三浦半島一周 No.8

京急横須賀駅から八景島駅ま で

三浦半島一周第7ステージに引 き続き、第8ステージは2016年4月18日(月)。

集合場所:京急横須賀中央駅 集合時間:9:30

JR鎌倉8:48発⇒着8:53JR逗子→新逗子9:01発→着9:22京急横須賀中央

参加者:榎本、秦、和田、加畑、安井、青木の6名

歩いたコースは

京急横須賀中央駅→三笠公園→どぶ板→ヴェルニー臨海公園→汀橋交差点→明治国道45号→県立塚山公園(按針塚)→十三峠→のの字 橋→太田坂→船越隧道→皆ヶ背隧道→野島公園→伊藤博文記念館→野島橋→海の公園の人工砂浜→八景島駅⇒(金沢シーサイドライン)⇒京急金沢八景駅

ルート図のように京急富岡駅まで歩くと全長20.7kmで少し長い。15.3kmの八景島駅でやめるのが適当だろう。そ して八景島駅近くの「シーサイド・スパ八景島」(045-791-3575)で汗を流し、レストランで反省会をして、八景島駅⇒京急金沢八景駅で散会とす る。

三笠公園は日露戦争時の旗艦三笠が保管されている。東郷元帥像の前で記念撮影。



戦艦三笠の前で

ドブ板通りは第二次大戦前、この通りには道の中央にどぶ川が流れていたが、人やクルマの通行の邪魔になるため海軍工廠より厚い鉄板を提供してもらい、どぶ 川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになった。第二次大戦前には大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、第二次大戦後は進駐軍・在 日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊向けにスーベニアショップ(土産物店)、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えた。横須賀に縁がある有名 人の手形が通りの路面に埋め込まれている。

横須賀のヴェルニー公園はフランス人技師ヴェルニーからとられている。左手は海上自衛隊、右は第7艦隊。ここで小休止し水の補給。JR駅でおにぎりを購入。



ヴェルニー公園にて

汀橋(なぎさばし)から逸見(へみ)の谷に入る。鹿島神 社を右手にみながら道なりにまっすぐするむと西逸見吉倉隧道(人道)の入口に至る。そこから急な階段が始まる。その階段脇に石柱があり表面にWILIAM ADAMS TOMBとある。同じものは横須賀駅、汀橋にもあるそうで明治から大正にかけて行われた安針塚修理事業の一環として建てられたという。

道標

急な階段を登り切ると尾根に出る。尾根の上には横須賀ICから分岐した有料道路があった。尾根を登ってゆくと県立塚山公園に入る。展望台からは横須賀軍港 に停泊中の原子力空母が見え、対岸には君津の製鉄所が見える。さらに塚山公園のなかをピークに向かって上るとそこにウィリアム・アダムスの供養塔である按針塚が あった。 ここで記念撮影。



按針塚の前で

十三峠は 明治18年以降に内務省が「国道表」として指定していった明治国道45号が通っていたところで全国道中で最も急な1/2の勾配があったところだ。



「のの字橋」は戦前に尾根上の「城の台」という場所に砲台を築くための物資輸送路として作られたものだが、明治国道45号だったとされる西側の最急勾配の太田坂(階 段)への入口をさがしていると近くの人がここが江戸時代の勝海舟も通った道だと教えてくれた。下ったところにある田浦小は彼の母校でその入口に面白い看板があるよと教えてくれた。「トマソン物件」として写真撮影する。「何処がおかしいかだって?ここは横須賀だよ」



田浦小入口にある面白い看板

16号線にでて横須賀線ガードまえで江戸時代から伝わる馬頭観音をみる。

後はひたすら歩いて平潟湾に至る。ここにかかる夕照橋から見る釣り宿は伊根の舟屋を連想させる風情だ。

夕照橋を渡って野島公園にある伊藤博文公の別荘を訪問。あいにく休館日であったため、フェンス外で記念撮影。



伊藤博文公の別荘

野島公園の旧伊藤博文公金沢別邸は、明治31年(1898)年に伊藤博文公により建築された茅葺屋根の田舎家風意匠をもつ海浜別荘建築だ。本邸は明治22 年(1889)2月1日の大日本帝国憲法(明治憲法)発布後の建築。伊藤公が井上毅(こわし)等と明治憲法の起草作業を 行った場所は、金沢洲崎の割烹旅館「東屋」と現在は日産自動車の敷地内にあった夏島別荘(現横須賀市夏島。明治20年から同22年まで夏島に建っていた伊 藤公の別荘)とされており、本邸と明治憲法起草とは直接的な関連はない。

伊藤博文仮寓

野島橋を渡って「海の公園」に向かう。ここに人工的に作られた砂浜を歩いて八景島駅に向かう。八景島は鎌倉の一部だった称名寺の一部だ。したがって鎌倉を 出発した「半島歩き」はここで実質終わったことになる。最後の砂浜は人工だが優しく靴を受け止め心地よい。次回は中華街に向かっての凱旋マーチということになる。



海の公園

八景島駅裏の橋を渡って「シーサイド・スパ八景島」で汗を流し、レストランで打ち上げパーティー。金沢シーサイドラインで金沢八景駅に移動し、ここだ解散。

なぜここが金沢八景と呼ばれるようになったかいまではなかなかわからないが後日能見堂跡に行って初めて分かった。平潟湾は往時の1/3そして瀬戸橋の奥にあった内川入江は干拓で消えてしまった。この地形をみるとなぜ鎌倉幕府がここを重要視したかということがわかる。ここは天然の良港だったのだ。


金沢八景の江戸時代地図 南北逆

January 16, 2016

Rev. May 17, 2016


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