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《アメリカ学会分科会 アメリカ経済・経済史》記録
ディスカッション・テーマ「ニュー・エコノミーとは何か?」

日時 : 平成19610
発題:秋元英一(千葉大学)
場所:立教大学
 

 

司会(加藤): 今日は、ニュー・エコノミー型経済に関する論点について議論するということで、まず、話題提供者秋元先生から報告をしていただき、そのあとで、皆さんで自由に議論する形をとりたいと思います。

 

<発題>

秋元英一:

 今年の3月にスダンフォードに寄ったときに、Gavin Wrightという経済史家に会って、彼が今年末の千葉大学でのシンポに来てくれることになりました。彼は南部経済史が専門で、ニュー・エコノミーの専門家というわけではないのですが、もうひとり、Paul Davidという70歳前後の経済史家がニュー・エコノミーについて多くの論考を発表していることがわかりました。彼の書いたものはどれも厚くて、だいたい彼がニュー・エコノミーにかんする論点を出し切っているのではないかと思います。彼はスタンフォードとLSEの両方に籍をもっていて行ったり来たりしている、忙しい人です。カリフォルニア大学のバークレイにも行きましたが、経済学部にはニュー・エコノミーをやっている人はいません。別のところに、日本語で訳のあるライシュ(Robert E. Reich)がいます。
 スタンフォードにはもうひとり、ビジネス・スクールに
Paul Romerという人がいます。彼は理論経済学者ですが、ニュー・エコノミー専門ではありません。最近、彼がかつて新しい成長理論を樹立したエピソードをもとに、書かれた本が出版されました。David Warsh, Knowledge and the Wealth of Nations: A Story of Economic Discovery (Norton, 2006).です。これを書いたのが、Boston Globeの経済記者だった人です。この本では最初に、アダム・スミスがピン工場の分業について説明した箇所における二律背反にふれています。すなわち、一方でピン工場の規模が拡大すればするほど、生産性が上昇し、利益率は増大する。これは収穫逓増の世界で、規模が大きくなればなるほど儲かる。つまり、独占への傾向が内在するわけです。他方で、神の見えざる手(競争市場における自己利益追求がによって全体の幸福につながる)が適切に働くためには、それぞれの産業に多くの競争者がいなくてはならない。それは、独占力を行使するものがいないことが条件だからです。競争市場が維持される条件は規模が拡大すると利益が減少する、つまり収穫逓減の世界です。この矛盾は非常に長いこと経済学の考察の対象外だったが、1970年代末より収穫逓増をベースにした経済学が本格的に模索され、それを経済成長に適用したのが、Paul Romer 1990年の論文だったというわけです。
 Romerのモデルのなかで重要なのは、今日のわれわれがニュー・エコノミー下で当然と考えている、知識の集積による技術変化を内生的な(endogenous)ものとしたことです。もっとわかりやすく言えば、知識という(知的)財産をコピーすることは、同じ人間が何度でもやれることであるし、知識とは、ある情報が価値があることが証明された後の情報のことであり、潜在的に非競合的です。このように知識が非競合的であることが、じつは収穫逓増の世界の根本的な淵源であるというわけです。

財貨、すなわち商品からニュー・エコノミーを考えようという試みは、あまり多くはありません。Danny Quah,”Digital Goods and the New Economy,”がその一つです。それと、バブルがはじける前にChristopher Freemanという人が書いた論文に、”A Hard Landing for the ‘New Economy’? Information Technology and the United States National System of Innovation,” Structural Change and Economic Dynamics, No. 12, 115-39.があります。これでわかったことは、イギリスにもニュー・エコノミーを議論しているコアがあるということです。アメリカとは異なった観点からです。このFreemanの弟子に、Carlota Perezという人がいて、彼女はTechnological Revolutions and Financial Capital: The Dynamics of Bubbles and Golden Ages (Edward Elgar, 2002).という本を書いています。この本は、過去から現在に至るテクノロジーの革命とそれに対する金融資本のかかわりを段階的、サイクル的に分析して、モデル化して見せたものです。

