忍壁皇子
おさかべのみこ
- 生没年 666(天智称制5)以前〜705(慶雲2)
- 系譜など 天武第4皇子(『続日本紀』には第9皇子とあるが、壬申紀に名が見えることなどから、第4皇子と推定される)。母は宍人臣大麻呂の女。同母弟に磯城皇子、同母姉妹に泊瀬部皇女・多紀皇女がいる。明日香皇女(天智天皇の皇女)を妻とした。山前王・小長谷女王の二子が知られる。名は刑部・忍坂部にも作る。
- 略伝 672(天武1)年、壬申の乱勃発の際は父大海人皇子に随行して東国へ向かう。天武8年、六皇子の盟約に参加。天武10年3月、川嶋皇子・美努王らと共に「帝紀及上古諸事」を記し定めることを命じられる。天武14年、冠位四十八階制定の際には浄大参に叙せられる。686(天武15)年兄大津が死を賜り、689(持統称制3)年には草壁が夭折、696(持統10)年には長兄の高市も薨じ、忍壁は天武皇子として最年長の存在となった。しかし持統天皇は孫の軽王の即位を熱望し、697(文武1)年8.1、ついにこれを実現した(文武天皇)。文武4年、妻の明日香皇女を失い、この時柿本人麻呂が挽歌を捧げる(02/0196〜0198)。一説に忍壁皇子に奉った歌かともいい(0194の題詞の「忍坂部皇子」を錯入とみる)、人麻呂を忍壁に供奉する官人の一人であったと見る説もある。701(大宝1)年8.3、大宝律令の撰定が終わり、藤原不比等らと共に禄を賜る。大宝2年12.22、持統上皇が崩じた際、造大殿垣司。翌大宝3年1.20、史上最初の知太政官事に任命される。上皇崩御により若い文武帝を補佐する役目であった。季禄は右大臣に准ずる(式部省式上)とされるが、『公卿補任』では右大臣阿倍御主人の下位に記載されている(慶雲4年以後は当時の知太政官事穂積皇子が右大臣石上麻呂より上位に位置づけられている)。704(大宝4)年1.11、食封を加増される。この時三品と見え、二品の長皇子・舎人皇子・穂積皇子より下位にあった。705(慶雲2)年5.8、薨去。時に三品知太政官事。おそらく40代であったと推定される。高松塚古墳の被葬者にあてる説がある(直木孝次郎)。
万葉に作歌はないが、河嶋皇子殯宮の時(左注或本曰)、柿本人麻呂が献った歌(02/0194・0195)の題詞に名が見え、また「天皇の雷丘に御遊しし時、柿本人麻呂の作る歌」(03/0235)は左注に「或る本云く、忍壁皇子に献りし也」として異体歌を挙げている。巻9にも忍壁皇子に献った歌がある(09/1682)。
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