「人参三臓圓」看板 1枚
附 仙厓筆「三藏圓辨」 1巻
有形文化財・歴史資料
福岡市中央区 個人蔵
概要
【法量/cm】
竪139.5
横 48.8
厚 3.8
【材質】
楠
【形態】
表裏に同一の銘文が彫られる。漆と金箔の跡が所々に残る。上部の破損は吊り看板の名
残か。
【銘文】 表裏に次の三行が籠字で彫られている。
御免 調合所
○丸 人参三臓圓
紙屋嗣七「楢﨑」「種布」
指定理由
楢﨑家に伝わる朝鮮人参販売の看板です。「楢﨑家一統之系譜」(所蔵者義弟、親族でもある楢﨑藤三氏所蔵)によれば楢﨑家は志摩郡小金丸村の出身、本家初代次郎吉善西(寛延3.12.2没、1750年)は上須崎町往当たりに「紙屋」を開店しました。二男次七は同所で薬店「三臓圓」を開きました。以後、代々基本的に次七(治七)を名乗りました。本資料に見える「紙屋嗣七」もその一人と考えられます。家号を「紙屋」、家紋を「まるまる」と称しました。『博多津要録』(寛延2.4.9、1749年)には須崎町上紙屋善西の記事があります。
五代藩主黒田継高が幕府から人参の種200粒を拝領するのは寛延1年(1748)、次いで宝暦2年(1752)人参種子(御種人参)を拝領、鞍手郡犬鳴谷での福岡藩の朝鮮人参栽培が試みられました。なお、徳川吉宗が日光で朝鮮人参栽培を試みたのは享保年間(1716〜1734)のことです。新井白石の献言による国内銀の対外貿易流出を防ぐ「正徳新例」(「長崎新例」)の政策方針に沿い朝鮮人参の国産化も模索されました。
貝原益軒『筑前国続風土記』にも益軒が序文を寄せた宮崎安貞『農業全書』にも朝鮮人参の記載はありません。
享保19年(1734)吉宗の命により諸国産物調査が命ぜられ、福岡藩では元文3年(1738)『筑前国産物帳』『筑前国産物絵図帳』を提出しました。中に「犬鳴山にんじん他郡にもあり、ひげにんじんともいふ、薩摩人參の一種、即竹の節にんじんにて、三椏五葉なり」とありますが、これは従来産していた人参のことであり、朝鮮人参のことではありません。
幕府はその栽培と国産化に意を注ぎましたが(田村藍水『朝鮮人参耕作記』延享五年・1748、小坂力五郎『薬草木作植書付』天保十四年・1843)、それに呼応した福岡藩における実態は資料上散見するのみで明らかではありません。
本資料はそうした朝鮮人参専売の実際を福岡藩において示す貴重な歴史資料であると言えます。
なお、文化10年(1813)仙がい筆の「三藏圓辨」は神儒仏一味同体の見地からその薬効の由縁を説くものであり、「人参三臓圓」(また「楢﨑三臓圓」とも称した)営業の時期を知る目安となります。