対蝦夷政策史略年表 811(弘仁2)年まで

古代東北城柵図
古代東北城柵図

景行25 景行天皇、武内宿禰に北陸・東方諸国を視察させる。宿禰は2年後帰還して日高見国の住民蝦夷のことを報告、攻略を勧める。
景行40 東国の蝦夷が謀反し、日本武尊を派遣。大伴武日連・吉備武彦が従う。尊は駿河・相模を経て上総から海路陸奥国に入り、蝦夷を平らげた後、日高見国から常陸を経て甲斐国に至る。甲斐酒折宮で武日に靫部を賜る。武彦を越国に派遣して監察させ、尊自らは信濃国に進入、美濃に出て武彦と遭遇。のち尾張を経て伊勢に入り、蝦夷の俘囚を伊勢神宮に献る。
景行51 伊勢神宮の蝦夷を三諸山(三輪山)に移し、さらに幾外へ移す。これが播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波5カ国の佐伯部の先祖。(注)文字どおり受け取れば佐伯部の出自は蝦夷となるが、武勇を誇るための佐伯氏の造作とみる説もある。
西暦4C後半 東北地方の古墳分布などから、大和政権はこの頃東北地方に進出したとするのが通説。
4C末? 応神3 10.3 東の蝦夷、朝貢。蝦夷をして廏坂道を造らせる。
仁徳55 蝦夷反乱。田道を派遣するが伊峙の水門(石巻か)で敗死。
478 雄略22? 倭王武(雄略天皇説有力)、宋に上表文を送る。王の先祖が自ら甲冑を纏い山川を跋渉し戦を続け、東は毛人55カ国を征し、西は衆夷66カ国を服し、海北(朝鮮半島か)へ渡り95カ国を平らげる、とあり(宋書)。
581 敏達10 閏2 蝦夷数千、辺境に寇(あたな)う。天皇は魁帥(大毛人)アヤカスらを召して主謀者の誅殺を宣告。アヤカスは泊瀬川で三輪山に向かい水をすすり、朝廷への忠誠を誓盟。
637 舒明9 この年、蝦夷が叛き、入朝せず。上毛野形名を将軍として派遣。はじめ朝廷軍は敗走するが、形名の妻の知略により蝦夷が退却する間、軍を再整備して討伐に成功。虜囚多数。
647 大化3 この年、渟足柵(ぬたりのき)を作り、柵戸を置く。(注)新潟県新潟市沼垂。上図参照。
648 大化4 この年、磐舟柵を作り、蝦夷に備える。越・信濃の民より選んで柵戸に置く。(注)新潟県村上市岩船。上図参照。
655 斉明1 7.11 難波で北(越)の蝦夷99人・東(陸奥)の蝦夷95人を饗応。柵養の蝦夷9人と津刈蝦夷6人に冠位を授ける。
この年、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、献物。
658 斉明4 4 越国守阿倍比羅夫、船軍を率いて蝦夷を征討。齶田(秋田)・渟代(能代)の蝦夷、降伏。齶田の蝦夷恩荷(おが)を能代・津軽2郡の郡領に定める。
659 斉明5 3.17 甘檮丘の東の川上に須弥山を造り、陸奥・越の蝦夷を饗応。
3 阿倍臣、秋田・能代・津軽等の蝦夷を征討。虜囚多数。
7.1 遣唐使派遣。道奥の蝦夷男女二人を唐の天子(高宗)に示す。高宗の問いに対し、使人は蝦夷にはツカル・麁蝦夷・熟蝦夷の3種があると答える。
660 斉明6 3 阿倍臣、船軍を率い粛慎国(蝦夷の一部、または沿海州のツングース族)を征討。
669 天智8 この年、遣唐使が蝦夷を伴い入唐(新唐書)。蝦夷は「海島(本州を指す?)中に居す」。
697 文武1 10.19 陸奥の蝦夷、朝貢。
708 和銅1 9.28 越後国に出羽郡を建置(4年後には出羽国となる)。