いずれにせよ、ロンドン(LSE)やスタンフォードにおいて、ニュー・エコノミーをたんなるバブルではなく、注目に値する本格的な経済の構造変化として捉えようとする学者が増えているのではないかと思います。

デジタル財(と私は訳したのですが)は、5つの特徴を持っています。

1)非競合性(non-rivalness)。ある財貨が競合的であるとは、食料のように、消費によって消滅する場合であり、デジタル財は消費してもなくならない。その反対である。知的財産権とは、デジタル財の特定の機能を否認するための法的メカニズムである。

2)無限に拡張可能。限界コストがゼロに近い。1992年にPaul Davidが最初に用いた。

3)不連続性。分割不可能性。

4)空間を越える。どこにでも存在せず、どこにでも存在する。

5)組み替え可能である。新しいデジタル財はその産みの親の特質と無関係である。DNAからきた用語法。

4)の特質は、IT産業立地に熟練労働力重視という新たな特徴を与えつつある。ただ、その変化は必ずしも急激ではない。ある程度の同業種の収斂が必要で、「40エーカーとモデム」さえあれば、とは立証されていない。

いずれにせよ、ジョーゲンソン(彼はアメリカ経済学会の会長講演でニュー・エコノミーについて論じました)が言うように、ニュー・エコノミーという研究領域おいて、われわれはわれわれの思考様式をよみがえらせ、われわれの慣れ親しんだディシプリンを再活性化させる、新たな研究課題を背負ったことは間違いない、と言えるのではないでしょうか。 

それから、Paul David= Moses Abramowitzが書いた論文"Two Centuries of American Macroeconomic Growth From Exploitation of Resource Abundance to Knowledge-Driven Development," Stanford Institute for Economic Policy Research Discussion Paper No. 01-05 (August 2001).)の中で、1995年以降の生産性上昇、とくにTFP成長の復活について、3つの要因をあげています。

第一に、需要成長の強さ。国内粗投資率の高さと株価ブームによる資産効果が消費に与えた影響を評価する必要がある。雇用労働者に対する労働強化。既存工場設備のより集約的な利用。TFP成長が景気循環および平均的労働生産性の成長と連動的であることは、歴史的に実証済みなので、この面では、「ニュー・エコノミー」は新しくないと言える。

第二に、より多くの生産シェアが見えない財貨の生産によっている。ソフトウェア、その他のデジタル情報財。生産を拡大するにつれて、単位あたり生産コストが急速に減少する。

第三に、1990年代の加速のひとつの原因として、1970年代と1980年代の間の生産性の減速を過大評価した。測定の誤り。一般に、この時期には、新しい情報技術が新たな財貨サービス導入のコストを削減することを可能にするように適用されたので、企業にとって、製品の平均ライフサイクルは短縮され、「大量カスタム化」実験が可能になった。製品販売益の中の新製品の占める割合が増えた。それが価格の低下に貢献した。

それから、GPT、全般的目的技術の役割。内生的成長モデルに組み入れられる。その特徴は@、改善と綿密な工夫にとっての広汎な見通し。A、広汎な利用のための適用可能性。B、既存の、ないし潜在的な新技術にとっての強力な補完性。

 歴史的な解釈として、かつての時代におけるGPTの例として電動モーターがあります。両大戦間期、資本節約型の技術変化の教科書的な例です。フォード、ハイランドパーク工場。電化により、重いシャフトやベルトが不要となり、工場建物自体も軽量化した。1920年代には、製造業の資本―産出量比率が急激に下がったのです。19世紀の経済全体に及ぶ資本深化と対照的である。

 1920年代の生産性上昇の例は、製造業全般におよぶ「イースト状の」拡大があって、それに対して、少数産業に「マッシュルーム状」にばらばらに起きたということ。新たなGPTのもとで起きるイースト状の過程が一般的だが、1970年代、1980年代の製造業はマッシュルーム型で起きたのではないかと。たとえば、全体の生産性の進展が停滞的ななかで、197080年代は基礎が据えられた。1990年代にアメリカ経済に起きた総要素生産性の進展の型は、マッシュルーム型からイースト状への移行であって、ニュー・エコノミーはその生産性の上昇に寄与したのではないかという議論です。

