Bon Voyage! HOMEMOVIE REPORT > 1998年9月

「プライベート・ライアン」
スティーブン・スピルバーグ監督、トム・ハンクス、マット・デイモン、トム・サイズモア、エドワード・バーンズ、バリー・ペッパー、アダム・ゴールドバーグ、ヴィン・ディーゼル、ジョヴァンニ・リビージ
★★★★

一見に値する。映像と音響の技術の粋を尽くした演出は、ほとんどオスカー確定(特殊効果関係の賞ね)と思わせる。 とにかくうまい。エピソードひとつひとつにそつがない。そして何より戦闘のリアリティがすさまじい。手が、足が、頭が飛び、内臓はむきだし。たとえば、肘から先を吹き飛ばされた兵士が何かを探してうろうろしている。彼が拾い上げたのは自分の右手だった。あるいは、銃弾が鉄兜に当たった強運を確かめているうちに額を撃ち抜かれる。降伏しようとするドイツ兵が何を言っているかわからないまま射殺する。カメラの不安定な動き、粒子の粗い画面、揺れ、ぼけ、まるでキャパの写真が動き出したかのようだ。

何で読んだのだったか、アメリカで公開されたときに、おそらくは戦争体験者であろう老人が身じろぎもせずにずーっと見入っていたそうだ。席を立ちたくなるような、しかし動けない、観る者を戦争のただ中に放り込んでしまう臨場感は、戦争神経症を再発させるとまで言われているらしい。火薬と血の匂いが漂ってくるようなシーンを最初からハイヴォルテージで延々とたたきつけられて、銃声が止むとほっとしてしまう。

とくに音響。これはすごい。砲弾の衝撃、機関銃のうなり、大地の揺れ、別に椅子に仕掛けがあるわけではないのに、自分の体が銃弾も戦車も実感してしまう。通訳の兵士アパムの腰が抜けてしまうのもわかる気がする。

さて、お話は第二次世界大戦の分岐点となったノルマンディー上陸作戦とそれにつづく8日間(1944年6月6日および7日〜14日だと思うんだけど)を描く。4人兄弟の息子のうち3人を失った母のために、アメリカ軍は兄弟のうちただ1人残った、生死も所在もわからない兵士を救う作戦に精鋭8人を送り込む。1人のために多くの犠牲を払う矛盾は、ベトナム戦争での海兵隊の伝統を思わせる。「必ず救出に来てくれる」という確信によって兵士は危険な任務に耐えることができる、という理屈なのだが、それは「お前を見捨てたりしない」という浪花節でもあろう。しかし、この作品では「プライベート・ライアン(ライアン二等兵ですね)」を助けに行く者は誰もライアンを知らないし、部隊も違う。なぜ、こんなバカなことをしなければいけないんだ? という疑問は映画をドライブしていく原動力になっている。

このへん、予告編ではなんか深い謎がありそうだが、そんな裏があるわけではない。人の命が無造作に奪われていくなかで、「生きる価値とは?」を問いかけていくのがテーマである。しかし、それを言葉ではなくて映画というジャンルで表現するからこそ感動が生まれるのだろう。「うまくだまされたなあ」と思いつつ、泣けてしまうのだから。

これだけ戦争の描写をほめたところでナニだが、実はこの映画の真価は登場人物の人格をはっきりとした輪郭と陰影で作り上げているところにある。悲惨な上陸作戦を生き延びて不可解な作戦に従事する8人それぞれに味がある。「七人の侍」に擬する人もいるようだが、たしかによく似ている。

ただ、ずるいよ、これ。戦争の残酷も、上層部のいいかっこしいも、偏見も、部隊間の反目も、命令への反抗も、個々の兵士のインサイドストーリーも、どこからも文句が出ないようにちりばめてある。いかにも一通り批判すべきところは言っときましたよ、って感じ。思想的なバックボーンは薄っぺらなヒューマニズムでしかない。まあ、それを言えばクロサワもそうだが。

それと、多くの引用。ロバート・キャパ、「史上最大の作戦」、数々のGIもの、「遠すぎた橋」、その他にもたくさんあるだろうが、影響があるどころか見飽きた設定とも言える。あまりに多くのイメージが大衆に消費され、 もはや手垢がついてしまった「ノルマンディー」を取り上げるのはスピルバーグの自信か傲慢か。上陸用舟艇、砲台への勇敢な接近と破壊、狙撃手、崩れかけた教会、平原での行軍、短い休息、捕虜の扱い、橋の確保をめぐる戦い、弾薬が尽きて素手での格闘、いつ来るかわからない援軍。どこかで見たような風景やシークェンス。

