ボアズカレ
BOGAZKALE
<BOGAZKOY>

トルコ共和国アナトリア中央部
アンカラからスングルルまでオトバスで3時間(500,000TL=約400円)
スングルルからボアズカレまでドルムシュ(ミニバス)かタクシーで20分
時間によってはアンカラ発でボアズカレを通るバスもある

「ボアズキョイ」は「ボアズカレ」の旧名。
「ボアズカレ」は「ハットゥサス」や「ヤズルカヤ」を含む地域名。
「ハットゥサス」と「ヤズルカヤ」は現在のトルコで、遺跡を含む村名。
「アラジャホユック」はハットゥサスから
20キロほど離れた「アラジャ」という村の遺跡名。
この3つの村はCorum(県)に属している。

言語・トルコ語
宗教・イスラム


    HATTUSASハットゥサス
       
    YAZILIKAYAヤズルカヤ
       
    ALACAHOYUKアラジャホユック

ボアズカレ歴史

●‥‥‥‥‥アナトリアの歴史は古く、B.C.8000年頃から各地に人が住み着いていた。ハッティ(ヒッタイト)の首都として名高いボアズカレにおいても、B.C.3000年頃、青銅器時代にはすでに小都市が生まれ、アラジャホユックでは王国が存在していた。
 もともとアナトリアには「ハッティ」と呼ばれる民族が住んでいて、彼らはハッティ語を話し、象形文字を使用した。しかしB.C.2300年頃、インド・ヨーロッパ語族の民族が北方から侵入し、B.C.19〜18世紀頃に小都市を統一してハッティ王国をつくった。彼らはくさび形文字を使用し、もともといた原住民と言語は違ったが、共存していたと考えられている。その当時、現ハットゥサスはハットゥシという地名であったことが確認されている。

●‥‥‥‥‥ハッティは首都をハットゥサに定め、B.C.16〜15世紀頃、バビロンを攻め落として近隣の小都市国家を統一したが、その後しばらくは、ハッティの東南にミタンニ王国をつくったフリル人や、ヒクソス人に圧倒されて衰退の時期をおくる。B.C.14世紀、シュッピルリウマT世時代になると、国内の反乱をおさめることから勢力を盛り返し、ミタンニを滅ぼし、シリア地域を占領して大帝国となった。ハッティがこれほどまでに強力となった理由の一つが、鉄器を利用したことである。製鉄技術を持ったハッティは、馬車や剣に鉄を用いることで近隣諸国を圧倒した。またこの頃、隣国となったエジプトとの関係を深めたことが、19世紀にエジプトのナイル川河畔で発見された「アマルナ文書」などによって明らかになった。

●‥‥‥‥‥長期にわたる友好関係を保ったハッティとエジプトだが、B.C.13世紀、エジプトのラムセスU世時代は一時期関係が冷却化し、B.C.1285年頃、現アンタクヤ近郊のカディシュで両国は戦っている。このカディシュの戦いは、エジプトの壁画などによるとラムセスU世が奇跡的な勝利をあげたことになっているが、後に発見されたハッティの文書では、ハッティのムワタリ軍に追われてラムセスU世は後退し、ハッティはシリア中央部を勢力下に入れたことが書かれていた。そしてB.C.1269年、ハットゥシリV世とラムセスU世は和平条約を締結し、再び友好関係を取り戻した。こうしてハッティは外的からの防衛戦を確立させていった。しかし、B.C.12世紀、ヨーロッパ、バルカン、エーゲ海の島から他民族が来襲し、ハットゥサは完全に破壊され、さらに北部などからも攻め寄せた敵によって、帝国は崩壊した。

●聖書に登場する「ヘテ人(ヒッティム)」という言葉や、エジプトで発見された数々の文書などにより、ハッティの存在はわかっていたが、その都がどこなのかは長年謎とされてきた。1834年にシャルル・テクシュ(フランス)がボアズキョイ(現ボアズカレ)を訪れ、遺跡の存在がヨーロッパに伝えられた。その後ヴィンクラー(ドイツ)をはじめ数々の学者たちによって発掘が進み、20世紀になってからヒッタイト帝国の首都ハットゥサがボアズキョイであることが確認された。ヒッタイトはハッティの英語名で、資料によってはもともと住んでいた原住民をハッティ、後に侵入して帝国を築いたインド・ヨーロッパ語族をヒッタイトと呼んで区別する場合もある。