極楽寺

20年以上も前のことだが、NHKがこの寺を舞台にした大河ドラマを放映したときは一大ブームとなったが現在ではひっそりと極楽寺坂切り通しの西側にたたずんでいる。目の前の谷底に江ノ電の極楽寺駅があって切り通しの上にあるアジサイ名物の成就院ともども観光客でにぎわっている。

極楽寺は最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院があったという。 現在は境内正面に本堂、右側に宝物館の転法輪殿、大師堂、左側が客殿が建ち、転法輪殿前には八重と一重を咲き分ける御車返しと呼ばれる桜がある。撮影禁止 のため、映像はない。本堂に不動明王、文殊菩薩、薬師如来が安置。義経の母、常盤御前の念仏仏と伝わる如意輪観音は大師堂に安置されている。鎌倉三十三観 音霊場第22番札所。

2015/3/23仲間とともに大師堂を訪問。丁度桜が一蕾開花していた。

極楽寺 2006/6/15撮影

北条家の系図を見ると時政が初代で、その子義時と時房の2系統に分かれる。二代執権義時の三男重時の家系は赤橋北条家といわれる。この赤橋家1代目の重時が極楽寺を作った。

極楽寺の開山は忍性(にんしょう)。忍性はこの広大な境内に、慈善救 済の大事業を営んだ。施楽院・悲田院・療病舎などの建物が並び、日夜多数の病者を収容し、貧者には無料で加療・施薬をした。精力的な活動をした忍性は、さ らに土木事業も起こし、各地に橋を189ヶ所、道は71ヶ所もあった。しかし1333年の新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火でことごとく焼失してしまった。今 では昔の面影はないが、本堂前にある薬草をすり潰した石臼と石鉢が、忍性の大事業を示している。

忍性は1239年に西大寺で叡尊の弟子となり、東大寺で受戒。律宗の布教活動や、1240年に常施院を設け、ハンセン氏病患者らの救済などの慈善活 動、悲田院を改修して非人救済を行うなどの社会事業を行う。1262年には鎌倉へ進出。1267年には極楽寺を中心に活動を行う。師の叡尊を鎌倉へ招き、 飯島からの関米徴収権や、大仏殿の管領権を持つ。日蓮などからは非難され、対立する。だが、後に日蓮が幕府によって捕縛された際は、その赦免運動を行うな どした。1303年、極楽寺において87歳で入滅。

鎌倉を攻めた新田義貞は極楽寺の切り通しを通過することをあきらめ稲村ヶ崎沖に馬を乗り入れることになるほどの激戦だったという。

世界遺産登録をめざしている国指定史跡の一つである。

鎌倉地図

June 15, 2006

Rev. March 27, 2015


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