第18章 1981-84年

ガスタービン駆動LNGプラント

プロジェクトマネジメント担当

 

インドネシアマーケットは政治がらみの案件が多く、創業社長は警戒してインドネシアの石油精製プラントビジネスには近づかなかった。しかしスマトラ島、アチェ州のロスマウエの旧日本軍飛行場の跡にベクテルが建設したLNGプラントの 第4、5トレイン拡張工事は魅力的だった。技術的にもガスタービンを主駆動機に使っているなど次世代の技術取得には絶好のチャンスだった。

M商事が政治向きを担当し、わが社はベクテルを工事サブコンとして受注活動を開始することになる、私は砂屋君に頼まれて何度もジャカルタに営業活動に出かけた。エアプロダク ツ・アンド・ケミカル社の営業担当も我々に協力してくれて、全ては順調にすすんだ。

ジャカルタ・ヒルトン

わが社では独立したプロジェクトに暗号めいた名称をつけた。このプロジェクトはPGAプロジェクトと呼ばれた。多分Pertamina Gas Arunを省略した名前だったとおもう。これをPro Golfers Associationの略だといきがる筋もあった。

東頭プロジェクトマネジャーは私を一介のフロント・エンド・デザイナーからデピュティー・プロジェクト・マネジャーに引き上げてくれた。そしてプロジェク ト受注後は自ら客先のプロジェクトマネジャーが常駐するジャカルタに移って、実質的プロジェクト運営をする50人の部隊と350人の設計部隊は完全に私に 任せてくれた。顧客側の実質的運営をしているモービル社のビーツ氏以下の部隊も横浜の本社オフィスに常駐していたので、私の仕事は毎日ビーツ氏とのコミュ ニケーションをすることになった。

まだ当時はスハルト大統領時代である。契約の前後に大統の政商とされたB・H氏が来日した。ちょうどオリンピック関連の何らかの会合が東京で開催され、そ れに出席するためだったと思う。B・H氏はインドネシアのオリンピック委員だった。ちょうど好都合とM商事が彼を宴席に接待した。このプロジェクトのデ ピュティー・マネジャー任命されていた私は、副社長と専務に連れられて宴席にはべった。B・H氏はオリンピック 選手団が着用するような派手なブレザーコートを着て颯爽と現れた。おきまりの芸者芸のあと”からおけ”が始まってしまった。副社長はなんと伴奏無しで”は とぽっぽ”を歌ったのである。外国人だからその価値はわからない。専務はパスして私に振ってくる。後が無い私が逃げるわけにはゆかない。頭の中が真っ白に なった私はこれも伴奏を拒否して突然 シューベルトの歌曲集「冬の旅」第5曲の”Der Lindenbaum”を原語で歌った。英語でなければ間違えてもわからないだろうとおもったのかどうか。いまでも冷や汗がでる。

 

プロジェクトマネジメントの職務

プロジェクトマネジャーはプロジェクト運営の一切を任され、権限も大きいが、責任も重大である。数十億円の発注先を決める権限(むろん上層部の承認は必要 だが)を持っているだけ外部からの誘惑の多い職種である。東頭プロジェクトマネジャーから「自分の銀行口座はいつでも税務署に開示できるようにきれいにし ておけ」と真っ先に教えられた。幸いそのような困る事態にはならず幸運であった。

東頭プロジェクトマネジャーはデピュティーである私を教育して一人前にしようと思ったのだろう、一切任せてくれた。それも何の指示も出さないという徹底したものである。心配となるとさすがにあれはどうなっていると聞いてくれるので、助かった。

プロジェクトマネジャーはアドミニストレーション、プロジェクトコントロール(スケジュールとコスト)、エンジニアリング、調達、工事を束ねるそれぞれの マネジャーに指示し報告を受ける立場にある。そしてなによりも顧客のプロジェクトマネジャーとのコミュニケーションをよくするのが一番の任務である。顧客 のプロジェクトマネジャーはジャカルタ常駐である。そこで東頭プロジェクトマネジャーはジャカルタに常駐することにした。といっても何もすることがない。 毎日顧客とゴルフ三昧であったという。

