石原隊ツーリング記録

2010-2011年

2010年9月22日(月)

石原隊は隊長が高齢になったため、休眠状態であった。来年、残りのルート66に挑戦しようではないかと押川 さんが言い出し、有志が相談のために有志が富津岬荘に集まった。(Hotel Serial No.486)

徳山さんは70才にしてウィンドサーフィンに挑戦することにした。日帰りはできないので富津岬に土地を購入し、宿泊所を作ったというのでそれを見物かたが た集まろうというわけである。宿泊所はお一人様専用なので、富津岬に唯一ある富津岬荘に泊まることにした。押川、青木は坂間のフォルクスワーゲン・バン・ ウィンネバーゴで東京ビッグサイトに立ち寄った。坂間の得意先の小型ボイラーメーカーのミウラの展示会がお目当てであった。しかし開催は明日からと準備中 であった。支店長に挨拶して退散。

坂間さんは子育てのころ、フォルクスワーゲン・バンの初期のバージョン、1,600ccのリア空冷エンジン搭載のフォルクスワーゲン・タイプ2を愛用した という。空気取り入れ口のスリットが心地よいデザインでグリーンウッド氏が好きな車である。自動車エンジニアでもデザイナーでもない人物のささやかなス ケッチから後世に残る名車が生まれた希な事例とされる。ワーゲン・ビートル(タイプ1)の初めての輸出となったオランダ輸出の際の仲介業者であったオラン ダ人ディーラー、ベン・ポンが1947年、VWの経営責任者となっていたハインリッヒ・ノルトホフに提案したアイデアが発端であったという。後に「ジー プ」となったアメリカ陸軍の軍用車発注仕様書1940年に添えられた、担当士官のフリーハンドになる下手な概略図と並び双璧とされる。

取って返して「海ほたる」で昼食。新日本製鉄君津製鉄所と東京電力富津発電所の前を通過。東京電力富津発電所コンバインドサイクル3号機の煙突は低く、ビルのように見える。硫黄がないので高くする必要はないとようやく気が付いたようだ。

工場地帯を過ぎて富津岬にはいる。右手に富津漁港が見える。なかなか情緒がある漁港だ。 行き止まりを左折すれば国道16号である。横須賀をでて東京を一周してこの富津岬突端で終わるかっての軍用道路だ。

 
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富津岬突端の明治百年記念展望台下で徳山さんと合流。徳山さんはヤマハ騎乗である。展望台に登る。細いコンクリート柱に乗っているため良くゆれる。ここから東方を見ると遠近法のためか三角形の岬は四角に見える。

展望台から東方富津岬を俯瞰

近くの東京電力の富津火力にはモスローゼンベルグ方式の巨大なLNG船が横付けされていた。西方には第一海堡が見える。山縣有朋が富津岬沖から、神奈川県 横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島を作ったものの一つ。土砂の堆積と関東大震災による隆起のため、富津洲と地続きになっていたことがあ る。しかし今はダムなどが増えて東京湾への土砂の流入がすくなくなり、途切れて暗礁となっている。

展望台から西方第一海堡を望む

展望台で風に吹かれているとNHKの森本健成アナが女性ディレクターとやってきた。今週末の朝7:00のNHKニュース「おはよう日本」で「イイダコ釣り」の録画撮りをするのだという。

富津岬の北側は潮干狩りができる遠浅だが南側はテトラポットが投入されて侵食されている。テトラポットが切れるあたりの砂浜が徳山さんのプライベートビー チだという。徳山さんは近くの廃業した自動車整備工場を建屋毎買取り、漁船の解体、エンジン・リサイクル業を始めたいと夢を語る。いよいよ宿泊所を見学す る。富津の大乗寺の裏側の住宅地の70坪に大型のバス改造キャンピングカーを駐車し、セールボードの格納庫としている。 建設現場用コンテナー事務室を2つおいて簡易宿泊所にしている。

奥:宿泊所 右:キャンピングカー

宿泊所内

富津岬荘で風呂を浴び、夕食まで飲む。夕食後、米国ツーリングの概略説明、足助発の中馬街道ツーリング説明、天下国家の行く末を論じた。徳山 さんが1958年の「小松川事件」または「小松川高校事件」または「小松川女子学生殺人事件」を思い出させた。皆昔のことで忘れていた。スマートフォンでWikiを読む。概略以下の如し。