709 和銅2 3.6 陸奥・越後の蝦夷が良民を害するため、遠江・越前・越中などから兵士を徴発する。巨勢麻呂、陸奥鎮東将軍。佐伯石湯、征越後蝦夷将軍。内蔵頭紀諸人、副将軍。蝦夷征伐出発。
7.1 上毛野安麻呂、陸奥守。蝦夷征討のため、諸国兵器を出羽柵に運送させる。
8.25 征蝦夷将軍ら帰還。御前に召して優寵を加える。
710 和銅3 1.1 元日朝賀。左将軍大伴旅人・右将軍佐伯石湯ら、皇城門の外、朱雀大路の東西に分かれ騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いて行進。(注)隼人・蝦夷が元日朝賀に参列した史料上の初見。
714 和銅5 9.23 出羽国を建置
713 和銅6 12.2 陸奥国に丹取郡(現宮城県古川市・玉造郡付近か)を建置。
715 霊亀1 1.1 元日朝賀。皇太子初めて礼服を着て拝朝。蝦夷・南島人来朝。
10.25 陸奥国の蝦夷の言上により、香河村・閇村(ともに未詳)に郡家を建てる。
718 養老2 5.2 能登国・安房国・石城国・石背国を建置。対蝦夷対策と関連するか。
720 養老4 9.28 陸奥の蝦夷が叛乱、按察使上毛野広人殺害される。多治比県守、持節征夷将軍。
722 養老6 4.1 蝦夷・隼人征討将軍らに勲位を授ける。
723 養老7 9.17 出羽国司多治比家主(池守の子)、蝦夷への叙勲を申請、これを許す。
724 神亀1 3.25 海道(東北の太平洋沿岸)で蝦夷叛乱、大掾佐伯児屋麻呂殺害される。
4 藤原宇合、持節大将軍。高橋安麻呂、副将軍。坂東9国の兵3万人を調練。
5.24 小野牛養を鎮狄将軍とし、出羽の蝦夷を鎮圧させる。
この年、陸奥按察使兼鎮守将軍大野東人多賀城を設置(多賀城碑文)。
725 神亀2 閏1.4 陸奥国俘囚を伊予・筑紫・和泉に移配。
730 天平2 2.26 陸奥国田夷村(不詳)の蝦夷が帰順、同地に郡家を建てることを申請。聖武天皇はこれを許す。
733 天平5 12.26 出羽柵(のちの秋田城)を秋田村高清水の岡に移す。雄勝村に郡を建て民を置く。
737 天平9 1.21 東北経略の軍をおこす。藤原麻呂、持節大使として陸奥に派遣さる。
2.19 遣陸奥持節大使藤原麻呂・鎮守将軍大野東人、陸奥国多賀柵に至る。
4.14 藤原麻呂らより報告、(1)鎮守将軍大野東人は多賀柵より出羽国雄勝への道を開こうとしたが、深雪のため果たさず、多賀柵に帰還した。(2)雄勝村の俘長らが来降し、大野東人は部下の進言を容れて雄勝制圧策から融和策に転換。(3)大野東人は大雪による食糧不足を理由に雄勝城の築城を中止した。
7.13 参議兵部卿従三位藤原麻呂、薨ず(43歳)。
749 天平21 2.22 陸奥国守百済王敬福より黄金を献上。
757 天平宝字1 4.4不孝・不恭の者らを陸奥国桃生(もものふ)・出羽国雄勝に移配する。
6.16 大伴古麻呂、兼陸奥鎮守将軍、同按察使(左大弁留任)。佐伯全成、(陸奥守)兼鎮守副将軍。
758 天平宝字2 10.25 陸奥国の浮浪人を徴発して桃生城を築造させる。
12.8 坂東の騎兵・鎮兵・役夫・夷俘を徴発して桃生城・雄勝柵を築造させる。
759 天平宝字3 9.26 桃生・雄勝城造営従事者に対し挙稲を免ずる。出羽国に雄勝郡・平鹿郡を建置し、陸奥・出羽両国に駅家を置く。
9.27 坂東8国ほかの浮浪人を雄勝柵に移配。東国7国の兵士が所有する武器を雄勝・桃生2城に貯える。
