南懐仁の大砲 1門
概要
筥崎宮の楼門を入った右手回廊に置かれている青銅製の大砲。砲身長328cm、口径13.4cm。
清朝の康煕二十八年(1689)の製作。製作指導はベルギー人のイエズス会宣教師、フヱルデイナンド=フェルビースト(Ferdinand Verbiest、1623〜1688)。フェルビーストは技術顧問、軍事技術顧問として天文・暦法・地理・砲術等々のヨーロッパの技術を清朝に伝えた宣教師。漢名は南懐仁。
明治41年(1908)海軍大臣斉藤実から筥崎宮に奉納された。昭和18年(1943)、金属回収の対象とされたが筥崎宮は保存を申請、翌年福岡県知事を通して「企業整備本部長」より「保存ノ要ナキニ付至急回収」の通知(回答)を受けたが終戦を迎え今日に至る。
法量
砲身長328 cm、口径13.4 cm。
砲首付近径26.8 cm、砲首-砲耳の中間付近径30.5 cm、砲耳付近(砲尾側)径36.3 cm
砲耳-砲尾の中間付近径38.2 cm、砲尾付近径38.7 cm
銘文等
砲尾漢文陰刻銘
「大清康熈二十八年
鋳造
武成永固大將軍用
藥六(角力)八兩
生鐵砲子十三(角力)
星高九分
製法官 南懐仁
監造官 佛 保
碩思泰
作 官 王之臣
李文徳
匠 役
顔 四」
砲尾満州文字陰刻銘
(同内容とされる満州文字12行あり)
その他
砲首(砲口上縁)に梅花紋様と落書様の「紅 一七 ■」の陰刻あり。
砲身中頃上部と砲尾付近上部に落書的十字様の研磨あり。
形態等
銘文にある「星高九分」(一分0.32 cm、九分2.88 cm)は照準のことか。砲首に「准星」、砲尾に「照門」の跡と思われる痕跡が残る。砲尾「照門」跡には「火口」(導火線挿入口)と考えられる痕跡が残る。砲首から砲尾にかけ10 cm余の径の増大があり、火薬爆発に耐え得る形である。砲身破壊を防ぐためか、砲身と一鋳と考えられる箍(タガ)状の隆起が数カ所ある。
数条の箍(たが)の前後にはヨーロッパ的でもありアジア的でもある蓮華紋・唐草紋その他種々の紋様が美しく鋳だされている。
指定理由
ベルギー人のイエズス会宣教師、フヱルデイナンド=フェルビースト(Ferdinand Verbiest、1623〜1688)の制作指導で清朝康煕28年(1689)に製造された青銅製の大砲である。大砲の名称を「武成永固大將軍」という。
フェルビーストは技術顧問、軍事技術顧問として『新製靈臺儀象志』『康熈永年暦法』『坤輿圖説』『坤輿全圖』『神威圖説』など天文・暦法・地理・砲術等々を著述しヨーロッパの技術を清朝に伝えた宣教師の一人として知られている。「康熈十三年から同十五年にかけて、彼は鐵製の大小砲二十門を鑄造して、之を陝西、湖廣、江西等に送つたが、同じく九年から二十年までに更に軽便なる歐洲式の神威砲三百二十門を鑄造してゐる。其の盧溝橋に試放された時には帝親臨して之を覧、着彈の正確なるを喜んで、大に南懐仁等を賞した。」という(中島利一郎「東西両洋文明接触の史的記念物−筥崎宮の大砲について−」『筑紫史壇』第45集 昭和3.12.25)
砲尾に漢字(12行)と満州文字(12行)の銘文が印刻されている。鋳造年代や工匠等の名が知られる。北京城門にあったものとも(有馬成甫「筥崎宮の南懐仁の大砲—附 支那の西学伝統—」〔筥崎宮 昭和33.4〕)、北京・天津の門戸である大沽(タークー)の砲台にあったものとも言われる。
明治41年(1908)海軍大臣斉藤実から筥崎宮に奉納された。その後、昭和18年(1943)、金属回収の対象とされたが筥崎宮は保存を申請、翌年福岡県知事を通して「企業整備本部長」より「保存ノ要ナキニ付至急回収」の通知(回答)を受けたが終戦を迎え、今日まで保存されることとなった。
北京に同種の大砲が4門あるとされるが、現存数は本砲を含めても極めて数少ないものと思われる。
本砲は戦争による負の遺産というより、「西洋文明東漸」の遺産として本市のみならず国際的にも貴重な価値を有する文化遺産であると考えられる。