金子鎮宇(李珍宇)は犯行時18歳であったが、殺人と強姦致死に問われ、1959年2月 27日に東京地裁で死刑が宣告された。二審もこれを支持、最高裁も1961年8月17日(被害者の命日)に上告を棄却し、戦後20人目の少年死刑囚に確定 した。事件の背景には貧困や朝鮮人差別の問題があり、大岡昇平ら文化人や朝鮮人による助命請願運動が高まった。しかし1962年11月26日に刑が執行さ れた。享年22。

この事件をモデルにして大島渚が「絞死刑」という映画を作り、死刑制度にたいする根源的 な疑問をぶつけた。主人公の死刑囚は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がった死刑囚の脈はいつまで経っても停止 せず、処刑は失敗する。縄を解かれた死刑囚は刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法によ り、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。所長・看守・検事・教誨師たちは狼狽し、彼の記憶を取り戻させる べく奮闘努力が始まった。 しかし死刑囚が死刑とは?国家とは?そして朝鮮人とは?と素朴な質問を投げかけ、所長たちはドタバタの寸劇を演じて答えていく。このように全編強烈なブ ラックジョークで覆われている。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧 困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。

当時の日本の異常さを感ずる。そして日本にはいまだ死刑制度が残っている。
 

2010年9月23日(火)

朝食後、浴衣のまま浜の散歩をする。

朝の散歩

旧軍が作ったトーチカが見える。地図には岬の中央に五稜郭を半分にしたような掘割をともなった 富津元洲堡塁砲台の掘割が残っている。今は県立公園となっている。多数の地下掩蔽部には入れない。

左:トーチカ 中央:展望台 右:第一海堡

徳山さんのバイクは宿泊所に置き、4人そろって房総の観光ドライブに出かける。案内人は徳山さん。まず東京湾観音を訪問。戦後材木商の宇佐美政衛氏がコンクリートで作ったものだ。高さ56m。 内部に階段があり登れる。背面に小窓多数。原型は長谷川 昴(こう)。

東京湾観音

次に名水「不動水」を汲みに行く。まちがって丘の上の総丘カントリー倶楽部に迷い込む。取って返して「不動水」をペットボトルに詰める。これでご飯と炊くとうまいという。分析値を見ると硝酸イオンが多い。丘の上の窒素肥料の分解物が程度に溶け込んでいるのだろう。帰ってからこれで飯を炊いたら確かに旨かった。ついでに千葉名産のウコンの粉を買う。 酒飲みの友だ。

不動の水

県道182号線を南下する。途中もう一つの名水、志駒不動様の霊水の前を通過し、鴨川にゆく鴨川保田線に入り、大山千枚田に向かう。大山千枚田はちょうど稲刈りの季節で大勢のボランティアが働いていた。下の写真は2016/2/16に房総の最高峰の愛宕山登山時に撮影したものである。


棚田倶楽部より南東方向にある大山千枚田 2016/2/16撮影

棚田倶楽部に駐車。ここからから大山千枚田を俯瞰すると東南方向に愛宕山と航空自衛隊のレーダードームが見える。記憶では今年2月烏場山に登ったときこのドームを見たような気がする。その時は伊予ヶ岳や富山のほうに目が行っていた。

鴨川保田線に戻って少し東方の北風原(ならいはら)の元祖勝浦式坦々麺「江ざわ」でたんたん麺を食う。徳山さんが中辛でいいというくらい、辛い。引き返しで保田経由帰途に着く。

ヤマハで帰路につく徳山さん

3人は再度、東京ビッグサイトに戻り、小型ボイラーメーカー「みうら」の展示会で学ぶ。小型還流ボイラーは10気圧程度で亜臨界のため、ドラムがなくとも蒸発管の中ほどに液面があり、手動ブローダウンで煮詰まった液をブローダウンして煮詰まりを防止できる。 煮詰まりセンサーがあって、ブローダウンが必要となるとランプで示す。燃料と空気を予混合をするコルゲート式の平面バーナーで多少不完全燃焼させてNOX防止する。排ガススは触媒で完全酸化させて。荏原が開発した臭化リチウム水溶液を使う吸収式ヒートポンプで90oCの温水から低圧水蒸気を発生させる仕掛けは興味深かった。神戸製鋼のスクリューコンプレッサーはメカニカルシールなしでインバーターモーターとコンプレッサー直結マシンである。水処理機として軟水機にROが使われるようになった。

