秋元英一ウェブサイト
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コラム
古い史料と新しいテクノロジー

歴史協会 今年の2月、公務の合間を縫って、短いリサーチ旅行に行った。ある科研費の分担者に対して出された外国旅費を使ってのことであるが、このグループの人々から、最近では、アメリカの多くの文書館や図書館でデジカメによる資料撮影を許可していて、これは、非常に効率がいいということを聞いていたので、それを試してみるということも目的のひとつだった。行った先は、ニューヨーク州ハイドパークにあるフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)図書館である。事前に問い合わせてみると、フラッシュを使わないかぎり、デジカメ使用はかまわない、という返事だった。最初に見た史料はニューディール期の財政支出派で、消費者的観点の強かったレオン・ヘンダーソンのものだったが、この人は、あまり私信を書いておらず、ウィスコンシン州立歴史図書館などで、編年的に整理された私信を見ることで、その人のある問題にたいする考え方の軌跡をたどる方法に慣れていた私には、失望させられる感じであった。ヘンダーソンはNRA(産業再編局)の研究計画部門にいたあと、第二次大戦中には、物価管理局長もつとめたことがあるので、この方面に関心のある研究者には興味が尽きないであろう。

 さて、肝心のデジカメ撮影の具合だが、この図書館のルールでは、角をステイプルで綴じてない資料は自分でコピー機を使ってコピーしてよいが、綴じてあるものは、1枚50セントほどする、スタッフに頼むコピーを選択しなければならない、ということであった。そこで、綴じてあるものを自分でコピーしたいときになるべくデジカメを使うことにした。心配した室内であるゆえの光量不足は大丈夫そうだったが、私の持ち込んだデジカメは最近はやりの手ぶれ補正機能がついていない古い機種だったので、これが悩みの種であった。ホテルに戻ってファイルを見てみると、みごとにぶれて読めないものがいくつかあった。ということは、一枚一枚撮影するときに、三脚使用では時間的にロスが大きすぎるので、シャッターを押す瞬間に緊張を余儀なくされた。それと、せっかく1ギガのメモリーカードを用意したのだが、撮影可能な300余枚に行かないうちに、電池切れとなってしまう。これもコンセントからとれば解決する問題だった。もうひとつ、自分でコピーするときには、余白にいくつ目の箱のどういうファイルの中にあった、とメモしておけばいいのだが、デジカメはそれができにくい。これもあとで考えると、ある一群の史料を撮影する前に、メモ用紙に大きな字で情報を書いたものを撮影すれば済むことであった。なお、実践したいひとのために付け加えると、広角(28ミリ)が必要である。

 この図書館はアクセスが悪い。近くの町からタクシーを拾うのだが、信頼できるタクシーにめぐり会う必要がある。また、食堂が歩いていける距離には見つからないので、昼食は地下にあるせまい休憩室で自販機のコーヒーや持参のバナナ等でごまかすことにした。見かねた係の女性がある日、秋元さん、これから食事に出るのだけど、一緒にいかが? と聞いてくれた。セキュリティ・チェックのきびしさが世相を反省しているが、施設を取り巻く森は、早春や紅葉の秋にはさぞきれいだろうと思われた。

 FDR図書館は、結果的に大統領図書館の最初の形になったが、最近の、クリントン図書館などは、オンラインでかなりの資料を読めるし、ボストン港に近いケネディ図書館では、すべての所蔵資料をオンラインで読めるようにするために、準備中である。少なくともアメリカでは、研究をとりまく情報公開の流れが着実に進行中である。ひるがえって、日本で首相経験者の図書館ができて、政策立案過程があとの時代の研究者によって追跡できるような日が来るのだろうか?

2006/7/5



千葉大学で歴史を学ぼう
歴史を学び、歴史を動かす


私の専門はアメリカ経済史です。経済の歴史? と聞くと、少しむずかしく見えるかもしれません。

それに、「アメリカ」という言葉のひびきも最近では、ホワイトハウスにあと4年間いることになったジョージ・ブッシュ大統領の評判がいまいちなので、人気がありません。私は最近九州大学の菅英輝教授と共著で『アメリカ20世紀史』(東京大学出版会、2003年)という書物を上梓(出版)したので、その原稿準備の過程で考えたことの中から、歴史研究のヒントになりそうなことをお話ししたいと思います。

よく「公民権運動」と呼ばれる、黒人を中心にしたアメリカ人の基本的人権や市民権の完全実施を求め、人種差別を撤廃する方向へ向かった運動について調べてみましょう。ジングルベルのひびきも高まるアラバマ州州都モントゴメリーで、1955年12月1日、当時デパートの裁縫婦(お針子ともいう)の仕事をしていたローザ・パークスという女性がバスの座席をあとから乗ってきた白人に譲るのを拒否して、逮捕されたことから、1年以上におよぶ「バス・ボイコット」運動が始まったのが、大きな契機となっています。当時、アラバマ州の法律では、バスには前方に白人席、後方に黒人席が設けられ、バスに乗る黒人は、白人とちがって、運転手のいる前の入り口に乗り込んで運賃(ダイム、10セント)を払ってから、いったん降りて、後ろの入り口から乗り直さなくてはならなかったのです。そのようにして乗ったあと、黒人席の最前列にいたパークスは次の停留所で白人が乗り込んできたので、運転手から席を譲って立つように命令され、それを拒否して逮捕されたのです。じつは、このバスの運転手は、それ以前にもパークスがいろいろと嫌がらせを受けていた人だったこと、彼女がいよいよこれ以上差別にしたがいたくないという感情を抑えられなかったこと、などがこの事件の背景として重要です。彼女はしばらく前から全米黒人向上協会という名前の活動団体の書記の手伝いをしていました。

やがて、バプティストで活動家のキング牧師を軸に、381日間のバス・ボイコットが組織されました。運動は、最高裁の判決を導いて成功したのですが、バスに乗らないだけ、というには困難な運動でした。パークスはすぐに解雇され、指導者の家が爆破されたり、多くの参加者が失職し、逮捕され、自主運営のタクシーに対して警察の嫌がらせなどがつづきました。アメリカでは富裕層や中産階級の人々は自家用車で、貧困者や黒人がバスで、ということが多いので、ボイコットがバスの運営に経済的打撃を与えることができたからこそ、成功したとも言えます。パークスは1966年クリントン大統領から自由の勲章を授与されています。ひとりの女性の行動が結局は歴史を動かした例とも言えます。

2004/12/30



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