760 天平宝字4 1.4雄勝・桃生城の完成につき陸奥按察使兼鎮守将軍藤原恵美朝狩らに褒賞。
12.22 博打の争いから殺人を犯した薬師寺僧を還俗させ陸奥桃生の柵戸に配す。
761 天平宝字5 1.16 大伴益立、陸奥鎮守副将軍。
762 天平宝字6 この年、東海東山道節度使・陸奥按察使藤原恵美朝狩、多賀城を修造(多賀城碑文)。
4.1 鎮守副将軍大伴益立、兼陸奥介。
12.1 多賀城碑建立。「去蝦夷国界一百廿里(約80キロメートル)」(碑文)。
12.25 田中多太麻呂、陸奥守兼鎮守副将軍。
763 天平宝字7 7.14 藤原田麻呂、陸奥出羽按察使。
767 神護景雲1 10.15 伊治城完成につき田中多太麻呂・大伴益立らに褒賞。
768 神護景雲2 9.4 大和守石川名足、兼陸奥鎮守将軍。
9.22 陸奥国配置の他国鎮兵を停止。また陸奥国の庸調は国に留め10年1度の京進とする。
769 神護景雲3 1.2 陸奥蝦夷、文武百官と共に大極殿で拝賀。(注)蝦夷の朝賀参列は以後(翌宝亀1年を除き)宝亀4年まで続き、同5年に至って停止される。
1.30 一般民戸を強制的に陸奥・出羽の柵に移配すると逃亡が増える恐れがあるため、積極的に移住・開拓を希望する者のみを住まわせ、これらの民に対しては法律上の優遇措置をとることを決定(正式に勅が出されるのは同年2.17)。
8.19 石川名足、陸奥守。
11.25 陸奥国牡鹿郡の俘囚大伴部押人、調庸の民となることを願い出、これを許す。先祖は蝦夷を征討した伴造だったが子孫が蝦夷の俘虜となり誤って俘囚(朝廷に帰属した蝦夷)とされた。
770 宝亀1 8.4 称徳天皇崩ず。
8.10 蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇(うかにめのきみうくつはう)ら、徒党を率いて賊地に逃げ帰る。近衛中将兼相模守の道嶋嶋足らを派遣、検問させる。
9.16 坂上苅田麻呂、陸奥鎮守将軍。
10.1 白壁王即位(光仁天皇)。
772 宝亀3 1.1 陸奥・出羽の蝦夷、入朝して元日朝賀に参列。16日、帰郷。
閏3.1 佐伯美濃、陸奥守兼鎮守将軍。
9.28 大伴駿河麻呂、陸奥按察使(陸奥守を兼ねるか)。駿河麻呂は老齢を理由に辞退するが、天皇は「汝駿河麻呂宿禰、唯(ひとり)朕が心に称(かな)へり」として任務遂行を命ずる。
10.11 陸奥国に逃亡した下野国管内の百姓870人を検括し本郷に還却させる。
773 宝亀4 1.1 陸奥・出羽の夷俘、元日拝賀。14日、帰郷。
7.21 大伴駿河麻呂、陸奥鎮守将軍(兼陸奥按察使・陸奥守)。
774 宝亀5 1.16 五位以上を楊梅宮で、蝦夷俘囚を朝堂で饗応。
1.20 蝦夷俘囚の入朝(並びに朝賀の儀への参列)を止める。
7.20 陸奥国行方郡の正倉で火災。
7.23 河内守紀広純、兼鎮守副将軍。陸奥按察使兼守兼鎮守将軍大伴駿河麻呂に蝦夷討滅を勅命。(注)蝦夷討伐に関し現地司令官の意思が決定せず、天皇に勅断を求めたのに対し、天皇は蝦狄が「しばしば辺境を侵し敢えて王命を非(そし)る」として討滅を命じた。
7.25 陸奥より報。蝦夷が桃生城を侵攻、将軍駿河麻呂、これを討つ以後弘仁3年(812年)まで38年間対蝦夷戦争が続く。
8.2 坂東8国に対し陸奥危急の際は援兵を徴発して直ちに陸奥へ赴かせるよう命じる。(注)上記7.25付の報はこの日朝廷に届いたか。