デピュティーである私は全設計部隊と調達部隊のいる横浜でモービル本社から派遣されている顧客のデピュティーであるビーツ氏と密着して仕事をした。毎日現 状を報告し、予期しない事態に即断即決で対処してゆくのである。ビーツ氏の持っているコンティンジェンシーの総額も教えてもらうまで親しくなった。思いが けない出費のあるときは色々と理由付けする書類を作り、追加費用を支払ってもらうのである。家族付き合いで始めて可能になることだ。

休日には家族を動員して鎌倉を案内し、七里 ヶ浜の我が家にまねき、泊り込みのお付き合いをするのだ。そして節目節目には彼の月の家賃60万円という六本木の豪華マンションのパーティーに招かれたり、アメリカンクラブのプールで日光浴をしたり、六本木のディスコに繰りだして深夜まで踊りまくるのである。

雨にたたられて結局流れたが妻にゴルフの特訓をしてポンコツ車を運転して家族ぐるみで川奈や富士山周辺へゴルフの旅に出たこともある。顧客の全スタッフを引き連れて、日光や甲府にバス旅行し、釣り船をやとってボートフィッシングに挑戦したこともある。

六本木の豪華マンションのパーティーに招かれたとき、アドミ担当に花を贈る算段の指示をしなかったことに気がついた。あわてて六本木の老舗、後藤花店に紫 系のブーケを手配した。パーティー会場に着くと夫妻が飛んできてお前がこれを手配したのかと聞く。そうだというとホットした顔をする。トイレにゆく廊下に 真っ赤な花を扇を広げるようにアレンジした台が置いてある。 これをあなたが手配しなかったと知ってうれしいという。どうもアドミ担当者が日比谷花壇に注文して送った花のようだ。なにか異様な感じをうけたが、理由は わからなかった。後日友人ルートでこの赤い花がビーツ夫妻の感情をいたく損ねたということを知った。米国のお葬式の花のアレンジだったのだ。我々が退去し たあと、 アルコールで出来上がっていたビーツ氏の部下がおどけてその花台の前の床に横になり、お葬式の儀式をしたという。日比谷花壇なんて一等地で大きな顔をして いるが国際的慣習には無知などうしようもない花屋だということを学んだ。後日ビーツ夫妻にお詫びをすると、ちょうどそのころ訪日した家族に不祥事があり、 日本との文化摩擦に心の傷を負っていたことを告白してくれた。

思い出話が長くなったが、プロジェクトマネジメント制について一言ふれる必要があろう。プロジェクトマネジャーとかデピュティー・プロジェクト・マネ ジャーの職位は人事制度としての職位ではなく、プロジェクト遂行のための機能と責任を明示するための呼称で、この呼称と給与や待遇は直接はリンクしていな い。その当時も疑問に感じ、いまでもそう思う のだが、プロジェクトマネジメントをビジネスの中心に据える企業にも関わらず、その人事制度は古色蒼然とした、オペレーション会社のそれであったとおもう のである。創業社長が言葉と行動でプロジェクトマネジャーが大切としていた時代はそれでよかったが、後に娘婿のジュニア時代になり、そのようなことが言わ れなくなるとプロジェクトが弱体化し、無責任となってゆくのである。このよういな事態に至ったのは人事制度に プロジェクト運営をしっかり作りこんでなかったためではないかと思うものである。

これはわが社だけのことでなく日本中の会社がそうなので、官僚主義の跋扈と環境の変化に脆弱な体質の原因となっていると思う。

 

契約ネゴ

私は交渉事は好きではないが、アルンLNGプロジェクトの契約交渉でプルタミナが雇ったニューヨークの弁護士とジャカルタのプルタミナの事務所で細かい条項の交渉を1週間継続した。

交渉には社内弁護士の翁生君が横についていて補佐してくれるので心強い。長時間会議室に座りっぱなしになるとつい当時たしなんでいた葉巻を何本も吸ってし まい会議室を燻蒸状態にしたものである。モービルのプロジェクトマネジャーのビーツ氏も葉巻好きだったが、お歳でもあり、日に2本と決めておられた。しか し、こちらは若い、チェーンスモーカーとなって顧客に早く締結しようと言う気にさせるには有効だった。

