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1998年6月
『地獄からのメッセージ』
A.J.クィネル、大熊栄=訳、新潮文庫

「クリーシィ」シリーズの最新作。シリーズになったときから危惧していた通り、このシリーズのクィネルは論評に値しません。B級映画のノヴェライズ並みの質の低さです。名作『燃える男』のクリーシィと仲間たちに会いたいばっかりについつい買ってしまうわけですが。

だいたい、このタイトルからして噴飯ものなのですが、さらに驚くべきことにこれは原題"The Message from Hell"の直訳です。シリーズの性格からいっても、おそらく出版サイドの要請で「読みやすく」「主人公は死なず」「悪役はわかりやすく」「長くしない」等々の条件づけをされているような気がします。これを書いているクィネルの姿勢は、明らかに以前とは違います。フォーサイスやケン・フォレットやトム・クランシーの最近の不調とは異なり、ディテールは省略する、ストーリーは安易、動機は不十分、善悪ははっきり区別され、キャラクターは薄っぺらとほとんどいい作品にしようという意志が感じられません。

あ、ちなみにカンボジアのクメール・ルージュとベトナム戦争が絡んだ復讐の話です。それにしても、最近のB級映画の脚本の方がもっと説得力があって面白いだろうなあ。

『ユルスナールの靴』
須賀敦子、河出書房新社

須賀敦子。生涯の最後に、小さな宝石のような作品を少しずつ世に送って逝ってしまった。文芸界において、「こんな才能を我々は知らずにいたのか?」と瞠目させた1990年の『ミラノ 霧の風景』の衝撃。日常の何気ないディテールから浮かび上がるきめこまやかな描写と叙情は強靭な思索に裏打ちされ、なおかつ平易な文体で読む者の心にしみこんでいった。

翻訳という職業からいっても、その文章作法は相当意識的に選ばれたものであったに違いないが、私たちの目の前に出現した一連の作品は、実に自然で、なおかつ正確だった。ああ、どうして「だった」と過去形で書かなければならないのだろう?

ユルスナールは、もちろん『ハドリアヌス帝の回想』を書いたフランス人の女性作家マルグリット・ユルスナールのことだが、これは評伝でも作品批評でもない。ユルスナールの生涯と作品を媒介にした随想なのだが、もちろん、その底は深い。ユルスナールの人生を縦糸に、ヨーロッパ体験を掘り下げて自らの軌跡をたどり直す旅とも見てとれる。一連の須賀敦子の作品の読者にとっては、リフレインのように修道女の人生を選んだ友人やミラノで結婚した夫や遠い昔に世界一周した父の残像が立ち現れるだろう。ある意味では、これもまた一種の「鎮魂の書」であるのかもしれない。しかし、それ以上に生き残った者が思考しつづけた末の表現の結晶のように思える。

この本にだけついて言えば、最初の3冊に比べて構成が理知的な分、インパクトが弱いかもしれない。あるいは、もはやなじみのメロディーの変奏曲だからかもしれないが。

魂の知的温度の高さと、表現における抑制されたコントロールとのバランスをとるには、長い年月にわたる経験が必要なのだろうか。奇跡のように見事に組み上げられたその作品群を見るにつけ、その才能が失われたことを悼まずにはいられない。

『ブラック・ダリア』
ジェイムズ・エルロイ、吉野美恵子=訳、文春文庫

昔から気になっていたエルロイ、『L.A.コンフィデンシャル』の映画化を機に、L.A.四部作を読もうと思い立ちました。

「ブラック・ダリア」は犯罪史上非常に有名な事件で、結局は未解決のままに終わっています。殺されたのは女優志望の若い美人、無惨な暴行の跡、死体は切断され、内臓を抜かれているという凄惨さで一大センセーションとなり、当時のマスコミ(主に新聞)では大騒ぎ。カポーティの『冷血』と並んで、実際の事件を素材にした文学としてはエルロイのこの作品はもはや古典に近い評価を受けているようです(もちろん、カポーティのはノンフィクション、エルロイはフィクションという違いはありますが)。

結論から言えば、すばらしい! 傑作! 謎解きとしても一級品(多少キズあり)だが、とにかく人間性の裏側にひそむ暗い情念を描いてあますところがない。それも、警察官のひとりひとり、捜査対象のひとりひとりの個性が際だっていて、その絡みの人間臭さがたまらなく心を揺さぶる。血や体液や埃が匂ってきそうな、40年代末のロサンジェルスの暗部のディテールが、骨太なストーリーの展開とあいまって読む者をひきつけて離さない。だいたい、正義派バリバリなんて出てこない。語り手の主人公にしてからが、スネに傷もつ身で、捜査対象の女と愛欲に溺れてしまうのだ。しかし、真実への情熱、愛への誠実さという、ふつうは青臭くなる心情が、ここでは汚れているからこそ素直に受け入れられるのだろう。ラストの「癒し」は、一種の逃避かもしれないが、私は「救い」と見たい。全面が暗色の濃淡で描かれたエゴン・シーレの絵のなかで、白が最後の小さな点だからこそ、画面が引き締まるように。

う〜ん、絶賛してしまった。ちなみに、安易に分類するとエログロ警察腐敗小説でしょうか。これだからステレオタイプなレッテル貼りは誤解を招くのだな。

『強襲』
マーク・ダニエル、山田久美子=訳、新潮文庫

『騎手ブレインの失われた栄光』の作者の第2作。言わずとしれるように、競馬小説です。交通事故を起こして調教師としての名声を失った元騎手が、故郷アイルランドに帰って牧場の管理人になる。しかし、オーナーがアメリカ人だったためにIRA(もしくはそのシンパ)から脅迫を受ける。オーナーの頑固な老婦人が支払いを拒絶したために、彼は一世一代の大儲け話(障害馬を再生させる)を差し出すことにしたのだが・・・・

こうやってプロットを書いてみると、実に好みのパターンなのです。離婚とクスリと事故で落ちぶれた名騎手は、飼料のセールスマンとなっているが、オーナーに拾われる形でアイルランドに帰る。その牧場とは、実は自分の家だったのに、父の没落で人手に渡ったのだった。そこには、偉大な種牡馬が帰ってきたところだった。自らの誇りをかけて戦い、馬と逃避行をつづけるクライマックス。

しかし、こんなストーリーテリングでは全然つまらな〜い。怒るぞ。ここは定型であろうが、二番煎じであろうが、馬と人間との共鳴や、ハードボイルドな男が描かれていれば及第点をあげてもいいぐらいに甘くなっているのに。ひるがえってディック・フランシスの非凡さを再認識させられた。

よさそうなシーンはたくさんあるのですがねえ。子馬の出産とか、勝負のレースの描写とか、テロリストの侵入と老婦人との対決とか。キャラクターだって悪くない。親友の貴族の婚約者の女優の馬鹿さ加減と、幼なじみのIRAシンパの妻の教条的ヒステリックさがあまりにステレオタイプだが、オーナーの口の悪い老婦人やその姪は生き生きしているし、病的なテロリストの造型も捨てたものではない。だけど、何かが決定的に足りない。

話の筋にはなんの目新しさもないし、そんなことは期待していないのだが、ここにはアイルランドの草と土の匂いが欠如している。何より、人間がぶつかりあって生まれるダイナミックな渦巻きというか、熱気のようなものがない。こうした競馬シリーズをけっこう出しているようなのですが、この水準ではヒットはもちろん、邦訳されるかどうかも疑わしいところです。


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