読書録

シリアル番号 1032

書名

歴史の終わり 上下

著者

フランシス・フクヤマ

出版社

三笠書房

ジャンル

歴史

発行日

1992/3/10第1刷
1992/4/20第12刷

購入日

2009/11/14

評価

2009/11/14

原題:The End of History and The last Man by Francis Fukuyama 1992

鎌倉図書館蔵

欧米人の書く歴史書によく引用されていて気になっていたため取り寄せて読むことにした。

著者は日系三世。ランド研究所、本著によってネオコン政治思想家の代表的人物とされたが、ブッシュ政権のイラク侵攻には批判的で、ネオコンと距離を置き、批判する言説をいくつか出している。祖父は大阪商船大(市立大の前身)初代学長。

はじめにを読み終わったところだが、プラトンは人間には欲望、理性に加えthymos(チーモス、気をあらわす言葉で香味料のthymeと同じ語源、気概、気骨、自尊心)がある。原始人は認知を求めて死に至る決闘をし、勝者は主君に敗者は奴隷になった。この主従関係は多種多様な不平等な貴族社会を生み、これが人類史の大半を特徴づけた。しかしこの制度は主君にとっては自分を認めてくれる奴隷達はまだ人間として不完全なため満足は得られず、奴隷は人間として認められない という意味で双方に不満がのこった。ヘーゲルはこれを「認知への欲望」といったそしてフランス革命とアメリカ独立戦争で達成したリベラルな民主主義の出現によりようやく相互的な認知が可能になって双方の不満は解消されたと考えた。

アングロ・サクソンのホッブスやロックの権利の思想だけでは人間性の本質を説明できない、プラトンのthymosまたはヘーゲルの「認知への欲望」を考えないと人間とその社会は分からない。 しかしロックはthymosを権力者の野心として抑制すべきものとしたことは欠点となっている。共産主義がリベラルな民主主義にとって代わられたのは共産主義が認知についての重大な欠陥をはらんだ統治形態だからである。

宗教を信じる者は、自分の特定の神への認知を求める。ナショナリストは自分の属する特定の言語的、文化的もしくは民族的集団への認知をを求める。このような認知の形態はリベラルな国家への普遍的な認知よりも合理性が乏しい。なぜならそれは聖と俗との、あるいは人間社会のさまざま集団の間の恣意的な違いを土台にしているからだ。

認知を求める闘争という考え方を身につければ国際政治の本質も理解できる。専制政治、独裁政治、帝国主義、世界帝国、パワー・ポリティックス、戦争がこれによる帰結である。

という説明にいちいち膝を打って、そういうことだったのかと納得の連続である。

以後各章は歴史上の事例をこの認知を求める闘争という観点でこれでもかと解説してゆく。

日本についての章は西洋流自由主義はその形式だけをとりいれて実質は儒教的権威主義が優勢な服従の帝国となっている。政治は万年自民党と官僚が人民の意志とは関係ない密室で決めている。企業も権威主義的でこれは西洋流の自由主義に対し優位になり経済的には成功し前代未聞の繁栄をもたらしたがが大部分の市民にとっては幼年期が長引いてthymosが中途半端にしか満たされない。しかしこの不満足な結果でも国家は国民の自己同一化の中核として存在しつつけるだろうとしている。1992年にかかれたこの状態は今中国がそのままコピーして空前の繁栄を得た。日本はようやく自民党の長期政権を国民が選択しないという状態にまでなった。

民主主義社会ではthymosの一変形である造語megarothymia「優越願望」はビジネス世界とか科学で身を起こす、危険なレジャーを楽しむなどの形をとる。江戸時代は階層間の争いはなく、本能的な性愛や遊戯を追い求めることなく、能楽、茶道、華道など形式的な芸術を考案して「 誇大気概、優越願望」を満たした。リベラルな民主主義社会ではこれにたいしisothymia「平等気概、対等願望」社会であるという。

Rev. November 17, 2009


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