ニューヨークの弁護士が交渉のたたき台にした雛形がプルタミナがべクテルと締結したコストプラス・フィー方式の契約書である。しかし我々はランプサム契約 を結ぼうとしているのである。雛形にあるコストプラス・フィー方式の不必要な条項を一つ一つつぶさねばならなかった。そのなかでプロジェクトに従事するエ ンジニアの生産性を毎月報告する義務をコントラクターに課すところをモービルのビーツ氏がなかなかおりてくれな い。暗礁に乗り上げてしまった。ビーツ氏は「この条項はモービルの内規にあり、削除できない」という。弁護士は「マストをハブ・ツーと言い換えることで妥 協できないか」という。私は「ノー」。困った弁護士が天井をみあげて、しばらく考え、「エンデバー」でどうかという。なさけないことにそのとき キャプテン・クックのエンデバー号し か思いつかない。エンデバーの具体的な強制力はどういむものか、いくつか例示させて、翁生のOKももらってようやく。合意したことを思い出す。実施段階で ビーツ氏からその類の報告書を出せと要請されたことなない。彼が勝手に社内リポートを作成していたようだ。そして彼とは良き友人となった。

 

プロジェクトコントロール

スケジュール・コントロールマネジャーは寛伴が担当した。巨額のダウンペイメントに加えプログレスペイメント方式の契約のため、契約書に添付したプログレ スより実際のプログレスが早まれば、金利8%時代である。入金と出金の差額の金利が期待できた。 現場の副所長だったベクテルのトム・ハイシマンはスケジュールを前倒しにすれば現場経費が節約になると考え、契約より早めることはできないかと打診してき た。なにせ既設プラント工事をした人がいうのだから間違いはないだろう。そのためにはエンジニアリングと調達のスケジュールを前倒しにして早め早めに図面 と資材を現場にとどけるしかない。そこで寛伴と話し合ってプロジェクトの予定を早めに設定し た。だがその時点から進捗度はスケジュールから大幅の遅れとなる。モービル本社から視察に来たお偉方はクレームを森所副社長に持ち込むという事態になっ た。森所副社長は 「東頭がおればこうならなかっただろうに」とグチル言葉を耳にはさむはめになった。プロジェクトの予定を自ら早め、顧客にせっつかれる なんてなんと愚かなことをしでかしたのだろうと残念に思っていたようだが、私は正しいことを しているのだ。しかし結果は3年後にかわからない。せめて良い結果を出すようにがんばるしかないと決心したものである。結果は大成功で2ヶ月も早く完成す ることができた。トム・ハイシマンは2006年4月に再会したとき、あれは自分の人生にとって忘れがたい快挙であったと述懐した。

コスト・コントロールマネジャーは常水であった。すべてのコストはかれのポッケット・カルキュレーターがはじき出したものである。彼からは常に悲観的な声 を聞かされたが、最後にしめると契約金額の十数%という空前の利益がでた。彼のコストのアロワンスは5%であった。どうしてそれより大きな利益が出たかで あるが、積算のベースとなったコストより安い買い物ができたこと。ベクテルはレインバーサブルコントラクトであったが、我々はランプサムコントラクトで あったのが最大の理由であろう。米国流のレインバーサブルコントラクトはオーナーのファンクショナル・エンジニアの道楽・甘えが各所に入り込み、必要以上 の高い品質になるとか、オーナーのセクショナリズムに起因する不能率 、顧客-コントラクトラクター間の手続きが煩雑などコスト上昇要因があるが、 ランプサムコントラクトでは天井が抑えられているため、コントラクターは必死になってコウストダウンに努め、スケジュール遅延をしないようにオーナーサイ ドの決断を迫ってゆくという効果がある。

 

エンジニアリング

エンジニアリングマネジャーは豊親、オンプトットエリア担当は高畠、オフプロットエリア担当は大樹の陣容で担当した。本プロジェクトは 基本的にはコピープラントであるが、ジ・エタノール・アミン水溶液を吸収剤に使うアミントリーターのデボトルネッキング、水銀除去装置の新設計、LNGタンクの底板加熱設計などやり直すのでかえって時間がかかるほどであった。

