「家持歌日記」を読む1



第一部 巻十七


  ――此巻は、すべて日記のやうに載られたり(古義)

一、天平二年冬十一月

 万葉集の巻十七から巻二十までの四巻は、大伴家持による歌日記とも言われている。天平十八年正月の肆宴とよのあかりの記録に始まり、天平宝字三年正月因幡国庁での賀宴に至る十四年間、途中いくばくかの空白を挿みながら、家持の歌を中心としてほぼ彼の周辺に限定された作者の作品が、日録風に収められているからである。
 但し巻十七の冒頭三十二首は、天平二年・十年・十二年・十三年・十六年と、制作時期に懸隔があることから、それ以前の巻に漏れた歌を採録したものと考えるのが通説になっている。確かにそうも考えられるが、これを拾遺的な部分として、いわゆる「家持歌日記」全体から切り離して考えるべきなのだろうか。
 巻十七の冒頭をなすのは、天平二年冬、大宰帥だった大伴旅人が大納言を拝命して筑紫から帰京する際、帥とは別に海路をとって京へ向かった_従(けんじゅう)(従者のこと。ケンの字、人偏に「兼」旁)たちの残した歌群である。その題詞を仮に訓み下してみると、次のようになる(括弧内は、諸写本において小字によって記された分注を示す)。

  天平二年庚午冬十一月、大宰帥大伴の(まへつきみ)の大納言に(よさ)
  され(帥を兼ねたまふこと(もと)の如し)、京に上りたま
  ふ時、_従(けんじゅう)等別に海路(うみつぢ)を取り、京に(むか)へり。(ここ)に羇旅
  を悲傷(かな)しび、各 (おのもおのも)所心を陳べて作る歌十首


 題詞と呼ぶには些か詳細な、むしろ日記風の文体を取っていることに注意したい。第三者の視点に立った記述ながら、作歌の事情を親しく知り得た者にしか書き得ない文であることも銘記しておこう。その十首とは、次のようなものである。

  我が背子をあが松原よ見わたせば海人(あ ま)娘子(をとめ)ども玉藻刈る見ゆ
    右一首は、三野連石守作る
  荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か吾が恋ひざらむ
  磯ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ磯の知らなく
  昨日こそ船出はせしか鯨魚(いさな)取り比治奇の灘を今日見つるかも
  淡路嶋(と)渡る船の楫間にも我は忘れず家をしぞ思ふ
  大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌乞(??)我が背
  海未通女(あま をとめ)漁り焚く火のおぼほしく都努(つ の)の松原思ほゆるかも
  たまはやす武庫(む こ)の渡に天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ
  家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処(おくか)知らずも
  大海の奥処も知らず行く我をいつ来まさむと問ひし子らはも
    右九首の作者は、姓名審らかならず


 荒津から武庫の渡まで、すなわち大宰府の外港から畿内の入口にあたる渡船場に至る航程、旅の漂泊感と故郷の家族へ向けた慕情が詠われている。自ずから連想されるのは、巻一・巻三に見られる、人麿・黒人・赤人を中心とした行幸従駕歌や羇旅歌であろう。しかしそれらに比べると、_従(けんじゅう)たちの歌はずっと淡彩で、親密で、ミニマルな心の揺れを伝えるものになっている。ことに折口信夫に絶賛された歌「家にてもたゆたふ命..」などは、古代びとの形にならない不安をかそけき詩語のうちに結晶させた、特異な傑作と言うしかないように思われる。しかし折口は、このような歌にこそ、万葉びとの情緒の根源――漠とした巨大な不安――を発見したのであった。
 こうした折口の評価に基づいて、この十首に家持の「詩的体験の原型」を見たのが山本健吉である(『大伴家持』)。
 山本は、_従(けんじゅう)たちの船に家持が乗っていたはずだと言う。巻六には同年の歌として、「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ち、上道して筑前国宗形郡の名児山を超えし時作る歌一首」と共に「同じ坂上郎女、京に向かへる海路に浜の貝を見て作る歌一首」が収められており、これによれば坂上郎女は名児山を越えて「大伴家の人たちすべての海上交通の平安を祈るために」宗像神社に詣り、それから崗の水門に出、「ここで荒津から船を仕立ててやって来た三野連石守等、旅人の_従(けんじゅう)たちが乗って来た船上の人となったか」と推測されるからである。十代前半の少年だった家持が、母代わりの叔母に同行したことは、確かに十分考えられることであろう。_従(けんじゅう)たちの歌は家持に、現実とは別次元の存在としての詩を認識させ、感動した家持がこれを筆録して記念としたものであろう、とまで山本は想像を進めている。

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 いずれにしても、家持の歌日記の冒頭にこれらの歌群が置かれていることは紛れもない事実である。そして巻頭には、一巻全体を象徴し、亀鑑となるべき記念碑的な作を置くのが万葉集の倣いであるとすれば、これら歌群はよくよく吟味してみなければなるまい。
 とはいえ本稿は評釈書を意図するものではない。ここでは、歌群中最も優れた作と思える「家にても…」の歌のみを検討した上で、冒頭歌群をひとまずは通り過ぎることとしたい。

  家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処知らずも

 「たゆたふ」は、万葉集では波や雲について言われることの多い語で、風のまにまに運ばれ、揺れ、いつ消え去るとも知れない不定感を表象している。おのれの意志によらず、行方も知れず漂泊するものについて言う語である。作者は、家という、常識的には最も心が休まるべき場所においてさえ、「命」は「たゆたふ」と詠う。
 「奥処(おくか)知らずも」は、この場合空間的に果てしない海の彼方をイメージすると同時に、時間的に果ての知れない将来を暗示している。時空の広漠さに対する言い知れぬ畏怖と、その中を浮草のように漂う人間存在のはかなさ…。
 _従(けんじゅう)たちの歌は、二度にわたって現れる「家をしぞ思ふ」の句に象徴されるように、帰郷と望郷をテーマにしていることは言うまでもない。しかしこの歌のみは、むしろ帰郷の不可能性に突き当たっているように思われる。魂の原郷はどこにあるのか――わが家にあるのか、それともこの海の彼方にあるのか。我々に帰るべきところが本当にあるのだろうか。そう問いかけているようにすら感じられる。
 少年家持を乗せていたかも知れないその船は、無事難波の港に到り、船上の人はそれぞれの我が家へと散って行ったであろう。家持たちもまた三年ぶりの佐保の自宅に帰り着くが、彼らを待っていたのは、家刀自不在の「空しき家」であった。

  人もなき空しき家は草枕旅に益りて苦しかりけり

 「故郷の家に還り入りて即ち作る歌」と題された旅人作三首のうちの一首である(巻三)。旅人は大宰府滞在中に正妻大伴郎女を亡くしていた。家持にとっては養母に等しい存在だったはずである。
 翌年秋、父旅人も帰らぬ人となる。「奥処知らずも」の句を、家持は故郷の家にあって再度噛みしめることとなったに違いない。
 「家にてもたゆたふ」という、生活上での漂泊感は、後年の家持もまた共有するものであった。

  行方なくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくやしのはむ

 巻十八、越中に赴任して三年目の夏の作である。「行方なくありわたる」は、「家にてもたゆたふ命」をよりさりげなく、日常的に言っている。生活とは、人生とは、それ自体が旅であり、行方の知れぬ彷徨であった。家持の歌日記は、そのような魂の漂泊の記録でもあったのだろうか。

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(C)水垣 久 最終更新日:平成10-08-13