シリアル番号 | 1074 |
書名 |
切りとれ、あの祈る手を 本と革命をめぐる五つの夜話 |
著者 |
佐々木中(あたる) |
出版社 |
河出書房新社 |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
2010/10/30 2010/11/30第2刷 |
購入日 |
2010/12/04 |
評価 |
優 |
朝日新聞書評欄で精神科医斎藤環が著者は「ドグマ人類学」を提唱しているフランスの法制史家にして精神分析 家ピエール・ルジャンドルの理論を独特の言い回しで紹介 していると絶賛したので購入。
精神科医の斎藤環氏の書評を読むと;読むことと書くこと、それ自体が革命であることを知らしめたのが「中世改革者革命」であった。そして革命は文学 からしか起こらない、と。情報ならぬ隠喩と無意識のつづれ織りこそが、文学でありテクストなのだから。佐々木中は「マネジメント原理主義」または「情報幻 想」が覆いつくしたこの世界では「歴 史の終わり」あるいは「文学の終り」が語られる。ドウルーズは「情報自体が堕落なのだ」と言っている。
斎藤環氏の書評を読んだときまずイメージしたのは酒井邦嘉の「言語の脳科学」だ。脳は言語の支配下にあるという構造は生物学的に変 えることはできないということ。「はじめに言葉ありき」 は聖書のことばだったか?マホメッドのことばだったか?調べてみたら狭い意味では「ヨハネ福音書」の冒頭にでてく る言葉だそうだ。旧約聖書は「はじめに光ありき」であった。マホメッドは「読め、そして書け」だ。
さてドグマ人類学を提唱するルジャ ンドルの著書は沢山紹介されている 。邦訳:『真理の帝国 産業的ドグマ空間入門』西谷修・橋本一径訳、人文書院、2006年が理解できそうだ。珠玉の言葉(赤色)が散見されるので、 一部転載させていただき(私の感想をあずき色で示す):
ライフ・ワーク『講義』シリーズの幕開けとなった一冊。展開される話題はきわめて多様だが、その眼目はひとえに、わたくしたち、つまり西洋化された人間が
実のところどのような世界に生きているのかを触知させることのうちにある。その世界を人類学的に標定すべく、ルジャンドルが検討するのは、西洋に固有な
「真理へのアプローチ」のモードである。
だが、ここで真理とは、たとえば認識を旨とする精神が到達すべき中立的な目標などではなく、まさにそれをめぐる知と無知とが社会の位階秩序の構成とダイレ
クトに関わるような文字通りの係争点のことである。したがって、この真理を真理たらしめているのは、第一に、その内容ではなく諸言説の関係のなかでそれが
占める位置であり、第二に、この空虚を隠蔽しながら呈示するさまざまな仮象の作用である。別言すれば、「真理」を問いながらルジャンドルが浮き彫りにしよ
うとするのは、一社会にとってのドクサであると同時に公理、ファンタスムでありながら任意に撤去することのできない準拠、つまりはドグマ的な機能の内実に
ほかならない。
「ドグマ的な機能とは、各々の社会において、大文字の真理を流通させ、知をつうじて権力を扱いながら、それが真理を述べ、語るにまでいたらしめることであ
る」。西洋において権力を取り扱うのは伝統的に知の主体、より個別的にいって法をめぐる知の主体、つまりは
法律家であった(この法律家自身もまた、ローマ法と教会法の結合という組立てをつうじて、天上の純粋な秩序/地上の不純な秩序という動かし
がたい位階秩序にそれと知らず準拠している)。対して、法律家以外の各主体は、聖職者の変形としての法律家
からは区別された俗人としての場所を割り当てられ、大文字の真理に(ネオ・プ
ラトニスムの用語でいえば)「魂を糊づけ、釘づけされ」ながら、翻ってはこの真理に無意識の愛を捧げている。(明
治政府の文系優位の意識はここに由来するのかもしれない)
純然たる名にほかならぬ真理への盲いた愛。すべての社会は、この「不条理、しかし、きわめつきに構築的な不条理」を根底に抱え、この不条理を差配すること
で己を再生産する。真理とはつまり、人間主体が己の欲するところとは無関係にどうしようもなくしたがってい
る語の強い意味での法の謂である。その意味で、真理(vérité) は、支配・命令(empire、あるいはその背後に控えているラテン語の
imperium)の主語であると同時に述語なのだ。
誤謬でもありえる真理。この奇妙な真理が真理として機能するための条件は、それが「何かしら妥当であるように見えるもの」となることである。こうして、真
理の問いは広義における演出――すなわちフィクションによる正統性の付与――の問いと不可分である。
その演出は、西洋において、テクスト、およびそこに含意された「書かれてある」という事実の重要性のうちにひとつの特権的な顕現を見る。念頭に置くべきは
ローマ法とカノン法のコーパスの総体である。『ローマ法大全』と『グラティアヌス教令集』に代表される巨大な集成とそこに加えられてきた無数の註釈は、多
