古田史観「九州王朝説」

鍋屋田小学校に4月に入学して8月で敗戦を迎えた私にとっては奉安殿に向かって の最敬礼義務は4ヶ月で開放された。というわけで皇国史観と言う言葉は別世界のものであった。最近の憲法改正の動きに触発されて、伊藤博文が借りて憲法を構想したと いう冨岡の伊藤博文仮寓に集まってオーナーから明治憲法の講義を聞いた。そこで明治憲法第一条に「大日本帝国は万世一系の天皇之を 統治す」と書いてあることに思い当たるところがあった。昭和憲法を改訂したいと考えている筋はこの統治側に都合の 良い皇国史観を維持したいという気配を感ずる。こういう困った勢力の抑止力に使えるのではと「多元的古代史観」に立つ古田武彦の「九州王朝説」を見直してみた。

この説を初めて知ったのは2000年に会社の先輩の平松幸一氏から日本国成立の経緯解明調査中間報告という年賀状をもらった時である。そして学士会報で川端俊一 郎教授の書いた法隆寺の物差しの秘密からますます興味をもっていた。その後も全 国電気管理技術者協会連合会顧問の吉澤均氏にいただいた吉留路樹の著書も読んで確信は深まった。

最近所属している鎌倉プロバスクラブで根元氏の「ついていない男の奇跡」を聞き、ますます古田史観が納得できるとおもった。根本氏は母の実家に養子にだされた ので姓はかわった が、もともとは橋口という薩摩・大隅の豪族大伴氏の末裔だ。5世紀から6世紀にかけて外交・外征面において、倭王権では重要な役割を果たしていた ものと考えられるとされている。なぜ九州の豪族が大和で壬申の乱などに係わったのか疑問が生じ、調べると倭京という言葉がでてきた。一体これはどこに あったのだろうかと調べたら大宰府が倭京だという。そして「壬申の乱」は九州を舞台とした易姓革命(王朝交代)であるとか「大化の改新」の立役者の中臣鎌 足と藤にたつ原不比等は親子ではなく、同一人物であるとか、蘇我氏は九州倭国の皇室だとかと言う驚愕の解釈が続く。こうして古田史学の九州王朝説が論理一 貫した納得のゆく説 明になると感じる。

伊勢に は修学旅行に連れてゆかれ、自分でも再訪している。そしてどうして奈良の貴族が伊勢を神聖視したかしっくりこなかった。古田史観では伊勢神宮の 興りは福岡県糟屋郡久山町猪野の天照皇大神宮である。倭姫命の定めた伊勢とは熊本県八代地方のことで、現在の伊勢に移る前の伊勢神宮は全て九州内だった。 万葉集などにある淡海とは八代海であり、後世に、淡海と近江が混同されたのである。この他に吉野行幸、遣隋使、遣唐使、正倉院、伊佐神宮、君が代、源氏物 語はすべて九州にあったなど全てに終始一貫している。

飛鳥時代以前を記録した一次史料は金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って古田説の論拠となる史料は、この僅かな一次資 料と記紀や漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると皇国史観側から問題視され 、九州倭国否定論の論拠の一 つとなっている。

しかし九州王朝説から見ると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける木簡などの一次資料は全く存在せず、皇国史観は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みに した ヤマト一元論(皇国史観)を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。

具体的には天武以降の天皇の墓はあるのに欠史八代(第2代綏靖天皇 、第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇、第7代孝霊天皇、第8代孝元天皇、第9代開化天皇)を除く天武より前の天皇の墓が無い。

現在欠史八代を除く天武より前の天皇陵とされている古墳は、江戸時代に国学者ら が参考地にある古墳の中から『記紀』の記事や伝承・規模を基に適当に治定したに過ぎないもので、それが天皇の墓であった証拠は全く無い。

日本書紀に記された第1代神武天皇と欠史八代に第40代天武天皇〜第48代孝 謙天皇を含めた18代はヤマト王権(天武朝)の系譜である。

第10代崇神天皇は別名ハツクニシラススメラミコトであり、名称から九州倭国の初代国王であったと考えられる。上記より第10代崇神天皇-第39代弘文天 皇は九州倭国の系譜であると考えられる。
記紀の殆どは九州倭国の歴史であるが、天武は自らの先祖達の記録も残したかったと考えられ、記紀の冒頭に自分の系譜も挿入したのではないかと考察できる。

欠史八代の間、畿内周辺の狭い領域のことしか記されていない。欠史八代の御陵は考古学的に見て古墳時代後期 〜飛鳥時代に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかないので、欠史八代の時期は古墳時代後期〜飛鳥時代であると考えられる。