2010年11月7日(日)

久しぶりに石原隊の召集がかかった。幹事の菅原さんが箱根と草津のどちらがよいかというので流れた白根登山を思い出して草津の希望を出した。バイクでは無 理としてもジープで白根に登れるからである。ところが半月前に草津に雪が降ったという。そこでジープも断念して、新幹線で軽井沢に向かう。軽井沢は紅葉 真っ盛り、旧軽などすごい雑踏であった。しかし旧三笠ホテルを過ぎると寂しくなる。

白糸ハイランドウェイは50年前と同じく、300円の料金を徴収し続けている。2005年の鼻曲山登山の帰路、バスを拾った長日向を通過。白糸の滝で私を除いてバスの乗客は全員降りる。

北軽井沢を過ぎ、八ッ場ダムの建設予定地の吾妻川に向かって146号を下ってゆくと眼前に雄大な草津白根山(2,165m)が横たわっているのを発見。山 頂から右手に崖が見える。この崖は翌日草津から白根に登るとき、再度眼前にみることになる。草津白根山はその南斜面を見せて横たわっている。ここは「六 里ヶ原」と呼ばれる広大な空間である。

応桑から望む草津白根山 (バスのフロントグラス越し)

今夜の宿は草津の「望雲」である。(Hotel Serial No.490)草津のバス亭から一望しても見えない。そこで一旦湯畑に下る。湯畑は2001年6月16日の石原隊ツーリング以来である。湯畑の湯は48軒の旅館にポンプで送り残りは下流ダムの保護のために石灰で中和して放流しているという。その下流ダムとは八ッ場ダムのことである。

湯畑

ここで道を聞く。「ホテル一井」の裏手とわかる。「山本館」や「奈良屋」という老舗の前を通って坂を登ったところにあった。

脊椎損傷した奥様を看護している間に自身も脊中管狭窄症にかかってしまった斉藤さんが名古屋の名医に看てもらって、内視鏡だけで椎間板を切除する手術を受 けて治癒した話しを聞く。保険外治療で金はかかるようだ。北海道でトライクル事故で右腕骨折し、それも治癒しての参加であった。バイクはまだ無理でトヨタ 車での参加。

中本さんも日本で成功した墓苑ビジネスモデルを韓国、中国に輸出して成功しているという。シトロエンに乗って登場。

石原隊長から環太平洋パートナーシップ協定(TPP; Trans-Pacific Partnership)参加についての意見を聞かれる。無論、開国しか選択肢はないが、 農業人口1名当たりの耕作面積は日本:1.2h、EC:40he、米国:170he、豪州:4000heで大きな差がある。零細な農地所有者 を保護してきた従来の法律が障害となって零細農家が生き延びてきたわけである。これらに所得保障というばら撒き をするだけでは農業は蘇生せず、完全に衰退するだろう。零細農地所有者が現物支給で出資する株式会社方式などを可能にするように規制撤廃をして大規模農業を育成 しなければならない。全国に50万社あるといわれる土建会社など土木機械を扱いなれた企業が大規模農業に進出できる能力を持っているはず。と日頃の意見を述べる。

2010年11月8日(月)

朝、全員集合して記念撮影。井畑さんだけホンダ・トライクルでの参加。幹事の菅原さんはロバート・ジャンケル率いるパンサーが72年に送り出したモダーン・ビンテージカーでの登場、阪間さんはいつものフォルクスワーゲン・バン。

全員集合して記念撮影

私は阪間さんのバンに分乗して、全員で白根山に登り、万座に下ることにする。白根山から草津へ下る292号線は1998年8月、志賀高原・水上高原ツーリングのとき昔の彼女を後ろにのせてバイクで下ったはずであるが、全く記憶にない。今回は初めての登りであるが、木々のない荒涼として風景はルート66でキングマンを出てシットグレーブ峠に登るときと似ていることに気がつく。違うのはここにロープウェイが通っていることだ。ロープウェイの下は本白根ゲレンデだ。風で雪が付かず閉鎖されている方が多いとのこと。