種多様なテクストのあいだにまさに堂々めぐりの参照関係を張りめぐらせながら、各々のテクストが帯びているはずの時代と地域と個人の刻印を漂白し、正典と
しての価値をそこに付与することで、大文字のテクストと呼ぶべきものを構築してきた。一般に「社会」と呼ばれているものは、煎じ詰めれば、この「主体なき
テクスト」のことにほかならない。
こうした「テクステュアリティ」(textualité)は、まずもって西洋における神話的時間の層を構成している。中世法学が取り上げた法の由来につい
ての問い(「法はどこから来たのか」)を自在に展開しつつ、ルジャンドルは、法がみずからの起源としてもつ過去が、時系列上にしるしづけることのできない特異な「古さ」であることを指摘し、西洋
社会が本来はこの神話的な起源に依拠してみずからを組み立てていることを示す。
しかしまた、ローマ=カノン法の構成するテクストのうちでは、事実証拠、心身二元論、理性と狂気の分割といった西洋近代が構成されるうえでの基盤となる諸
々の思想的主題が、裁判という特異な機制を軸としながら、相互に絡み合いつつ錬成されてきたのでもあった。神明裁判の例について顕著であるように、これら
の議論は啓蒙以降の学知によって、もっぱら野蛮な遺制として貶下されてきたわけだが、理性が己の側にあることを司法の実践によって絶えず確認し、その前提
として「魂のそなわった身体」として人間を思い為すについては、実のところ、西洋世界は今日にあってさえ以上のような伝統の支配から一歩も外に出ていな
い。
こうして、西洋は、己が野蛮と見なしてきた非西洋的な文化のありようと同じ資格において野蛮であり、現代の人間もまたその野蛮な秩序による強引な人間化の
モードに服しながら、その徴候としてのみ生きている。というのも、法学が中心的に担ってきた人間化の機能
は、産業社会にあっては経営学的な発想を中心に編成された諸言説によって、(たとえそこで生産されるのが一見したところ「ゴミ屑」めいたテクストばかりで
あるように思われようとも)構造的には変わることなく引き受けられているからである。
その明らかな証拠――しかし、自明とされているがゆえに研究の蓄積にもかかわらず看過されている証拠――は、ルジャンドルが繰り返して指摘する広義の広告
産業の営みである。商取引が根本のところで詐欺と等質であることを知らぬ者はいない。物の値
段はその物の価値より必ず高いのであるから(この主題は『権力を享有する』において詳細に展開されている)。しかし、広告は、この欺瞞に覆いをかけながら
見せかけの真理を構成し、ひとを消費行為へ駆り立てる。さらに重要なのは、広告が、一社会においてあるべき人間の理念的な像を提供していることである。理
念の位置を占めるのはイメージにほかならず(この主題は『他者たらんとする情熱』で詳細に展開されている)、ひとはそこで呈示されている幸福のありようか
らついに身を引き離すことができない。
しかしまた、産業社会は、まさにこのような野蛮に己が繋がれていることを否認すること、つまりはドグマ性を
めぐる問題系を学知の領野から排除することをもって己のドグマ的な基盤としている。繰り返せば、だからこそ、わたくしたちは、己がどのような世界を生きて
いるのかを本質的には知らない。
つまるところ、本書にあって産業の問題は、下部構造をめぐるものとしてでは些かもなく、徹頭徹尾、思想的、さらにいえば分析的な対象として考えられている
のであり、この点を見損なうのであれば、西洋を人類学的な対象に据えるという企ては単なる知的遊戯に転じてしまう。それというのも、ほかならぬ学知を戦闘主義的な支配の道具として編成したことのうちにこそ、西洋の世界化の動力源があるか
らだ(「註釈による征服」)。
こうした理路を踏まえて最終的に確認されるのは「社会は常に正常である」という、ほとんど同語反復的な、しかし、きわめて深い暴力の次元に触れた命題であ
る。なにゆえ暴力なのか。それは、殺人と近親姦をめぐる問いが社会にとって変わることなく枢要な問題とみなされている事実に示されるごとく、正常化=規範
化の作用とは、個人のファンタスムの次元に手をつけ、ファンタスムを転置しながら人間化を強制し、それによって辛うじて可能な社会的生の次元を確保する営
為にほかならないからだ(この点について、主体の成立と社会の関係を系譜の観点から論じる一章は、ルジャンドルにおいて「父」の問題が「母」の問題と不可
分であることを確認させて重要である)。
いかにもひとの居心地を悪くする思想というべきだろうか。ルジャンドルの描き出す社会には外
がない。ときおり、狂気に踵を接する藝術と思索とが理性の底の狂える坩堝を刹那的に垣間見せるばかりだ。砂糖漬けの地獄か、悪夢に彩られた天国か。いず
れ、ひとの好む自由の歌がそこに響くことはない。だが、鋼のように鍛え上げられたペシミズムは、牢獄のうち
で生きる自由を紙一重のところで指し示す。副題「産業的ドグマ空間への導入」は、同時に、「いつもそこにある」はずのこの空間を改めて見つ
めなおす愉悦に満ちた冒険への誘いであるかもしれないのだ。