三浦半島

按針塚・不動滝・上山口の棚田

鎌倉に住んでいながら、近くにもかかわらずまだ訪問してないところがあった。それは按針塚である。ジェームズ・クラベル 原作1974年の映画「将軍」のモデルとなったウイリアム・アダムスとその妻の墓である。

白石一郎が書いたウイリアム・アダムスの伝記「航海者」も読んでいるし、テームズ河口にあるグレイン島にあるBPのケント・リファイナリーを訪問したとき、彼の生地のジリンガム近くを通過した。

オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊のカラベル船の航海士としてマゼラン海峡経由豊後国の臼杵に漂着した、デ・リーフデ号の再現船も見たし、その船尾版(トランサム)に飾られていたエラスムス像もみつかっていることを知っている。

2007年10月21日(日)は天気も良かったので、グリーンウッド夫妻は意を決して出かけた。鎌倉、逗子、金沢八景で乗り換え、京急の按針塚駅で下車して歩き出した。乗り換えが面倒なため、近いにもかかわらず今まで足が遠かったのである。

按針塚

按針塚からは今は米海軍第7艦隊の基地となっている旧日本帝国海軍の基地、横須賀港の全貌が見下ろせる。空母キティーホークをはじめとする米艦隊の艦船こそ手前の山の陰でみえないが、 吉倉桟橋に係留している海上自衛隊の自衛艦は丸見えである。家康は江戸湾のもっとも良い港を擁す逸見村を三浦按針に与えたのだと気がついた。さすが練達の航海者は見るべきものをみていたと感じ入った。

按針塚の説明板には「ウィリアム・アダムスは家康に見出されて政治・外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷を、三浦半島の逸見村(へみむら)に250石の領地をもらった。伝馬町の名主馬込勘解由(かげゆ)の娘を妻とし一男、一女をもうけた。平戸で病死したのち、領地の逸見村の山の上に供養搭が建てられたのは彼の『我死せば、東都を一望すべき高の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家の御厚恩を泉下に奉じ奉らん』とのことばに従っ たものと言われている」とあった。三浦按針は家康が亡くなってから平戸で死んでいるので墓は平戸にある。ここにあるのは供養塔(宝篋印塔ほうきょういんとう)であって墓ではない。

ウィリアム・アダムスが目をつけた逸見村には後に江戸幕府の小栗上野介がフランスの援助を得て製鉄所と造船所を建設したのが軍港としての始まりである。日露戦争や太平洋戦争で旧帝国海軍の軍港となり、そして現在は日本防衛という名の下に米国のアジア覇権の基地としてしっかり機能している。

按針塚からは大楠山の案内標識に従って石畳道を横須賀ICに向かって下った。昔からの峠越しの道で心地よい森林浴が楽しめる。 横須賀葉山線を不動橋で横断し、そのまま直進して不動滝に向かう。不動滝はわずか5mの滝であるが三浦半島唯一の滝であるという。三浦半島の最高峰の大楠山から流れ出る川が造る滝というわけだ。

不動滝

この山際の道をそのままゆくとフィエスタというホテルの脇に出るが、あぜ道のような道でホテルを半周するとまたアスファルト道にでて上山口の棚田の上にでる。

2004年11月13日に大楠山に登ったときも 横須賀葉山線を杉山神社まで歩いて、Y氏お目当ての手打ちそば「和か菜」でざるそば大盛りに舌堤みを打ち(Restaurant Serial No.251)「和か菜」の山側に展開する上山口の棚田に感服したが。やはり見事に維持されていた。

上山口の棚田

丁度11:30となり、「和か菜」で更科ソバを食し、バスで逗子駅に帰った。

October 22, 2007

Rev. February 3, 2008


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