三浦半島一周 No.7

久里浜駅から京急横須賀中央駅ま で

三浦半島一周第6ステージに引 き続き、第7ステージは2016年3月21日(月)。

集合場所:京急久里浜駅改札口 集合時間:9:30

歩いたコースは

久里浜駅→ペリー公園→開国橋→長瀬バス停→燈明堂(Uターン)→シティーマリーナ・ヴェラシス→浦賀奉行所跡→浦賀渡し→サニーサイドマリーナ ウラガ→浦賀かもめ団地→鴨居港→観音崎大橋→観音崎灯台→観音崎京急ホテル→走水→馬堀海岸→京急横須賀中央駅

計画ではJR横須賀駅までとしたが、距離21.8kmはとちと長いので集合時間を30分早めた。更に京急横須賀中央駅界隈でやめて反省会とすれば19.6kmとなる。浦賀の渡し舟を利用すれば更に3.4km短くなり16.2kmとなるのでこれにした。

予定通り、参加者:小粥、秦、榎本、和田、加畑、安井、青木の7名が集まる。駅からペリー公園に向かって歩く。

ペリー公園は1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー提督が東インド艦隊を率いて横須賀の浦賀に到着。同年 7月14日、アメリカ大統領フィルモアか らの 親書を江戸幕府の代表らに手渡すため、久里浜に海兵隊とともに上陸した。その際、軍楽隊40人が上陸してフォスターの行進曲Yankee doodle doo(アルプス一万尺)を演奏したところ。これが日本人が日本の地で西洋音楽を聞いた初めての瞬間だとNHKはいう。公園付属の展示を見物後、記念碑の前で記念撮影。以前ここを訪問時見たのではないかと思った房総の最高峰愛宕山はその愛宕山の頂上からペリー公園のある波打ち際が見えないと確認した。この久里浜に再度立って、伊予ヶ岳は見えるが、愛宕山は見えないことを再確認する。富士見ヶ丘の向こうに見えているのは鋸山を作った断層でできた木之根峠のある山並みなのだろう。

両国橋を渡って燈明堂に向かう。左手が広大な更地になっている。昔、海上自衛隊の潜水医学実験隊があったところだ。突き 当たりの三叉路に消防総合訓練所がある。そこで隊員たちがロープ渡りの訓練をしている。左へ行けば燈明堂に行けるトンネルがある。燈明堂のある燈明崎の手 前の千代ヶ崎には江戸時代の刑場があったというが、今は横須賀刑務所と少年院がその手前にあり、パブリックフットパスは事前調査では見つからなかった。ど うしても刑務所脇をすり抜けてに行きたいと思ったメンバーの一人が大声で隊員を呼び寄せ、右へ行って刑務所脇を抜ける道はないかと問う。答えは「ない」。 左手のトンネルかそのトンネルの上を行く旧道しかないという。その旧道も途中でわからなくなるためトンネルがおすすめという。トンネルをでてすぐ右折し、 燈明堂へむかう。山の上から旧道がおりてくるのを確認。更に進むと山の上に有料老人ホームがある。その上は海上自衛隊横須賀通信所があるはず。

燈 明堂は観音崎に日本で最初の洋式灯台ができる前にあった灯芯で油に火を点す和式の灯台があったところだ。かつてあったというその燈明堂が復元されている。 この燈明堂ができたのが1648(慶安元)年で、明治5年に廃止されるまで、実に220年もの間、一度もその灯が消えることなく、7キロ先までその光を届 け続けた。おそらく、その光をペリーも指標にしたことであろう。海峡の向こうにみえるのは右手が鹿野山でその左手は東京湾観音のある丘陵で丘の上に白い東京湾観音が立っているのが見える。ここで鴨居の住人、西沢氏に電話をいれる。