にもかかわらず、おそらく相当の自信をもって映像化に挑んだであろうだけのことはある。どこかで見たような絵でありながら、 ある意味でまったく体験したことがない空間へ連れ行く強さを持っている。これは文学では凡作だが、映画では傑作という典型的な例ではないだろうか。

それから、役者もいい。スターがどうのこうのではなくて、戦争が血肉化したような、演技ではなくてキャラクターそのものを納得させる存在感を放っている。とくにマット・デイモンのライアンは、「いったいどんなヤツなんだ?」という厭瑳の的になっているだけに、登場する瞬間に注目していたのだが、なかなか大したものだ。顔は美形とは言いかねる(たしかにジミー大西に似ている)が、役作りは知的に構成すると見た(知的な演技をするという意味ではない。演技へのアプローチの方法が知性を感じさせるということなのだが)。

ただし。敵のドイツ兵には名前がない。キャラクターもほとんど描かれていない。印象的な役も記憶に残る表情もあるのに、顔のない無条件の敵でしかないところは、一種の限界を、おそらくは自覚した上で捨象したであろう数々のドラマを思い起こさせる。

「TAXi」
ジェラール・ピレス監督、サミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、マリオン・コティヤール、エマ・シェーベルイ、マニュエラ・グラリー、ベルナール・ファルシー
★★

製作と脚本がリュック・ベッソン。監督はジェラール・ピレス。なんか、だましてないかい? 

基本的には「バカ映画」(ゆうこちゃんの命名したジャンルを採用させていただきました)ですが、バカなりに筋を通してほしいぞ。プジョーのタクシーがベンツ強盗団(ベンツを盗むのではなくて、銀行強盗してからベンツで逃走する)とチキンレースするというアイディアをふくらませただけ、ですな。

だいたい、銀行強盗を予告するのもすごいが、時間も場所も赤いベンツで逃げることまでわかっていながらただ包囲して待っているだけの警察もアホだ。しかも、ギャグになっていないところが致命的。それに10分で乾く魔法の塗料は「グレー」でなければいけない。「赤」から「グレー」に塗り替えて逃げるんだから(こんなところに気づく私もイヤな奴)。

結局、ドラマの芯がない。雰囲気もない。際だったキャラクターもいない。なぜなら、個々のエピソードが練られていない上に連携していないからだ。「警察嫌い」のキャラなら、セリフを繰り返すのではなく、インパクトのあるワンシーンが必要だ。衣装もフツー過ぎる。何よりも大女のデカ長のスカートのスリットが中途半端。

パトカーをはじめ、次々と派手なクラッシュを見せてくれるのだが、スラップスティックに見えなくて、なんかもったいない。冒頭のピザ配達バイクの疾走シーンがかっこよかっただけにがっかり。マルセイユの細い路地でもっとハチャメチャな展開が考えつくんじゃないかな?

「ムトゥ・踊るマハラジャ」
K.S.ラヴィクマール監督、ラジニカーント、ミーナ、サラットバーブ、ラーダー・ラヴィ、センディル、ヴァディヴェール、ジャヤカバーラティ
★★★☆

むか〜し、会社のそばにインド大使館があって、そこでインド映画を観たことがある。と書くと、きっと日印友好イベントと誤解されるだろうな。実態は、大使館の門にいた職員にナンパされかけた女性ライターが、「帰りに寄るって言って逃げてきたんだけど、怖いから一緒に行って」ということで護衛(?)したのである。くだんの職員は大使館敷地内の自室(住んでいる部屋だ、オフィスではない)へ私たちを連れ込んで、例の甘いチャイをごちそうしてくれたのだった(この文のあたまが無意識に駄洒落になってしまった。気づいた?)。

おっと、話は映画だった。サタジット・レイのような映画はクオリティや国際的評価は高いけれどインド国内では庶民は観ないそうなのだ。そして、年間映画製作数ではインドは世界一なのだそうである。その大多数は通俗エンタテインメントで、必ずクライマックスに踊りがあって、美男美女が二転三転の末に最後には結ばれるという。当時でもこの程度の予備知識はあり、一部でキッチュなファンがいたりしていたが、インドの庶民向け映画は劇場公開どころか、ビデオすら一般には出回っていなかった(というより、レンタルビデオ屋がこんなに普及する前のことだ)。というわけで、彼が見せてくれたのは、実は貴重なインド直輸入の最新人気映画だったらしい。ビデオデッキとテレビ(14型くらいか)が分不相応に立派に見えた。

