K-219に搭載されているRSM-25ミサイルは、この艦の存在理由であると同時に、危険な火種でもあった。アメリカの潜水艦が搭載するミサイルには、固形のロケット燃料が充填されている。しかしロシアのそれは、四酸化ニトロゲンとヒドラジンという二種の液体を燃料としている。海中の、おそるべき水圧下に、発火しやすい二つの燃料が貯えられているのである。発火には何ら複雑なシステムを必要としない。四酸化ニトロゲンとヒドラジンはただ互いに接触しただけで自発点火する性質を持っているのだ。しかも四酸化ニトロゲンには、普通の海水とも高度の化学反応を起こす性質がある。そして建造十五年の老朽潜水艦ほど海水が漏れ入りやすい場所がほかにあるだろうか。
1986年に実際に起こったソ連のミサイル原潜の事故を描いたノンフィクションですが、これが滅法面白く、読ませる。実際の潜水艦の中はどんなんかなあ、という資料的興味で読み始めたのですが、たちまちやめられなくなり、久しぶりに涙を流しながら読み終えました。
アメリカに核の脅威を与えるためのパトロールに出動したK-219の第6ミサイルサイロに海水が漏れ、海水が四酸化ニトロゲンと混じってできた硝酸はミサイル管を浸食して、ついに爆発・火災が発生する。そして、それは「事件」のほんの始まりに過ぎなかった。浮上できるのか? 他のミサイルには引火しないのか? 原子炉をコントロールすることはできるのか? 故郷に帰れるのか? もし帰れても、処罰はどうなるのか?
アメリカの庭先で起こった事故、しかも歴史的軍縮合意はなるかと注目されたレイキャヴィクでのレーガン・ゴルバチョフ会談の1週間前という時期。ソ連軍幹部は規則をたてに、決してNATOなど外国の援助を受けるなと指令する。無能。責任のなすりつけ。人命よりも秘密保持。アメリカ軍は軍縮に抵抗する好機、ソ連の原潜とミサイルを丸ごと手に入れるチャンス、と救助どころか妨害に走る。
そんな中で必死に戦う乗組員たち。艦長をはじめ、人物描写が短くも的確で、ドキュメントにありがちな冗長さがまったくありません。むしろ、最上質のハードボイルドの水準です。彼らの犠牲的精神は、アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』を思い出させます。原子炉を手動で(!)停止させるために灼熱地獄に赴くセルゲイ・プレミーニン機関水兵のシークェンスは、白眉でしょう。ああ、また思い出して涙が出てきた。
"Hostile Waters"という原題は、なかなか意味深です。もちろん、敵国が支配する海(この場合はアメリカに核ミサイルを突きつけるソビエト原潜にとって)でしょうし、船乗り(とくに潜水艦乗り)にとって海は敵意に満ちた命を奪おうとする水でもあります。あるいは、老朽艦を不十分な整備で敵の鼻先に送り出す軍の体制かもしれないし、またはお互いに核を喉先に突きつけあう不毛な冷戦の構造を指しているとも思える。
ところで、やっぱりというか、トム・クランシーがよくまとまった推薦文を寄せています。彼は、
事件当時、私はそのロシア人乗組員にほとんど同情を感じなかったことを記憶している。しかし今、私は間違っていたと思う。敵といえばたしかに敵であったかもしれないが、彼らとて同じ人間である。
と素直に吐露しています。保守的アメリカ人の平均的な感想かもしれませんが、ある意味でアメリカ人が無意識にもっている自己中心的差別思想が露になっています。恐ろしいことです。しかしここは、お互いを知り、理解し合うことで偏見が溶けていくいくことに希望がもてる、という風に考えたい。
著者は元アメリカ海軍大佐ハクソーゼン、ロシア海軍大佐でK-219に副長として乗り組んだ経験もあるグルジン、プロの作家のホワイトの共著で、豊富なディテールと緊迫感を保ったストーリーテリングも納得できる。皮肉なのは、崩壊したソ連からは航海日誌など多くの生の情報によって構成が可能になったのに、アメリカ海軍は秘密のベールをおろしたまま、というところで、これからは旧ソ連発のルポが面白そうです。
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