◆ 完全な真空 / スタニスワフ・レム ◆

A Perfect Vacuum 書 名:完全な真空 A Perfect Vacuum
著 者:スタニスワフ・レム Stanislaw Lem
訳 者:沼野 充義、工藤 幸雄、長谷見 一雄
発行所:図書刊行会
定 価:2,000 円(税込)
1989年11月20日 初版第1刷発行
1990年2月5日 初版第2刷発行
原作 1971
ISBN 未記載

<実在しない本>の書評集
SF、純文学、確率論から宇宙創造説まで
16 冊の奇妙に魅力的な(存在しない)書物を論じ、
フィクションの新たな可能性を切り拓いた架空書評集
── 帯より ──

目次

「実在しない本についての書評集」いったいなんなんだそれは、と思ったが、 冒頭の「完全な真空」(つまりこの本!)についての (架空の他者からの)書評を読むとそのアイデアが少し理解できる。
スタニスワフ・レムは想像力の天才(あるいは怪物)ではないかと これまでの作品を読むたびに感じてきたのだが、 その想像のネタは大量に多分野にわたってあり余るほどにあり、 全てを作品にはしきれない。アイデアは良いが作品にするには難しい、 というものもある。 それらのうちの 15 編について、もしも作品にしたらこうなるだろうな、 そしてこういう評価を受けるだろうな、そこまで考えて その書評という形で文章にしたらこうなった。そういうもの。 いやはや先回りもそこまで行くか。 「このネタ、面白いと思ったんだけど、ダメだわ、わはは」そういう 自分自身に対する笑い飛ばし、ひねくれたユーモア精神も感じられる。

内容が多方面にわたるので全ては言及できないが、 SF的に優れた発想と感じたものについてコメントする。 どれもこれも、発想の刺激に満ちていて、 読み進むに従って、面白さも加速していく。

「逆黙示録」は、 世の中がくだらない商品や作品で過剰に埋め尽くされている 状況を改善するために、何かを創造・発明・出版するごとにペナルティを 課すという「人類救済計画」についてのアイデア。そうすることによって、 本当に意味があり、利他的なものしか創造されなくなるだろう ということなのだが…。

「イサカのオデュッセウス」は、 歴史に埋もれた本物の天才を再発見しようという プロジェクト「精神の金羊毛を求める探検」についての顛末。 第1級の天才というのは、当時の常識からあまりに外れた思想を持つために、 全く無視され評価を受けず消えていったかもしれない。 そういう確信のもと、調査員たちは世界中の辺境遺跡を、精神病院の記録を、 牢獄跡を、駆けずり回ることになる。世界の珍品が中央司令部に集められるが、 はたして、天才たちの遺物は、現代でも評価できるものなのか? 「わかった!」とそこで彼は気付く…。

「ビーイング株式会社」は、 世の中の出来事を巨大コンピュータで予測・管理・操作することにより、 人々の願いを暗黙のうちに実現する、という企業「ビーイング株式会社」 についての物語。金額次第でどんなことも(自然に)実現される。 コンピュータによるコントロールの範囲は拡大を続け、競合他社が現れ、 そのために使用されるエネルギー量も増大してゆく。そしてある日、 ビーイング社社長のエド・ハンマー三世は大富豪の夫人から困難な注文を受ける。 それは「仕掛けの全くない本物の生活」を実現すること。彼は専門家を集め 対策を見つけようとするが、そこで恐ろしい事実が明らかになる…。