8.24 将軍駿河麻呂、蝦夷の侵攻が散発的であること等を理由に討伐の必要なしと奏上し、天皇は征討計画の首尾一貫性のなさを深く譴責する。
10.4 駿河麻呂、陸奥遠山村(未詳。一説に宮城県登米郡)の蝦夷を征伐、天皇より慰労される。
775 宝亀6 夏〜秋 蝦夷騒動。陸奥の民衆は砦の防御に狩り出され田は荒廃。これにより当年の田租・課役を免ずる。
10.13 出羽国、今後3年間に鎮兵996人を請い、要害防御と国府の遷移を願い出る。相模など4国の兵士を差発し派遣する。
11.15 駿河麻呂、桃生城を侵した蝦夷を討伐した功により正四位上、勲三等。
776 宝亀7 2.6 陸奥国が4月上旬における山海二道の蝦夷征討を申請。陸奥2万・出羽4千の軍士を発して雄勝方面から陸奥国西辺地域の蝦夷を征討する計画をたてる。
5.2 志波村の蝦夷が叛逆、国軍不利。下総・下野・常陸などの騎兵を徴発して鎮圧にあてる。
5.12 近江介佐伯久良麻呂、兼陸奥鎮守権副将軍。
7.7 参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂卒す(従三位追贈)。
7.14 安房など東国4国の船50隻を買い上げ、陸奥国に配置。不測の事態に備える。
9.13 陸奥国の俘囚395人を大宰管内諸国に分配。
10.11 陸奥国での征戦頻発により百姓疲弊、ゆえに当年の田租を免除。
11.26 陸奥の軍3千人を動員して胆沢地方の蝦夷を討伐。
11.29 出羽国の俘囚358人を大宰管内・讃岐に移配。うち78人は諸司と参議以上に賜与して賤とする。
12.14 陸奥国諸郡の百姓より奥郡(黒川郡以北の諸郡か)の兵を募る。
777 宝亀8 1.25 大伴真綱、陸奥介。
3 この月、陸奥の夷俘の来降、相次ぐ。
4 この月、陸奥国は総力を挙げて山海二道の蝦夷と戦闘(9.15条)。
5.25 相模以下諸国に命じ、甲(よろい)200領を出羽国の鎮所(秋田城・雄勝城などか)に送らせる。
5.27 陸奥守紀広純、兼陸奥按察使(鎮守将軍も兼ねる)。
12.14 陸奥鎮守将軍紀広純より、出羽国の軍が蝦夷に敗れ退却との報。近江介佐伯久良麻呂を鎮守権副将軍とし、出羽国鎮圧に出陣。
12.26 出羽国で蝦夷叛乱、官軍は戦況不利。
778 宝亀9 6.25 蝦夷征討に功のあった陸奥・出羽国の国司らに叙位。按察使紀広純、従四位下勲四等。鎮守副将軍佐伯久良麻呂、正五位下勲五等。伊治呰麻呂、外従五位下。(注)宝亀7年4月に始まった征討に対する褒賞か。出羽の蝦夷反乱はこれ以前に一段落したことが窺える。
780 宝亀11 1.16 陸奥国長岡郡(宮城県古川市か)に蝦夷が侵入、官軍との戦で多数の死者。
2.2 陸奥国、胆沢地方の得るため覚{鼈}城(かくへつじょう。{鼈}の字、正しくは足が「魚」。所在不詳)の建造を奏上、許可される。
2.11 陸奥国より3月中旬の発兵と覚{鼈}城の築造を申請、朝廷は3千の兵で蝦夷の残党を討滅すべきことを命ずる。
3.22 陸奥国伊治郡で伊治呰麻呂の乱、紀広純殺される(乱の経緯)陸奥按察使紀広純が覚{鼈}城築城のため衛兵や斥候を遠くに配置し、蝦夷の軍を率い伊治城に入った時、蝦夷出身で伊治郡大領の伊治呰麻呂が蝦夷軍に叛乱を呼びかける。呰麻呂は牡鹿郡大領道嶋大楯と紀広純を殺害したあと、陸奥介大伴真綱を多賀城まで護送。真綱と陸奥掾石川浄足は多賀城より逃走し、叛乱軍は略奪の後多賀城を焼き払う。以後、律令国家と蝦夷の全面戦争の様相を呈する。
