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共同研究


  2002年6月1日 アメリカ学会第36回大会 明治大学
部会B 「アメリカ南部奴隷制の再検討」
 

  報告者
  澁谷 昭彦(徳島文理大)  奴隷制と南部経済研究 --- 『苦難のとき』の衝撃
  沼岡 努(新潟産業大) プランテーション経営の実証分析 --- とうもろこしプランテーション経営者,ジョサイア・コリンズ3世を中心に
  柳生 智子(ノースカロライナ大・院)  奴隷取引商人の経済活動とそのネットワークについて --- バラード文書を中心に

 この部会は、学会の経済と経済史分科会に属する会員の最近の研究成果にヒントを得て企画された。南部奴隷制については、日本では社会史的研究は盛んだが、経済史的には、アメリカで「市民権を得ている」研究が日本ではまだ未消化な場合が多い。そこで、数量経済史に踏み込んで研究をされている3氏が報告された。
 澁谷昭彦氏は、経済学の立場からだと断りながら、データを示して『苦難のとき』(1974年)の著者、フォーゲルとエンガマンが資料発掘と計測によって当時までの「奴隷制についての伝統的解釈」をどう覆したかを、論点ごとに説明した。カリブ海の砂糖生産の場合などと比べて、アメリカ南部の奴隷はアメリカ生まれが多く、経営者は在地で奴隷たちの衣食住の生活をじかに知る立場にあったことが、当時としては比較的物質的に恵まれた生活を奴隷に与えることができた要因であり、奴隷たちを組織しながら働かせる方法で、生産性を上げたので、かなりの収益を綿花生産にもたらしたこと、したがって南部のプランターたちは、奴隷制が十分に今後も経済成長に寄与できると確信したがゆえに、南北戦争を闘う十分な理由があったと説いた。この書物の登場は、これまでの奴隷制の経済解釈に対する180度の転換をせまるものであり、学会の内外に一大センセーションを巻き起こし、700ほどの論文が書かれ、その衝撃の大きさを物語った。
 沼岡努氏は、ノース・カロライナ州東部低地帯のとうもろこしプランテーション経営者ジョサイア・コリンズ3世(1808-1863)を事例に取りあげ、経営の実証分析を試みた。その結果、1)とうもろこしの商業的生産が合理的輸送システム、改良農機具、科学的農法等の実践により、従来の歴史家が理解してきたよりはるかに効率的に行なわれたこと、2)1839−1861年の間、毎年約9,000ブッシェルが船でチャールストン、ニューヨークなどの一大市場に出荷されたこと、3)比較的順調な出荷の背後に、国内外の穀物市場価格変動に対するコリンズの不断の注意深い観察が明確に読み取れること、さらにこうした企業家的経営者的態度を端的に示すものとして、4)「ニグロ耕作地」の巧妙な管理・運営を通して奴隷労働生産性の極大化を図った点などを明らかにした。沼岡氏の以上の分析は、地理的、作物的にも奴隷制「周縁部」に位置したプランテーションにあっても、効率的作物生産体制の確立と奴隷労働生産性の極大化努力により、かなり順調な経営が可能だったことを示している。なお、この農場は博物館として保全されている。
 柳生智子氏は、19世紀初頭のリッチモンドを拠点に活躍した奴隷商人バラードを取りあげた。バラードはやがてニューオーリンズのI・フランクリンの経営する南部最大級の取引業者とパートナーシップを設立した。フランクリンのネットワークを利用し、奴隷購入に特化したバラードは奴隷取引による富を元手に後に西部に移住し、プランター兼商人として成功した。バラード文書の分析から、それぞれ個別奴隷商人の役割が達成されることで南部全体の取引が円滑に行われていたことが判明する。参画商人たちは奴隷価格に影響を与える各種情報(作物生産や州法など)を取得でき、それらに適切に対応したトレーダーはバラードのように小規模な取引から大業者と連携を結ぶまでに成長できた。柳生氏は、奴隷取引がプランター層、商人層に多大な影響を持つ南部の資本形成に欠かせない経済活動であり、その発展が彼らの経営意識や態度に変化をもたらしたことがバラード文書の伝える事例から伺える、と解説した。
 質疑では、大阪学院大学の安場保吉氏をはじめ、フロアから多くの議論が提起された。愛知学院大学の野村達朗氏の質問に答えて、澁谷氏は、フォーゲル自身も奴隷制度については、道徳的、倫理的にも許されるべきものではないと思っている。しかし、経済的な効率の面についての分析を測定すると収益性を証明する結果になった。フォーゲルとエンガマンは当初遠慮がちにこの本を出した、と述べた。 東北大学の竹中興慈氏らの質問に答えて、沼岡氏は、生産された穀物が南部にも出荷されていたこと、コリンズは奴隷に耕作地を与え、奴隷がそれを金銭的報酬のために耕作していたが、奴隷が直接外に何かを買いに行ったわけではないと述べた。秋田桂城短期大学の山本博氏らの質問に答えて柳生智子氏は、組織的な「奴隷飼育」を売却のためにやった証拠はないこと、また、1820年代と30年代にルイジアナ州で奴隷輸入禁止法が出されたのは、ひとつは市場の過剰供給、いま一つは奴隷叛乱を恐れたためだと説明した。多くの参会者に恵まれ、熱のこもった議論が展開された。(秋元英一) 『アメリカ研究』第37号 2003年より。


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