葉室光俊 はむろみつとし 建仁三〜建治二(1203〜1276) 法号:真観

藤原北家高藤流。権中納言光親の子。母は順徳院乳母経子。子の大僧都定円・典侍親子・鷹司院帥も勅撰歌人。
承久二年(1220)、十八歳で右少弁・蔵人となる。翌年、後鳥羽院の寵臣であった父が承久の乱の首謀者として幕府により斬首される。光俊は父の罪に連座して筑紫に配流されたが、一年ほどで帰京を許され、嘉禄二年(1226)、蔵人に還補。翌年右少弁となり、安貞二年(1228)、正五位上に叙せられる。その後、右中弁・右大弁と昇進し、後堀河院院司別当を務めるなどしたが、嘉禎二年(1236)に突然出家し、真観と号した。
寛喜・貞永頃から藤原定家に弟子入りし、直接指導を受ける。貞永元年(1232)の日吉社撰歌合・石清水若宮歌合・洞院摂政家百首などに出詠。定家死後の寛元二年(1244)、為家蓮性(藤原知家)らと『新撰和歌六帖』を詠む。同四年には為家を排除した春日若宮歌合に参加し、以後、いわゆる反御子左家勢力の有力な一員として活動した。後嵯峨院歌壇では宝治二年(1248)の宝治百首ほかに詠進。建長元年(1249)、後嵯峨院の召により『現存和歌六帖』を撰進し、同三年頃、私撰集『秋風和歌集』を撰ぶ。また、この年為家の独撰による勅撰集『続後撰集』が完成すると、『難続後撰』(散佚)を著して為家を批判した。建長八年(1256)九月十三夜、九条道家主催の百首歌合に参加。文応元年(1260)、鎌倉に下向して将軍宗尊親王の歌道師範となり、翌年の親王家歌合に出席するなど鎌倉歌壇にも重きをなした。文永元年(1264)には宗尊親王の家集『瓊玉(けいぎょく)和歌集』を親王の命により編纂する。これより先、正元元年(1259)に後嵯峨院は為家に再度の勅撰集撰進を命じていたが、真観は親王の支援のもと、基家・行家らと共に撰者の一人に加えられた。文永二年(1265)、第十一代勅撰集『続古今集』奏覧。しかし同三年、宗尊親王が失脚すると後嵯峨院歌壇からの引退を余儀なくされ、反御子左派は崩潰した。その後、文永七年の和歌御会で題者を務め、為家死後の建治元年(1275)には摂政家月十首歌合の判者を務めるなどしたが、翌年の建治二年六月九日、死去した。七十四歳。
家集『閑放集』(残欠本のみ伝存)、歌論書『簸河上(ひのかわかみ)』がある。新勅撰集初出(四首)。以下、勅撰入集歌は計百三首。新三十六歌仙

中務卿親王家百首歌中に

うき世をば花見てだにと思へどもなほ過ぎがたく春風ぞ吹く(続古今1515)

【通釈】辛い世の中を、せめて花を見てやり過ごそうと思うけれども、やはり春風はなかなか見過ごしてはくれず、吹いて花を散らせてしまうのだ。

【語釈】◇過ぎがたく 「過ぎ」には「(風が)寄らずに通過する」「(私が)世を渡る」の両義を掛ける。

【補記】詞書の「中務卿親王」は鎌倉将軍宗尊親王。弘長元年(1261)に催された百首歌。

六帖題にて人々歌よみ侍りけるに、あひおもふといふことを

いかがせむ死なば共にとおもふ身におなじかぎりの命ならずは(続古今1207)

【通釈】どうしよう。死ぬときは一緒にと思う我が身に、あの人と同じ程の寿命がないとしたら。

【補記】寛元二年(1244)の『新撰和歌六帖題』、「相思ふ」の題で詠んだ作。

中務卿親王の家の歌合に

月を見ばおなじ空ともなぐさまでなど古郷の恋しかるらむ(続古今883)

【通釈】月を眺めれば、同じ一つの空だと心は慰まずに、どうしてこう故郷が恋しいのだろうか。

【参考歌】作者未詳(人麻呂歌集歌)「万葉集」巻十一
月見れば国は同じそ山へなりうつくし妹はへなりたるかも
  待賢門院堀河「久安百首」
故郷におなじ雲井の月をみば旅の空をやおもひいづらむ

中務卿親王家百首に

月出でて今こそかへれ奈呉の江に夕べ忘るる海人の釣舟(続古今1731)

【通釈】月が出て、今まさに港へ帰って行く――奈呉の江で、日が暮れたのも忘れて漁をしていた海人の釣舟。

【補記】日没に気づかず漁に熱中していた釣舟が、月明りをたよりに帰路に就く、という情景。「奈呉(なご)の江」は越中守大伴家持の万葉歌に由来する歌枕。今の富山新港のあたりにあった入江である。家持は「あゆの風」(東風)に翻弄される釣舟を詠んだが、この作はのどかな夕凪の入江を思い浮かばせる。

【参考歌】大伴家持「万葉集」巻十七
あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ

眺望

伏見山田面(たのも)の末を吹く風に穂なみをわたる宇治の川舟(洞院摂政家百首)

【通釈】伏見山麓に広がる田の面――その稲穂の末を吹き渡る風の中、川波ならぬ穂波を渡って行く宇治の川舟よ。

【補記】貞永元年(1232)成立の「洞院摂政家百首」。伏見山は京都伏見東方の山。麓から宇治川まで田園地帯が広がり、たとえば藤原俊成は「ふしみ山松のかげよりみわたせば明くる田のもに秋風ぞふく」と、広大な秋の稲田の情景を詠んだ(新古今集)。「ふしみ」には「臥し見」が掛かり、光俊の歌でも稲穂の丈より低い視点が取られている。ゆえに宇治川の川舟は穂波の間を見え隠れしつつ行き交うのである。

【主な派生歌】
暮れかかる伏見の門田うちなびき穂なみをわたる宇治の河舟(京極為教[玉葉])
はるばると鳥羽田の末をながむれば穂なみにうかぶ淀の川舟(木下長嘯子)

題しらず

世をばさて何ゆゑ捨てし我なればうきにとまりて月を見るらむ(続拾遺608)

【通釈】さてもまあ、なにゆえ遁世した我が身だというのか。世を捨てても「憂き」は残り、相変わらず辛い思いで月を眺めようとは。

【補記】「世」を捨てても「憂き世」の「憂き」は残った、という苦々しい洒落がある。作者は嘉禎二年(1236)、三十四歳の時、右大弁の地位を捨てて突然出家した。

里竹

この山の麓にぞ見る呉竹の葉室の里のよよの面影(宝治百首)

【通釈】この故郷の山の麓にまざまざと見えるのだ――先祖代々賞美してきた、葉室の里の面影。

【語釈】◇呉竹(くれたけ) 「よよ」(節々)にかかる枕詞。◇葉室の里 山城国葛野郡葉室(京都市西京区)。光俊の曾祖父光頼以後、家号とした。◇よよのおも影 世々(代々)の面影。先祖代々賞美してきた里の俤。

述懐歌あまたよみ侍りけるに

なにゆゑに今まで世にはふる身ぞと心のとへばねこそ泣かるれ(続古今1857)

【通釈】何故今まで世に年を重ねてきたのかと心が問えば、我が身は声をあげて泣いてしまうのだ。

【参考歌】慈円「新古今集」
なにゆゑにこの世を深く厭ふぞと人の問へかしやすく答へむ


最終更新日:平成14年08月13日