イズニック(旧ニケーア)

トルコ共和国北東部/古代ニケーア
イスタンブル→ヤロヴァ オトバスで約3時間(600,000TL=約480円)
ヤロヴァ→イズニック ドルムシュで約1時間(250,000TL=約200円)
オルハンガジ→イズニック ドルムシュで約30分(150,000TL=約120円)
(1997年6月現在)

言語・トルコ語
宗教・主にイスラム

イズニックの歴史

●‥‥‥‥‥ヘレニズム時代「アンティゴニア」と呼ばれたこの街は、B.C.300年頃にアレクサンドロス大王に占領され、手柄を立てた将軍の妻の名を取って「ニカエア(ニケーア)」と名付けられた。後に小王国の首都として栄え始めたニケーアは、A.D.1世紀ごろからローマ帝国属州の首都となった。4世紀ごろ、ローマは領土の統治のために、いくつもの分派に別れていたキリスト教を統一しようとした。そこで325年に、300人の僧を集めてニケーアで宗教会議を開き、アタナシウス派(三位一体説)を正統と認めた。しかしその後も各教派が争い続け、8世紀に至るまで何度もこの街で会議が開かれた。第4次十字軍がコンスタンチノープルを占領した13世紀、ビザンチン帝国は一時期ニケーアに逃れ、再びコンスタンチノープルを奪回する50年後まで、ここに首都を置いた。

●‥‥‥‥‥14世紀にオスマントルコが小アジアを占領し、ブルサを首都とした頃からニケーアはトルコ語で「皇帝の特別区域」という意味の「イズニック」と呼ばれ、その後も重要な街として様々な施設が作られた。特に15世紀ごろからは、ペルシャ領の陶職人が窯を作り、タイルやランプなどの陶製品の生産地として名を馳せた。他では出せない色を持つイズニックタイルは世界的に有名となり、イスタンブルの主なモスクにはほとんどイズニックのタイルが使われるようになった。しかしその後、良質の粘土を産出するキュタフヤが陶器の主な産地となり、イズニックは平凡な地方都市として現代に至る。


  イスタンブル門(城壁)
イェシェル・ジャミィ(グリーンモスク)
アヤソフィア
ニリュフェル・ハトゥン・イマレティ(イズニック博物館)
製陶窯跡
ローマ劇場跡
レフケ門(城壁)

      イスタンブル門

イズニックは、ヘレニズム時代からすでに城壁造られ、何度か破壊と修復を繰り返して、かつては2重の壁が街をすっぽりと取り囲んでいた。現在でも9〜13世紀に作られた城壁がほぼ完全に街を取り囲んでいる。イスタンブル門は2重になっており、中にハドリアヌスの凱旋門がある。イスタンブル側からイズニックに入ると、必ずこの門をくぐるのかと思ったら、そうでもなかった。

 
       
 
イェシェル・ジャミィ(グリーンモスク)

14世紀に建築家ハジュ・ベン・ムサによって建てられたオスマントルコ時代のモスク。壁は大理石、ミナレット(尖塔)は緑のタイルで覆われている。かつてはイズニックタイルだったが、後の修復時にキュタフヤ産のものに取り替えられたそうだ。イスタンブルの大きなモスクと違って回廊などはなく、中は一つの部屋になっている。

       

         
      アヤソフィア

4世紀に街の中心に建てられ、ニケーア宗教会議に使われた教会。14世紀にはモスクとして利用され、16世紀にオスマントルコで有名な建築家、シナンによって修復された。が、今はほとんどは廃墟。ビザンチン帝国時代のフレスコ画、モザイクなどが残っている。
下の写真はアヤソフィアの奥にある、会議のために設けられた聖職者用の階段席。

 
      (月曜休館 入り口があいたまま人がいなくて、入場料が必要かどうかは不明だった。おそらく必要。)  
       
 
ニリュフェル・ハトゥン・イマレティ
(イズニック博物館)

14世紀に、ムラト1世が母后に捧げるために造ったゲストハウス。現在は博物館で、中にはイズニック産の陶器などが展示されている。今でも博物館の裏には昔ながらの手法でイズニックタイルを作っている小さな窯があり、その製品も少しだけ売っている。
(\100,000TL=約80円)

       

         
      製陶窯跡

何の案内も看板の見つからなかったが、古い窯跡らしい。素焼きのものがたくさん捨てられた跡もある。

 
       
 
ローマ劇場跡

2世紀、トラヤヌス皇帝時代に造られた、15,000人を収容できる円形劇場。地下に埋まった部分が多いが、観客席の上には、13世紀ごろの聖堂跡や墓地も発見されている。発掘が続いているのかと思えば、小学生が通学路として利用していた。

       

         
      レフケ門

アンカラ側の門で、これもやはり2重になっている。この辺は城壁に登りやすく、散歩がてらに登る人も多い。このページのタイトルに使っている写真は、レフケ門の正面に飾られた、異民族と戦うローマ軍の百人隊長を表したパネルらしい。