シリアル番号 | 915 |
書名 |
巨大古墳の被葬者は誰か |
著者 |
安本美典(びてん) |
出版社 |
廣済堂出版 |
ジャンル |
歴史 |
発行日 |
1998 |
購入日 |
2007/11/23 |
評価 |
良 |
鎌倉図書館蔵
難波・飛鳥・初瀬・山の辺の道を歩く旅から帰って古墳時代から日本国家統一までの歴史に興味をもって図書館から借りてきた本の一つ。
著者は邪馬台国九州説を採る。それどころか九州にあった邪馬台国の後継勢力が280-290年頃東に移って大和朝廷をたてたという邪馬台国東遷説を採る。邪馬台国=畿内説は712年に書かれた古事記、720年に書かれた日本書記を全くのフィクションとみなす立場で そう主張した津田左右吉の呪縛から逃れていないとする。しかし最近は考古学的発掘による物証から邪馬台国=畿内説が有力となりつつある。
著者は地域国家が集まって次第に統一されていったという説は採らず、邪馬台国以降ずっと統一されていたという説をとっている。
さて著者は準備として歴代の天皇の在世の時期を推定する。まず卑弥呼=天照大御神、神武天皇東征280-290年、神功皇后400年、雄略天皇=倭王武とする。そうすると次のような年譜が得られる。
代 | 名前 | 推定即位年西暦 | 対応古墳 |
1 | 神武 | 280 | |
2 | 綏靖(すいぜい) | 298 | |
3 | 安寧 | 302 | |
4 | 懿徳(いとく) | 306 | |
5 | 孝昭 | 310 | |
6 | 孝安 | 318 | |
7 | 孝霊 | 323 | |
8 | 孝元 | 332 | |
9 | 開化 | 338 | |
10 | 崇神(すじん) | 343 | 崇神天皇陵* |
11 | 垂仁 | 356 | 垂仁天皇陵* |
12 | 景行 | 370 | 景行天皇陵* |
13 | 成務 | 386 | |
14 | 神功皇后 仲哀(ちゅうあい) | 390 | 仲津姫命陵古墳 or 津動城山古墳 |
15 | 応神 | 410 | 宮内庁管理の応神天皇陵(誉田山古墳)# |
16 | 仁徳 | 425 | 宮内庁管理の仁徳天皇陵(大山古墳)* |
17 | 履中 | 436 | |
18 | 反正 | 440 | |
19 | 允恭(いんぎょう) | 445 | |
20 | 安康 | 460 | |
21 | 雄略 | 465 | 河内大塚古墳? |
22 | 清寧 | 480 | |
23 | 顕宗(けんぞう) | 485 | 狐井城山古墳? |
24 | 仁賢 | 488 | |
25 | 武烈 | 499 | 顕宗天皇陵? |
26 | 継体 | 507 | 宮内庁は太田茶臼山古墳を継体稜としているが、正しいのは今城塚古墳 |
27 | 安閑 | 534 | |
28 | 宣化 | 536 | |
29 | 欽明 | 540 | 欽明天皇陵古墳(梅山古墳)* |
30 | 敏達(びだつ) | 572 | |
31 | 用明 | 586 | |
32 | 崇峻(すしゅん) | 588 | 第一皇子蜂子皇子が出羽三山を開く |
33 | 推古 | 593 | |
34 | 舒明 | 629 | 宮内庁管理の天皇稜# |
35 | 皇極 | 642 | |
36 | 孝徳 | 645 | |
37 | 斎明 | 655 | 明日香村牽牛子塚古墳 |
38 | 天智(てんじ) | 668 | 宮内庁管理の天皇稜# |
39 | 弘文 | 671 | |
40 | 天武 | 673 | 宮内庁管理の天武・持統天皇陵 (野口王墓)*#昔は見瀬丸山古墳がそれとされた |
41 | 持統 | 690 | 宮内庁管理の天武・持統天皇陵(野口)王墓)*# |
42 | 文武 | 697 | 中尾山古墳* |
43 | 元明 | 707 |
*印はグリーンウッド氏が訪れたところ。小文字コメントは別ソース