さて、その映画はというと。まず、長い。途中で休憩を取ったような記憶もあるのだが、さだかではない。人気スターである美男美女は、太めというかグラマーというか、顔が丸くて寸胴。英語字幕だったのだけど、全然読まなくてもわかるストーリー。だって、悪人はそれらしいメイクと音楽で登場するし、伏線の小道具はスローモーションやら角度を変えて何回もカットを見せるやらで、いやでも気が付くようになっている。きわめつけはキスシーンで、唇と唇との距離が無限小(ゼロではない)になった途端に急に踊りの場面になるわ、ベッドシーンでは2人が抱き合ってベッドに倒れ込んで(着衣のままだ!)これからという時に画面は切り替わって暗い空にすさまじい雷鳴がとどろく、というわかりやすい演出(逆にいやらしい気もするが)なのだ。一応ミステリー仕立てで、殺人の疑いをかけられて逃亡する主人公(太めの「美男」)が、ついにつかまって裁判にかけられるのだが、そこで画期的証人が出てきて、出生の秘密が明らかになり(当然、主人公は高貴の生まれだったのだ)、ラストは登場人物全員が明るい野原で輪になって踊るというものであった。

というわけで、「ムトゥ・踊るマハラジャ」も、同じ路線上での進歩形と理解していいわけでしょうな。

湯水のように「人」を使った大型娯楽超大作総天然色キネマスコープ!
映画の原点を思い出させるサービス満点の、観れば幸せが象に乗ってやってくる極楽体験! 

いやはや、いくらでもキャッチコピーが思いつくぞ。どれもくだらないが。

だいたい、タイトルバックで1曲ミュージカルナンバーをやっちゃう冒頭の主人公ムトゥの登場シーンがすごい。口笛で馬車を呼び寄せ、宙返りで御者台に着地するのだが、それだけのシーンを高速度撮影とスローモーションと同時多地点撮影とクレーン使いまくりで延々とやるのだ。ジャンプしてから着地するまで1分ぐらいある気がしたが、その着地前の空中回転の時点でもう場内は大笑いである。冗長は、ここでは褒め言葉なのだな。楽しみは長く引き延ばせ! という原則は、踊りでも乱闘でも逃走・追跡でも貫かれていて、いっそすがすがしい。しかも、踊りは戦前のハリウッドMGMから「サタディ・ナイト・フィーバー」、ストリートダンスの要素まであるし、馬車の追っかけっこは「駅馬車」(あるいは「ベン・ハー」か?)かもしれないし、その馬車が崖を飛び越えるところなんかわざと(だと思うが、予算と技術の限界なのかも)へたくそなCGで笑いを取り、川に投げ落とされる旦那様は思いっきり人形だし、「10時に庭で会おう」なんて投げ文はいったい何世紀前のネタだ? 

とはいえ、主演女優は魅力的だし、踊りのシーンでは頻繁に衣装替え(1曲の中で少なくとも3回は着替えていた)し、キスもしっかり長時間しているし、素足でじゃれるところなんか色っぽいし、そっち方面のサービスも怠りなく、格闘では香港映画もどきだが、パンチが20センチ離れてかすっているのに1回転半も転がるし、首で棒を折るし、窓ガラスを壊して2階から落ちるどころか煉瓦壁を破っちゃうし(これも大笑い)。

しかあ〜し、笑うポイントがきっとインドと日本では違うような気がするのだ。日本での笑いはどうも「ははは、こんなことまでやってる!」と一生懸命作ったシーンを哄笑しているような感じがして仕方がない。ま、たしかにおかしくて笑えるんだけどさあ。いかにも「後進国を笑う」顔になってないかい?>みなさん。アメリカ人(けっこう無知で自己中心的)が日本のTシャツに書いてある間違い英語を「発見」しては笑いころげているのを思い出しちゃったぞ。少し違うか。まあ、時に笑いは残酷なこともある。

ってことで、楽しいけど手放しで褒めるわけにもいかないのだった。ところで渋谷のシネマライズはメチャ混みで、平日の午後3時50分開映で満員。7時の回は長蛇の列。会社を早退して正解だったぜい、べえびぃ(詳しくはWhat's Newを見よ)。

真面目に観るなら、階級社会を認めながらもそのなかで理想の主人(地主? マハラジャ?)像というのがかいま見えるところとか、出家した聖人のお言葉とか、インド風の考え方に接することもできる。右手の3本指での食べ方、洗い方もわかる。英語の浸透具合もわかる。要するに、普通の人はあんまりわからんらしいのだが、ときどき"request"とかの単語がタミル語に混じっていたから外来語として入ってきているのだろう。

それにしても、インドで映画を観て楽しむ層ってのは年収どれくらいなんだろう? 中流なの?(>これはもちろん君に聞いているのだ、K松クン)


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Text by (C) Takashi Kaneyama 1998