3.28 中納言藤原継縄、征東大使。大伴益立・紀古佐美、副使。
3.29 大伴真綱、陸奥鎮守副将軍。安倍家麻呂、出羽鎮狄将軍。大伴益立、兼陸奥守。
5.6 京庫と諸国の甲(よろい)600領を鎮狄将軍の所に送ることを計画。
5.11 渡嶋(津軽または北海道南部)の蝦夷が北辺の民を侵しているゆえ、出羽国に対し慰撫・教諭を命ずる。
5.16 征夷に従軍する進士(志願兵)を広く募る。
6.8 百済王俊哲、陸奥鎮守副将軍(真綱は解任?)。多治比宇美、陸奥介。
6.28 陸奥持節副将軍益立らに勅、5月8日以来状況報告がないことを責める。
7.21〜22 征東使、甲1千領・襖4千領を請う。諸国に命じて軍所に運ばせる。
7.22 坂東の兵士を徴集し、9月5日までに多賀城に集結させることを決定。
8.23 秋田城に鎮守の軍と専当官を置いて守護させる。(注)秋田城の維持が困難になったため、国司1名のみを置いて保持をはかった。出羽国府は庄内地方に後退するか。
9.23 藤原小黒麻呂、正四位下持節征東大使(継縄は解任)。
10.29 天皇、蝦夷征伐の遅延を責める。
12.10 征東使、2千の兵を派遣して蝦夷の要害を断つことを申請。
12.27 陸奥鎮守副将軍百済王俊哲より奏上、「蝦夷軍に包囲され苦戦したが、桃生・白河郡の神11社に祈り囲みを破る。この11社を幣社に列することを請う」。朝廷、これを許す。
781 天応1 1.1 呰麻呂に欺かれた者が来降した場合、賦役全免3年。陸奥・出羽征戦従軍者は当年の田租を免除。
1.10 参議藤原小黒麻呂、兼陸奥按察使(紀広純の後任)。
2.30 穀10万斛を東国諸国より陸奥の軍所に船で輸送させる。
4.3 光仁天皇譲位、山部親王即位(桓武天皇)。
5.27 紀古佐美、陸奥守。
6.1 桓武天皇、征東大使藤原小黒麻呂に対し、征夷軍の解散を責め、入京を停める。副使のうち一人に帰京と戦況の報告を命ずる。小黒麻呂の奏状によれば「賊衆4千余人、斬れる首級は70余人。遺衆なお多し」。
8.25 陸奥按察使藤原小黒麻呂、征伐を終え入朝。特に正三位を授ける。
9.7 内蔵全成、陸奥守。
9.22 征夷の功労者に対し叙勲・叙位。紀古佐美・百済王俊哲・勲四等。内蔵全成・多犬養、勲五等。多治比宇美、従五位上など。
9.26 征討副使大伴益立、蝦夷進軍を滞らせたことを責められ、従四位下の位を剥奪される。(注)前年の事件に対する処置。同日の記事に「小黒麻呂は軍を進め諸塞を恢復した」旨見える。なお承和4年(837年)、益立の子伴野継が冤罪の訴えを起こし、認められて益立は本位を賜る(続日本後紀)。
12.1 陸奥守内蔵全成、兼鎮守副将軍。
12.23 光仁上皇崩ず(73歳)。
782 延暦1 閏1.11 氷上川継の乱。
2.7 民部卿小黒麻呂、兼陸奥按察使。
6.17 春宮大夫大伴家持、兼陸奥按察使鎮守将軍。入間宿禰広成、陸奥介。安倍猿嶋臣墨縄、鎮守権副将軍。
783 延暦2 1.9 道嶋嶋足、卒す。(卒伝)陸奥国牡鹿郡の人。旧牡鹿連。武芸に長け、授刀衛将曹に抜擢され、仲麻呂の乱で勲功を上げて従四位下勲二等。のち道嶋宿禰を賜姓され、正四位上の高位にまで至った。
4.15 鎮所の将吏たちが坂東8国から運ばれた穀によって私利を得ること、また鎮兵を使役して私田を営むことを厳しく諌める。
4.19 坂東諸国に対し勅「この頃夷俘の騒乱により軍旅が頻発し、このため坂東諸国の辺境地方は疲弊している。これを憐れみ、使いを発して慰労すると共に倉を開いて優給する」。