#宮内庁管理の天皇稜42の内正しいと思われるもの#印4つのみ。今城塚古墳など宮内庁指定がないために石室まで発掘してしまった。
明日香村牽牛子塚古墳は2010年の発掘調査の結果、中大兄皇子の娘大田皇女(天武の后)の墓が脇にあったことから斎明天皇の墓とされているが宮内庁管理は斎明 天皇稜は「ケンノウ古墳」としている。
桜井市の箸墓古墳は宮内庁は7代孝霊天皇の皇女の墓とするが卑弥呼の墓という人も居る。
次に前方後円墳の分類と建造時代区分を行って天皇の在世の時期との一致と伝承を照合して上の対応表を作成した。(推古以後は別資料より作成)上の表以外にも多数の古墳について論じているが大部分は天皇以外の被葬者である。
前方後円墳の分類はまず横軸に前方部幅と後円部径比、縦軸に前方部幅と全長比をとるグラフにプロットすると4、5、6世紀と時代がたつにしたがい右上がり の直線上にならぶ。竪穴式は古く、横穴式は新しい。くびれの部分に造出しのあるものは新しく、ないものは古い。馬形埴輪の無いものは古く、あるものは新し いとわかる。いずれも5世紀中頃に変革点がある。特に乗馬と関係ある馬形埴輪は応神以降である。江上波夫はここから騎馬民族征服王朝説のヒントを得たわけだが、馬の利用を知っただけかもしれないわけでそのほうが自然だろう。
橿原(かしはら)神宮前駅と甘樫丘(あまかしのおか)との中間にある石川池は灌漑用水池となっているが、古墳らしき丘が反対側に見える。地図には第8代孝元天皇陵古墳とあるが本当なのだろうか? おなじく畝傍山の周辺には第1代神武、第3代安寧、第4代懿徳(いとく)の天皇陵があるが本書は論考していない。
飛鳥駅の少し北には欽明天皇陵古墳(梅山古墳)がある。すこし北の岡寺駅近くにある見瀬丸山古墳が欽明天皇陵ではないかという説もあるが、梅山古墳に軍配があがるようである。
箸墓古墳は3世紀の古墳ということで卑弥呼の墓ではないかという最近の説に関し、伝統的な第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫(やまととびももそひめ)の墓であるとしている。同じ論法でホノケ山古墳も卑弥呼の墓という説もしりぞけている。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は第12代景行天皇の皇子で東国からの帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したという、調度三重県亀山市村田にある5世紀初頭の能褒野王塚古墳が該当する。
断層と古墳と都市
川柳将軍塚古墳は5世紀前半第10代崇神天皇(すじんてんのう)が国内平定のために各地に派遣した四道将軍という皇族の一人、「大彦の命」の墓だという。古事記によれば「大彦の命」は高志(こし 越・北陸道)に遣わされたというので文献とも一致する。 この古墳は断層が作った丘陵上にある。
天武天皇の皇子らを葬ったとされる明日香村真弓丘にあるカズマヤマ古墳(マルコ山古墳に近い)は飛鳥時代に築かれた終末期古墳だが、最近の発掘で断層の真上にあったため、南海地震で崩壊したことがわかった。
継体天皇を葬ったとされる今城塚は安威断層の真上にあるため、1596年の慶長伏見地震で崩れたという。
仁徳天皇陵も上町断層近くにある。
このように古墳も都市も断層が作った丘陵を使う傾向がある。
Rev. December 10, 2010
文芸春秋2013/11号で安本はベイズ統計の手法を使い位至三公鏡、鉄鏃、勾玉、絹の出土 数を統計処理して邪馬台国九州説が正しいと主張している。2009年の歴史博研が発表した箸墓古墳や纒向遺跡の土器付着炭化物の炭素14分析結果は活性炭 作用で実際より古い炭素14を吸着して、年代が古くでるので当てにならないと批判。したがって卑弥呼の墓は奈良では見つからないはずという。
November 11, 2013
January 15 2014