 Freemanの議論によると、現代のICTは資本主義経済における最も重要な不安定性の原因であり、そこから投資行動の不確実性を除去することはできない。不確実性を減らすのとは反対に、現実にはそれを増大させることになってしまう。というのも、それらは一般的な景気の不確実性の次元と、技術的な不確実性の次元とを付加するからです。

 コンピューターの開発と利用は、1940年代にさかのぼる。現在もなおコンピューター産業が地球経済を支配するに至っていない。かつての電気モーターも、自動車も同様であった。新産業は長期にわたって繁栄の時代を経過する必要がある。ゲイツが言うように、われわれは通信革命のほんの初期段階を経験している。それは、寿命が長く、広汎に及んでいる。

 Paul David and Dominique Foray, "Economic Fundamentals of the Knowledge Society," SIEPR Discussion Paper No. 01-14 (February 2002)は、知識社会の基本条件について述べています。20世紀初頭より総生産的富の中で無形資本の相対的重要性が高まってきた。無形資本とは、@知識の生産と普及に向けた投資、A人的資本の物的状態の支持に向けた投資。BOECD諸国でも、知識と情報の生産、加工、移転にかかわる仕事がますます多く普及しつつあります。

 技術革新のスピードと集約度が増大しています。@正式な研究と開発の仕事:オフライン。Aオンラインでの学習を通じて、仕事など。

 そして、技術革新のスピードと集約度を与える道筋は、@このような豊富な情報を創出できるという事実そのものが革命的である。A情報技術は、学者や科学者間においてのみならず、製品デザイナー、供給者、最終消費者の間でも創造的相互作用を高める。B新技術は、巨大データベースの中味を開発し、分析することを可能にする。C上記の三つを結合して、データ収集と計算、結果の共有のための大規模分散型のシステム開発を可能にする。

 知識とは、その所有者に、知的、ないしは物理的行動を可能にする力を与える。情報とは、本来受動的な、構造化され、フォーマット化されたデータである。情報の複写はコストがかからないが、地域の再生産はきわめて高価になります。

 次に、Robert J. Gordon ("Does the "New Economy" Measure up to the Great Inventions of the Past?" The Journal of Economic Pespectives, Vol. 14, No.4 (Autumn, 2000).Gordon説く”New Economy”について説明します。1995年以降のインターネットの発達と情報技術の変化の加速があったことは周知です。とくに1995年以降ニュー・エコノミーはコンピューターを含めた耐久製造業に生産性成長の爆発を引き起こした。また、この生産性の爆発は、経済の生産性成長率を高め、株式市場にとてつもない富をもたらした。インフレ圧力を下げさせることで、失業率が不断に低下しても、数年間は連邦準備理事会が金融政策を引き締めに転じなくてもよくなった。だが、ニュー・エコノミーは経済の耐久製造業以外の88%にはほとんど何も意味しない。そこでは、総要素生産性は減速した。かつての電気の革新性に比べるとITの比重はたいしたことはない。

 ライシュは Robert Reich, "Microsoft Case--The Transformation of Government from Regulator of the Old Eonomy to Definer of the New." The American Prospect Online,June11,2000.   http://www.prospect.org/cs/articles?.において、以下のような指摘をしています。      

 ニュー・エコノミーに関する政府の新しい役割は、あらゆる空騒ぎにもかかわらず、オールド・エコノミーはニューよりもはるかに大きいままです。ある意味で、これは今までの議論と似ています。