日本は地震国のため、全ての地上式LNGタンクの基礎は杭の上に乗るテーブルトップ型である。またスロッシングを考えて完全二重殻となっている。地震のな い国では伝統的な貯油タンクの延長上にある土盛基礎の上に建設している。土盛基礎では地中での熱伝導が不足し、鋼製の外殻の底板が低温になるのを防止する ために電熱加熱装置を設置している。電熱加熱装置が適切に設計されていないとダスLNGタンクの外板リークボ ンタンのLNGタンクのボトムヒービングが生じるのでかなり慎重に電熱加熱装置を設計した。シェル社はカタールNGLのプロパン・タンク壁の脆性破壊に懲 りて、二重殻タンクを棄て、ダブルインテグリティー・タンクの概念を導入したが、米系メジャーはオーバーリアクションと考えており、われわれもそう考え た。ダブルインテグリティー・タンクにしても地盤の凍結対策は必要だろう。 顧客の設計基準はスロッシング対策のないサスペンデッドデッキだった。スマトラ沖地震当時プラントは運転中であったそうだが、島の反対のためか何事もな かったようである。

プラントの心臓部はトレイン当たり3台あるGE製のフレーム5という二軸式の5万馬力のガスタービンであった。フレーム5とコンプレッサーを連結したストリングテストはGEのショップで行われた。短畠はあまり熱心にフロアワーカーに指示するのでフロア ・ワーカーがストライキをはじめてしまうというハプニングまでおこした。

さて少し脱線してメカニカル・ドライブ・ガスタービンについて解説しよう。発電用のガスタービンは発電機を回転させるだけのため、スタート時、規定の回転 数に達するまで電気回路はオフにして負荷をガスタービンにかけないという芸当ができるが、コンプレッサー直結の場合はガスがあるため、回転数が上がるにし たがって負荷が増し、ガスタービンの回転数が上がらないという問題が生じる。当時は大型の機械式クラッチを設計するとかスターター/ヘルパーモーターを連 結するより、二軸式メカニカルドライブガスタービンを採用していた。二軸式とはガスタービンの空気圧縮機を回すタービンと正味出力を回収してコンプレッ サーを回転させるタービンを同軸ではあるが、それぞれ独立に回転するシャフトに連結するものである。二軸式の代替として航空機用ジェットエンジンの排気か らタービンで動力回収し、コンプレッサーを回すという エアロデリバティブもあったが、その当時は使われなかった。GE製のフレーム5は当時2軸式の最大のものであった。最近ではフレーム7とかフレーム9とい う 発電用の一軸型の大型ガスタービンが使われるようになった。 一軸のため、スタート用にスターター/ヘルパーモーターが必要になる。ガスタービンが大型になるとコンプレッサーの最大吸入容量が制約条件となって、フ レーム7が採用されている。ちなみに千代田が目下建設中のサハリンのLNGプラントはフレーム7を採用しているようだ。

液化器はエアプロダクト社製であった。同じプルタミナが所有しているボルネオ島、ボンタンLNGプラントの液化器が定期点検後、安全弁元弁閉止のまま運転 再開するというミスで失われた後、我々が購入していた水銀腐食などのための予備の熱交換器を転用するためにボルネオ島に送るということもあった。

配管設計サポートの既設は問題ないのに千代田方式で設計すると強度不足などでてきて、建築技師は自分の設計を採用したいと主張する。しかし既設がなんでもないので設計手法が安全側に偏っていると判断し、設計担当者の責任ではないという念書を書いてそのままにするなどの 判断をしたことを覚えている。結果として問題は生じなかった。

 

調達

プロジェクト購買は関川が全て仕切った。わたしが直接関与したのは50社のサブコントラクターへの発注のうち、ペンタ オーシャンに50億円以上の海洋土木工事を発注した時に購買部長の土連常務に決裁の判をもらいに出向いたときと、国内の保温・保冷工事業者がドイツの実績 ある業者より2倍近い工事金額を応札してきたときだ。国内業者は明らかに談合していたと思う。ドイツの実績ある業者をナイジェリアに起用した社内の評判は 良くなかった。しかし調べると、わが社の引合い仕様書に あいまいさがあったためと判明。渋る東頭プロジェクトマネジャーが押し付ける難題をすべて、ドイツの実績ある業者に押し付けて発注に踏み切った。仕事は全 く問題なく完成した。日本の業者より見事な工事であった。彼らが利益を上げたか心配だったので社長に聞くと適正な利益を上げさせてもらったという。談合し て2倍の応札価格を入れた日本の2大保温業者はどういうつもりだったのだろうか。

