平成19年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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楢﨑家歴代肖像 5幅

有形文化財・絵画
福岡市中央区 個人蔵
 

概要

【法量・形態等】
1.総本家先祖  釋善西信士肖像    46.0 cm×29.8 cm 紙本著色 掛幅装
       (善西翁楢?次郎吉)                 
2.三臓圓祖代  釋善恵信士肖像    84.3 cm×31.0 cm 絹本著色 掛幅装
       (治七)                       
3.二代     真如院釋旭山霊肖像  91.8 cm×31.2 cm 絹本著色 掛幅装
       (治六)                       
4.四代     本誓院釋能信居士肖像 51.5 cm×24.3 cm 紙本墨書 掛幅装
       (治七 東行菴天然)                 
5.六代     釋翫英信士肖像    80.0 cm×35.2 cm 絹本著色 掛幅装
       (治七)                       
 
 

指定理由

 「楢﨑家一統之系譜」(所蔵者義弟、親族でもある楢﨑藤三氏所蔵)によれば楢﨑家は志摩郡小金丸村の出身、本家初代次郎吉善西(寛延3.12.2没、1750年)は上須崎町往当たりに「紙屋」を開店しました。二男次七は同所で薬店「三臓圓」を開きました。以後、代々基本的に次七(治七)を名乗りました。家号を「紙屋」、家紋を「まるまる」と称しました。家紋「まるまる」の「丸」の字は肖像画にも見えるように独特の書体です。
 楢﨑家過去帳によれば、現当主繁男氏は九代目になります。初代から八代の没年は以下の通りです。
 本家次郎吉善西・寛延3年(1750)没、当家初代次七・安永2年(1773)没、二代治六・文化8年(1811)没。三代治七・文政2年(1819)没。四代治七・文政10年(1827)没。五代治七・天保12年(1841)没。六代治七・明治17年(1884)没。七代治七・明治36年(1903)没。八代俊郎・昭和36年(1961)没。
 初代善西については『博多津要録』(寛延2.4.9、1749年)に須崎町上紙屋善西として記載されています。肖像のみで賛はありませんが、「楢﨑家一統之系譜」に法眼普山(山崎普山1729〜1809、俳号杏扉)の賛があり「若くて苦しみさて楽乃果報ハさらなり」と讃えています。普山は福岡の医師にして俳人、村々を廻り農家の心得を説いた『農家訓』や『宗像郡武丸正助略伝』等の著があります(中野三敏)。父杏雨の医業を継いで法橋のち法眼に任じられました。肖像作製時と賛の間に時間差があるかも知れません。
 二代治六の妻は「志摩郡宮ノ浦 津上貞右衛門之女」です(『過去帳』)。津上は恐らく宮浦(福岡市西区)の廻船問屋津上定右衛門でしょう。仙がいはその肖像に「神とまります宮の浦風寶船の中に一つの誠あり黙止軒の像、俗名定右爲〈マゝ〉門廻船の主なり、文政己丑七月十九日扶桑最初禪窟がい陳人書」と書きました(三宅酒壺堂編『仙がい語録』)。宮浦三所神社に掲げられる「双鶴図」絵馬に見られる「願主 博多住 楢﨑次六種布」は二代次六その人と考えられます。
 三代治七は大坂立売堀で淡路屋利兵衛と称し大坂にて没し、本墓大阪市竹林寺にあると記述があります(『過去帳』)。画像はありませんが、奥村玉蘭の発願した太宰府天満宮絵馬堂建立に資金を弁じたそうです(許斐友次郎「奥村玉蘭翁」)。寄進帳には大坂世話人として淡路屋清次郎があります。
 四代次七、妻は橋口町の同族楢﨑次吉から娶っています(『過去帳』)。その自賛から信仰深い真宗門徒であったことが窺えます。文政3年(1820)、櫛田文庫(神職及び博多町人も貸出した公共図書館)に『倭漢三才図会』105巻81冊揃いを奉納した楢﨑嗣七は四代次七その人でしょう。また「人参三臓圓」の看板に見える「紙屋嗣七」その人と考えられます。
 五代次七、御笠郡下見村に入夫(『過去帳』)のためか肖像は残っていません。
 六代次七、磯野藤左衛門三男が入婿(『過去帳』)。楢﨑に伝える尾形聴松(洞霄)筆「清見寺冨士図」箱書きに「安政六年未十月下旬本家ノ襖乃繪かきに先生御出有之節磯野孫右衛門 此圖を相願候處早速ニ御出来被成候ニ付表具いたし家寳として子孫に相傳る者也記之」とありました。入婿に従って礒野家から楢﨑家にもたらされたものと考えられます。
 幕末〜明治初年にかけ、楢﨑家一族の「紙屋」の活動しているようですが、本楢﨑家の状況は窺い得ません。「人参三臓圓」の商いはその頃には止んでいたものと思われます。
 本肖像5幅はその絵師を知ることはでませんが、一人一人の個性が如実に描写されたものです。恐らくは町絵師が本人を前にして画いた寿像であると思われます。
 「人参三臓圓」(また「楢崎三臓圓」とも称した)「紙屋」楢﨑家の事績を活き活きと伝える肖像群であり、江戸期博多商人の数少ない画像資料としても貴重です。