ISTANBULイスタンブール
イスタンブル(旧コンスタンティノープル)

トルコ共和国北西部
アジアとヨーロッパの接点、ボスポラス海峡沿いにある。
言語・トルコ語
宗教・主にイスラム/ギリシャオーソドックス/ユダヤ他

     
  areaA スルタン・アフメット地区
アヤ・ソフィア/スルタン・アフメット・ジャミィ近辺

areaB 旧市街地
テオドシウスの城壁/カーリエ・ジャミィほか

areaC 新市街地/郊外
ガラタ/ウシュクダル/ルメリ・ヒサールほか

イスタンブルの交通


イスタンブルの歴史

・・・・・・・・・・ビザンティウム

B.C.3000年頃には、すでにエーゲ海沿岸に様々な民族が住み着いていた。そんな中でB.C.660年、遠征中のメガラ人、ビザスがボスポラス海峡沿いに新しい街を作った。それがビザンティウムの都市の始まりだといわれている。ギリシャ、ローマ、ペルシャが覇権を争う中で、ビザンティウムは重要視されていった。330年、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世は、帝国の首都をビザンティウムに移そうと考え、人口を増やして大規模な街に造り替えた。

  ●203=ヒポドローム
     

・・・・・・・・・・コンスタンティノープル

かつての5倍に膨れ上がったビザンティウムは、コンスタンティヌスの街”コンスタンティノープル”と呼ばれた。395年にローマが東西に分裂、476年に西ローマが崩壊すると、コンスタンティノープルを首都とする東ローマが唯一のローマ帝国となった。ギリシャ語を話すキリスト教が圧倒多数のこの帝国では、かつての異教のローマ帝国と決別するために、ビザンティウムの名から”ビザンティン帝国”と呼ばれるようになった。

6世紀、ユスティニアヌス1世の治世では、ペルシャなどの占領で縮小されていたローマ帝国の領土をほとんど取り返し、豊かさの象徴として、首都コンスタンティノープルには、アヤソフィアを始め、壮麗な建造物が次々と建てられた。しかしその後、セルジュクトルコやモンゴルによって、ビザンティン帝国は脅かされ、次第に衰退へと向かっていった。

1204年、ヴェネツィアとローマ教皇の策略によって、第4次十字軍がコンスタンティノープルを攻略し、ラテン帝国を築いた。数多くのギリシャ人が虐殺され、聖遺物が略奪される中、ビザンティン帝国は首都をニケーア(イズニック)に移して国力を保ち、50年後にコンスタンティノープルを奪回した。

14〜15世紀には、オスマントルコがイスタンブルの西部アドリアノープル(エディルネ)を攻略し、ビザンティン帝国の領土はほとんどコンスタンティノープルのみとなった。1452年、オスマントルコのメフメットU世は、ボスポラス海峡沿いに要塞を建造し、海峡を通る船に両岸から大砲を発砲して交通を支配するとともに、コンスタンティノープルを弱体化させた。ローマ教皇に援軍を要請したコンスタンティノープルでは、その条件としてカトリック教会とギリシャ正教会の合併がなされたが、ほとんど無力だった。

ウルバンの巨砲と呼ばれる巨大な大砲を持つオスマントルコは、テオドシウスの城壁や海の城壁を次々と攻撃していた。さらにメフメットU世は、当時鎖で封鎖されていた金角湾を掌握するために、ボスポラス海峡から金角湾へ、陸を通って船を移動させた。

  ●360=セント・ソフィア聖堂(アヤソフィア)完成

●413=テオドシウスの城壁完成

●537=アヤソフィア再建

●1348ガラタ塔建設

●1452=ルメリ・ヒサール完成

     

・・・・・・・・・・イスタンブル

1453年5月、ついにコンスタンティノープルはオスマントルコに占領され、イスタンブルと名前を変えた。イスタンブルでは、モスク、宮殿、学校施設など、次々とイスラム建造物が出現した。特にシュレイマンの時代は、建築家シナンの手がけたモスクや橋がイスタンブルを彩った。

一時期はバルカン半島、アラビア半島、北アフリカ全域を支配した巨大帝国オスマントルコだが、常にヨーロッパとロシア帝国が敵対していた。宮殿内部での抗争も絶えず、ギリシャ独立戦争、クリミア戦争を経て、オスマントルコは次第に疲弊していった。20世紀に入ると民主主義運動が起こり、1908年には青年トルコ党が主権を握った。

第1次世界大戦で、エンヴェル・パシャ率いる青年トルコ党がドイツと手を結んだが、連合国側に敗戦し、オスマントルコはあっという間に崩壊へと向かった。1919年、フランス、イギリス連合軍がイスタンブルを占領し、セーブル条約によって、オスマントルコの領土の大部分は連合国に分配されることとなった。その時、学生や農民を動員し、祖国解放へと突き進んだのがムスタファ・ケマルである。アンカラを拠点に次々とギリシャ軍を破っていった。1922年イスタンブルにかろうじて残っていたオスマントルコのスルタンが逃亡し、翌年にはローザンヌ条約によって新たな国境線が確定し、アンカラを首都とするトルコ共和国が誕生した。

首都ではなくなったイスタンブルだが、近代ますます人口が増加し、かつての宮殿やモスクが博物館として公開され、世界中から観光客を集めている。また、ギリシャ。ローマ。オスマントルコの歴史を残すイスタンブルの旧市街は、ユネスコの世界遺産にも登録されている。

  ●1478=トプカプ宮殿完成

●1557=シュレイマニエ・ジャミィ(モスク)完成

●1616=スルタン・アフメットジャミィ(モスク)完成

●1853=ドルマ・バフチェ宮殿完成

●1875=テュネル(地下ケーブルカー)完成

●1898=ペラパラスホテル開業

●1902=2階建てのガラタ橋完成