30数キロにわたる工業用水の配管敷設工事も日本の業者とインドの業者で2倍の差がでた。思い切ってインドの業者に発注したが全く問題なかった。むしろ、トレンチが水びたしなる水田地帯の工事など学ぶべきことが多かった。

河川上流での取水口も日本式の設計込みの丸投げ下請け方式を廃して、設計だけパシフィック・コンサルタントに設計してもらい、後はベクテル式の直雇工事方式で完成させることができ、大きなコストダウンができた。

ダスLNGプロジェクト遂行など先行プロジェクトで確立した調達条件は、印刷されて標準のゼネラル・タームズ・アンド・ コンディションになっていた。サブコントラクタにリスクを全て担保させるという日本式の条項であった。サブコントラクタとしてはリスクをコンティンジェン シーとして上乗せしなければならず、結果として高価な応札をする。この方式に対しコントラクタ が複数のサブコントラクタから免除したリスクを大きな財布でヘッジすればサブコントラクタが安い応札をし、プラスとマイナスが相殺してほぼゼロにすること ができるという思想を顧客から教わり、即実行したことは自慢できるだろう。自分が保険会社となって利益を得るということだ。このプロジェクトが負えるリス クをサブコントラクタから免除して安い 応札を誘導する試みは大方の社内の危惧に反し成功したといえるであろう。

顧客側のエンジニアリングマネジャーはエステファンというエジプト出身の方であった。エステファン氏はもともと冶金を学んだ人だが、仕事熱心なのでエンジ ニアリングマネジャーになった人のようだ。1984年に一緒にカルフォルニアに出かけた。何をしたか記憶にないのでルーティーンのLNGポンプメーカー訪 問だったのだろう。週末には氏の運転で南カリフォルニアの名所を廻ったものである。

LNGの荷役ポンプは米国のJ.C.カーター社に発注してあった。ショップテストで軸震動が許容値を超えて直らないという。担当の機械技師を連れて、顧客 のビーツ氏とロスアンゼルスに飛んだ。軸流式のインデューサーを付けた遠心ポンプなのだが、設計変更して製作しなおしていたら、納期に間に合わないとい う。話を聞いているとインデューサー部がキャビテーションによる励振源のようだ、インデューサーに流れ込むLNG流れを整流してやれば直りそうな予感を もったのでポンプを収納する容器を長くしてその中に長目の末広がりのインレットコーンをつけることを提案し、急遽試作してみたら上手く言った。2000年 の日の丸H2ロケットエンジンの故障も同じような問題を抱えているなと思ったものだ。

 

工事

現場所長は熱心にジャカルタ通いをした砂屋が勤めた。ピーク時の最大動員人数が5,000名という大工事である。保温・保冷工事、海洋土木工事、工業用水 配管敷設工事以外の工事すべてベクテル式の直雇方式で行った。ベクテルのトム・ハイシマンが副所長として直庸工事の指揮をとった。彼の危機管理手法には大 いに勉強させられた。ゴルフ場でボール拾いをしていた少年を訓練して溶接工に育てる、溶接学校も開設した。

トム・ハイシマンの危機管理手法のうち、情報網の成果につき3例あげよう。日本では戦後、情報網を張り巡らすのはタブーとなっているが、5,000名もの人間を管理するには情報網が不可欠だと痛感した実例である。

(1)情報網はトム・ハイシマン直属のインドネシア人スタッフである。ある若いエンジニアが現場事務所の若き女性スタッフをさそってどこどこに居たという 情報が入ってきた。妻子が日本に居るのに現地人独身女性と恋仲になるとイスラムの世界だけに問題がある。即日本国送還するので代わりのスタッフを送れと連 絡がきたことがある。イランの現地駐在事務所でもおなじような事件が発生したと聞いた。情報網がなかったので後手にまわり、当人が業務完了して帰国するた め空港に到着して逮捕されたのである。事務の若い女性の家に招待されて両親に紹介されたのは婚約したと同じことになるというのである。示談金で婚約を解消 したと聞いた。

