大原真人今城
おおはらのまひといまき
- 生没年 未詳。おそらく生まれは慶雲年間(705〜708年)以前。死去は772(宝亀3)年以後。
- 系譜など 父は未詳。高安王・桜井王などの説がある。母は大伴女郎(04/0519大伴女郎歌一首題脚「今城王之母也。今城王後賜大原真人氏也」)。大伴女郎は不詳(旅人の妻大伴郎女と同一人とする説、及び坂上郎女と同一人とする説は成り立ち得ない)。大原真人賜姓以前の名は今城王。
大原真人は『新撰姓氏録』によれば敏達天皇の孫、百済王より出ず。しかし天平11年に大原真人を賜姓されたのは以下3名。
- 高安王 『皇胤紹運録』は長皇子の孫で、川内王の子とするが、長皇子は天智2年(663)生まれの天武第3皇子大津皇子より年少であり、高安王は初叙の年(和銅6年=713年、従五位下)から693年以前の生まれになるので、高安王を長皇子の孫とするのは年代的にかなり苦しい(長皇子は30歳以前に孫をもうけたことになってしまう)。『新撰姓氏録』より敏達天皇の裔とするのが正しいか。
- 桜井王 高安王の弟、714(和銅7)年無位より従五位下。天平16年恭仁京留守、この時の名は大原真人桜井。天平勝宝8歳11月23日、「大原桜井真人、佐保川邊に行きし時作れる歌」(20/4478)を大原今城が伝読。
- 門部王(かどべのおおきみ) 高安王の兄弟。710(和銅3)年、無位より従五位下。天平17年卒。
他に大原真人賜姓の例としては、
- 忍坂王(おさかのおおきみ) 系譜未詳。「後賜姓大原真人赤麻呂」(08/1594左注の分注)。続紀に見える忍坂王(天平宝字5年無位より従五位下)と同一人か。但し続紀に大原赤麻呂の名は見えず。
- 略伝 04/537〜542に高田女王(高安王の子)より恋歌を贈られる(巻四の排列からすると養老末頃か)。当時の名は今城王。この頃を15歳と仮定すれば、705年〜708年頃の生まれとなり、家持より10歳以上年長になる。
巻八(1604)には、恭仁京遷都後、奈良故郷を惜しむ歌がある。
天平20年(748)10月、兵部少丞正七位下(寧樂遺文)。この頃、平城京左京一条三坊に居住した。
天平勝宝7歳(755)頃、上総国朝集使大掾(20/4440題詞)。
天平勝宝7歳(755)から天平宝字2年(758)にかけて家持とさかんに親交、宴で歌を詠み合う。天平勝宝7〜8歳の頃、家持は兵部少輔の地位にあったが、同じ頃今城は兵部大丞と見え(20/4459など)、家持直属の部下だったと知れる。
天平宝字1年(757)5月、正六位上より従五位下に昇叙。同年6月、治部少輔に遷任(当時の治部大輔は市原王)。万葉集によれば翌年7月にも治部少輔。
天平宝字7年(763)1月、左少弁に任官。同年2月、来日した新羅使金体信らのもとへ派遣され尋問の役を負う。同年4月、上野守。
天平宝字8年(764)1月、従五位上。
宝亀2年(771)閏3月、無位より従五位上に復す(押勝の乱に連座したか)。
宝亀3年(772)9月、駿河守任官。以後『続日本紀』に見えず。宝亀5年3月、山辺王が駿河守となり、これ以前に死亡かまたは引退したものと思われる。
万葉には作歌9首(08/1604、20/4442、4444、4459、4475〜6、4496、4505、4507)、伝誦・伝読歌8首(20/4436〜9、4477〜80、4482)。
伝誦歌は昔年相替防人歌・元正天皇御製・薩妙觀応詔歌・内命婦石川朝臣(安麻呂の妻、佐保家大家)応詔歌。伝読歌は智努女王(長親王の子)卒後、円方女王(長屋王の子)悲しみ傷み作れる歌・大原桜井作歌・藤原夫人(天武天皇の夫人、氷上大刀自)の歌・作者未詳歌・藤原執弓の歌。主に皇室関係の歌と親族の歌を伝えているようである。
系図へ|表紙へ