柿本朝臣人麻呂
かきのもとのあそみひとまろ
- 生没年 未詳
- 系譜など 父母等は未詳。柿本朝臣は、孝昭天皇の皇子天足彦国押人命を祖とする和邇(わに)氏の一族で、春日氏・粟田氏などと同族。大和国添上郡柿本寺(奈良県天理市櫟木町)付近の地名をウヂ名としたかという。姓ははじめ臣、天武十三年、八色の姓制定に際し、朝臣を賜る。
- 略伝 生年は不詳であるが、大化元年(645)前後と見る説が多い。
人麻呂が宮廷歌人として万葉集に登場するのは持統天皇代からで注1、制作年の明かな最初の歌は持統三年(689)の草壁皇子挽歌(2/167-170)である。また「近江荒都歌」(1/29-31)は持統二年(688)の作と見る説がある。
持統四年(690)二月の吉野行幸に従駕し、歌をよむ(1/36-39)注2。翌持統五年九月、川島皇子が薨じ、殯宮のとき泊瀬部皇女に献る歌(2/194-195)がある。
持統六年三月の伊勢行幸に際しては京に留まり、行幸に従駕した「妹(いも)」を恋慕する歌を詠んでいる(1/40-42)。同年冬には、軽皇子の安騎野遊猟に供奉し、作歌(1/45-49)。この遊猟は、立太子を控えた皇子の天皇霊継承のための儀礼としての意味を持ったという(白川静)。
持統十年(696)七月、高市皇子が薨ずると、挽歌を詠む(2/199-202)。万葉集最大の雄編である。
持統天皇譲位後の文武四年(700)四月、明日香皇女(天智天皇の皇女。新田部皇女と同母)薨去の際、挽歌を詠む(2/196-198)。おそらく皇女の夫忍壁皇子に奉った歌であろう(194の題詞を錯入とみた場合)。この歌が制作年の明かな人麻呂最後の歌である。ただし翌大宝元年(701)九月、文武天皇の紀伊国行幸の際、有間皇子の結び松を見ての作歌に人麻呂歌集中歌がある(2/146)。なおこの年七月左大臣多治比嶋が薨じており、人麻呂の宮廷歌人としての活躍の終焉とほぼ重なることなどから、嶋を人麻呂のパトロンと見る説がある(中西進)。多治比氏は古来、古舞を管掌する家柄で、和歌とも縁の深い氏族であった。
大宝二年(702)冬には持統上皇の東国行幸がなされ、長意吉麻呂・高市黒人ら歌人が従駕して歌を残しているが、人麻呂がこの行幸に従駕した形跡はない。
万葉集の歌を見る限り、宮廷を離れた人麻呂は、和銅元年以降、筑紫に下ったり(3/303・304)、讃岐国に下ったり(2/220-222)した後、石見国で妻に見取られることなく死んでいる(2/223)。
柿本朝臣人麻呂、在石見国臨死時、自傷作歌一首
鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ(02/0223)
その死の事情については、石見国で疫病死(斎藤茂吉)、同地で刑死(梅原猛)、持統崩後数年内に殉死(伊藤博)など諸説ある。
万葉集には少なくとも八十首以上の歌を残している。また万葉集中に典拠として引かれている「人麻呂歌集」は後世の編纂と思われるが、そのうち少なからぬ歌は人麻呂自身の作と推測されている。
没後人麻呂は歌聖として仰がれ、また神として祀られた。石見国高津の人麻呂神社創建は神亀元年(724)と伝えられている。
注1 「柿本朝臣人麻呂歌集」出典歌には、左注に「庚辰年作之」と記された歌があり(10/2033)、「庚辰年」は天武九年(680)と見るのが普通。これが人麻呂の実作とすれば、制作年が推定される最古の歌である。ただし天平十二年(740)庚辰の作と見る説もある。
注2 38番歌は持統国見を詠み込んだ歌であり、即位を言祝ぐ歌と思われる。
関連サイト:柿本人麻呂(Welcomeさくらい)
柿本人麻呂(島根県江津市)
柿本人麻呂の風景(神奈備にようこそ)
柿本人麻呂研究文献目録(万葉集の宅頁)
人麻呂の歌(やまとうた)
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