(2)同じ情報網がとある日本人の納入資材検査係りが現地資材業者からワイロを受け取ったという情報を上げてきた。本人は現地資材業者が自分の車に現金を投げ入れたと釈明したが、すぐ返さなかったと即本国送還とした。

(3)40億円に達する保温・保冷工事を請け負ったドイツのK社の現場監督が禁煙地区でタバコを吸っていたと情報網が報告を上げてきた。本人に問いただす と、車から出るときタバコは消したという。トム・ハイシマンは「ルールはルール即帰国させるべき」と主張。林副所長が「人間は時にまちがうこともある」と いうと「だからこそ、ルールを守らせる必要がある」という。代わりの人間を送ってもらうまで工事の遅滞は避けたいと協議したけっか、看視付きでしばらく様 子をみるということで決着したという。

日本の社会は目的のためにはルール無視もやむをえないとするが、米国など国際社会はルールはルールという厳格なオキテで動いていることを学んだ。

建機は第一期工事で使った中古建機を中心に大型のマニトボック製クレーンを香港業者からリースしただけですんだ。この直庸工事を指導したのはベクテルのハ イシマンという男一人と彼が育てたインドネシア人スタッフおよび配管とか主要工事にはベクテル子飼いの米国人フォアマンが数人居ただけである。これら米国 人フォアマンは

「ペナン島で電話を傍らにおき現地妻と待機していて、ベクテル人事部からの呼び出しに応じて駆けつけるんだ」

と話していた。彼らがベクテルの資産であり、売りなのだ。

この建設現場はかっての日本軍の飛行場があったところらしい。戦後、魚の養殖場になっていたのだが、付近に天然ガスがみつかり、LNGプラントや肥料プラント工場になった。その証拠に工事中掘った土砂を ダンプカーで運び、土砂捨て場にダンプしたところ日本製の不発弾がコロリとでてきたものだ。

我々工事業者のキャンプはプラントの横の浪打際の椰子の林のなかにあった。津波には弱いだろうが、まことに南国の楽園であった。この椰子の林が工場にされ なかったのは現地人の墓場であったためらしい。ところどころ丸石があってそれが墓石だと聞いた。毎夕キャンプ内に防虫剤を噴霧し、蚊など1匹も出ず、マラ リアの心配もなかった。

ある日曜日のこと、わが自宅の電話がなった。電話口に出ると現場の担当者から若いプロセス屋が昨夜交通事故で亡くなったので北海道の両親に連絡してほしい という連絡がはいった。安全弁取り付けの担当ですべての安全弁取り付けが完了した祝い酒を飲みすぎて、禁止されていたトラックを夜間仲間と乗り回し、公道 に出たところで路傍の砂山に乗り上げて横転し、頭に怪我をして出血死したという。彼が新入社員のとき、課の親睦旅行で一緒に飲みすぎて二日酔いになったこ とをおもいだす。 ご両親に告げることは大変つらいものであった。

電気工事の監督として臨時雇いの契約社員を現地に送り込んだが、挙動がおかしいから日本に送還するのでよろしくと連絡がきた。ところが帰国途中のメダン事務所の宿舎でクビツリ自殺しているのを現地人スタッフが発見した。遺族には心当たりがあったらしい。

わたしはエンジニアリングが中心だった初期の半年、毎月ジャカルタにとび、現況報告をし、メダンまで民間航空、ここからモービル社の社有機でロスマウエまで飛ぶという繰り返しをして現地になじんだ。