「誤謬(ごびゅう)としての文化」。 誤謬(ごびゅう)という単語は知らなかったのだが、調べてみると 「まちがえること」らしい。文化がまちがいである、それはどういうことか?
これは小説ではなく論文仮説という形式になっている。 人間の体が進化の産物であることは論理的に必然で疑いがないが、 では「文化」はどうだろうか? 文化も精神的な面から適応(人類の生存・繁殖)に役立ってきたものであり、 必然的に生まれ発達したものである。 しかし、その後の科学技術の発展によって、文化はいまやその役割を失った。 医療技術によって長寿が達成されれば、死の恐怖を和らげるための宗教は 不要なのである。いまや文化は過去の足枷にすぎない。積極的に文化を捨て去り、 新たな未来を楽しもうではないか! ここに紹介された論文仮説はそう主張する。
この作品が 1971 年(!)にレムによって書かれたことを思えば、 この未来は驚くほどに現代(2001 年付近)を言い当てている。 文化や思想が進化論的に説明可能なものである という「ミーム理論」は 1990 年代にやっと認められるようになったものだし、 科学技術・バイオ技術が発達し長寿や病気がコントロールできるようになる というのはまさにこれから直面する世界である。文化と科学が整合しないこと による苦悩は近未来のリアルな問題で、ここに紹介された主張は それを見透かしているようである。レムの未来予測の的確さに舌を巻く。

「生の不可能性について/予知の不可能性について」。 確率論的に物事を考えてみると、一瞬後に起こることには ありとあらゆる可能性があり、「あること」が起こる確率は何億分の1、 何兆分の1の確率よりももっと小さいことのように思える。 そう考えれば考えるほどに、「自分が自分として存在している」ことは 全くあり得ないことのようである。 それなのに自分が今ここに存在していることはまぎれもない事実である。 その2つの考えはうまく結び付けることができず、 二人の思想家の相反する主張の間で、書評者は悩む。

「我は僕(しもべ)ならずや」は、「パーソネティクス」という 架空の科学についての話であるが、なんとこれは今でいう 「人工生命」のこと (改めて確認するが、この作品が書かれたのは 1971 年である!)。 コンピュータの中にある種の世界モデルを構築し、生物プログラムを組み込むと、 そこで「パーソノイド」と呼ばれる生物が進化する。彼らはコンピュータの中 という異質な世界で高度に発達し、言語を持ち、感情を持ち、集団で文化を 発達させる。やがて彼らは「神がいて我々を作ったのだろうか? それとも神はいないのか?」ということまで激しく議論しだすのである。
なんという面白い想像実験だろうか。ここまでくると、その計算機プログラムを 停止させることは苦痛となってしまう。ただのプログラムなのにだ。
計算機によって、どこまで人間と似たものが作製されうるのか、 つまり人間と機械の違いの本質はどこにあるのか、についても示唆に富んでいる。

「新しい宇宙創造説」は、進化論を応用・発展させた仮説であるが、 これはスケールの大きい、全く思いもしなかった発想で、マイッタという感じ。 しかも、言われてみればその通り、筋はちゃんと通っているように 思えるのである。
宇宙は誕生から 100 億年以上経っていると言われている。それに対し 地球ができてからは 45 億年くらい。人間のような高度な知的生命体が 出現したのはここ数万年にすぎない。 それならば、人間以前、地球以前にこの宇宙のどこかでなんらかの 高度な生物文明が進化していただろうことは当然あり得ることで、 そうならば、その生物は科学技術(に相当するもの)を激しく発達させ、 この宇宙全体をコントロールする術さえ手に入れていたに違いない。 現在の我々にはそんな気配を感じることすらできないが、実は我々の見ている この宇宙は、すでに数十億年も前に彼らによって都合のいいように 作り替えられた後の姿なのである。
アインシュタインは宇宙の法則を発見したが、それはすでに宇宙がそのように 作られていた、というルールに気付いたにすぎない。宇宙が膨張し続けている ことも、光速を越えて運動することができないのも、時間が逆行できないのも、 地球外の生命体と連絡が取れない(ほどの距離にある)のも、 すべてデザインされたことなのだ。
しかし残念なことに、その、先に発達した生命体については、 それらがあまりに異質なために、私達人間には知りようがなく、 また知識が未熟なために技術を理解することもできない。 そのせいで、これは証明のできない仮説となっている。

Thanks to K.S.


2001/02/17 T.Minewaki

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