メモ

シリアル番号 表題 日付

1332

濱口梧陵

2012/02/27


東北震災の1周年の2012/3/11記念として放映されたNHKの番組で知る。

紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれる。12歳で 本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚 子に移る。醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主となり、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村 人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる。

安政元年11月5日(1854年12月24日)夜、安政南海地震の津波が広村に襲来した後に、梧陵は自身の田にあった藁の山に火をつけて安全な高台にある 広八幡神社への避難路を示す明かりとし、速やかに村人を誘導することができた。結果として村人の9割以上を救った(死者30人)。津波から命を救えるか は、情報の伝達の速さが関わっているという教訓を残した。

この災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、当時では最大級の堤防・広村堤防を江戸でかせいだ金を紀州に送り、約4年かけて修造し た。この大土木工事は、荒廃した 被災地からの住民離散を防ぐ意味を持つとともに、将来再び襲来するであろう津波に備えての防災事業であった。広村の復興と防災に投じた4,665両という 莫 大な費用は全て梧陵が私財を投じたものであり、のちに小泉八雲は彼を「生ける神(A Living God)」と賞賛している。広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のために被害を減らすことができた。

梧陵は 大久保利通の要請で初代駅逓頭(えきていのかみ)(のちの郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職する。 1880 年(明治13年)、和歌山県の初代県議会議長に就任した。そして、国会開設に備えて、木国同友会を結成した。江戸時代のだらしない中央権力を無視してボト ムアップのリーダーとなったのであるが、中央政府に召し抱えられてここでは自分の力を発揮できないとさとったのかもしれない。

江戸と紀州が銚子と利根川水運経由太平洋海運でつながっていたことなど、初めて知った。当時は商業は米本位製で課税対象でなかったため、商人は膨大な利益 をふところに入れ、社会事業、地方自治のリーダーシップを振るうことができたのである。明治維新はすべての産業活動を課税対象としたため、江戸時代のよう な大金持ちは出現しなくなったが、中央政府がトップダウンで政策をきめるため、産業政策は不効率である。そしてこれを是正するボトムアップの力も弱い。

欧米の強さと柔軟さはボトムアップ力を維持しながらのトップダウンにあるとみえる。日本は明治政府が当時のドイツをまねてつくった強い中央政権によるトッ プダウンの支配により、瓦解しかかっていると見える。継続は力なりというが継続は腐敗の温床であろう。



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