際にはまだ出家していなかった時の作。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」「続拾遺集」
心からあくがれそめし花の香に猶ものおもふ春のあけぼの

世をのがれて後、月前梅といふことを

梅が香は見し世の春のなごりにて苔の袂にかすむ月かげ(玉葉1858)

【通釈】梅の香りはかつて世にあった頃の春の名残となって漂い、僧衣の袂に涙で霞んで見える月影よ。

【語釈】◇苔(こけ)の袂(たもと) 僧侶・隠者の着る衣。

【補記】出家後の題詠。宗尊親王の遁世は文永九年二月、父後嵯峨院の崩御に発心したものであった。法名は覚恵。死去はその二年後の秋八月である。

【参考歌】後鳥羽院「御集」「続古今集」
われならで見し世の春の人ぞなきわきてもにほへ雲の上の花

いにしへを昨日の夢とおどろけばうつつの外にけふも暮れぬる(中書王御詠)

【通釈】昔のことは昨夜の夢に過ぎない――そう気がついて目が覚めると、現実感もないままに今日も暮れてしまった。

【補記】『竹風抄』には題「夕」とし、結句を「けふも暮れつつ」とする。文永三年十月の五百首歌。鎌倉より帰京後の作である。


公開日:平成14年09月15日
最終更新日:平成22年07月27日