 しかしながら、競争の条件は変わりつつある。それとともに、政府の役割も変わりつつあります。ニュー・エコノミーは生産規模ではなく、技術革新に中心を置く。ニュー・エコノミー下で売買されるのは、触ることのできる製品やサービスのみならず、新しい観念(ある特定の目的を達成するための方法)です。問題解決のための、より新しい、より良い方法で。では、キーとなる問題は、新しい観念から利潤を獲得するのは誰であり、どの程度なのか。この権利を表す言葉として用いられているのが、「知的財産権」である。新しい、知的財産権にかかわる境界はオールド・エコノミーの煉瓦やモルタルのような境界ではない。ニュー・エコノミーにおいては、端や限界はよく確立してはいない。民間企業は、ヒト・ゲノムの地図について著作権を持つ資格があるか? あるいは新しい合成された香水の特許はどうなっているのか。どういう知的財産権を持っているのか。また、インターネットのオークションのやり方についての新しい方法はどうか。市場が機能するためには、政府はこれらの質問に答えなくではならないのです。それはビル・ゲイツが言うように、政府の市場への闖入ではなく、何もないところに、政府が所有と交換のルールを定義するということである。しかしながら、新しい財産の範疇は、論理や分析からだけでは見出されない。決定は、社会がそうした革新や伝統やプライバシーに付与する価値に依存する。

 特許関連の訴訟数は1980年の800件から1997年の2,100件まで増加しました。政府の役割は、オールド・エコノミーのもとでの規制者から、ニュー・エコノミーの定義者に変わらざるをえないのではないか。アメリカ経済はモノの大量生産から新しい観念の継続的な創造へと変わりつつある。

 以上です。

 

<議論>:

Q: 情報財の需要サイドについてはわかりますが、消費サイドについてはどうでしょうか。2000年ごろまで、およびその後、最近になると、どうなっているのでしょうか。

 

:基本的に情報産業や、アメリカ経済は技術革新がどんどん進んで、景気変動がなくなってという結構な状況ですが、例えば、日本は、情報化は進んでいるが、92年から2005年まで、全然働いてない。ここでは、ニュー・エコノミーはないのではないかと思っていますが。中国はどうか。また、産業サイクルのS字カーブもしだいに期間が長くなっているのか。

秋元:これまでなんでも需要、供給の関係で、たいていのことは説明できてしまったわけですが、そこへニュー・エコノミーという新しい議論が出てきて、そこで経済理論自体を新しくできるのではないかということになったわけです。ある意味で、みんなの夢ですね。また、意外と多くの人は現在はまったくの初期段階であると認識しているが、その辺はどうでしょうかね。

 

:ニュー・エコノミーの概念について、またニュー・エコノミーとオールド・エコノミーの関係についてもうちょっと詳しく知りたいですが。

秋元:私が『豊かさと環境』の中の論文で説明したように、IT革命、グローバリゼーション、そしてニュー・エコノミーの3つがお互いに補強しあう関係として形成されている。これらのうち、どのひとつがなくてもだめなわけです。通常によく使われているニュー・エコノミーとオールド・エコノミーの区分ですが、この場合のオールド・エコノミーは産業セクター群、大量生産型、製造業が経済の中心になっている。それとは対照的にニュー・エコノミーを定義しなければならない。例えば、日本の場合は、オールド・エコノミーの方が優勢である。しかし、それは地域、国によって全然違います。例えば、ヨーロッパはアメリカより進んでない。地域によるかなり違ってくる。

 

:知識産業はニュー・エコノミーであると主張しているが、その辺はどうでしょうかね。

秋元:二つの解釈があります。一つはニュー・エコノミーになる前のサービス産業である。ただ、それでは説明しきれない部分があります。知識産業はたんにサービス産業とは言えない。それは80年代以降の新しい特徴ではないかと考えています。

 

: ニュー・エコノミーは一体どういうことを指しているのか?60年代、70年代と80年代の経済成長は90年代以降の成長行動と違い。90年代後半のニュー・エコノミーは、ITと情報などがわかりますが、その後はどうなっているの?

 

秋元:その議論に多少補充できそうなのが、私が書いた「生き方としてのニュー・エコノミー」という短文です。これはベースになったのはライシュです。たとえば、アメリカにおいて、労働時間が1980年代半ばから減らなくなった、特に幹部級の人々は一生懸命働くようになった。その原因は、競争で相手に勝つためには、より安くより良い商品サービスをより速く提供することが必要で、そのためには、昼夜を分かたず働かなければいけない。例えば、コンピューターが普及しはじめの頃は、オフィスで得た成果をフロッピーに保存して、家に帰ったら家のパソコンにフロッピーを入れてまたそれを更新することができました。しかし、いまインターネットの世界は24時間動いていて、休まない。どこからでも同じデータにアクセスできる。となると、フロッピーのように、われわれがコントロールできる感覚がない。向こうから追いかけてくる。仕事から逃れる時間がなくなった。寝ればいいじゃないか、というかもしれませんが、何か新しい商品を開発している人は、睡眠中もそのことを考えているかもしれない。このようにして、労働時間はある意味で無限になってしまったわけです。