私自身は直接目撃していないが、ペンタオーシャンに発注した海洋土木工事はユニークなのでここにご紹介する。LNG船は掘り込み式の港で荷役する設計に なっていた。バースを増設するためには、この掘り込み式の港をドレッジングして広げなければならない。一方、ヒートシンクにする海水をくみ上げる取水ポン プを設置するコンクリート・ストラクチャーは海の中にケーソンを作ってそこに鉄筋をくみ上げコンクリートを打設するより、陸でコンクリート・ストラク チャーを作って海に引き出し、沈める工法が安上がりである。この両方をドッキングしてまずドレッジング予定の掘割の岸近くをブルドーザーで海面下まで掘り 下げドックを作る、そこにビル程に巨大なコンクリート・ストラクチャーの下半分を建設した。それからドレッジャーで岸の土手を掘り崩せば、海水がドック内 に流れ込み、コンクリート・ストラクチャーは海水に浮かぶ。これをタグボートで外洋に曳航し。所定の位置でコンクリート・ストラクチャーの底の弁を開けて 所定の位置に沈めるのである。あとは砂を入れて、残りの上部構造の鉄筋組をコンクリート打設を続行するということになる。ドレッジャーはドック内まで掘り 進み、2隻目のバースの杭を打つという手順であった。これは見事意図したように進捗し完成した。

試運転は何のトラブルもなく、ガスインから1日以内に完了した。

以下にグーグルマップを使ってロスマウエの航空写真をみてみよう。右の掘割港がLNG船のバースである。中央海に出ているのが冷却水の取水設備である。丸いものはLNGタンク。液化装置は6系列ある。


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思い出すことなど

ビーツ氏がモービル本社の上流の生産部門のトップに用があって電話したところその朝、その方が自宅の桃の木から落ちて腰をしたたか打って自宅療養中だと秘 書が言っていたと愉快そうに噂話をしているのを聞いた。その方の名前がアラブポイ名前なので怪訝に思って聞いたところレバノン人一世だという。すごい秀才 で米国に留学してそのままモービルに就職し、生産部門のトップにまで上り詰めたとのこと。そこに米国の強さを感じたものだ。映画「シリアナ」や小糸製作所 買占めで有名なブーン氏の自伝などに書かれている、メジャートップのイメージとは大分隔たりがある。

 

第6トレイン工事の失注

工事完了とともに第6トレイン工事が即応札となった。このプロジェクトマネジメントをおおせつかり、利益をすべて吐き出す見積もりをして応札したが、競争相手のN社が下回る価格を提示して 受注した。あの予算では N社の担当者はかなり苦労しただろうと思われる。私はこのような不毛な価格競争には嫌気をさし、プロジェクトマネジメントは廃業して技術本部へ帰ることを東頭さんに願い出て、ゆるされた。

 

人材育成プロジェクト

本プロジェクトは技術的に完璧、そして空前の利益を上げたとともに、人材育成でも成果を上げた。プロジェクトマネジャーの東頭、デピュティー・プロジェク ト・マネジャーの私、現場所長の砂屋、エンジニアリングマネジャーの豊親、オンプトットエリア担当の高畠、オフプロットエリア担当の大樹、プロジェクト購 買の関川の7名が後に役員になり、若手3名が現役の役員で今も会社を切り盛りしている。 この他にもファンクショナル・エンジニアリングのリーダーはいずれも会社の中核をになうようになった。成果を上げた要因として考えられるのは第一にプロ ジェクトマネジャーの指導が優れていたことと、第二に成功体験がいかに大切かということ、そして第三にレジュメを飾るタイトルも与えるということであろ う。プロジェクトマネジャーの指導法というのは、まず自ら身を引いて部下が判断からなにからせざるをえない状況を作り出す。しかし遠くから見ていて丁度良 いタイミングに質問をする。部下がこの質問に答えようとすればプロジェクトは確実に前に一歩進むというものだ。失敗しても決してしからない。プロジェクト の後半ではプロジェクトマネジャーは身を引いてサイトマネジャーまどをプロジェクトマネジャーにプロモートさせて実績つくりをするのである。失敗しても

「任せたおれが悪いんだから」

という殺し文句をはくのである。

この他にも忘れられないこの人の名文句は、

「プロセス屋の一声1億円、機械の一声1,000万円、土木屋の一声100万円」

「現場の声は神の声と聞け」

がある。

現在の千代田をリードしている人材が育った第三の理由は、化石燃料の主役が石油から天然ガスに交代するに伴い、主流だった石油精製プロジェクト関係者が舞台から去り、天然ガス液化プロジェクトで育った人材にチャンスが与えられたのが原因であろう。