6.6 坂東8国に命じ、散位の子・郡司の子弟・浮浪人等のうち適当な者各500~1000名を選んで軍事訓練を課さしめる。
7.19大伴家持、中納言に就任(春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍留任)。
11.12 常陸介大伴弟麻呂、兼征東副将軍。
784 延暦3 2? 大伴家持、持節征東将軍(春宮大夫・陸奥按察使・鎮守将軍留任)。文屋与企、副将軍。入間広成・阿倍猿嶋墨縄、軍監。(注)「持節」(節刀を賜わる)の文字があることなどから、家持は再び陸奥へ下向したと思われる。但し在京将軍であったとの説もある。
5.16 中納言藤原小黒麻呂・同種継ら、遷都のため乙訓郡長岡村を視察。
11.11 天皇、長岡宮に遷幸(長岡京遷都)。
785 延暦4 2.12 多治比宇美、陸奥按察使(家持の後任)兼鎮守副将軍。
4.7 陸奥按察使鎮守将軍家持ら、東北防衛について建言。危急時に人民・兵士を徴集するために設けた仮の郡多賀・階上を正規の郡とし、官員を常置することを要望。許可される。(注)この時の按察使は正しくは多治比宇美。家持の肩書に「陸奥按察使」とあるのは誤記であろう。
5.20 百済王英孫、陸奥鎮守権副将軍(安倍猿嶋墨縄の後任)。
8.28 中納言従三位大伴宿禰家持死す
9.23 夜、長岡京造営工事を検分中の種継、賊に弓で射られる(藤原種継暗殺事件)。
786 延暦5 8.8 東海道・東山道に使を派遣して兵士を検閲し武器を点検させる。蝦夷征伐のため。(注)大規模な征夷が行われるのは3年後の延暦8年。
787 延暦6 1.21 陸奥按察使に対し、蝦夷との交易を厳禁する(類聚三代格)。
2.5 陸奥介佐伯葛城、兼鎮守副将軍。
2.25 藤原葛野麻呂、陸奥介。池田真枚、鎮守副将軍。
閏5.5 陸奥鎮守将軍(家持の後任か)百済王俊哲、事件に関与して日向権介に左遷。(注)いかなる事件か不明。俊哲は敬福の孫。延暦10年下野守に任じられて復権、同年征夷副使・陸奥鎮守将軍を兼任、大伴弟麻呂・坂上田村麻呂らと共に蝦夷征伐に成功した後延暦14年没。
788 延暦7 2.28 陸奥按察使陸奥守多治比宇美、兼鎮守将軍。安倍猿嶋臣墨縄、副将軍。
3.2 来年の蝦夷征討に備え、兵糧を多賀城に運ぶ。
3.3 東海・東山・坂東諸国の兵士5万2千8百余人を徴発し、来年3月までに多賀城に集結させることとする。
3.21 多治比浜成・紀真人・佐伯葛城・入間広成、征東副使。
7.6 参議紀古佐美、征東大使
12.7 征東大将軍紀古佐美、辞見。節刀を賜る。3月に任命した副将軍たちは進軍せず、落ち度が多いことを挙げ注意を与えるとともに、軍監以下の死罪については将軍自ら斬刑を執行する権利を与える。
789 延暦8 3.9 諸国からの派遣軍総数4万、多賀城に会集、道を分けて蝦夷地に進軍。大規模な対蝦夷軍事行動はじまる
5.12 征東軍、衣川(岩手県胆沢郡衣川村か)付近で1カ月余り駐留。天皇はこれを咎める。
5.26 征東副将軍佐伯葛城、贈正五位下。征討途上に卒す。
6.3 征東軍、蝦夷軍に大敗。征東将軍紀古佐美より奏上。副将軍入間広茂ら兵士4千名とともに河(北上川か)を渡り、蝦夷地を侵攻するが、巣伏村(不詳)で蝦夷軍に挟まれて大敗。戦死者25人、溺死者千余人。