管理職でない、平の人はいつも解雇の危険にさらされているので、自らをまもるために仕事をほかの労働者よりも一生懸命やらなければならない。これは、形のうえでは、自ら進んで労働強化や労働時間延長にいそしむようなことになります。ニュー・エコノミーが発達した中で、老後の生活はどうなるか、というと、お年寄りが海に行って午前中はスキューバダイビングを行い、午後は緊急酸素吸入をやるというふうな生活をするようになる。つまり、どこからどこまでがニュー・エコノミーか、というのでなく、われわれの生活と労働の習慣を根本から変える力をニュー・エコノミーは持っている。競争の熾烈化に伴って、商品サービスをより安く、より優れたものを、より短時間に供給しなくてはならない、という世界に突入したのです。

 

: 情報は、蓄積可能です。ビジネスに使う情報を選り分けることによって生活の質を高めることができる。ライシュの言うように追いかけられなくても大丈夫なのではないか。

 

: 景気循環の調整能力や生産性の上昇について、もう少し説明してください。

秋元: 労働者を増やすことによって、生産性を上昇させるか、資本を導入して、生産性を上昇させるか。あるいは、いわゆる技術革新が、経済成長に影響を与えた。これがTFPの上昇につながります。90年代後半は生産性が急に上昇をはじめたのですが、経済史家は、それまでにも新しい技術は知られてはいたが、適用がうまくいかなかった。それがようやくいろいろな産業に使えるようになって、生産性の統計に反映するようになった、というわけです。労働者がある程度新しいテクノロジーを受け入れるようになってきたことは大事なことだと思います。

 

: 技術進歩は実際にイノベーションになるためには相当長い時間が必要です。いったん、できてしまえば、マニュアルがあるから、前よりもうまくいくようになる。

 

: 90年代アメリカの自動車産業はITでうまくいくと予想されたときもあったが、結局うまく行かなかった。どうもアメリカ的な大量生産と、ヨーロッパのような高品質少量生産のいいところを両方採り入れる必要がであるんでしょうね。

 

秋元: アメリカの経済白書を見ていると2001年で、ニュー・エコノミーの記述が終わっています。ブッシュ政権になってからはこの言葉は使っていない。経済白書は、すべて、古い経済学であらゆることを説明しようとしている。で、そのことの背景を考えてみると、ブッシュ政権とクリントン政権を支えた産業基盤の違いが現れているのではないかと思います。ブッシュ政権はニュー・エコノミー的なものの力はわかっているのだけど、明示的には認めない。なぜなら、彼らを支えているのが石油や製造業などアメリカ中央部から南西部に中心を持つ産業群であるのに対して、クリントン政権は、よりニュー・エコノミー的な産業群に支えられていたわけです。

 

: コンピューターが生産性上昇にとっての寄与度は非常に重要であることは明らかであると、特に90年代の後半は非常に明らかに、いろいろな研究は進んでいると思いますが、

ニュー・エコノミーという言葉を使う時に、もうちょっとはっきりさせた方がいいと考えます。

秋元:最近の生産性データは下がってないです。それは驚くほどです。

 

: 州別に、生産性の高い所と低い所はあります。やはりITのあるところは高い。

 

秋元: もう一つ重要なのは、アメリカはフレキシブルに構造を変える力がある。それはニュー・エコノミーと関係があるではないかと思います。日本はその変える力がちょっと弱いのではないか。

 

秋元: 景気循環については、Steven Weberの議論が出発点になると思います。たとえば、在庫はなくなるわけではないが、やはり前よりもコントロール可能になっている。そうすると、在庫循環はあるわけだから、景気循環もなくならないということになる。

 


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