日本の古墳によれば熊本県の江田船山(えたふなやま)古 墳は5世紀後半〜6世紀に築造された前方後円墳で,石室には畿内で多く見られる家形石棺が納められている。また,古墳から出土した鉄剣には「治天下獲 □□□鹵大王・・・・」と金象嵌(ぞうがん)文字が彫られていた。そして,これと同じ「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」という文字が彫られた鉄剣が埼玉県 行田市の稲荷山(いなりやま)古墳から出土している。(「獲加多支鹵(ワカタケル)」は雄略天皇を意味し,「辛亥年」 (471年)に「乎獲居(オワケ)」という人物によって作られた。)同じ大王の名が彫られた鉄剣が関東と九州で発見されていることになる。皇国史観から は鉄剣は大和政権によって全国統一がされていたことを意味する。そして5世紀末において,九州地方は大和政権の勢力下にあったと考える。しかし古田史観に立てば 雄略天皇は九州の天皇だったのだから、九州の倭国と行田の古墳に葬られた一族間に交流があったことになり、なんら矛盾しない。

神武は、「日下の戦い」で一旦は惨敗しているが、最終的には畿内に勢力を確保しており、「日下」を征服したと考えられる。「日下」は現在「くさか」と読ま れるが、元々は「ひのもと」と読まれたとされる。(河内東方の生駒山麓の草香地方(現東大阪市日下町)を、「日下の草香(ひのもとのくさ か)」と呼んでいたことから)「日下(ひのもと)」→「日本(ひのもと)」→ 「日本(にほん)」と呼ばれるようになったとされる。

以上先にあげた膨大な文献をまとめたwiki文献を読んで混乱した頭の中を整理できた結果である。

理系はロジックと証拠が一致すれば素直に受け入れるが文系の、とくに日本史の先生方は古田史観は先輩の大先生の教えを否定することになるので無視するし か手はないようだ。明治維新以来営々と築いてきた記紀をうのみにした万世一系という皇国史観がひっくり返ってしまうからのようだ。NHKの歴史番組もすべ て東大の歴史学教授の主張する 歴史しか放映しない。私の中学・高校の友人で名古屋大学の化学科卒業した人は定年退職後考古学をNHK放送大学で学び、学士号もとり、歴史民俗博物館 の化学分析を手伝っていた。私の山の先生である。彼に古田史学についてコメントをもとめたところ、血相をかえて証拠がないと否定した。しかし証拠の無いの は皇国史観のほうで、精々巨大古墳で幻影を見ているに過ぎない。すぐれた理系人間が偏った文系 教育を受けて変わってしまったなとがっかりしたことを思い出す。最近はすこし冷静になって、もし私がこの説を喧伝したいのならまず九州を歩いてからにした ら よいと言うまでに譲歩している。長崎出身の原氏も大和には沢山の古墳があるが、九州にはない。古田史観は物的証拠に欠けるのではと同じ疑念 を呈したが古墳は日本の古墳一覧の ように全国に3万基もあり、九州にも沢山ある。なかでも福岡県八女市北部、八女丘陵は東西10数キロメートルからなり、その上に展開する八女古墳群は前方 後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及び、最大の前方後円墳である岩戸山古墳は全長170mあり大きい。文献から被葬者と築造時期を推定できる 日本で数少ない古墳の1つで、被葬者と推定される筑紫君磐井に関する記録とも一致している。

九州は磐井の乱の後,石人・石馬のような石造物を並べる古墳に代わって,筑後川や遠賀川流域を中心にした装飾古墳の時代が到来する。熊本県を流れる菊池 川,この流域の古墳の特色は,石室や石棺内が装飾された古墳が分布している。装飾古墳に分類される古墳は東北地方から九州地方まで全国で約480基ある が,熊本県にはそのうちの40%にあたる約190基が存在する。そして,その半数以上が菊池川及びその支流域にある。熊本県山鹿市には,チブサン古墳,オ ブサン古墳,鍋田横穴墓群などがあり,どれも国指定の史跡となっている。内部が装飾されたり,壁画が描かれた古墳は中国や朝鮮半島にも見られる。大陸の文 化・技術として5世紀ごろに日本に輸入され,7世紀には全国に広まっていたと考えられている。(直線と弧線-曲線が組み合わされた幾何学的文様は直弧文(ちょっこもん)とよばれている。規模ではすでに目立たなくなっていたのだ。われわれの目に入るのは仁徳天皇稜や箸墓古墳のような盛土 によ る巨大な前方後円墳で大阪・奈良に数多く存在している。

たしかに山野辺の古墳群を歩くと巨大な前方後円墳が沢山目につき、それぞれに記紀にでてくる歴代天皇の名が被葬者としてついている。しかし長野市周辺には森将軍塚古墳川柳将軍塚など沢山の古墳があり、神奈川県にも長柄桜山古墳群がある。いずれも記紀には記載がない。これはどういうことだろうか?長柄桜山古墳群はある日突然造営が開始され、そして2基の古墳が造られた以降、後が全く続かなかったということになる。九州王朝とどういう関係があったのだろう?