6.9 征東将軍より奏上。子波(現岩手県紫波郡)までの進攻は食料等の不足から不可能、軍解散との結論を報告。これに対し天皇は将軍・副将軍らの臆病を詰る。
7.17 持節征東大将軍紀古佐美より戦勝報告(10日に得た奉状)。天皇はこれを虚飾として責める。
9.8 紀古佐美、陸奥より帰京。節刀を進上。
9.19 大納言継縄らを遣わし、征東軍の将校らに対し敗戦の状況を取り調べさせる。大将軍紀古佐美は以前の功績により免罪、鎮守副将軍安倍猿嶋墨縄、官位剥奪。同池田真枚、解任。
10.23 巨勢野足、陸奥鎮守副将軍。
790 延暦9 閏3.4 征夷のため、3年以内に革甲2千領を造ることを諸国に命ずる。
10.19 征夷に功あった者に対し叙勲。
10.21 坂東諸国の疲弊が甚だしいため、他国にも武具製造などを負担させることとする。
この年秋・冬、京・畿内ほか諸国で豌豆瘡が流行。
791 延暦10 1.18 東海道・東山道に使者を派遣して軍士と武器の検閲をさせる。蝦夷征討の準備。
2.21 陸奥介文屋大原、兼鎮守副将軍。
7.13 大伴弟麻呂、征夷大使。百済王俊哲・多治比浜成・坂上田村麻呂・巨勢野足、副使。
9.22 下野守百済王俊哲、兼陸奥鎮守将軍
792 延暦11 この年、軍団を廃止、健児の制を定める。奥羽・西海道諸国を除き、諸国の兵士を廃止し、これに代える。主に地方の郡司の子弟などを採用。(注)農民の労役負担を軽減し、また軍団の私物化という弊害を除くため。背景には、造都・征夷戦争による経済の逼迫と、国際的な緊張関係の消失の二点があった。
793 延暦12 2.17 征東使を征夷使に改める。
3 平安京の建設、大規模に始まる。難波宮を廃止。
794 延暦13 1.1 征夷大将軍大伴弟麻呂、節刀を賜う。
6.13 副将軍坂上田村麻呂、蝦夷征伐。
10 平安京遷都。
797 延暦16 11.5 坂上田村麻呂、征夷大将軍
801 延暦20 9.27 征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷を討伏。閉伊村までを征服。
802 延暦21 1.9 坂上田村麻呂に胆沢城の造営を命ずる。(注)胆沢城跡は岩手県水沢市。この後、鎮守府は多賀城から胆沢城に移される。
4.15 坂上田村麻呂、蝦夷の総帥アテルイの降伏を報告。
8.13 アテルイらを処刑。
803 延暦22 3.6 造紫波城使坂上田村麻呂、辞見。(注)この年、紫波城を造営。城跡は岩手県盛岡市。
805 延暦24 12.7 参議藤原緒嗣、陸奥進軍と平安京造営の中止を提言。桓武天皇これを容れる。
806 大同1 3.17 桓武天皇崩ず(70歳)。
5.18 安殿親王、践祚(平城天皇)。
809 大同4 4.1 平城天皇譲位、賀美能親王践祚(嵯峨天皇)。
811 弘仁2 1.11 陸奥国に和賀・稗貫・斯波(紫波)の3郡を設置。
3 出羽守大伴今人、俘囚300余人を率いて蝦夷征伐に勲功を立てる。翌月征夷副将軍に抜擢される。
閏12.11 文屋綿麻呂より蝦夷征伐の終了を奏上。宝亀5年から38年続いた蝦夷征服戦争が終わる

主な参考文献:『日本書紀』(岩波日本古典文学大系) ・『続日本紀』(岩波新日本古典文学大系)・『完訳注釈 続日本紀』(現代思潮社)・『続日本紀』(平凡社東洋文庫)・『日本後紀』『日本紀略』『類聚国史』(新訂増補国史大系)

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