292号線とロープウェイ

更にのぼってゆくとやがて眼前に長大な崖が見えてくる。湯釜から東方向に流れる尾根の一つだ。この崖は昨日応桑から白根を望んだときに右手に見えた崖である。

長大な崖

湯釜近くのレストハウスで休憩。湯釜のぞきは噴気のため近くには行けない。菅原さんがビンテージカーにくくりつけた古びた皮製のトランクにはHotel Royal Danieli Veneziaなどのワッペンが張ってある。ダニエリはベネツィアの最高級ホテルの一つだ。トスカーナ地方の旅のついでにベニスに立ち寄りダニエリに泊まったことを思い出す。屋上のレストラン、ラ・テラッツァで朝日を浴びての天覆の下の朝食はすばらしかった。

湯釜

トライクルの給油のために渋峠まで足を伸ばすことになる。我々は最高地点で待つ。芳ヶ平と白根の景観を満喫。芳ヶ平の向こうには草津がみえる。9月の登山は芳ヶ平散策であったが参加者減で流れた。

芳ヶ平

手前にいまだ蒸気をあげる白根 山がうっすらと雪をかぶり、その向こうにガスの噴出もなくなって緑に覆われた本白根がある。両方まとめて草津白根と呼ぶ。そのはるか遠方には噴煙を上げる浅間山が見える。

草津白根

志賀高原東館山(1,978m)上空7,600mの地点から南をのぞんだ3D図を作成してみると横手山が志賀高原の最高峰だ。その脇を国道がはしり、日本最高点の渋峠を持っている。今年は根子岳・四阿山(2,354m)(暗緑色ルート)や志賀山(2,037m)(赤色ルート)に登ったし、計画が流れたが、芳ヶ平と草津白根山(2,171m)散策(紫色のルート)も企画した。2001年には横手山(2,305m)の山頂に立ったし、浅間山(2,524m)にも登った。2005年には鼻曲山(1,658m)にも登った。

地図 東館山上空7,600m上空より南方向

万座経由で北軽井沢1990-260の松平氏を訪問。津山藩の歴代藩主松平越前家の 子孫でNHKに奉職していられた方なら松平康氏かと思うが77才 では歳がすこし違う。松平越前家は徳川家康の次男の家柄という。そういえば家康の肖像に似ている。ビンテージカー多数のコレクションを持っている方でそれ を見せていただく。ポルシェはかのフォルクスワーゲンの空冷の水平対向エンジンでダイナモはオリジナルの直流発電機を搭載している。これはエンジン回転数 があがると電圧も上がってカットオフ ・リレーが働くため、いつもバッテリーの充電が上手く行かない。やはり交流発電機に交換すべきと菅原さんはいう。

松平邸のポルシェ

松平邸のある界隈は比較的平らで回りは牧場ですばらしいところだ。北には遠く草津白根がみえ、南には浅間山、西は四阿山、東は浅間隠山がある。

松平邸でのパンサー

ガレージの中にはトヨタスポーツ800、ジャガーEタイプシリーズ、ジャガーXK120、ロータス、MG、ディーノ。かってはランチア、スーパー7、ル ノー・サンク・ターボ、ルノー・A110アルピーヌもあったらしい。下地まではがないで再塗装したものは厚い塗膜にひび割れがでて塗装に膨大な費用がかか る。ビンテージカーの維持は大金食いなのだ。

トヨタスポーツ800は、パブリカの790ccの空冷水平対向2気筒を積み1962年のモーターショーで発表されたプロトタイプであるスポーツ車。石原隊長が試乗。 友人から買い取った価格が150万円でトヨタに整備依頼したら800万円の請求書がきたという。

松平氏は昨夜軽井沢から軽自動車に乗って白糸ルートで帰宅途中、鹿にぶつかってフロントを大破したという。鹿は逃げて不明。多分、助からないであろうという。

松平邸で解散。私は軽井沢まで送ってもらって新幹線で帰る。

石原隊ツーリング記録

September 22, 2010

Rev. February 17, 2016


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