燈明堂

ヨットハーバー、シティーマリーナ・ヴェラシスの山側に浦賀奉行所跡があるが、1720年に開設された浦賀奉行所は西浦賀5丁目住友重機社宅内に堀の石垣が残っている程度で見るべきものもないのでパス。与力中島三郎助が1853年7月、アメリカ合衆国のマ シュー・ペリー艦隊が浦賀沖に来航した際に、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れて旗艦「サスケハナ」に乗船した。ペリーの帰国後、老中・阿部正弘に提出 した意見書で軍艦の建造と、蒸気船を含む艦隊の設置を主張。1854年に完成した日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の製造掛の中心として活躍し、完成後はその副 将に任命された。1859年、浦賀の長川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を行った。戊辰戦争が勃発すると、海軍 副総裁・榎本武揚らと行動を共にして江戸・品川沖を脱出、蝦夷地へ渡海し箱館戦争戦死。

浦賀湾湾口にある浦賀の渡しで浦賀港を横断。運航時間は朝7時から夕方6時までで、12時から1時はお昼休み。渡船場に行って船が桟橋に着いていれば、そのまま乗船できる。もし船が対岸にいても、渡船場にある呼出しブザーを押せば無線で船長さんに伝わりすぐ来てくれる。



浦賀の渡し

対岸につくと東叶(かのう)神社がある。頼朝に関係あるが、後北条と里見氏の争いで、ここには水軍が置かれた歴史を持つ。引き続き旧マリンポート・コーチャ(現サニーサイドマリーナ ウラガ)の前を通る。

県営浦賀かもめ団地の波消しブロックの上をあるいて鴨居港に向かう。西沢氏は観音崎大橋の袂で待つという。時はちょうど12:30腹がへってしまって京急 ホテルまで持ちそうもないため、西沢氏の案内で観音崎自然博物館のレストランに向かう。ここになぜかゴジラの足跡がある。レストランは満員で断念。トンネ ルをくぐって観音崎灯台のがけ下の磯沿いの道にでる。



観音崎灯台のがけ下の磯沿いの道


ここから階段を上って灯台に上る。灯台からは正面に東京観音と鹿野山が見える。観音崎灯台は江戸時代末期小栗上野介らの決断で横須賀製鉄所を建設したレオンス・ヴェルニーが担当した日本最古の洋式灯台で東京湾、浦賀水道を照らし、東 京湾海上交通センターとあわせ海上交通が輻輳する浦賀水道航路の安全に寄与している。現在は3代目。ヴェルニーは観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ 島灯台の建設にも関わった。品川灯台の初代は博物館明治村に移築され現存している。明治になり長崎造船所の建設にもかかわった。観音崎灯台は1957年の木下惠介の映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台にもなった。

再び階段を下り、灯台のがけ下の磯沿いの道を京急ホテルに向かって歩く。途中、波の浸食による観音洞窟をみる。かなり隆起しているもよう。

観音崎京急ホテルに向かってあるくと谷内六郎美術館があった。観音崎京急ホテルではバイキングの昼飯を団体割引でたらふくいただく。



観音崎京急ホテルで全員集合 西沢撮影


防衛大学走水海上訓練所には多数の練習用カッターがあった。走水漁村で「長ひじき」の天日干しを買うが、非常に高価であった。うまいかどうか?

馬淵海岸住宅地の北側の横須賀海岸通りは多量の砕石を積んだ防波堤で防護されていた。猿島はみえるが戦艦三笠は埋め立てで造成した自動車輸出基地にさえぎ られてみえない。海浜釣り公園に入り込むが、通り抜けできず、入口にもどる。よこすか海岸通りにそって更に歩き「うみかぜ公園」をすぎる。この左手の横須 賀市米が浜通り2丁目には東郷平八郎、山本五十六、米内光政らが愛用した1885年創業の海軍料亭「小松」があったが2016/5/16焼失した。

そのまま海岸通りを横浜地方裁判所横須賀支部まで歩き、左折、京急横須賀中央駅に向かう。駅ビル9階でビールとつまみで乾杯。次期計画を練る。

November 23, 2015

Rev. May 20, 2016


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