シリアル番号 | 616 |
書名 |
1421 中国が新大陸を発見した年 |
著者 |
ギャビン・メンジーズ |
出版社 |
株式会社 ソニー・マガジンズ |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
2003/12/20第1刷 |
購入日 |
2003/12/30 |
評価 |
優 |
原題:1421 The Year China Discovered The Worlds by Gavin Menzies
1937年中国生まれの英国人があるとき1424年作図のピッツイガーノの地図を見ていて鄭和がもしかしたらコロンブスより70年前の1421年に 世界一周をしていたのではないかと疑問を持ち、潜水艦HMSロークエル艦長を引退後、10年かけて世界各地にのこる古世界地図を参照しながら鄭和の当時世 界最大の長さ100メートル以上、マスト9本、8000トンクラスのジャンク船107隻から構成される宝船船団の足跡を調査し、鄭和配下の4つの船団が 1421-1423年にかけ、全世界を周航し世界地図を作成したという仮説を数々の証拠をあげて論証した。
洪保、周満、周鼎の3船団は喜望峰を回った後、アフリカ西海岸沿いに北上し、カーボヴェルデ諸島から西に貿易風に乗って大西洋を横断。
洪保、周満の2船団は南アメリカ東海岸沿いに南下し、マゼラン海峡を通過後、周満船団は太平洋に出て赤道まで南アメリカ西海岸沿いに北上。貿易風に 乗ってオーストラリア東海岸とニュージーランドのタスマン海を周遊後、香料諸島経由、中国に帰還。洪保船団はサウス・シェトランド諸島まで南下カノープス 観測後、フォークランド諸島から吼える40度線上を東進、ケルゲレン諸島より北上してオーストラリアのパース経由中国に帰還。
周鼎船団はカリブ海、北アメリカ東海岸を回って一部はカーボヴェルデ諸島に戻り、残りはグリーンランド、北極海を回ってベーリング海経由、中国に帰還というものである。
この時代は地軸が今と少し違い南極海は氷で閉ざされていたが北極海には氷は少なかった。(中世温暖期の名残り、1450年から現在までは小氷期で北極海は氷で閉ざされて いるが、最近は再び溶け始めている)この解釈を2002年、王立地理学協会で発表した。そして「1421 中国が新大陸を発見した年」という本に書いた。残念ながら、鄭和がまとめて作成した世界全図は明の国防省の官僚である劉大夏が破棄を命じたために中国には 残らなかった。しかし回教徒になったベネチア人で、鄭和の船団に乗船したニコロ・コンティによってポルトガルの皇太子ドン・ペドロとエンリケ航海王子に伝 えられ、ヨーロッパの大探検家に伝えられることになったという説である。こうしてバルトロメウ・ディアスは1487年に喜望峰をはじめて越える。バスコ ダ・ガマは1497年にインドに達する。クリストファー・コロンブスは1492年バハマ諸島をはじめて視認。
メンジーズ氏が参照した古世界地図は現在、龍谷大学図書館蔵となっている1402年朝鮮で作図された「混一彊理歴代国都之図」(こんいちきょうりれきだいこくとのず、龍谷図)、 1424年作図のピッツイガーノの地図、ベネッツィアのサン・マルコ国立図書館所蔵、1459年作図のフラ・マロウの円形世界地図、コロンブスの乗組員が もっていた地図の写しと言われるトプカプ宮殿博物館にある1513年作図のピリ・レイス地図、1542年作図のジャンロッツの地図、1502年作図のカン ティーノの世界地図、1507年作図のヴァルトゼーミューラーの地図、ヴィンランドの地図である。
これらの地図に特徴があるのは緯度は非常に正確だが経度が不正確であることである。経度は北半球では北極星、南半球ではカノープス(南極老人星)を 観測して決めた。カノープスの天球上の緯度、南緯52度40分を確かめるため、洪保船団はウエストフォークランド島のアダムス山まで航海している。ここで カノープスは天空の真上の位置になるのだ。クロノメーターの無かった当時は船の速度と方位からその経度を推算しなければならず海流の分だけ東か西にずれ た。現在知られている海流の影響を補正するとかなり正確な陸地の形が得られる。楊慶の船団はずっとインド洋にあったが、インド洋沿岸の各地にもうけた観星 台で月蝕時、既知の星が子午線を通過する時刻を昼間太陽の観測で得られた時刻で測定し、北京で同様の方法で測定したその時刻と比較することで未知の土地の 経度を計算する方法を編み出した。
船団の足跡は補給や観測をした各地に残る、石碑、石造りの物見台、沈船、ヘミング・ウェイが好んだカリブ海のビミニ諸島の海底に残る石のスリップ・ ウエイ、建物、コロンブス前にアジアに伝来したトウモロコシ、パタゴニアに残るアジア原産のニワトリ種、パタゴニアで絶滅したミロドンがピリ・レイスの地 図に描かれていることなどであるが、何より船を失って現地に残留しなかった乗り組み員の子孫がヨーロッパ人が乗り込んできたときまだ生き延びていたことで ある。
鄭和(もと馬和)は杉山正明によれば現在の馬一族の家系図でフビライの経済官僚サイイド・アッジャルの子孫とわかっているとのことだが、馬和は昆明で捕虜にされ去勢されたイスラム教徒の少年だったとこの本には書いてある。
関連書物:「ヨーロッパ帝国主義の謎」、「銃・病原菌・鋼鉄」、「クビライの挑戦」、「永楽帝」
関連サイト:GAVIN MENZIES
2005/8/23の朝日に鄭和船団はケニヤのマリンディまで到達との従来の説を紹介し、マリンディ近くのパテ島の鄭和船団乗組員の子孫といわれる19才の少女を中国政府が上海の近くの太倉市の記念式典に招き、奨学を与えて、医者になるのを助けるという記事が出た。
鄭和の成功は永楽帝が支持したからこそで永楽帝の死後、自分達の政策に邪魔となる鄭和の栄光の記録を抹殺する目的で彼の残した報告書は全て灰になってしまった。というわけでギャビン・メンジーズ 氏の仮説を証明する史料は少ないが、鄭和がのこした物的証拠で史実は次第に明らかとなろう。
NHKが2006年5月、鄭和を取り上げたが、ギャビン・メンジーズ 氏の仮説があるということまででその説の中身の紹介がなかったのは残念だった。仮説に飛びつくリスクを恐れた官僚的保身があったと思われる。民放が取り上げれば、インチキくさくなるしでもう少し待たねばならないのか?
著者はなぜかプトレマイオス図については言及していない。Rev. October 26, 2020