実は大和にある古墳も含め、すべて記紀が扱う時代より古い渡来人の時代の遺物であるためで、大和にあるものもそういう遺物なのだが皇国史観を統治に利用し ようとする江戸から明治にかけての為政者のニーズを満たそうとした江戸時代の国学者の根拠のない推定を安本美典らの御用学者が踏襲しているにすぎない。

古田説は書かれた歴史の解釈だ。だから書かれなかった古墳の歴史とは関係ない。古墳は日本に15-20万基ある。そして全国津々浦々にある。確かに大きななものは 大和に多いので大和はそれを建設できる程余裕があったということは容易に想像できる。しかし記紀に文字として書かれた出来事は中国や半島側から書かれた歴 史書と照合すると、壬申の乱までは九州が舞台であったとすると矛盾が小さいということをいっているわけ。ということは大和の巨大な古墳を作った人々の歴史 は残念ながら文字には書かれなかったということになる。ということで古田史観と古墳はほとんど無関係で矛盾しない。江戸時代の国学者は小さな古墳がこんな に沢山あることを知らなかったので目立つ大和の古墳を記紀に結びつけて考えただけだとわたしはおもう。日本の歴史家は戦後になっても万世1系の天候家を でっち上げた藤原一族の陰謀にだまされたままでいることはまことに情けない。学問を放棄した態度だ。天皇を担いで革命を起こした明治政府は太平洋戦争 で瓦解したわけだから目をさましてはどうかとおもうのだが。いまのままでは歴史認識で隣国とずっとずれたままで、今後も紛争はなくなりそうもない。

このように古代史業界には原発学者、人為的温暖化理論を振り回す御用学者と同じ構図が見える。なによりの証拠に宮内 庁は大和の天皇陵とする古墳の発掘をみとめない。もう神でもなくなったのだから問題ないと思うのだが。皇国史観派は大和でも古い箸墓古墳を卑弥呼の墓だと想定し、発掘 しているが果たして皇国史観が正しいという証拠品が出土するのだろうか?九州にあったら発掘してもその証拠はでないであろう。

理系の研究者が書いた「長野県の古代朝鮮半島からの渡来文化」 によれば古代日本には中国・朝鮮半島から技術・文化が渡来している。漢字、鉄・銅、仏教、薬品、麻や絹、さらに古くは稲作等現代日本人の生活基盤となる衣 食住や精神生活まで全てに亘ってその影響を受けている。しかし江戸時代の鎖国を経て明治維新後は当時の先進国から近代科学技術、文化、政治制度を導入し た。明治から昭和にかけて多くの日本人が熱心に欧米から学び、追いつき追い越す勢いを持った。一方で古代に学んだ中国、朝鮮は近代化に遅れた。いわゆる “日帝時代”の日本は大陸への進出を優位にするため、中国・朝鮮は下位国と見て支配下に置く政策をとったが、長い歴史の中で渡来人も日本に溶け込み、日本 人は渡来文化を発展・応用させたにもかかわらず、そのルーツは特別に意識しなくなっている。それは自然なこととしても、誰が何をしてきたかを明確にして歴 史を正しく認識したい。

私の故郷である長野県北東部には古墳が多く、積石塚の多い特色ある地域であることから、この論文では特に積石塚が集中する長野市松代 の大室古墳群を 主要テーマに取り上げるとして長文の論文を書いている。馬を飼育する最先端の技術をもった朝鮮半島からの渡来人たちが、大室で馬の飼育を始めたと考えるこ とができる。石を積みあげて墳丘をつくった積石塚は、きわめて特異な古墳といえる。日本全国で1,500から2,000基ほどありるが、これは15万から 20万基といわれる古墳総数の1%にすぎず、他はすべて盛土墳丘の古墳である。しかし長野県全体では約25%が積石塚と土石混合墳の古墳であり、長野盆地 全体では約60%、大室古墳では約80%という高い比率になる。このようにきわめて特異な古墳が大室に集中している。平安時代前期に記された「延喜式」に 信州十六牧の一つとして「大室牧」の名が見える。

古田説を魔女狩りの対象としてしていた東大名誉教授に井上光貞がいるが、民俗博物館初代館長を歴任している。この人はなんと明治憲法をドラフトした伊 藤博文と明治政府を担った井上馨の孫だ。皇国史観を守った功績か紫綬褒章受賞者だ。というわけで、古田説は主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究 書においては記載されずに無視されている。自虐史観だと騒ぐ主流派の精神的権威づけになっているのではないか。

January 16, 2014
Rev. January 23, 2014
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