20代の頃から毎月中央公論と文藝春秋が出るのを楽しみにしていました。昔は大森駅前の町田書店が配達してくれましたが、配達日当日に家にいると自転車が止まる音を聞くたびに玄関に飛び出したものでした。そして、この2冊の月刊誌を手にして、真っ先に読むページが文藝春秋(以下文春)の巻頭エッセイでした。
文春の2月号に『「この国のかたち」司馬さんからの手紙』という論文が掲載されており、その中にこれまでの巻頭エッセイ執筆者が載っていました。予想はしていましたが、錚々(そうそう)たる顔ぶれです。
1923年(大正12年)1月の創刊号から5年弱執筆したのは芥川龍之介でした。戦前では芥川ほど継続して書いた人はいなかったようで、幸田露伴、武者小路実篤などが複数回執筆している程度だそうです。
戦後は1963年(昭和38年)から小泉信三が3年近く書いた後、高橋誠一郎が一年間執筆しました(このお二方は慶應義塾の経済学者ですが、
小泉先生は今上天皇の教育担当として知られ、高橋先生は吉田内閣の文部大臣を勤めました。高橋先生は浮世絵のコレクションでも知られ、確か90歳に近かった私の学生時代でも、その軽妙な語り口と矍鑠(かくしゃく)としたご様子は変わりませんでした)。
その後5年間隔が開いて、72年から5年半にわたって田中美知太郎が第1回目の連載をしました。ご存じでない方もいらっしゃると思いますが、京都大学の哲学の先生でした。
その後決まった筆者がいなかったそうですが、81年から2年間東大の学長を勤めた林健太郎が担当し、しばらく後84年後半から田中美知太郎が再登板となりました。田中が85年(昭和60年)の12月18日に亡くなって、その後司馬遼太郎が引き継がれました。司馬が96年2月に長逝した後、現在まで阿川弘之が連載しています。
こうして巻頭エッセイの執筆者をみていると、私が文春を読み始めたのは、田中美知太郎の1回目の連載中だと思います。このエッセイは毎回読んでいたのですが、残念ながら詳しい内容は良く覚えていません。しかし、人の生き方とか風物、歴史について述べた文章は、相当深いお話なのですがまるで軽妙なタッチで描かれた絵のような爽やかな印象だったことだけは、鮮明に覚えています。それから、当時はこのエッセイを読んだ後は、何か浮き浮きした気分になったものでした。
司馬遼太郎の最初のエッセイが始まったころは、ちょうど私が転職した時期で何故かよく覚えています。テーマは「この国のかたち」という大上段に構えたものでした。ところが、最初の話が堅かったせいで、どうもその後は敬遠したせいか中身はよく記憶していないのです(第1回目は「思想」、第2回目は「朱子学の作用」だったようです)。
司馬が亡くなった後、阿川弘之が引き継いだのですが、この方は軍人さん上がりで、ほほえましくも頑固さが前面に出たエッセイでした。
現在も連載中ですので興味がある方は文藝春秋をご覧ください(ちなみに、女優の壇ふみさんと仲良しで有名な阿川佐和子さんは、確かこの方の娘さんですが、娘が苦労しそうな親父さんです)。
このように文藝春秋のエッセイを話題にしているのは、エッセイもいろいろだなと思っているからです。柳に吹かれる風のように、気分のおもむくままに洒脱な語り口を聞かせてくれるタイプからテーマをかたくなに追求するタイプ、頑固親父タイプなど実に多様だとは思いませんか?
私はどちらかというと軽妙洒脱なエッセイが好きなのです。だっていかに先人の知恵は傾聴に値するといっても、エッセイってリラックスして読みたいではありませんか。
このへんを意識してか、文春の2月号には松たか子にエッセイを書かせています。その最後の文章は軽妙とはいえませんが、「感謝というのは、ほんの一瞬で気付き、心を動かす大切な糸口だと、私は思う。その一瞬を逃すことは、ひとつの仕事を失うことよりも、深い意味をもつのではないだろうか」といっています。なかなかいいでしょ。
文春の読者層は大分お歳だとお見受けする。いや、それよりも編集者の感覚が古いのかな。例えば林望とか吉本ばなななどを起用する気はないのでしょうか?そうすれば皆さんも文春を読む気になるのではないでしょうか?(私は文春の回し者ではないですぞ(笑))
(2000年1月17日(月))
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