石油資源の先が見えてきて、天然ガスがパイプラインではなくLNGとして石油のように自由に取引される時代に突入するにあたり、この人材は貴重なものとなろう。

February 10, 2005

Rev. December 1, 2008




本回顧録を読んだ早稲田大学アジア研究機構招聘研究員でインドネシア研究をしている佐伯さんからアチェ騒動に関して聞き取りをしたいと申し入れがあった。 アチェは中央からの独立志向だとは知っていたし、我々がさったたと武力衝突があったとの報道はしっているが詳しい事情はいっさい知らない。
佐伯さんはロスマウェを中心にしたアチェ紛争について地元住民の聞き取りをし てきた。紛争時、アルンLNGプラント敷地内には、インドネシア国軍陸軍特殊部隊が駐屯しており、もともと工事時のコントラクタの寮だったところが、独立派武装 ゲリラと目された民間人の拷問・虐殺施設として使用されたという。この件については、住民がエクソン・モービルとアルンLNG社を相手取って、アメリカの裁 判所で提訴している。(現在も係争中)。さらに当時、土地収用された住民のうち、540世帯が移転地を準備されず、アチェ紛争終結後に移転地を求めて座り込 みなどもおこなっている。そのほか地元住民からは、何点か環境に関する影響についても指摘された。以上のような点について、可能な範囲でお話をうかがいたい といってきた。

自由アチェ運動(GAM:Gerakan Ache Merdeka)と中央政府との抗争は1970年代半ばにGAMが組織され、1979年にスウェーデンに亡命政府を樹立。武力紛争に発展した。私は 1981-84年の間、横浜本社側にいてアチェのロスマウエには月に1回くらいしか訪問したことがない。当時、不穏な空気があるとは聞いたが、まだ スハルト政権下でもあり、血なまぐさい紛争は知らない。われわれが工事を完成して引き上げた後、インドネシア国軍による軍事作戦が激しくなったのは 1989年以降のこと。1989〜1992年ごろがもっとも緊迫していた時期で、スハルト退陣後に海外に逃げていたGAMメンバーが帰国したことから、 1999年ごろから再度緊迫し。LNG敷地内にあった特殊部隊のキャンプについても、同じく1989〜1992年ごろにもっとも盛んに「活動」をおこなっ ていたという。

1998年5月パース市開催の第12回世界LNG会議にパネリストとして参加したとき、プルタミナのエリートでアチェのLNG工場の所長をしたウコン氏と再会し たが、スハルト後は権威主義の重しがとれて、雰囲気がすっかり変わってしまったと言っていた。まー!我々と同じ自由を満喫する社会になったわけだが、彼 は肯定的であった。彼は敬虔な回教徒でハジをした時の思い出を楽しそうに話してくれた。アチェの悲劇はこういう社会の変わり目で生じたのかなと思ってい る。自由アチェ運動は回教の影響の強い地域がロスマウエの天然ガス資源を取れば独立を維持できると買い被ったのだが、それもすでに枯渇して金蔓ではなくなってい る。化石燃料は持続可能ではないのだ。

工事の時、我々が滞在した海岸のコテージはそもそもベクテルが一期工事の時建設したもので、快適なところだった。これが空家だったらインドネシア国軍陸軍 特殊部隊の駐屯地になったのもうなず ける。このころ、顧客をつれてロスマウエを訪問したこともあるが、そのときはプルタミナ側の迎賓館に宿泊したので異常には気が付かなかった。Google mapでかってのキャンプ地を見ると記憶にある海岸側の半分は撤去、整地され、拡張した工場用地となっている。残りの南半分は基礎だけ残して建物はすでに ない。時の経過を感ずる。

佐伯女史は本も書いている。書いている。彼女からアチェの人々の生の声を聞いたが、宗教などが原因ではなく、地域を破壊して建設されたプラントの分け前がゼロであるための怒りであると分かる。常に奪うだけの政治が問題なのだ。

中近東のゲリラも同じ義憤から発している。米国がイラクのサダムフセイン、リビアの暴君カダフィを抹殺した後にカオスが出現した。リビアの米大使も殺さ れ、アルジェリアの日揮社員も大勢殺された。といって米国は懲りて介入しない。これからますますアフリカ、中東地域は危険地帯になりそう。 
December 6, 2012
Rev. January 22, 2013

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